ID:8sJ1r760氏:つかさの一人旅(ページ1)

  二十歳を過ぎた頃、ふと一人で旅にでることにした。目的は特になかった。二十歳になって何か新しい発見が欲しかったかもしれない。それとも大人になって独りで何かを
したかったのかもしれない。いや、そんなのはどうでもいい。勝手気ままに気の向くまま。何処に行こうかな……っと言ってる間にもうトラブルの発生。此処はどこだろう?

 
 早速道に迷ってしまった。駅を降りてから地図で位置を確認すればよかった。しかしもう遅かった。地図を広げても現在地が分らないから意味がない。そうだ携帯のGPS
機能を使って……どうやって操作するんだっけ。こなちゃんに一回教えてもらったけど……忘れた。やっぱり車で行けばよかたかな。車のナビなら操作は分らなくても
現在地は分るから何とかなる。でも家族に猛反対されたんだった。特にお姉ちゃんが……そんなに私の運転下手かな……。
初めての土地。人里離れた田舎道。人通りも疎ら。来た道を戻ろうにも同じような景色なのでどう行ったかも分らない。途方に暮れるしかなかった。
向こうから人が来た。もうこなったら聞くしかない。服装からして地元の人っぽかった。
つかさ「すみません……道に迷ってしまったのですが……ここは何処ですか?」
私は地図帳を開いて見せた。
男「……見てる所全然違うよ……」
男の人は地図帳を捲り始めた。
男「……あった、今丁度ここの交差点に居るよ」
男の人は私に地図を見せた。彼の指差す地点を確認する。すると男の人は私をじっと見ていた。
男「もしかして旅行?」
つかさ「はい」
男「……こんな所に旅人がくるなんて、あるのは寂れた温泉くらいなもんだ、何か目当てでも?」
つかさ「……特に……ありません」
男「まさか家出じゃないだろうね」
つかさ「……家出するような歳ではないのですが……」
男「これは失礼した、それじゃ旅行を楽しんで……」
つかさ「ありがとうございました」
お礼を言って男の人と別れた。

 
 家出なんて。私は子供に見られたのだろうか。リボンを付けているから。それとも童顔だから。さすがに子供に見られるのはあまり嬉しくない。でも道を教えてくれたし、
気を取り直して……。と地図を見て何処に行こうか探してみたがめぼしい所が見当たらない。あの男の人が言うようにこの辺りは観光地としてはあまりよくなさそう。
勝手気ままなんて言ってたけど目的地くらいは下調べするべきだった。駅に戻って目的地を探すかな。私は地図を見ながら駅の方向に向かった。
来た道とは違うのかな、何か雰囲気が違う。地図を確認した。確かに駅の方に向かっているようだ。バス停があったのですぐに確認出来た。駅まで二十分くらいかかりそう。

 
 そのバス停の名前を見て立ち止まった。『神社前』と書かれていたからだ。周りを見回した。するとバス停から少し先に鳥居があるのを見つけた。人一人がやっと潜れるくらいの
大きさの鳥居だった。私は鳥居に近づいた。鳥居の先は階段になっている。階段といってもちゃんとしたものじゃなく土がむき出しになっているお粗末なものだった。
何を祭ってるのかな。神社の娘なのか興味がわいてきた。入り口には神社の名前とか由来を書いたものは置いてなかった。それならば実際に見に行くしかない。

 
 神社を見に行くといったが何だろうこの階段は……もう百段以上は上がっている。息も切れてしまった。こんなに高いとは思わなかった。思わず天を仰いだ。
入り口にあったのと同じ鳥居が遠くに見えた。あれが頂上かも。今居るところが丁度中間地点くらいかな。ちょっと疲れてきた。だけどここまで来て引き返すのも勿体無い。
ペースを落としてゆっくりと休みながら昇った。

 
 やっとの事で鳥居にたどり着いた。もう足がガクガクする。鳥居を潜って……そういえば鳥居って真ん中を通っちゃいけなかった。真ん中は神様の通り道。でもこの鳥居は狭い
から端は通れないや。『ごめんなさい』と心で言いながら鳥居を潜った。

 
 そこには本堂と呼べるものが無かった。手水舎もない。災害か何かで壊れちゃったのかな。あるのは木が無造作に生えているだけだった。うちの神社とは大違い。
修復とかしないのかな。これじゃ御参りも出来ないよね。こんなに疲れて昇ったのにがっかりだった。もうここに居る意味はない。振り返って階段の方を向いた。
「うわー」
思わず声を上げてしまった。今まで昇ってきた階段が全て見下ろせた。こんなに昇ってきたんだ。顔を上げるとそこに大パノラマが広がっていた。この町が一望できる。
戻ろうとしていた駅も見えた。電車が模型のように見える。駅の近くは住宅街。その外は田園地帯が広がっていた。しばらくその景色を見入っていた。

 
 この町を一望できる所に神社か。そう考えるとここに神社をつくったのは分るような気がした。まだ階段を昇った疲れが取れていない。散策してみるかな。
階段を降りるのをやめて神社の奥に入った。獣道のような道を進んだ。木々に囲まれてしまった。これじゃ林や森に居るみたい……。そういえば本堂の跡すらない。
これってもしかして最初から建物なんか造ってなかったのかな。
するとそよ風と共になんとも言えない香りが漂ってきた。土の香り?木の香り?都会や街じゃ嗅げない匂い。うちの神社でもこんな香りはなかった。なんだか妙に落ち着く。
そよ風に木々の小枝が小刻みにかさかさと揺らいでいる。そこから日の光が漏れて差し込んできてキラキラと光ってる……木洩れ日っていうのかな。なんて幻想的なんだろう。
妖精でも出てきそうな風景だった。こんな所に何かを建てたら……そうか分った。この神社に祀られているのはこの山の自然そのものなんだ。この木、一本一本、足元の草、
そしてこの香りも全て……ここの神社はうちの神社に無いものがある。人がつくれないもの。そんな気がした。

 
 いつの間にか疲れが取れている。それと同時にお腹も減ってきた。丁度いいやここでお昼にしちゃおう。
丁度この地の真ん中くらいに丁度いい石があったのでそこに腰を下ろしお弁当を広げた。こういった自然の中でお昼を食べるのは小学生以来かな。これならこなちゃん達も
一緒に……違う。これは一人旅。皆と一緒じゃ普段と変らないよ、一人で居るからこそ分る事だってあるはず。

 
 幻想的な景色を見ながらの食事、ついつい見とれて食べるのを忘れてしまうくらいだった。一口、二口くらい食べたくらいか、何か視線を感じる。誰かに見られているような
気がしてならない。後ろを振り向いたり周りを見回したりしたけど人の居るような気配はなかった。再び食べようとした時だった。ガサガサと茂みから音が聞こえた。
私は音のする茂みを見た。犬?野犬にしては少し小さい。すぐに茂みに隠れてしまった。また食べようとするとガサガサと茂みが動いた。私のお弁当に興味があるのかな。
今度はゆっくりと茂みの方を見た。
つかさ「かわいいー」
思わず叫んだ。隠れたけどすぐに顔だけ出してこっちを見ている。良く見ると顔が細長い。犬じゃない、狐だ。狐を生で見るのは初めてだった。さすが田舎まで来た甲斐がある。

