ID:SrJbggoo氏:彼女たちの事情 ~かげろうの季節~

 世界を夏が狂わせていた。

 かげろうが景色を歪め、歩道は銀盤を敷き詰めたようにきらめく。
誰も彼も家に閉じこもって出ようとしないので、私は人影の一切ない商店街をゆらゆらと一人歩いている。
ハンカチで拭いきれないほどの汗と日光でジリジリと痛めつけられる脚、ぼやけた頭が私をおおいに悩ませた。

 時に目的さえ忘れたようになり、軽く首を振っては思考力を取り戻す。
立ち止まって、温くなってしまった水を嚥下する。
そんな調子でどれだけの時間をかけただろう。
それでもなんとか、私は辿り着いた。

   『柊』

 インターホンから彼女の声が流れ、歌うように軽快な足音が近づいてくる。

 ああ、それにしても今日はこんなに暑い。








      彼女たちの事情

       #1 かげろうの季節








「……ん……」

 意識は朦朧としていた。
体が熱い。
焼かれるような熱さではなく、内側から立ち昇る、そういう類の熱さ。

 ゆっくりと頭の中の回路を一つ一つ繋げていく、そんなふうに私は現状の認識を進める。
ただ、眼鏡をかけていなかったので、その認識には過分な時間を要した。

 私は眠っていたようだ。
白いシーツが敷かれたベッドで、これもまた白いタオルケットにくるまれている。
曖昧な視界越しにも見覚えを感じるこの部屋、そして良く知ったにおい。
ここは彼女の部屋だ。
気遣ってくれたのだろう、クーラーでなく扇風機の涼しげな回転音が聞こえる。
それに気付くと、私は自分がこの家の玄関で倒れたことを思い出した。
間違いなく暑さのせいだと、この体が証明しているようだった。

 まだ十分に冷たい氷枕の感触を楽しむと、私は体を起こした。
タオルケットがはらりと床に落ちる。
喉がとても渇いていたし、彼女やご家族にお礼を言わなければならない。
だが、いざ起きてみるとやけに体が重く感じられる。
体調がすぐれないせいかと思ったが、どうやら違うらしい。
私はこの体、というよりは肩にかかる重みをよく知っている。
それをたしかめるべく、私はそこに手を伸ばした。


 やわらかい手触り。
いや、それはあまりにやわらかく、直接的すぎた。
私は瞬きよりも速くタオルケットを拾い上げて上半身を覆った。
そして右手でタオルケットを抑えながら、左手を腰から下に滑らせていく。
それは、やはりと言うべきなのだろうか。
つまり今の私は、一糸纏わぬ姿でいたのだった。

 途端に私の体は途方も無いほどの熱に支配される。
上気する頭からは思考力が根こそぎ奪われた。
私の脳は、ただ自分が裸であるという現実を反芻し続けるだけの機械と成り果ててしまった。

 突然、がちり、という音が響いた。
同時に、ぼやけた景色の一部が動き始める。
熱暴走しそうな脳をどうにか回転させると、私は口元まで余す所なく体を覆い隠した。
そして開いたドアが閉じるのを待たずに、彼女が私に喋りかけた。


「……ゆきちゃん!よかったあ、起きたんだね!」

 そのまま早足で私に近づいて、コップを差し出す。

「はい、お水だよ!慌てないで、ゆっくり飲んでね」

 私が対応に困っているのを感じてか、彼女が疑問の声を上げる。

「……どうしたの?」

 ここに至って、ようやく私に喋る隙間が与えられた。

「つかささん、すみませんが眼鏡をいただけませんか?」

「そっか、そうだね。はい、どうぞ」

「ありがとうございます……あ、あの……」

 彼女は眼鏡を取り出すと私に突き出して、そのまま私を見つめ続ける。
なかなかそれを私が受け取ろうとしないので、
どうしたの、といかにも不思議がっているような声を上げた。


「……ええと、その……恥ずかしいので、あまり見ないでいただけませんか……?」

 彼女は合点がいったというように手をぽんと合わせた。
しかし決してその顔をよそに向けようとはしない。
それどころか、いっそう朗らかな声を私にぶつけてきたのだった。

「そんなの全然気にすることないよー、私たち一緒にお風呂にも入った仲なんだから」

 それはそうですけど……と、言いかけた言葉を飲み込んだ。
どうやら、今日の彼女はいつもと少し違うらしい。
やっぱり暑さのせいかしら、などと私も呑気に構えて丁重に眼鏡を受け取った。
体を露出しないように気をつけながら、空いた片手で受け取った眼鏡を開いて耳にかける。
一連の動作の間ずっと彼女の視線が感じられて、
どうにも気恥ずかしい気持ちばかりが膨らんでしまう。

