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花言葉

※花についての知識は実体験ではなく全てインターネット上で調べたものです。間違いの可能性が十分あるので、実際に花を買うとしたら専門家に。
※みなみの口調が多少変ですが、これは人と会話をするよりも本を読むことの方が多かったため、文語調がうつったからということにしてください。




立夏の時期、昨日まで日を浴びていよいよ緑色が鮮やかにきらめいていた葉桜は、今日は雨粒を垂らして俯いていた。
雨は学校舎のざらざらした壁を濡らし、街路のアスファルトを濡らし、そしてそこを歩く一人の学生服を着た少女を濡らしていた。
少女は急ぎ急ぎ、前に屈みつつ、自らの胴体を腹に抱えた鞄の盾にして、学校から歩みで二十分ほどの道のりを小走りに、背をうがつ水滴の冷たさと重さに耐えていた。

やっとの思いで家に着いた彼女は玄関先ですぐさま、母親である岩崎ほのかに疑念の顔で迎えられた。

「おかえり……あら? 傘はどうしたの?」

彼女、岩崎みなみは声を殺して答えた。

「……別に。なくした」





ずぶ濡れの身体をタオルで拭きとると、みなみは自室へこもった。
部屋にはカモの羽毛を詰めた布団の畳まれたベッド、学生服をかける無垢材のポールスタンド、窓際の辺には褐色の艶のあるマホガニー製の机。
机の、窓から光の差し込む位置には、素焼きの鉢植えが一つ置いてある。
その隣の緑色のブリキ製ジョウロには、その半分くらいのかさまで水が蓄えられている。

みなみの家は存分に邸宅だった。
入口には門扉をあしらい、建物は横に広く奥行きもあり、周りは庭になっていて、土が張っている。
そこに何本かの木々が生えている。
幼児の時から中学二年の今に至る十年以上の間、ずっとこと豪邸でみなみは育てられてきた。

(今日は雨だったから、水をあげる必要はない)

みなみはふと顔を上げ、窓の外を覗いた。
雨粒の群が庭の土をほの暗く染め上げている。
土に立った自分の濡れた姿が思い描かれた。

(……傘は多分、あいつらに取られた)

みなみは学生服のポケットからある手紙を取り出した。
今朝教室の引出しにいかにも目立つように入っていたこの手紙は、鞄を守るついでに下校時の雨の脅威を免れた、しかしみなみにとってそれは免れる必要など全くなかった。
そこには赤黄青さまざまな蛍光ペンで何重にもなぞられすっかり汚くなった色で、紙面いっぱいにこう書かれていた。

 『キモイ』

みなみは嘆息し、生乾きの前髪を指で撫でると、鉢植えを見やった。
植えてあるのは数本のカモミールだ。
ローマンカモミールという多年草、茎の先端に黄色い網状の丸く盛り上がった部分とその周りに、白い羽のような花弁が十数本ついている。
昨年の秋に種まきされたもので、花は春の間咲かせておき、夏は萎れやすいので花を摘んでおく必要がある。
花が咲き終わるとその種がこぼれ、植え付き、また新たな子孫を残すという華やかながらしぶとい植物だ。
また、なかなか繊細であり、土は乾かしてはならず、いつも水を蓄えておく必要がある──でなければ枯れてしまう。
ゴールデンウィークの頃の日曜日に、花屋の店頭で偶然目を惹かれたのだが、シンプルな色の取り合わせとリンゴのような甘い香りが、それとなく元気付けているような気がした。

みなみには、カモミールが唯一の癒しだった。
カモミールのある部屋が唯一の居所だった。

その証の一つに、以前みなみは太陽を嫌っていた。
照らし出されることを嫌った。
照らされることで自らの存在が浮き彫りになり、他者に認識されることを恐れていた。
雨は彼女の隠れ蓑であった。
視界が悪くなると同時に、雨が降れば誰にでも必要となる傘は顔を隠すのに好都合だった。
だから彼女は雨を好んだ。

カモミールが部屋の同僚になってからは、それが幾分傾いた。
カモミールは太陽を必要としているからだ。
みなみがカーテンを閉め切り、部屋に差し入ろうとする日光を追い払う習慣を棄てたのは、この花を買った日以来だった。