 
 狐は私を見ている。お弁当が欲しいのかな。そういえばお弁当の中身は稲荷寿司だった。狐は油揚げが好きだって聞いたけど本当なのかな。
試しに稲荷寿司を箸で掴み自分の口元に運んでみた。狐は茂みから身を半分出して来た。やっぱりこの狐は稲荷寿司が欲しいみたい。稲荷寿司を箸から手に持ち替えて
腕を狐に向けた。
つかさ「欲しいんでしょ、あげるよー」
狐は私と目線が合うとまた茂みの奥に隠れてしまった。すごい警戒心だな。そうか私が居るからダメなんだな。私は立ち上がり階段の方に戻った。
振り返り暫くするとさっきの狐が私の座っていた石の所までやってきた。しきりに石の辺りを行ったり来たり、匂いを嗅いだりしていた。そして私がまだ階段を降りていない
のに気付くとまた茂みの奥に戻ってしまった。やっぱり野生の動物を餌付けするのは止めた方がいいのかな。折角なので稲荷寿司を一個さっき座っていた石の上に置いた。
つかさ「もう邪魔しないから」
茂みが動かない。もう諦めて帰っちゃったかな。でもこうやって置いておけばいつかは食べてくれるかも。さて私もさっさと食べよう。
戻ってお弁当箱を見て驚いた。中身が空っぽになっていた。そんな……私はまだ数口しか食べていないのに……まさか。私は走ってさっきの石の所に戻った。
すると狐が石の上に置いてあった稲荷寿司をくわえていた。顔にはご飯粒が付いている。やられた。
つかさ「私のお弁当返してー」
狐は暫く私を見ると走って茂みの中に入って行った。あの狐は最初から私のお弁当が目当てだったのか。狐は悪賢いってよく言うけどまさか実際に体験するとは思わなかった。
つかさ「ふふふ……ははは」
笑った。可笑しくなって笑ってしまった。騙されたのに。お昼を殆ど食べられちゃったのにあの狐を憎いとは思わなかった。それどころか爽快感さえあった。私は弁当を片付けた。

 
 私は石の上に座っていた。別にお弁当が惜しくて座っていたわけじゃない。この森の雰囲気に浸っていたかっただけ。夏になれば蝉時雨。秋には黄色や赤の紅葉。
そして、春には桜がいっぱいに咲き乱れる。そんな光景が思い浮かびながら。

 
 辺りは薄暗くなって木漏れ日が消えた。私ったら時間を忘れてずっと座っていいた。慌てて階段まで戻った。日は沈み、カラスが山の方に向かって帰っていく。
今日はこの神社で時間が潰れてしまった。他の所もいろいろ見たかったのに。

 
 階段を下りるともうすっかり暗くなってしまってしまった。バス停まで戻って街灯の明りの下で地図を広げた。今夜泊まる宿を探さないと。
今朝道を聞いた人が言ってたっけ。ここには温泉があるって……あった。ここから2キロメートルくらいかな。満員だったらどうしようかな。でもシーズンじゃないし何とかなるかな。
そんな気楽な気持ちで宿に向かった。

 
 つかさ「ごめんくださーい」
かなり年月の経った佇まいだった。反応がなかった。
つかさ「ごめんください、泊めていただけませんか」
しばらくすると女将らしい女性が出てきた。かなり困った顔をしていた。もしかしてもう満員なのかな。野宿だけはしたくない。
女将「……お泊りですか……」
つかさ「そうですけど……」
女将さんはもっと困った顔をしてしまった。やっぱり泊まれないみたい。
「どうしたんだい」
突然後ろから声がした。聞き覚えのある声だった。後ろを向くと今朝道を聞いた男性だった。
男「おやおや、奇遇だね、こんな所でも観る場所はあったのかい」
つかさ「ええ、ここから少し離れた階段の沢山ある神社で……」
男「あんな雑木林しかない神社でこんな時間まで……」
男の人はびっくりしていた。確かにそうかもしれないけど私にはあの林は凄く魅力的に見えた。
女将「あんた、知り合いなのかい?」
女将さんが男性に聞いた。どうやらこの男性と女将さんは夫婦みたい。
男「知り合いってほどのもんじゃないよ、今朝道に迷っていたのを地図で場所を教えただけだよ……それより早くお通ししないと失礼だぞ」
女将「すみません、部屋は空いているのですけど……料理係の松山さんが急用ができて……予約分の料理しか用意できないのです」
男「……そうなのか……お客さんすみませんね、こう言う事情なんだが……」
なんだそんな事なのか、確かにこの辺りに食事をするような店はなさそう。お昼は殆ど食べてないからお腹はペコペコだ。晩御飯抜きは辛い。
つかさ「それなら……私は料理できますので厨房と材料を貸していただければ自分で調理して……」
女将「そんな、お客様にそんな事をさせる訳には……それに衛生上の問題もありますので……」
つかさ「それなら問題ないですよ、私は調理師の免許持っていますので……お願いです」
私は深々と頭を下げた。泊まれれば何でもいいと思った。
女将「しかし……」
男「淳子、いいじゃないか、断ってもこの子は路頭に迷うじゃないか、宿代は半額でいいかな」
つかさ「はい、お願いします」
部屋に案内され荷物を置くと早速わたしは厨房に向かった。厨房はとても綺麗に片付けられ、整理整頓が行き届いていた。調理器具も使い易い所に配置してあった。
料理係の人柄が伺える。材料を冷蔵庫から適当に選んで調理を始めた。

 
 料理もそろそろ完成する頃だった。
女将「驚いた、プロ顔負けの手際良さね、手伝おうと思って来てみたら……その必要もなさそう」
驚いた顔で私を見ている。
つかさ「料理関係の専門学校を出ましたので……それに料理も好きで……家でも夕食とかもつくっていますし」
女将「へぇー、最近の子にしては感心するわね、料理学校出ても使えない子も沢山居るわよ……貴女ならすぐに採用してあげるわよ」
つかさ「ありがとうございます……」
なんか照れくさかった。こんな宿屋で働くのも悪くないと思った。
女将「ところで、神社に寄ったそうじゃない」
私は料理を続けながら頷いた。
女将「あの神社はね、なんでも狐の祟りがあるって地元の人は近寄らない所よ」
つかさ「き、狐の祟り……ですか、どんな祟りなんですか……」
思わずフライパンの火を止めて料理を止めて女将さんの顔を見た。
女将「戦前、あの神社にの狐が住み着いてね……ところがその頃からこの町に様々な災いが続くようになったのよ、戦後の混乱もあったかもしれない、その狐のせいだ
   って事になってね、兵役から帰ってきた男連中で大規模な狐狩りをやったのよ……それでこの町には狐が一匹も居なくなった」
 居なくなった。それじゃ私の見た狐は何だったんだろう。女将さんはそのまま話を続けた
女将「最近になって、その狐が神社周辺に現れて人々に悪戯をするって噂が広がってね……貴女も気をつけなさいね」
つかさ「は、はい、気をつけます……」
男「淳子、お客さんが来たぞ……」
遠くから女将さんを呼ぶ声がした。
女将「あら、邪魔しちゃったね」
女将さんは厨房を出て行った。私はフライパンに火をかけて料理を続けた。あの狐さんはあの時殺された狐なのかな。人間に怨みがあるにしては悪戯がかわいすぎるような。
それにあの狐さんに悪気はそんなに感じなかったけど。ただ私の稲荷寿司を食べたかっただけだったような。

 
 しばらくすると慌てた女将さんが厨房に入ってきた。
女将「すみません、先ほど急に宿泊したいとお客様がいらしまして……女性だけでお泊りのお客様は貴女だけなので……同室してもよろしいでしょうか
    事情を説明したのですがそれでもいいとお客様は言われました」
そんなに丁重に頼まれても困ってしまう。でも、その女性も泊まるところが無かったら気の毒だよね。
つかさ「見ず知らずの私で良かったらどうぞと伝えて下さい、丁度料理も二人分くらい作ってしまったので……」
女将「分かりました……とこでもう一つお願いがあるのですが」
つかさ「明日の朝食ですね、もう準備しています」
女将「……流石とし言いようがないね、ますます貴女を気に入ったよ、うちで働いてほしいよ、松山さんもきっと気に入ると思うよ」
松山さんってこの宿の料理係りの人だよね、嬉しいけど今すぐは決められない。
つかさ「すみません、嬉しいけど……」
女将「冗談よ、でも考えておいてね」
女将さんはそのまま厨房を出て行った。

