唐突に始まったセミの声に顔を上げると、一滴の汗が涙のように頬を伝って地面に落ちた。
帽子が役に立たないほどに、焼かれたアスファルトの地面からの熱気は強烈だった。
こなたとの約束の時間まであと少し。
私は変わり映えのしない、雲ひとつない空を見て、太陽の眩しさに目を細める。
今日も暑い一日になるだろう。
約束の時間を過ぎてもこなたは現れなかった。
今日はどんな言い訳をするのだろう。
論破して焦るこなたを見てみようか、あるいは完全に信じきっているように振舞うのも面白そうだ。
私は無理に楽しい気分になろうとしたが、騒がしいセミの声は私の想像を浮かべた端から崩していった。
「……本当に、いつになったら来るんだろう」
あまりの暑さに眩暈を起こしかけて、こなたを待っているという事を忘れそうになる。
帽子で軽減されているとはいえ、真夏の太陽は凶悪だ。
日陰になっている場所に移動しようかとも考えたが、自分だけが楽をするような気がしてやめた。
連絡を取ろうとも考えたが、当たり前のように携帯電話は繋がらなかった。
家にかけても留守番電話になっている。
「遅いな……」
そうして私が諦めかけた頃、息を切らせたこなたが私のもとに駆け寄ってきた。
「遅いわよ、もう映画が始まってるじゃない」
「ごめん。なかなか、起きられなくて、目が覚めたら約束の時間を過ぎてた」
「夏休みとはいえ、昼まで寝ているなんて……人生を無駄に浪費してるわね」
私は大げさなため息をついてみせる。
だらしないと思う反面、私はそれが彼女らしいと感じて安心した。
多くの事は目まぐるしく変わってしまうけれど、彼女は何も変わっていない。
少なくとも今は、自分のよく知っている泉こなただ。
私が笑うと、それをどう取ったのか、こなたはむっとしたように言う。
「だから謝ってるじゃんか。というか、かがみの言う約束の時間って、映画の始まる30分も前なんだけど」
「こういうのは早めに来るものなの。まあ仕方ないから、とりあえずそこの喫茶店で休もうか」
人の疎らな店内は冷房がよく効いていて、少し肌寒い。
テーブルに着くと私の制止も聞かず、こなたはおしぼりで汗をぬぐった。
適当に注文を済ませ、たわいのない話をしている内に二つの飲み物とサンドイッチが一皿くる。
こなたは何も食べずに待ち合わせの場所に走って来たらしい。
私達はウェイターが立ち去るのを待って、中断していた会話を再開した。
「それにしても、家族と既に見ちゃったみゆきさんはともかく。つかさが来ないのは意外だったな」
「ああ、つかさね」
私は相槌を打ちながら、宿題が終わらないと泣いていた妹の顔を思い出す。
まだ、思い出せる。
私がつかさは今日も家に残って努力しているのだと説明すると、こなたは誤魔化すように視線を逸らした。
「宿題か……私は今年もかがみのお世話になってるね。ところで、頼んでいた物を……」
差し出される手に応じて、私はカバンに入れてきた夏休みの宿題の一部をその手に乗せた。
「貸す私もいけないのかも知れないけど、少しは自分でやる努力をしなさいよね」
「いやー、わざと間違った答えを混ぜたりする必要があるから、宿題を写すのもけっこう大変なんだよ?」
「そういうのは努力と言わん」
私が否定すると、こなたはサンドイッチを食べながらぶつぶつと文句を言った。
「せめて、あと一日あればいいのに」
「一日ねえ……。今日は8月32日だから~とか言って、学校あるのに休んだりしないでよ」
「そうなったら、かがみも宿題忘れ組の仲間入りか……面白いかも」
「面白くない! 手伝ってあげるから明日までには終わらせて、ちゃんと学校に来なさいよね」
私がそう言ってアイスコーヒーを一気に飲み干すと、こなたはそれきり黙ってしまった。
沈黙が気まずい。
私が何を言うべきか迷っていると、氷のぶつかる音がした。
こなたが同じように飲み干したグラスを振って見せる。
「そろそろ出ようか」
こなたの促すままに外に出ると、猛烈な熱気が私達の身体を包んだ。
「わ、日差しが強くなってる。店の中は冷房が効いていたから、なんだか余計に暑く感じるよ」
「ほら、私の帽子でも被りなさいよ。そのまま歩いてたら倒れるわよ」
「かがみは被らないのに倒れるとか言われても……」
「私は慣れてるから」
「もしかして私が帽子を忘れたことを、自分が早い時間を指定したせいだと思ってる?」
「…………」
誰が悪いのか。何がいけなかったのか。
そう訊かれて他人を攻撃できるほど、私は強気ではなかった。
