涼風が、すっかり夏をぬぐい去った10月の上旬。秋の季節。緑に移ろう赤の季節。
「ここテストに出すかもな」。教壇から聞こえる先生の言葉に、物思う自分の意識を現実に戻した。
退屈な授業の空気。テストの話題に、ちょっとだけみんな、真面目になる。
そんな雰囲気の変化をちらっと見渡すそのなかで、斜め前の席の小早川さんの横顔は平静のまま。
最初っから真面目に授業を聞いていた様子に、さすが、と思った。
次のテストいつだっけ。テストだけじゃなくて、校内持久走大会の日も近いよな。
心のなかでひとりごちながら板書を写していると、離れた席で「先生」と声があがる。
だれの声なのか、迷うことなくそこに目を向ける。
もう何度も見慣れた光景。岩崎みなみの、控えめな挙手。
「小早川さんの具合が悪そうなので、保健室に付き添います」
教室中の視線が集まるなかで、うちのクラスの女子保健委員は淡々と先生に要件を告げた。
あらためて、小早川さんのほうに目を戻す。ほのかに朱の差す頬。真面目に授業を聞いていたのではなく、授業よりも自身の不調を気にし続けていたからこそ、テストの話題にも不動でいたのだと知る。
教室の入り口をくぐるふたつの後ろ姿を、扉が遮る。
教室の空気が授業へと向き戻って、息をついた。
微妙な気持ち。ほっとするような、うしろめたいような。
ほっとしたのは、小早川さんの容態に岩崎がすぐに対処したこと。
うしろめたいのは、自分が小早川さんの不調を察知できず、何もせずに見送ったこと。
四月からこのクラスになって、もう2学期の半ばのいまごろ。
男子保健委員である自分は、未だ、小早川ゆたかに関わったことはなかった。
女子のことは女子に任せるのが当然なのだから、べつに小早川さんをかまいたいということはない。
だからこの懸念は、どちらかというと小早川さんにではなく、自分自身に、対してのもの。
岩崎さんよりも、自分のほうが、小早川さんに近い席にいる。
小早川が体調を崩したとき、いつか、岩崎さんではなく、自分が彼女に接しなければいけない場面が、きっとくるのだと思う。
そんなことを意識し始めたことに、特にきっかけがあったわけではない。
小早川さんのことを好きになったとかいう感情ではなくて。ほんとうに、ただのうしろめたさだ。
自分の行動が、無理解が、小早川さんの不利になっているなんて事実はないけれど。
ただ、そんな仮定を勝手に想像して、自分が勝手に怖がっているだけ。
理由といえば、それが理由で。
仮定に仮定を重ねた勝手な想像が、やめられないだけ。
――自分でも、ばかみたいだ、とは思うのだけれど。
ぜぇぜぇと息を吐きながら、地べたに座り込みながら、最下位集団のゴールを眺める。
併走する岩崎さんに励まされながら、走りを止めない小さい影。
「お、小早川さん」
周りのクラスメイトも、声を上げる。
岩崎さんの胸にある、上位入賞の胸賞バラには、おもに運動部に所属してる連中が反応する。
これだから運動神経のある帰宅部は。
上位に入るハイペースで走って、なお余分に走ろう、なんて。
運動部で毎日身体を鍛えてる身だとしても、そうやろうとしない。
だけれど、彼女が、今回のそれをやろうと思える動機は。
体力とか、運動の才能とかの問題ではないことも、みんなは、知っている。
無事にゴールして、小早川さんは派手にへたり込む。
大きく大きく息をついて、田村さんと岩崎さんと笑みを交わし合う。
全力を出し切って、満ち足りた表情。
その光景を見て、まず思ったのは、途中で歩くような真似をせず完走してよかった、ということだった。
もし、怠けてゴールしたとしたら、そうした自分自身をみっともなく思うこと。そんなものを、強いられていただろうから。
「……おれ、まじめに走っておいてよかったわ」
そんなつぶやきを聞いて、吹き出してしまった。
自分とおんなじことを考えているやつが、きっと、何人もいる。
持久走を越えて、テストも越えて。学校中が一息をついている印象。
そんなある日の朝、靴を履き替える小早川さんを目にする。
「おはよう」とどちらからともなく声をかけて、どちらからともなく歩き始める。
向かう先はおんなじ教室で、さりとて会話を弾ませるほど仲がいいわけでもなくて。
だから、あたりさわりなく。てきとうな話題。
「小早川さんって、いつもこの時間だっけ?」
遅刻ギリギリ、なんてことはないけれど、それでもけっこう遅いほうである自分よりは先に、いつも彼女は教室にいる。
「うん、今日は、ちょっとね、遅れちゃったんだ」
苦笑する彼女の顔色が、すこし悪いような気がして、
「あのさ」
ぐあい、悪いんじゃない?