 
 料理は全て終わったので女将さんに報告をして自分の部屋に戻った。
部屋の扉を開けようとした。そういえばもう同室の女性がもう居るんだな。エチケットは大事だよね。扉をノックした。
女性「どうぞ」
つかさ「入ります」
私はそっと扉を開けた。
女性「あっ!!」
私の顔をみるなり奇声をあげた。
つかさ「え?」
女性「ふふふ、ふふふ、貴女だったの、はははは、はははは!」
そして笑い出した。意味が分からない。私は初対面の人だった。笑われる意味が分からない。調理しているときに調味料でも顔に付いたのか。慌てて顔を拭ったけど
そんな物は付いていなかった。服装も見回したけどおかしい所はなかった。彼女の笑いは強くなった。いくらなんでも初対面の人に向かってそこまで笑われるとちょっと腹が立つ。
つかさ「あのー、何か私、悪いことでも……」
女性「ははは、ごめんなさいね……でも、ぷぷ、思い出しちゃうじゃない」
また笑い出した。私はちょっと怒り気味になって自分の荷物を整理した。彼女の笑いが治まるのに数分はかかった。

 
女性「本当にごめんなさい……謝ります……」
頭を下げて謝ってきた。さっきまでの態度とは違っていた。
つかさ「謝らなくてもいいです、それより何故笑ったのですか」
女性「貴女、神社の林でお弁当食べてたでしょ……それで狐に一杯食わされたでしょ」
つかさ「なんでそれを……」
あの神社に私以外に人が居た。気が付かなかった。あの静寂な林だったら人が居れば気付くと思うけど。もっとも私はボーとしてると誰かが来ても気付かない事がある。
それでこなちゃんに何度か驚かされたっけな。
女性「貴女の慌てよう、狐の手際よさ、見ててとっても面白かった、笑いを堪えるのが大変だった……ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね、私は、辻美奈子」
つかさ「私は、柊つかさです」
私と美奈子さんは握手をして挨拶を交わした。美奈子さんは見た目は私と同じくらいの歳だろうか。長髪をそのまま下ろしている。黒髪が似合う女性。そんな感じだった。
美奈子「何であれから直ぐに神社を出なかったの、私だったら怒って直ぐにでちゃう、私が階段を降りても貴女は一向に降りてこなかったわよね」
つかさ「それは、あの林がとっても綺麗だったから、見蕩れてついつい時間が経っちゃって」
美奈子「あの林に見蕩れたって、あんな林どこにでもあるような雑木林じゃない……貴女、変わってるわね」
まじまじと私を見つめた。そんな風に言われると確かにどこにでもあるような林だったかもしれない。でも私は感動したのは確かだった。私はそれを説明した。
美奈子「木漏れ日ねー、そこまで私は見てなかったかもしれない、柊さんって詩人みたい」
詩人なんて身内にだって言われたことない。きっと会ったばかりで私の事なんか知らないからそう言ってるだけに違いない。
美奈子「所でなんで一人旅なんかしてるのよ、もしかして大失恋でもした?」
急に話が変わった。失恋か……恋もしていないのに失恋はないよね。私は首を横に振った。
美奈子「またまた嘘ついちゃって、言っちゃえよ、気が晴れるわよ」
つかさ「別に、そんな失恋なんて……」
私は声を詰まらせた。
美奈子「それじゃ、初恋の話とかは、告白した時の話とか聞きたいな」
恥ずかしくなった。顔が赤くなるが自分でも分かるくらいだった。こんな話はこなちゃんやゆきちゃん、お姉ちゃんににだって話したことはない。
美奈子「もしかして、あんた……未経験なの?」
未経験って恋愛のことなのかな、エッチのことなのかな。どっちにしても未経験。私は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
美奈子「図星みたいね……驚いた、歳は私と同じくらいなのに今時そんな人が居るなんてさ、柊さんくらいの女性ならちょっと色目使えばいくらでも男性が寄って来るでしょうに」
つかさ「私はそうゆうの……苦手なの」
美奈子「苦手ねー、でも周りの男性が放っておかないでしょ……もしかして柊さんって同性が好みとか……胴部屋だからって私はその気は無いわよ」
少しからかっているのは分かった。私は黙って首を横に振った。
美奈子「……違うの、ふーん、柊さんってよっぽど廻りから守られているみたいね」
守られてなんかいない。ただそうゆう縁がなかっただけ。私だって恋愛もしたいし、エッチだって。だけどそれは……
つかさ「そんなんじゃないよ、でもそうゆうのって、気持ちいいだけでやっちゃいけないと思う」
美奈子「何でよ、古いわねその考え」
つかさ「その先の事があるから」
美奈子「その先ってどの先よ」
つかさ「次の命が宿るかもしれないでしょ、それに責任がもてるまでは、たとえ避妊したって……」
美奈子「それでも欲求ってもんがあるじゃない、無いとは言わせないわよ」
つかさ「それは……一人で……」
私はまた俯いてしまった。こんな話は初めてだし声に出して言ったこともない。しばらく美奈子さんは黙っていた。
美奈子「……それなりに考えているんだ、もう聞かないから……」
辻さんは自分の荷物を整理しだした。私ばっかり質問されるのも不公平だよね。
つかさ「辻さんも一人旅しているみたいだけど、何か理由があるの?」
辻さんの動きが止まった。
美奈子「私は……」
なにか言い難そうだった。もしかして辻さんが大失恋でもしたのかもしれない。だから私にそんな質問をしてきたのか。どんな恋愛をしたのか聞きたい。
でも強制はできない。しばらく沈黙が続いた。
 
 一分経つか経たないかくらいだった。
女将「お待たせしました」
私の作った料理を持ってきた。お膳に綺麗に盛り付けられて私と辻さんの前に置かれた。
女将「今日はすみませんねすっかりお世話になっちゃって」
つかさ「いいえ、辻さんの口に合うかどうかは分かりませんけど……」
美奈子「これが柊さんが作った料理ね、いただきまーす」
さっきまでの重い表情とは打って変わってガツガツと食べ始めた。その食べっぷりは一心不乱そのものだった。お腹を空かせたお姉ちゃんを思い出した。
その時のお姉ちゃんは今の辻さんと全く同じ。そういえばしゃべり方もお姉ちゃんに似ているような気がした。だからあんな質問でも何とか答えることが出来たのかもしれない。
美奈子「美味しい、美味しい」
そう言いながらあっと言う間にお膳の料理を全て食べてしまった。私もそれに釣られるように食べた。

 
 食事も終わりすこし落ち着いた。上機嫌になった辻さんが話しかけてきた。
美奈子「食べた食べた、柊さんって料理うまいわね、神社で食べようとしたお弁当も作ったの?」
つかさ「あれは私の一人旅のはなむけにお姉ちゃんが作ってくれたんだ」
美奈子「へぇー、お姉さんが居たのか」
つかさ「何でそんな事を聞くの?」
美奈子「さっき食べたのと味付けがね……」
つかさ「味付けって?」
美奈子「何でもないわよ、そうそう、ここの温泉はとっても気持ち良いわよ、この時間なら誰も入っていないから先に入ってきなよ」
つかさ「え、うん」
私に浴衣とタオルを渡すと追い出されるように部屋を出されてしまった。ああやってはぐらかす所なんかお姉ちゃんそっくりだ。