 一方の彼女はといえば、そんな私の緊張を気にも留めていないようだった。
はいどうぞ、とあらためてコップを差し出すと、
私が水を飲む様子を目をきらきらさせて見つめた。
たまらず私が目を合わせると、嬉しくてたまらないといったように笑った。


 その後も彼女は奔放に、時に私を煙に巻くように振る舞った。

 それはおかしなことだと、私にはわかっていた。
いつもの私なら、こんな状況には耐えられなかっただろう。
しかし、暑さのせいだろうか。
彼女の不思議なかわいらしさのせいだろうか。
いつしか私は恥ずかしさを忘れていた。
心からの楽しさで、胸がいっぱいになっていた。
いたずらに、まるで夏の妖精のように微笑む彼女を、もっと眺めていたいと思うようにさえなっていた。

 けれど、楽しい時間は決して長く続かない。
暑さと多少の気恥ずかしさ、そして会話の熱にあてられて、私は再び眩暈に襲われた。
すぐに彼女が用意した、水差しの水をゆっくりと口に含む。
ガラガラと氷がぶつかり合う快い音と冷水が喉を通り抜ける心地よさを感じると、
私は目を閉じてベッドに倒れこんだ。
そのうちに瞼の内側も暗くなり、また気を失うのかと少し身構えたが、
いっこうにその瞬間は訪れない。

 代わりに、額や頬にむずがゆい感触が生じていた。
恐る恐る、私は両目を開く。


 ああ、私は夢を見ているのでしょうか。



「……あ、あの……つかささん……?」

「ゆきちゃん、動いちゃダメだよ」

 額が重ねられ、吐息が降りかかる。
そんなまさしく目と鼻の先の距離に、彼女はいた。
まっすぐに向けられた彼女の瞳、
ともすれば紫がかったようにさえ映る奥深い色が私を釘付けにする。
生温かい吐息が皮膚をくすぐって、私の体温は容易に上昇した。
その熱が冷たい彼女の額を温めるのだと気付くと、どうしようもなく心が乱れた。

 そうして熱に侵された私は、ただひたすらに彼女の生々しい存在を全身で感じ続けていた。

「うん、やっぱこれも取替えなきゃ……ちょっと、ごめんね…ゆきちゃん」

 彼女は一人納得したように呟くと、私の頭を軽く持ち上げて枕を引き抜いた。
そのまま流れるような所作で部屋を飛び出して、パタパタと滑るような足音を響かせて階下に降りていく。
行動の真意を知って、私は深い安堵の溜息をもらした。



 しかし、胸の高鳴りは収まらない。
ドキドキと打つ鼓動に合わせて、真っ赤に燃えるような血液が全身を駆け巡る。
ゆらめく意識のせいだろうか。
繰り返す彼女の感触が。
額に残るほのかな冷たさが。
頬を撫ぜた温い空気が。
白昼夢のように浮ついた意識を、真綿のような柔らかさで捕まえて離さない。