それと同時に、ジョウロに水を汲む習慣が付いた。
みなみは毎日、台所でジョウロに水を足し、机の鉢植えの傍に置き、頃合いを見て土を潤している。
そうしてカモミールに生を与えることで、自らも救うことができた気がした。

明日も明後日もみなみは水をやった。
特に暑く地熱が蒸気となる日には、朝夕二度水をやった。
苛めは続いた。
二月と半分経って、学校は一学期の終業時期となった。
みなみはようやく、といっても一時的だが、いわれなき陰口の苛みから解放されることとなった。





夏の間、みなみは詩作に没頭していた。
学校のある日にもそれなりには書きはしていたが、特にこの長い休みは、日々の課題に追われることもなく(「夏休みの友」という名の課題もありはするが)、自由な遊びを許してくれた。
詩を書きためたノートは澄んだ水面のように、みなみの心情をありのままに反映した。

みなみは旧来詩に「闇」という言葉を好んだ。
四月頃には特にそれが多かった。
≪白い、森の木々が畏怖し震え出すほど冷やかで白い、空を統べる神の鋭い瞳孔に、ただぼんやり照らし出された夜の闇≫
みなみが大変気に入っていた「神の瞳孔」という詩のはじめの一文である。
日夜日夜、出だしから結びまでを心の中幾度となく反芻し、その幻想の風景を色鮮やかに、無限の空間に広げていた。
夜と、そこに浮かぶ月、月光の差し込む森、森の根本を走る陰、木を揺らす風。
全てが闇に調和した風景。
みなみはそこに花があればなお良いと思った。
木々の生い茂る中に、その腐葉土を足場にして、闇の中肩をすくめて眠りに落ちている一本の花。
それは他ならぬカモミールだ。

カモミールは朝になっても目覚めぬ、なぜなら日の光が届くのを鬱蒼とした木の群れが邪魔するからだ。
神はそれを哀れに思い、その灼熱の目を閉じて、雲を呼び精一杯の涙の滴を与え給う。
カモミールはその慈悲にあふれた水滴を糧として、木のざわめきに耐え暗闇の中をしぶとく生きるのだ。
≪人間が葦というならば≫
≪それは花だ 水なくしては咲けもしない 生きられもしない≫
みなみはこう書き綴ると筆を置き、しばし瞑想にふけった。

毎朝、カモミールとともに、みなみは日を浴びた。
いくぶん調子が良い気がして、エネルギーの流体が身体をぐるぐる、手と脚の先までほどよく循環しているようだった。
自分でもわからぬが、ふとした拍子に血の脈が強く打ち、その間(おそらく)自然な笑顔が出ていることがあった。
そして春に比べた自身の内部的な心情の変化を、自らほのかに感じとっていた。
カモミールだ、とみなみは思った。

(そう、これが来てからだ、この花が部屋に同居するようになってから私は快活な気分でいられるようになったんだ)

鉢に植え付いたそれをぼんやりと眺めた。
花屋のアドバイスの通りに既に上半分を刈り取られていたが、茎はまっすぐ伸び気分よさげに日を浴びていた。
みなみはそれを肯定的に受け取りつつも、どこか拭いきれぬ違和感を覚えていた。

(いや、私は確かに良くなった、そう思えないならば、それは心の病か何かに違いない……)





どこからともなく声が聞こえた気がした。
それは自分の名を呼んでいるようなものだったかもしれぬが、定かではない、とにかくみなみはうすら目を開いた。
目の前にほのかが、不可思議そうに自分の顔を覗きこみながら立っていた。

「あ、起きた?ごめんね、夕飯できたから呼んだんだけど。寝てるなんて珍しいじゃない」

ほのかはそう言ってすたすたリビングへ戻っていった。
みなみは首を正面に起こし自らの格好を調べると、どうやらベッドにまっすぐ伸ばした頭から膝までをあずけ、膝より下を放り出して眠っていたらしいことを確認した。
西日の差す窓からは風が吹き込み少し身震いした。

(そうだ、今はもう秋だ、二学期が始まって少し経った、そして今日は授業があった。それで私はいつになく眠気があった……なぜだろう?)