 
 かけながしの温泉。湯加減もいい。肌がすべすべになるようないい温泉だった。辻さんの言うように誰も入っていない貸切状態だった。
あれ、なぜ辻さんは知っていたんだろう。前にもこの宿屋に泊まったことがあるのかな。それに辻さんはあの神社に何をしに来たのかな。私の質問に答えられなかったのと
なにか関係あるのかな。出来れば力になってあげたい。
そういえばこなちゃんやゆきちゃん、お姉ちゃんと恋愛とかの話はあまりしたことないな。皆はもう経験しちゃったのかな。そんな話すらもしてないや。
私と辻さんでそんな話が出来たんだ。もう恥ずかしいなんて言ってる歳じゃないよ。今度皆と会ったら私から話すかな。そんな決意をしてみたりした。その時だけの決意かもね。
でも、なんて気持ちいいお湯だろう。もう少し暖まってから出るかな。

 
 すっかり長湯になってしまった。少しのぼせ気味になって部屋に戻った。
つかさ「ただいま、辻さんの言うようにとってもいいお湯だったよ、今度は辻さんも……」
私の話は聞いていない。テレビを食い入るように見ていた。テレビを見てみるとニュース番組だった。連続殺人犯人の裁判のニュースだ。
真奈美「死刑判決ね、あんたはどう思う?」
私が帰ってきたのは知っていた。辻さんはテレビを見ながら聞いてきた。のぼせて頭がボーとしている私には重い質問だった。なんて答えていいか考えられない。
つかさ「この事件は知ってるよ、なんでも女性や子供まで殺したって……酷いよね……」
真奈美「私はそんなのを聞いているんじゃない、死刑について聞いてるのよ」
つかさ「死刑……考えたこともないけど、死なないと償えない罪……だよね、人の命を奪ったのだから……」
真奈美「命を奪ったのだからその命で罪を償うのか、足したり引いたり、まるで算数ね、それが柊さんの考えなの?」
つかさ「そんなんじゃないとは思うけど……私には難しくて分からないよ、お姉ちゃんならもっといい答えを知ってるかも、法律勉強してるし」
真奈美「いいや、あんたの考えを聞きたいんだよ」
辻さんはテレビから目を離して私の目をみている。どうしてそんな事を聞いてくるのか不思議に思った。
つかさ「何故そんな事を聞くの、さっきだって……」
真奈美「まずは私の質問に答えて」
何だろう、目が真剣だよ。なんか言わないと許してくれそうもない。なんて答えたら良いんだろう……思った事を言えばいいのなら言うよ。
つかさ「私が思うのは死って刑にならないって事だけ」
真奈美「理由は?」
つかさ「だって死って特別なものじゃないよね、生き物なら必ずくる物だよね、それを刑にしても意味無いよ……そう考えると殺人も意味のない事だって分かるよね、
     死刑なんか無くしちゃえば犯罪も減るんじゃないかな?」
真奈美「おめでたい考えだ」
呆れ顔で一言、一蹴された。
つかさ「えー、私の考えを聞きたいって言ったから言ったのに……」
真奈美「あんたの考えは分かったわよ、まあ死は特別なものじゃないのは確かだ……さて、私も温泉に入りに行くかな」
そのまま部屋を出てしまった。

 
 何だろう。私を試しているようにも、からかっているようにも見えた。彼女の意図が全く掴めない。まあ、初対面だしこれだけ喋れただけでもいいのかもしれない。
あの辻さんって人、初めて会ったのになんであんなに親近感があったんだろう。雰囲気がお姉ちゃんに似ているから。それだけじゃないような気がする。
名前以外全く分からない人。でも友達になれそうな感覚。これが旅ってものなのかな。でも良かった、いい人と巡り会えて。

 
 辻さんも私と同じく長湯だった。戻ってくると彼女は寝る支度をし始めた。私はまだ眠くはなかった。
真奈美「あれ、まだ眠くないのか?」
つかさ「うん」
真奈美「ああ、私が色々質問攻めしちゃったからかな……」
つかさ「うんん、それとは関係ないよ……」
真奈美「そう……そういえば柊さんってお姉さんが居るって言ったわよね」
つかさ「うん、三人のお姉さんがいるよ、私は末っ子」
真奈美「そういえばお弁当はお姉さんが作ったって言ったわよね」
つかさ「うん、私の双子のお姉ちゃん、とっても優しくて、頭が良くて、運動だって……」
突然クスクスと辻さんは笑い出した。私は話すのを止めた。
真奈美「ふふふ、また私ったら質問攻めしちゃったわね、それでもそんなに楽しそうに話すなんて……よっぽどそのお姉さんの事が好きなのね」
はっとしてしまった。さっきまでの質問とは違ってお姉ちゃんの事を聞かれると言われてもいないのに勝手に喋ってしまっていた。
つかさ「辻さんに似てるんだ、そのお姉ちゃんに……」
真奈美「おいおい、私はそんなに優しくもないし、頭も良くない……買いかぶるなよ」
つかさ「そんな所もそっくりだよ……」
辻さんは黙って顔が赤くなった。辻さんの事を聞けるチャンスかもしれない。
つかさ「辻さんは何で一人旅を?」
黙ったまま俯いてしまった。やっぱり人に話せないような理由なんだ。それを忘れるために旅をしてるに違いない。思い出させるような話は止めた方がいいね。
つかさ「ごめんなさい、その話はもういいよ、別に話しにしよう……私の友達の話とか……」
真奈美「いいわよ、話すわよ……私の事も知りたいんでしょ、あんたの話だけじゃ不公平よね」
さっき私が思っていたのと同じ事を言った。いったいどんな理由なんだろう。ちょっとワクワクした。
真奈美「そうね、失恋かしら」
つかさ「失恋…」
真奈美「なによ、まだ話していないのに悲しい顔しちゃって……」
つかさ「だって、失恋なんて」
真奈美「楽しい失恋なんかないか……」
つかさ「ふられたの?」
一瞬怯むように体を後ろに反らした。
真奈美「ストレートに言うのね……そうねふられた、ものの見事にね、あれだけ愛し合ってたと思ってたのに、男なんて勝手なものね」
辻さんの目に光るものを見た。失恋か。誰もが一度は経験するもの。片思い、両思い、どっちだって辛いよね。辻さんにかける言葉が思い浮かばない。
真奈美「忘れようと思ってふらりとやってきたこの村、忘れようと思っても忘れられない……あんたに分かる、この気持ち」
訴えかけるように私に言い寄ってきた。その迫力に圧倒した。
つかさ「で、でも、この宿屋に来たことあるような感じを受けたんだけど……」
真奈美「そう、彼と旅行に来たのよ……」
つかさ「えっ、彼氏の事を忘れるためって言ってたけど……」
驚いた表情をすると辻さんは一回ため息をついてから話した。
真奈美「鉛筆で書いた字を消すときどうする、字をなぞるようにして消していくでしょ……それと同じよ」
とても分かりやすい比喩だった。思わず頷いてしまった。
つかさ「それじゃ、神社に行ったのも?」
真奈美「そう、彼と行った……階段を登って疲れたのしか覚えてないわ……」
辻さんの表情が変わった。
つかさ「本当に覚えてないの」
思わず声に出た。
真奈美「人気の居ない所で男女が二人きり……後は……分かるでしょ……」
つかさ「う……うん」
真奈美「……他人に話すのはこれが初めて……人に話すと気が紛れるって言うけど……聞いてくれてありがとう」
辻さんは荷物から財布を取り出した。
真奈美「明日、早朝出るから宿泊代払ってお手くれるかしら」
手には一万円札が握られていた。
つかさ「おつりを……」
真奈美「私の下らない話を聞いてくれたお礼よ、少ないけど取っておいて」
つかさ「私は食事を作る条件で泊まったので殆ど宿代を払ってないので……多すぎます」
真奈美「ふふ、そんな事まで正直に言うなんて……人の好意は素直に受け取るものよ」
私はお金を受け取った。
つかさ「そんなに朝早く何処へ?」
真奈美「もう一度……あの神社へ、ちょっと鉛筆が濃すぎたみたいね、何度か擦らないと消えないわ……悪いけど立つ時は起こさないわよ」
自分で準備した布団の中に潜り込んでしまった。メールアドレスの交換でもしようとしたけど。そんなの出来る状態じゃなかった。
眠くはないけど自分も布団の中に入った。辻さんの質問や話してくれた事を振り返りながら色々考えているうちに自然と眠りについてしまった。