口に出そうとして、やめた。
あれから、小早川さんの体調不良の機会はそう多くはなく。
もしそれが起こっても、あたりまえに、岩崎さんか田村さんがちょっとだけフォローして、簡単に済む。
「なに?」
「なにが?」
「なにか、言いかけてたよね」
ずっとそうであったから、今回も、いらぬ心配であろうと思う。
きっと、気のせいだろう、と、ここでは触れなかった。
だから。
「なんでもない」
教室に入って、それぞれの席へ。それぞれの友人と、挨拶を交わし合う。
今日は遅かったね。うしろで、小早川さんたちの会話が聞こえる。
すこしだけ、いつもと様子のちがう彼女に、だれか、気づいただろうか。
気のせいで済めば、よかったのだけれど。
やっぱり、少し顔色が悪いな。
斜め前に座る、小早川さんの横顔を見ながらそう思う。
自分が先に気づいたときに限って、周りはまだ、小早川さんの様子に気がつかない。
岩崎さんも、黒板を向いたままで。
まあ、自分のほうが小早川さんに近い席なんだから、こっちが先に気づくのがあたりまえなのだろう。
……いままでは、そのあたりまえ、すら、できていなかっただけで。
だから、声を上げた。「先生」と。教室中の視線が、自分に向く、イヤな感覚。
「小早川さんの具合が悪そうなので、保健室に付き添います」
たったこれだけの台詞で、口の中は、ひどく渇いた。
授業の流れを止めた、白い雰囲気と、小早川さんを心配する雰囲気と。
そして、男子の自分が手を挙げたことをいぶかしむ、妙な均衡。
止まった空気を、椅子を思いっきり引いて動かした。
手をさしのべて、言う。
「行こう」
小早川さんは、きょとんとした視線を返して。一瞬口を動かしかけて、やめた。
廊下に出たところで、尋ねる。
「歩ける? いまどんな感じ?」
「いまは、めまいがするだけ」
きっと、そのめまいに吐き気が加わるのも時間の問題で。
「じゃあ、おぶる」
そのことばに、小早川さんは、いちどためらう様子を見せて、
「うん、よろしくお願いします」
とちょっとだけ、頭を下げた。
「ごめんね」と彼女は言った。
「……こっちこそ、なんかごめん」
そんなふうな返事をされて、いぶかしむ様子が背中に伝わる。
特に仲のいいわけでもない男子が女子をおぶる、なんて状況の居心地の悪さをつくったことが、うしろめたくて、そんな返事に。
「いや、ほら。へんな雰囲気つくっちゃって、さ」
「……ごめんね、いやな思いさせちゃったね」
いやいやいや、そうじゃなくて、と。謝罪を重ねる彼女に、強く否定する。言葉の選び方を、間違った。
恥ずかしさとか、正しいことをやりきった感情とか、でもやっぱりやんなきゃよかったという微妙な感じとか、いろいろあって。
いろいろ、あるけれど。
「なんか、いろいろある、けど。そうやって謝ってほしいことじゃないのは、たしか、かも」
すこしの沈黙のあと、こっちの言わんとしてることが、伝わったようで。「……ああ」と納得のつぶやき。
「ありがとうね」
いろいろことばにするのが難しいから、たったのひとこと。
「うん」
それだけで通じることが、気もちいい。
ベッドに寝かせて、ひととおりの手当。保健の先生が、小早川さんにやわらかく語りかける。
「ちょっとした、疲労ですね。休めば、だいじょうぶですよ」
「はい……」
「とりもなおさず、まず睡眠。遠慮なく眠ってください」
そういって、微笑する。
ベッドを遮るカーテンを引いて、先生が戻ってくる。
もう、自分の用事は済んだはずなのに、なぜか、立ち上がる気にはならなくて。
椅子に座ったまま、手持ちぶざたに保健室の中を見渡している自分に、先生が声をかける。
「お茶、飲んでいきませんか?」
「……小早川さんのクラスの、保健委員の方でしたよね、男子の」