 乾いた唇が、不意に心を触った。




「ゆきちゃん」

 いつの間にか彼女が私をじっと見下ろしていた。
リボンは結んでいなかった。

「どうしたの?」

 彼女は私を覗き込むように体を屈めると、ベッドに乗り込んだ。

「なんか、ヘンだよ?」

 立てた膝でタオルケットごと腰をおさえつけ、そのまま覆い被さるように両手を捕らえ、私の自由を奪った。

「ねえ、どうしたの」

 彼女は囁く。

「ゆきちゃん」

 彼女はわらう。




 ああ、どうして。

 こんなにも。

 こんなにも、あなたは私を惑わせる。




 しとやかな髪が触れるほど近く、彼女が私を見つめる。
妖しく微笑むその瞳の、瞳孔の美しさまで判然とするほどの近くで。

「ねえ、ゆきちゃん」

 湿った空気の振動が体内に侵入し、鼓膜を震わせ三半規管を狂わせた。
二人の世界が地面を失い宙を舞う。

「もっと見せてよ」

 彼女は上体を持ち上げて俯く。
視線が熱い。
私は顔を背け、ささやかに抵抗する。

「いいよね」

 彼女が首を垂らす。
吐息が鎖骨を撫ぜ、睫毛が首筋に触れる。
桜色の唇が私の体を覆う白布をついばんだ。



「……つかさ……さん……」

 言葉が出ない。
体が動かない。
汗が止まらない。
指先が震える。
血が熱い。
唇が乾く
目をそらせない。

 もう、彼女しか見えない。


 ああ、神様。

 どうか、どうかこれが―――







    「―――夢だったらどうする?」








 私は陵桜高校にいた。
そこで私は、私を見つめていた。
騒がしい昼の教室に負けまいと、制服姿の私たちは声を交わしている。
私がいて、泉さんがいて、かがみさんがいて、つかささんがいる。
そんないつもの風景を、私は4人のすぐ傍に立って眺めていた。
目の前の私は、とてもとても楽しそうに笑っていた。
やがてお昼休みが終わると、皆がそれぞれの場所へ帰っていく。
私は去っていく彼女の背中をじっと見ていた。
寂しげに。
愛しそうに。
そのうちに先生がやってくると、私は視線を黒板へ移した。

 教室がオレンジに染まる。
夕日が無人の教室を照らしていた。
廊下に上履きの音が響くと、私が教室の扉を開いた。
私は机からノートを一冊取り出して鞄にしまう。
不意に反射した夕焼が目が眩ませると、そらした視線が意図せず何かを捉えたようだった。
私はゆっくりと歩を進めると、そこで立ち止まった。
教室の扉に目を向け廊下の気配に耳を澄ませる。
不気味なくらい、物音の一つも聞こえない。
私が視線を下に向ける。
そして、そっと彼女の机に手を伸ばした。
しかし指先が触れるその寸前でぴたりと動きが止まったと思うと、私は踵を返して教室を飛び出していった。
胸を押えて走る私の頬が赤く映ったのは、夕日のせいたろうか。



 気がつけば、私の意識は彼女の部屋に戻っていた。
あんなに近くにいた彼女が、どこにもいない。
カーテンがふわりと浮き上がり、白い光が室内を照らした。
半開きになった扉から風が流れ出ている。
彼女は行ってしまったのだとわかった。
私はタオルケットを胸の前で結んで髪を肩の後ろに回し、
ベッドから床に降りると勢いそのままに走り出した。
けれど、扉は私が近づくことを許さないかのように遠ざかっていく。
走れば走るほど、その輪郭は揺らいでいく。
遥か遠くの、あまりにも不確かなその点に向けて、私は手を伸ばす。
そして、彼女の名前を叫んだ。






 蝉の鳴声が耳を貫く。
目の前で広がった景色は、彼女の部屋でも学校でもなかった。

 空を掴むように伸びていた腕を引いて、体を起こす。
すぐ横のテーブルをあさって、置いてあった眼鏡をかけた。
なるほど、油蝉が網戸に留まっている。
網戸を軽くつつくと、蝉はどこかへ飛び去って行った。

 外の景色は相変わらずのかげろうでゆらゆらと揺れている。
太陽は東から西への折り返しをだいぶ前に過ぎたようだ。
ひさしを越えて縁側へ、焼付くような陽射しが侵入している。
うだるような熱気に思わず後ずさり、振り返ればそこに彼女が立っていた。
柊家の居間、この部屋のふすまに手をかけて彼女は夏の花のように笑う。



「…ゆきちゃん!よかったあ……起きたんだね」

 かけ足で私に近寄り、コップを差し出す。

「はい、お水。冷たいから、ゆっくり飲んでね」

 呆けている私を見て、彼女は疑問の声をあげる。

「……大丈夫?まだ辛い……?」

 首を傾げて私を見上げるその仕草は、たしかにいつもの彼女だった。
不安げにゆれる瞳の澄んだ輝きが、私を優しく現実へと導いてくれる。
なら私は、一秒でも早く彼女を安心させよう。

「……いえ、おかげで楽になりました」



 ありがとうございます、と私は笑顔を浮かべる。
うん、と彼女がほほえみ返す。

 これで、日常へ帰れる。
私たちはそれでいい。
それ以上は望むべくもない。
そう、わかっているのに。

 ああ、胸が痛い。

 この痛みはなんだろう。
この胸の高鳴りはなんだろう。
遠くで揺れるその姿は、きっと見えないほうがいい。
手を伸ばしても、届かないのだから。

 だから、そう。

 この痛みは夢のせい。


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  • 切なさが残る -- 名無しさん (2010-12-20 17:16:05)

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最終更新:2010年12月20日 17:16
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