 
 自然と目が覚めた。まだ窓は薄暗い。目覚まし時計なしでこんなに早く起きたのは久しぶり。辻さんの寝ていた布団を見た。もう彼女は居なかった。もう出てしまったのか。
こんなに早く起きたので朝風呂もいいかなと思い風呂場に向かった。女将さんと丁度すれ違った。
つかさ「おはようございます」
女将「おはようございます、早いですね」
つかさ「自然に目が覚めたので、朝風呂ででもと思って……」
女将「そうですか……そういえば同部屋のお客様、もう立たれたのですが始発の電車にはまだ早いのに……」
つかさ「なんでも神社に行くって行っていました」
女将「神社……そういえば二年前、あの神社で若い子が自殺した事件があってね……やだよ、変な事思い出したよ……」
自殺……まさか、何で気が付かなかったんだろう。もしかして辻さんは死ぬ気だった。彼氏との一番の思い出の場所で……昨夜の質問。私にしてくれた失恋の話。
思い当たる事だらけ。
女将「顔色悪いわね……もしかして」
つかさ「そのもしかしてです、はやく、早く辻さんを止めないと」
女将「それは大変、玄関を出てすぐ右に鍵のかかっていない自転車があるから……警察呼ぼうかしら」
つかさ「ありがとうございます、警察は……呼ばなくていいです」
私は急いで着替えて女将さんが貸してくれた自転車で神社に向かった。
本当は昨夜私が止めなきゃいけなかった。辻さんも私に止めて欲しかったんだ。それなのに何も気が付かないで……

 
 神社の入り口に自転車を置くと階段を駆け上った。ペース配分なんか気にしない。持てる全ての力を振り絞って駆け上がった。
私に神社に行くって言ったのは……私を待っているのかもしれない。止めて欲しいと。だから警察は呼ばない。きっとそうに違いない。そう願うしかなかった。

 
 階段を登り切った。息が切れて苦しい。それでも私は森の中に入っていった。辻さんは居た。私が森を見ていた所、狐さんにあげるために稲荷寿司を置いた石に座っていた。
私は息を切らしながら辻さんに近づいた。辻さんの目の前に私が立つと辻さんは立ち上がり息を切らしている私に向かって話し出した。
真奈美「やっぱり来た」
息が切れて話せなかった。そんな私を見ながら辻さんは更に言った。
真奈美「私が自殺すると思ったかしら、それとも財布の中身を見て慌ててきたのかしら……ふふ、そんなのどちらでもいいわ」
無表情な冷たい微笑みだった。昨夜のような雰囲気と違う。息もやっと落ち着いてきた。
つかさ「辻さん……良かった、私、てっきり辻さんが自殺するんじゃないかと思って……」
真奈美「あんた、まだ気が付かないのかい、つくづくおめでたい人だよ……」
昨夜とは違う。だけど何が違うのか分からない。
つかさ「気が付かない……って何が……分からない」
真奈美「……あんたの弁当を食べてこの石の上の稲荷寿司を拾って逃げたのは私だよ……もっともあんな手に引っかかるようなトロい奴に見破れるわけもないな」
それってあの狐さんが辻さんって事。そんな、信じられない。喋ろうとしたけどなぜか声が出ない。
真奈美「あんたは選ばれた……我が一族の怨みを晴らす生贄としてね……恨むならこの神社に来た自分の不運を恨みな」
辻さんは右手を上げて手を広げた。爪がみるみる伸びてきた。その爪の先は鋭く尖っている。その手を顔に近づけると爪をぺロリと舐めた。
辻さんはゆっくりと私の後ろに廻った。振り向こうとしたけど体が動かない。
真奈美「動かないだろう、どうだい死を目前としても逃げられない心境は……七十年前、仲間はこうして殺された」
これって女将さんが言ってた狐狩りの事を言っているかな。それを確かめるようとしても口が動かない。恐ろしくて体が震えてきた。逃げたくても体も動かない。
真奈美「あんたは言ったな!死は特別なものじゃないってね、それなら今死んでも構わない……そうだろ、そうゆう事だろ、後ろから心臓を串刺しにしてやるよ……思い知れ!!」

 
 どのくらい時間が経ったか。何も起きない。急に体が軽くなった。恐る恐る後ろを振り向いた。そこにはただ立ったままの辻さんが居た。
真奈美「……できない、殺すなんて……」
そのまま両膝を地面につけて倒れ込んだ。さっきまで伸びていた爪も元に戻っていた。私は辻さんを起こそうと手を肩に触れようとした。
真奈美「触らないで、私は貴女を殺そうとしたのよ」
私は黙って辻さんを起こして石の上に座らせた。本当は怖くて喋れなかっただけだった。でも喋らないと。勇気を振り絞って話した。
つかさ「でも、私を殺さなかった……良かったら話して、私にも分るように」
辻さんはしばらく俯いていた。私は彼女をじっと見つめた。
真奈美「今の私は仮の姿……二年前、この神社で自殺した娘の姿を元にして化けている」
つかさ「それじゃ辻さんは昨日の狐さんなの?」
真奈美「きつね……確かに姿は狐だけど違うわよ、人間がここに来る前からこの地を統治してきた……人間がここに来た頃は私達は神様として祀り上げられた、
     知恵を授け、生きる術も教えた……」
つかさ「お稲荷さん……」
真奈美「そう言われた事もあったわね……」
これは夢、違う。今私はお稲荷さんと話している。信じられない。
つかさ「七十年前の狐狩り……それを怒っているの?」
辻さんは私を睨みつけた。
真奈美「今まで与えてきた恩を忘れ、傍若無人な振る舞いをする人間達……罰を与える事にした……とは言え殆ど死に絶えた私達にその力は無かった、力を蓄え
     ようやく罰を与える事ができても……もう既に狐狩りをした人間達はこの世に居なかった……だから決めたの、丁度七十年後、この神社を訪れた処女を殺すってね」
つかさ「それが……私なの?」
真奈美「そうよ……私は執行人よ……本当なら宿屋で殺すはずだった……」
私を見る目が悲しそうに見えた。何故私を殺せなかったか聞きたかった。質問をしようとする前に話し出した。
真奈美「あんたのお弁当を奪ったのは稲荷寿司が欲しかったから……私達は油揚げに目がないの、人間に化けるのは油揚げを作るためでもあるのよ……
     それに私達には人の作った物に触れるとその作った人の気持ちや感情がわかる能力があるの、この自殺した子も首を吊ったロープを触れてその事情を知った」
つかさ「それじゃ宿屋で話した失恋の話って……」
真奈美「事実はどうかは分らないけど彼女がそう思っていたのは確かね……それであんたのお弁当の稲荷寿司を食べた時、味はともかくある感情がこみ上げてきた、
     祈りにも似た感情、あんたの無事を願う感情、また会いたいと言う感情がね、その感情が私を支配してしまった……それを作ったのがあんたのお姉さんね」
つかさ「うん」
辻さんがお姉ちゃんに似ていたのはその為だった。そんな気がした。狐さんにお弁当を取られたのをお姉ちゃんが見ればきっと笑っただろうな。
真奈美「宿屋で見たあんたを見た瞬間に思わず笑ってしまった、まるで妹のような気がした、あんたの事がもっと知りたくなった……あんたと会話をしていくうちに親近感が……
     殺せるわけないじゃない、予定を変更してここで殺そうとした……ここなら仲間を殺された憎しみが勝つと思った……でも、何故か無性にまた会いたくなった、
     でも来て欲しくなかった、来たら貴女を殺さなければならない……何気に座ったこの石……今度は貴女の感情が……この林をこんなに美しいと思っていたなんて、
     私達の生まれた……唯一残ったこの林を、私ですらここまで綺麗にだと思ったことないのに……貴女が来る少し前……朝日が差し込んできたわ……
     思わず息を呑んだ……貴女と同じ思いが込み上げてきた……そんな人を……私は殺せない……」
辻さんは立ち上がると私に抱きつき泣いてしまった。私はお姉ちゃんの作った稲荷寿司に助けられた。そう思った。心の中でありがとうと言った。