天原ふゆき先生から差し出されたカップを、受け取りながら、うなずいた。
初回の委員会か何か、顧問として教師も顔を出す機会がいちどだけあって、そこで顔を合わせたことがあるような、気がする。
「よく覚えてますね」
だから、そんなことに、ちょっと驚いた。
「小早川さんのクラスのことですから」
そう、微笑する。
「……なんていうか、そんなふうに注目されるほど、悪いんですか、小早川さんは」
「いいえ、そんな、要注意っていうようなマイナスなものはありませんよ」
自分の、大げさな言い分を苦笑しながら否定して。
「単純に、がんばりやさんな小早川さんや、彼女の友人たちを気にかけているだけです」
「……ああ、岩崎さんとか」
「そうそう」
それで。と彼女はこっちに視線をおいて。
「男子のあなたが連れてくるのは珍しいことですけれど、なにか変わったことがあったんですか?」
そんなことを、わざわざ、尋ねてくる。
「……いや、まあ、とくに、そういうことはないんですけれど」
なんでもないことなので、なんでもないとしかこっちも答えられない。
「けれど?」
「……岩崎さんにばっかやらせてるのもあれだな、ってずっと気になってて」
「なるほど」
これだけの説明で、すっぱりと、先生はうなずいた。
「すこし、楽になった?」
いたずらっぽく、彼女は笑う。
「……ええ、まあ」
あいまいに、自分は答えた。
この気もちが、認めてしまっていいものなのか、判別がつかない。
チャイムが、なる。いつのまにか、授業時間は終わっていたらしい。
きっとすぐに、岩崎さんたちがやってくるだろう。
席を辞そうと、椅子から立ち上がりかける自分に、先生は言う。
「そういうふうに、他人を気にかける気もちを、恥ずかしがることはありません」
「やさしさとか、愛とかは、そういうちいさいところに宿るものですから」
だいじな、気もちです。と彼女は笑った。
「そう、いうものですか」
そういう気もちを肯定されたことは、すなおにありがたいのだけれど。でも。
「いやでも、やっぱ恥ずかしいですよ。憂鬱なくらい」
恥ずかしいものは、恥ずかしい。
「いつか、わかります」
否定を返されても、先生は動じず。微笑を絶やすことは、なかった。
「いつか、憂鬱じゃ、なくなります」
教室への道中、岩崎さんと田村さんと鉢合わせる。
小早川さんの様子を問うふたりに、軽い疲労で眠ってる、と答えた。
「眠ってるんじゃ、行ってもお邪魔かなあ……」
田村さんが困り顔を浮かべて、じゃあどうしよっか、と岩崎さんに視線を向ける。
「眠ってるなら、あとで行くしかないだろうから、いっかい戻ろう……」
「そうだね、しょうがない」
そこで、ふたりしてきびすを返してくれれば良かったのだけれど、ふたりとも、こっちをむいたままで。
「今回は、ありがとう、ゆたかのこと」
岩崎さんのまっすぐなお礼が、恥ずかしい。
「いや、べつに」
短い、返事。声に出してしまってから、ぶっきらぼうな、悪い印象を与えてしまったかと一瞬焦って。
「照れること、ないのに」
だけれど、微笑む岩崎さんと、なんか、にやりと口端をゆがめる田村さんの表情に、そんな気遣いは消え去った。
そんな反応に反発がわいて。
なにかを言おうとして、照れを否定しようとして。
「……いや、でもさあ、こういうときって、こういう気分にならね?」
でも、出てきた言葉はそんな言葉で。
一瞬ぽかん、とした表情を浮かべた二人は、朗らかに笑う。
「わかる、わかるよ」
他人を思うまっすぐさと、ちょっとの憂鬱が入り交じったつぶやきが。
歩く廊下で三つ重なって、宙に溶けた。
なんか、そうなるよね。
END.
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最終更新:2012年05月31日 19:40