ID:G9EM > xaY氏:ラムール・エ・ブル

夏の頃の天気の曇ったある日の海水浴場の近く、私が日課で海沿いの道を歩いていると、一人の少女を見かけた。
彼女は通りと砂浜との境目の芝生に置かれた白い木製のテーブルの、椅子が二つあるうち木陰になる側に一人座っていた。
頭には灰色のキャスケットと呼ばれる種類の帽子、黒い縁のはっきりしたサングラスをかけ、カジュアルな服装の上に大きめのコートを羽織った恰好をしている。
そしてその手にはまだ満杯に注がれたままのオレンジジュースのグラスを持ち、寂しげにそれを眺めているようだった。
彼女は小さな声で何かの曲を口ずさみ始めた。
私はそれに耳覚えがあり、はて何だったかと考えてみると、一つの曲が思い当った。
それは「L'amour Est Bleu」という題名で、記憶によればもう40年も前のものだったはずだ。
私はその少女の時代と知識の時代のずれがおかしかったからか、無意識に彼女の方を見とれていて、道路の様子を確認するのを怠っていた。
すると間もなく足にひやりとした感覚が走った。
ぎくっとして足元に目を移すと、左足を深めの水たまりの真ん中に突っ込んでいた。
やや憂鬱な気分になった。
(あーあ……この靴最近テレビショッピングでこれだ!って思って買ったばかりなのに)
ちょうどその時、海風が彼女を覆っていた街路樹の枝葉を揺らし、樹雨を降らせた。
水がざあっと彼女の帽子に降り注いだ。
私は彼女が濡れるのを嫌がりその場を離れるかと思ったが、予想に反して彼女はじっとグラスを握ったまま、座っていた。
そして小さく呟いた。
「この氷がとけるまで」
私は彼女の持つグラスを注意深く見つめた。
オレンジの黄色は既に薄くなり、ほとんどただの水みたいになっている中に、一個だけ残っていた。
それも一粒の砂利ほどの大きさになっていて、いまにも溶けて無くなってしまいそうだった。
「もう溶けるってのに……」
彼女はテーブルのもう一つの椅子をじっと眺めた。
グラスを持っていないもう片方の手の指がせわしく遊びだしている。
私は気が付くと歩みを止めていた。
そして祈るような彼女の心を静かに見守った。


「あ、すんません!だいぶ遅れました」
不意に一人の男が叫びながら少女の元まで駆けよってきた。
少女はその男の顔を見やり鬱々とした顔で溜息をついた。
「申し訳ないです!どうしても収録が長引いて……十分前のことでしたよ。本当にすみません、あきら様」
「あっそ。まーいいけど」
つっけんどんに彼女は言い放った。
「あんた何てドラマだっけ?出てんのは」
「あ、今の収録のやつですか。タイトルはええ、『水滴の季節の向こう側』です」
「あーそうだったっけ」
「今回は自分のセリフも多かったです、正直トチりまくりました、すみませ……」
「もういいからペコペコすんのは、うざい」
少女は少し必死になって、顔を若干逸らしながら尖った口調で男の言葉を遮った。
(まあ、怒るのも無理はないか)
私は表面的に彼女の挙動を解釈して納得しようとした。
「暑いですね」
唐突に男が少女に話を切り出した。
「ああ」
「花が咲いてますね。あれウツギの花ですね」
「詳しーんだ」
「ドラマで得た知識ですけど」
「あっそ」
カップルの他愛無い会話が始まったのを見て、私は彼女らにじっと観察していたのを気づかれ邪険に扱われる前に歩き去った。
「それであきら様、知ってます?」
「何が?」
「ウツギの花言葉」
「さあ」
「ウツギは……」
「うん」
「あ、いや、やっぱりいいです、今は」
「何それ」
「今度の機会にでも言うことにします」
「……ふーん」


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