 
 私と辻さん、二人は石の上に座りながら話した。私は家族や友達のこと、辻さんは一族の歴史や身の上話等だった。もう私達は幼馴染みのような仲になっていた。
不思議だった。たった一晩一緒の部屋に居ただけなのに。きっと辻さんの能力があるからに違いない。人の心が分ってしまう能力。
つかさ「辻さんのその能力、羨ましいな、私なんかKYって言われるよ、そんな能力があればきっと仕事なんかも上手くいくよね……」
真奈美「もうその名前で呼ばなくていい、私達には苗字はない、名前で呼んでくれればいいわよ」
つかさ「それじゃ……まなちゃん、でいいかな」
真奈美「……私は少なくともつかさより十倍以上は生きているわよ……そんな先輩に向かってその呼び名は……まぁ、いいか」
すこし照れくさそうに顔を赤くしていた。
真奈美「私の能力……ない方がいいわよ、同じ能力のある同士だと能力は使えない、それに、スイッチを入れたり切ったりするように出来ないのよ、だから突然
     他人の感情が入ってくるの……そんなの普通の人間には耐えられないと思うわよ……今だって自殺した子の感情が入ってきたりする……」
つかさ「自殺した子って今化けてる子の?」
真奈美「そうよ……私はあの子の自殺の一部始終を見ていた、今思えばあの子の自殺を止められた……でも止めなかった」
つかさ「どうして止めなかったの」
真奈美「私は人間を許せなかったから……だからそのままにした、そう言う意味で私はあの子を殺したのと同じよね……今の私なら助けたかもしれない……つかさみたいにね」
つかさ「私?」
真奈美「つかさなら助けたでしょ、だからここに来た……この子も後二年遅く来てたらつかさと出会っていたら違った道を歩んだかもしれない」
つかさ「私が助けられたかどうかは分らないけど……もうまなちゃんは人間を憎んでないの?」
真奈美「憎い、けど一番憎いのは仲間を殺した人間よ、でもその人間はみんな死んだ……死刑を受けたのと同じよね、もう人間への憎しみは消えたわ」
つかさ「ありがとう」
真奈美「……なんでつかさがお礼を言うのよ……」
つかさ「だって私は死刑だったんでしょ……」
真奈美「私達の怒りの捌け口になった、とんだとばっちりよね、代表して謝るわ……ごめんなさい」

 
 私は助かった。そしてまなちゃんという友達が出来た。友達でいいのかな。他に表現しようがない。
真奈美「朝食べてないからもうお腹がペコペコね」
腕時計を見た。もうお昼近くなっていた。
つかさ「そうだお昼一緒に食べない」
真奈美「……そうしたいけど無理ね、もう直ぐ呪文が解けて元の姿にもどるわ、元に戻ると暫く人間に化けられない」
このまま別れるのはちょっと寂しい。
つかさ「それじゃ私が作った稲荷寿司で良ければ明日の朝でも……」
真奈美「稲荷寿司……つかさ、あんた旅してるんでしょ、他にも行くところがあるんじゃないの、悪いわ遠慮しておく……」
つかさ「まなちゃん……口元……」
まなちゃんの口からよだれが出ていた。まなちゃんは慌ててよだれを拭った。私は笑った。油揚げ料理がよっぽど好きなんだね。
つかさ「ふふふ、一人旅だし別に予定もないから、それにお礼もしたいし」
真奈美「お礼なんていらないわ、私達が勝手にやったことだし」
つかさ「まなちゃん、人の好意は素直に受け取るんじゃないの?」
真奈美「……やられたわ……それじゃ在り難くちょうだいするわ……実はつかさが作ったのを食べたかった……昨日のお弁当は……」
お姉ちゃん、味付け間違えたね。まなちゃんの顔を見れば分るよ。
つかさ「それじゃ明日の日の出の頃また来るよ、約束だよ」
真奈美「約束ね……今度、お姉さんとお友達も連れてきて、会ってみたい」
つかさ「うん」
その瞬間まなちゃんの体が白く光った。目の前に狐の姿があった。昨日私のお弁当を取った狐。その狐はちょこんと私の前に座っている。逃げる気配もない。
つかさ「まな、ちゃん?」
狐は返事をしなかった。もっとも返事はしないだろうけどね。狐は名残惜しそうに私を見ていた。私は立ち上がった。狐は座ったまま私を見ている。
私はゆっくり手をのばして狐の頭を撫でた。犬扱いされて嫌がると思ったけど狐は私に近づいた。私は狐を抱きしめた。狐は私の頬を一回舐めた。
つかさ「ありがとう」
手を解いたけど狐は私の前に立ったままだった。私はゆっくりと狐から離れた。狐に背を向けて階段の出口へと歩いていった。狐の視線を感じる。
なんだろう。涙が出てきた。また明日会えるのに。振り返ってもう一度抱きしめたい。でもそうしたらもう二度とこの神社から出られないような気がした。私は走って神社を出た。
階段を降りるまで優しい視線を感じた。

 
 私は旅館まで戻ってきた。女将さんが玄関前の掃除をしていた。
つかさ「自転車ありがりがとうございました」
女将「あ、やっと帰ってきた、心配したよ」
つかさ「すみません……ところであと一泊したいんですけど、部屋空いてますか」
女将「空いてるわよ……丁度良かった、料理係の松山さんがお礼を言いたいって連絡が入ってね、もう一泊してくれるなら引き止めなくていいね」
つかさ「そうですか、ところで今晩、厨房をもう一度借りたいのですけど、いいですか」
女将「え、もう料理は作らなくていい」
つかさ「いいえ、個人的に使いたいので……それと稲荷寿司の材料も用意してくれると助かります、御代は後で払います」
女将「……理由は聞かない方がよさそうね、いいわ、自由に使って」
つかさ「ありがとうございます……辻さんの宿泊代払いますね」
女将「辻……さんて?」
女将さんは驚いていた。
つかさ「昨夜私と同部屋になった人です」
女将さんは腕を組んで考え込んだ。そして私を見て笑った。
女将「なに冗談言ってるの、あんた昨日から一人じゃないの、ささ、お昼の用意が出来たから食べて」
女将さんは昨日の辻さんの事をすっかり忘れていた。これも狐の能力のせいなのかな。これ以上話しても信じてもらえそうにないので玄関を入って自分の部屋に戻った。
部屋はもう片付けられていた。そうだ稲荷寿司の材料費いまのうちに払っておこう。鞄から財布を取り出して中身を見た。財布の中に葉っぱが一枚入っていた。
そうだよね、よく考えたら狐がお金なんか持ってる訳ないよね。なにか憎めないな。こなちゃんの悪戯に似てるかも。私よりずっと長生きしてるって言ってるわりには子供っぽい。
クスリと笑って葉っぱを財布の中にしまった。