「……私がこなたを慌てさせたのは事実でしょ。あんな時間に約束しなければ、こなたは急がなかった」
「気にしすぎだって」
「そうかもしれないけど……あっ、ごめんなさい」
話に集中していた私は通行人にぶつかりそうになり、相手も見ずに謝った。
「ん、柊じゃん」
「柊ちゃん?」
「あれ……久しぶり?」
そう言ってみたものの、相手の名前が出てこない。
だが、名前を尋ねるのも失礼だろう。
私は今日の気温などのありふれた話題をいくつか交わして、すぐに二人と別れた。
「ねえ、かがみ。さっき挨拶をしたのは誰だったの?」
「うーん、知り合い……だったのかな。よく覚えていないや」
「そっか……」
彼女達が誰だったのかわからない事を、私は特別に悲しいとは思わない。
それでもこなたの沈んだ表情を見ていると、自分が何かとても酷いことをしているように思えてしまう。
私までもが暗い表情になりかけた時、不意にこなたが立ち止まり言った。
「ところでさ。昨日した約束、覚えてる?」
こなたが喋りながら指をさす方向にはコンビニがあった。
「約束……。映画の他に何かあったっけ?」
「花火だよ。夏の最後の思い出になるようにって」
「ふーん……」
本当は花火のことは覚えていた。
だけど、花火をするまでの時間を引き伸ばしたくて、私は必死に理由を捜す。
「さすがにまだ早すぎると思うけど」
「すぐに暗くなるよ。宿題を手伝ってもらっていれば、あっという間にね」
花火の入ったビニール袋を手にこなたの家に向かっていると、いつの間にか空はすっかり暗くなっていた。
ここ数日で、少しずつ夜の訪れるのが早まっている気がする。
バケツに水を汲み終えると、私はロウソクに火を点けて花火を一本手に取った。
「今日見るはずだった映画の中でも、CMに花火のシーンがあったよね」
「あっちは打ち上げ花火だったけどね。でも、私はこういう線香花火みたいな地味なのも好きだな」
「下手の横好き?」
「うるさいな。それでも消えないように頑張るのも、線香花火の楽しみ方の一つでしょ」
私はなるべく明るい声を出そうとしたが、こなたはそれに乗ってはくれなかった。
「うん……だけど、消えない花火なんて無いんだよね」
ああ、もうタイムリミットか。
そう思うと同時に、こなたは私に昨日と同じ言葉をかけた。
「ねえ、そろそろ終わりにしようよ」
「何言ってるのよ。買ってきた花火はまだ半分以上残ってるのに」
私の言葉に対して、そうじゃないと言うかのようにこなたは首を横に振った。
「8月が32日まであればいいのに、って話したこと、覚えてる?」
「決まってるじゃない」
覚えているに決まってる。今日の昼にも聞いたことだ。
9月1日は学校という現実に戻らなければいけない日。
曜日次第ではその日が休日となることはあっても、夏休みの終わりとしてイメージされる最悪の日。
どんなに夢の時間が続いて欲しいと願っても、必ず9月1日という現実が待っている。
だから、せめてあと一日だけの猶予が欲しい。
そんなふざけた内容の話を、こなたは真面目な顔をして語っていた。
忘れていない。
だって私はそれを馬鹿にしながらも、心の奥では願っていたのだから。
「じゃあ……ひとつ問題。昨日は8月31日、明日は9月1日。じゃあ今日は?」
「全然意味が分からないんだけど。なぞなぞ?」
私は最後まで抵抗をしようとするが、こなたは自分のペースで私に質問を続けるだけだった。
「……ねえ、人は誰も永遠ではいられない。それなのに、永遠を望んだのはどうして?」
私は答えなかった。
だって、それは都合が悪い。
「私の死を悲しんでくれたのは嬉しかった」
「だけど、私と一緒に居られた日に囚われて、夢の中で生きるなんて駄目だよ」
こなたの言っていることは理解できる。
どうするべきかなんて事は、誰かに言われなくてもわかっている。
それでも私は昨日と同じ言葉をくりかえした。
「……こなたが居ない現実なんてありえない」
「ううん違うよ。家族がいる。みゆきさんやクラスメイトの友達も。……だからお願い。選んで」
私は何も言わなかった。
「8月31日の次が9月1日か、8月32日なのかを。どうか選んで」
唐突に始まったセミの声に顔を上げると、一滴の汗が涙のように頬を伝って地面に落ちた。
帽子が役に立たないほどに、焼かれたアスファルトの地面からの熱気は強烈だった。
こなたとの約束の時間まであと少し。
私は変わり映えのしない、雲ひとつない空を見て、太陽の眩しさに目を細める。
今日も暑い一日になるだろう。
最終更新:2007年09月03日 17:50