 
 女将さんに材料代を払うと大広間に通された。そこには料理を運ぶ女性が居た。きっと松本さんに違いない。その女性は私に気付くと近寄ってきた。
女性「貴女が昨日食事を作ってくれた人ね、朝食を作っておいて食べないなんて……悪いけど食べさせてもらったわよ、今までどこに行ってたの?」
そうだった。朝食を作っておいたんだった。女性はやや不機嫌そうだった。作っておいて食べないのはマナーとしては最低だ。
つかさ「すみませんでした……神社へ行ってたので」
女性「神社って、階段の神社?」
私は頷いた。階段の神社って、そういえばあの神社って名前はないのかな。
女性「あんな神社でなにやってたの……でも、味付けは申し分なかった、貴女、料理はどこで習ったの?」
つかさ「○○料理専門学校です」
女性「……奇遇ね、わたしはその学校を卒業したわ……懐かしい、ねえ、テキビーって先生知ってる?」
つかさ「……いつも手厳しいからテキビー先生って言われてた……」
女性「わぁー今の生徒も同じあだ名使ってるんだ、確か洋菓子担当だった……」
つかさ「うん、今でもそうです……」
女性「そういえばいつも口癖があったわね」
つかさ・女性「お菓子は化学だ!!」
数秒の沈黙の後、私達は吹き出して笑った。最初は厳しい人かと思ったけど気が合いそうな気がした。
女性「ははは、ふふふ、全く変ってない……テキビー先生」
つかさ「でも、私の学年が最後で引退だそうです」
女性はすぐに暗い顔になった。
女性「そう……月日が経つのは早いわね……あの先生から教わった洋菓子……まさに化学の実験みたいに正確に材料の量を測って、温度も測って……時間も測って作った、
   普通の料理は勘とノリで作ることができる……でもお菓子は正確な測量と精密な技術で味が決まるって……」
そんな事言ってったっけな。実習の時の厳しさは今まで先生の中では一番だった。
女性「あの先生のおかげで洋菓子の奥深さが分った……もう辞めちゃうのか……寂しくなるわね」
つかさ「もう辞めてます、私も……卒業したので……」
女性は驚いた顔で私の顔を見た。
女性「え、貴女いくつなのよ……在校生かと思った……もっとも未成年の女性が一人旅もないわね……もう就職はしてるの?」
つかさ「一応……」
女性はちょと厳しい口調になった。
女性「何が一応よ、もっと自信持ちなさいよ……やっぱり料理関係?」
つかさ「うん……レストランで洋菓子担当……の手伝い」
女性は今度は私を妹のような目で、そうお姉ちゃんのような目で私を見た。
女性「へー、もしかして将来はパテシエになって独立でもするの?」
つかさ「そこまでは……考えていません」
女性「……夢は大きいほうがいいわよ、私だってまだ諦めてない」
何だろう、女性のテンションがどんどん下がっているのを感じた。言ってることは希望に満ちているのに。そういえばまだ自己紹介してなかった。考えるのはそれからだね。
つかさ「まだ自己紹介してなかったね、私は柊つかさです」
女性「私は松本かえで」
つかさ「松本……先輩ですね、よろしくです」
私はお辞儀をした。すると女将さんが松本さんを手招きして呼んでいる。
かえで「ごめん、ちょっと行ってくるわ、食べてて」
松本さんは女将さんの方に向かった。女将さんと話し込んでしまった。ちょっと時間がかかりそうだった。私は用意されたお昼ご飯を食べた。美味しい……
プロの味と言うのかな。卒業したての私なんか足元にも及ばない。でもそんな人に褒められたのはちょっと嬉しいかも。
暫く私は食事に夢中になった。どんな調理をしているのかを想像しながら食べた。

 
 丁度食事が終わった頃松本さんが戻ってきた。
かえで「離れて悪かったわ」
つかさ「いいえ、ご馳走様でした、とても美味しかったです」
松本さんは少し照れくさそうにしていたけど直ぐに咳払いをして気を取り直した。
かえで「それより……稲荷寿司の材料って、どうするつもり?」
そうか女将さんに呼ばれたのはその事だったんだ。
つかさ「明日の朝、神社に持って行こうと思って……」
かえで「数人分はあるわよ、一人でなにするの、あんな神社に何があるって言うの」
まなちゃんの事を言っても信じてくれないだろうな。それにしてもどんどん松本さんの顔が険しくなってきている。そんなに私の行動が気になるのかな。とりあえず適当な理由を。
つかさ「私の家は神社だから神社に興味があって……御参りを……」
かえで「あんな神社に御参りに行っても何もご利益なんかない!!……あ、」
急に怒鳴りつけるように私の話を止めた。すぐに『しまった』と思ったのか俯いて黙ってしまった。どうしたんだろう。私が二日続けて厨房を使うのが気に入らないのかな。
それともあの神社で何か嫌な出来事でもあったのかな。女将さんに呼ばれる前の事も気になる。
かえで「お客様に対してする行為じゃないわ……ごめんなさい……」
そのまま部屋を出ようとした。
つかさ「待って下さい、もしかして厨房を使っちゃいけなかった、そういえば私、松本先輩使って良いって聞いてなかったです」
松本さんは止まった。
かえで「先輩は付けなくていいし敬語も要らない、ここまで来て先輩風吹かせるつもりはないわ、厨房は夜からなら自由に使って構わない」
つかさ「階段神社をさっきからあまり良く言ってないけど何かあったの?」
松本さんは振り返って戻ってきた。
かえで「あの神社はかなり古くからあるけど何故か名前がない、私も地元の人間だけど御参りにも行かないわ、ここの殆どの住民が同じ……そんな神社に一人だけ御参りに行っ
     た人が居た……二年前……その人は二度と帰ってこなかった、私と約束したのに……」
二年前……帰ってこない。まなちゃんの化けていた女性も丁度二年間にあの神社で……まさか。
つかさ「約束って?」
かえで「……一緒に洋菓子店を開こう……ってね」
パテシエになるって松本さんの夢だったのか。あれ、でもその女性は失恋で自殺したってまなちゃんは言ってた。二人でそんな約束してたなら自殺なんて考えられないよ。
よっぽど相手の男性が酷い人だったのかな。もてあそばれた挙句に捨てられた。でもそれじゃ思い出の場所で死ぬなんて考えられない。松本さんは今にも部屋を出そうな
感じだった。もっと話を聞きたい。
つかさ「し、失恋でもしたのかな……その人」
ちょっと言い難かったけどこれ以上話しそうになかったので思い切って言ってみた。黙ったままだった。何となく分る、図星かな。
つかさ「相手の男性はどうしてるの、松本さんも知ってる人なの?」
かえで「彼女の恋人……いいえ、婚約者は三年前に亡くなったわよ……交通事故でね」
言葉を失った。別れは別れでも死別だった……しかも婚約までしてた。
かえで「これで分ったでしょ、もうこれ以上思い出させないで……柊さんもそんな呪われた神社と関わらない方がいいわよ」
飛び出すように部屋を出ようとした。呪われた神社なんて酷いよ。きっと見たことなんだ。
つかさ「松本さんも明日行きませんか、その神社に、自殺した子……えっと……えっと」
かえで「……辻浩子よ」
つかさ「……そう、その辻さんもきっと喜ぶと思う」
かえで「どうかしら、死に急ぐような人が私なんかと会うわけないじゃない」
そのまま部屋の外に出てしまった。今度は呼び止められなかった。

 
 辻浩子。辻。確かまなちゃんも最初辻と名乗っていた。間違いない、まなちゃんが化けていた人と松本さんの自殺した友達、辻浩子さんは同じ人に違いない。
彼氏が交通事故で死んじゃってその後を追うように……旅館でまなちゃんは捨てられたって言ってたけど本人はそう思わないとやっていけなかったんだね。
まなちゃんは死んだ辻さんの想いを読み取ってる。松本さんに会わせれば色々分るんじゃないかなと思ったけど都合が良すぎたかな。それに松本さんをまなちゃんにいきなり
会わせたらまなちゃんだって怒るかもしれない。全ての人を許しているわけでもなさそうだからね。明日、まなちゃんに聞こう。会ってくれるかもしれない。
つかさ「ごちそうさまでした」
私の声に女将さんが別の部屋からやってきた。
女将「ありがとうございます……さっき騒がしかったけど、松本が何か失礼でも……」
心配そうな顔だった。
つかさ「いえ、何でもないです……」
女将「……部屋の掃除はおわってるわよ、出かけるのも、部屋で休んでも、温泉に漬かっても、ご自由に……」

 
 
 私は最後の工程の味の付いた油揚げにご飯を詰める作業をしている。女将さんはご自由にと言ったけど、あの後私は部屋で休んだり温泉に入ったりしただけだった。
地図を広げて観光地に行く気分にはなれなかった。松本さんの話のせいもあるけど何よりまなちゃんの事で頭がいっぱいになっていた。なにしろ狐が人間に化けるなんて。
今になって夢みたいな出来事であった事に気付いた。こうしてまなちゃんの為に稲荷寿司を作っている自分が不思議に思えてきた。
『コンコン』
厨房の扉からノックの音が聞こえた。扉の方を見ると松本さんが私服の姿があった。
かえで「やってるわね……凄いわね、三段の重箱に稲荷寿司がぎっしり……柊さん、あの神社の階段をそれを持って登るわけ?」
しまった作ることばっかり考えて自分の体力を計算にいれていなかった。でも持っていくしかない。
つかさ「うん」
かえで「よければ私のリュックサック貸してあげる、背負っていけば少し楽でしょ」
つかさ「ありがとう」
呆れ顔の松本さんだった。
かえで「一つ食べても良い?」
つかさ「まだ箱に詰めていないのがあるから、どうぞ」
松本さんはお皿に置いてある作り立ての稲荷寿司を一つ摘み上げるとそのまま口に入れた。私は作業を中断して松本さんの感想を待った。
かえで「……なによこれ、お供えにしては手が込んでるわね……って何そんなに真剣に私を見るの」
お姉ちゃんは殆ど料理はしたことない。私は殆ど食べていないから味は分らなかったけど調味料の配合を間違えていたのは間違いない。でもまなちゃんの心を動かすような
お弁当を作った。経験とか技術とかそうゆうのとは別の何か。私もそんな料理が作りたい。ただまなちゃんに美味しく食べてもらいたい。その事だけを考えて作った。
つかさ「感想を聞きたくって、ついすみませんです」
私は作業に戻った。
かえで「……私が十分くらい前にすでに居たの気が付かないくらい真剣に作っていたわね、ノックの音でやっと気付いた……そこまでして作った稲荷寿司を誰にお供えするの」
つかさ「命の恩人にお礼がしたくて」
かえで「命の恩人……今時そんな言葉聞かないわね……確かに柊さんの作ってる姿を見たら食べたくなったのは確かね……大事な人なのね……ね、柊さん、
     貴女、洋菓子の店で独立して働くのって興味ない?」
自分の店か、お昼にそんなの言ってたっけ。
つかさ「自分の好きなように料理を作れるっていいですよね……憧れちゃう」
かえで「……貴女を見てたら思い出すのよ浩子の事がね……貴女とだったらもう一度挑戦してもいいかなって思った」
もしかして私を誘っているのかな。まだ会って一日しか経っていないのに。
つかさ「私は辻さんの代わりですか……私は辻さんの事知らないし、松本さんの事だって……それにまだ卒業したての雛ですよ……」
かえで「仕事ってもんは経験とか技術とか関係ないの、その仕事に対する愛着と真剣さがあればいい……それが貴女にはある、どうかしら、貴女となら出来そう」
つかさ「……突然そんな事言われても……」
返答に困ってしまった。すぐにはいとかいいえなんて言えない。そんな私を見て松本さんは笑い出した。
かえで「ふふふ、真剣に考えるなんて……純情と言うのか、正直と言うのか……本当に最近には珍しい子だよ……」
もしかしていじられちゃったかな。いつも私はそうなんだよね。作業の手を止めて小さくため息をついた。すると松本さんはエプロンを付けてフライパンに火をかけた。
かえで「……柊さん、あの神社に行くんでしょ……私の作った料理も持って行ってほしい、浩子が好きだったパンケーキ……メープルシロップは別にしておくのが好きだった」
つかさ「松本さん……それなら明日一緒に……」
かえで「貴女に出来るかしら、友達でも家族でもいいわ……そんな人が自ら首を吊ってしまった現場を見に行く勇気が……私には、ない」
また返答に困ってしまった。身近に自殺した人なんて居ない。
かえで「パンケーキ、浩子が死んでから作るのははじめて、あいつね、呼び名はホットケーキの方が正しいって言うのよ……それで何度か論争した事がある……
     ふふ、そんなの私から言わせればどっちでもいいわ……」
微笑みながら辻さんの話をしだした。辻さんがどんな人だったのか分ったような気がした。
かえで「止められなかった、分ってれば止められたのに……なんで……喧嘩したのが原因だったのは分ってる」
つかさ「喧嘩?」
かえで「自殺する前日、店のレイアウトで喧嘩になってね……洋菓子のお店を出す話自体がダメになったのよ……」
違う、それが原因ならまなちゃんがそう言ってる。直接の原因は婚約者の死。喧嘩のせいじゃない。
つかさ「遺書とかがあるの?」
かえで「無い、だけど分るわ……もう過ぎたことね、話を聞いてくれてありがとう」
作ったパンケーキとシロップを綺麗に三つ目の重箱に盛り付けた。
かえで「残ったスペースに稲荷寿司をいれてね、全部入るでしょ」
松本さんはエプロンを外して片付け始めた。
つかさ「えっと、その話の事なんですけど……」
かえで「……冗談だと思ったかしら、私は本気よ、柊さんと店を作ってみたい、きっといいお店になると思う……返事はすぐにじゃなくていい、考えておいて」
私が言いたかったのはその話じゃなかった。でも言えない。辻さんの話をするにはまなちゃんの事を話さないと信じてくれない。だめだ。話したら余計に信じないかも。
かえで「明日は何時に立つの?」
つかさ「え、あっ、まだ考えていません……お昼過ぎかも」
かえで「そう、駅まで送ってあげるわ……先に帰らないようにね!」
手を上げて挨拶すると松本さんはタイムカードを押してそのまま厨房を後にした。

 
 今働いている店もそんなに悪いところじゃない。だけど……松本さんが焼いたパンケーキ、フライパンの温度を温度計でちゃんと測っていた。
小麦や水だってそうだった。もしかしたら攪拌してる時間や回数も測っていたかもしれない。盛り付けられたパンケーキはフワっとしてて私も食べたいくらいの焦げ具合。
食べるのを想像してたら生唾が出てきた。松本さんにお菓子や料理を習うのもいいかもしれない。なんてね、しまった。感想を聞くのを忘れてた。
何も言わなかったからたいしたことなかったのかな。なんかまなちゃんに食べてもらうのが怖くなった。お姉ちゃんの作ったのより不味いなんて言われたら……
でも約束したんだしもうこれで行くしかない。最後の稲荷寿司を箱に入れて厨房を片付けた。

 
 部屋に戻ると入り口にリュックサックが置いてあった。松本さんが置いてくれたんだ。丁度三段の重箱が入りそう。早速箱を袋に入れた。ホッとしたのか大きなあくびが出た。
眠くなった。明日は早いしもう寝よう。おやすみなさい。
 
 
 
 
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