みなみは上体を起こそうとした、すると左の手首にきりっとした痛みが走った。
それによってとうとうみなみは思い出した。
(そうだ、今日の体育だ。よく晴れているグラウンドでバレーボールをやった。暑かった、いやそれだけじゃない、とてもきつかった。あいつら、不幸にも同じチームを組んだやつらが私にばかりボールを拾わせたせいだ。アタックまで毎度させられたんだった。おかげで私はぼろぼろに疲れた。しかも体操服は汗と砂にまみれて汚くなった)

ふとベランダを見ると、物干しざおに自分の体操服があった。
洗剤ですっかり砂汚れは落ちて、まるで自分の汗の跡など見当たらなくなっていた。

突然、ふと思い出したようにみなみは立ちあがった。

(しまった!今日はまだカモミールに水をやってない!)

みなみは机の方へ足を運び、急いでジョウロを手に持ち鉢植えの土に水を加えた。


学校での状況は、全く良くなる気配が無かった。
音楽の授業は十一月にある合唱コンクールの練習にその全ての時間が費やされるようになったが、パートごとの練習というものがあり、あまり教師の目が行き届かなくなる。
みなみはソプラノパートだったが、いじめっこの一人の「皆一人ずつ前に出て歌う」という発案により、中ほどの出番だが、みなみは嫌々皆の視線のある中一人で歌わせられた。
みなみの声は綺麗であるが力がない、声帯が絞られていてとてもか細く、いじめっこ達はまるでそれをやるためだったと言わんばかりにわざとらしく、声をひそめつつも、忌まわしい罵倒文句をもって嘲笑し合っていたのであった。
みなみは歌いながらそのひそめき合う談笑を途切れ途切れ耳にしていた、それで心底かっとなりはしたが、逆らうことの恐ろしさにかなわず、歌詞を口にしながら煮えくりかえる不満や激怒に悶えていた。
ソプラノパートの仲間には哀れなみなみに心底同情する者もあった、しかし彼女らも同じ扱いを受けることを恐れ、積極的に手助けすることはなかった。

またこんなこともあった。
英語の授業中、教師が板書を使い関係代名詞の説明をしているときに、教室中に何かが振動し金属を叩き鳴らすような音とともに大音量の楽曲が流れた。
誰が聞いても携帯電話の着信音だとわかるものだった、そして呆気にとられた教師を含め教室中の全員がほぼ一斉にみなみの方を向いた。
その音は明らかにみなみの机の中から聞こえていた。
この状況で他の誰よりも驚き現実を認めるのに時を要したのはみなみだ、なぜなら彼女は携帯電話など持っていなければ、学校に持ってくるようなこともするはずがないからだ。
みなみは数にして30もの視線を同時に受けたちどころに俯いた、そして床に目を泳がせた。
教師がみなみの席へいぶかしげに歩み寄り話しかけると、みなみは恐れながら何も言わず、机にほぼぴったりくっついていた自分の身体を椅子ごと後退させた、そして教師は机を探った。
案の定一個の、折りたたみ式でピンク色の丸っこい携帯電話が、着信のランプを青く点滅させてそこにあった。

実のところこの携帯電話はいじめっこの一人が新しいものを最近買ってもらったため不用品として捨てようと思っていたもので、ごみ箱へそれを投じる前にこの悪戯を思いついたのだった。
そのアドレス帳からは一切の電話番号やメールアドレスの登録、発信履歴、そしてプロフィールが消されており、代わりに着信履歴に非通知の電話記録が20件も蓄積されていた。
ちなみにこの英語教師は厳格なことで評判のある人間だったが、平素の勉強振りや成績の良さもあってみなみがあまりとやかくは咎められなかったのは、事件の犯人にとって不満が残った点であろう。
しかしみなみにとってはクラスメートの全員に濡れ衣の罪を晒させられてしまったことが十分に屈辱であり、その夜はほのかと一切口を利かなかった。

カモミールはそろそろ花を閉じる時期だった。
といっても、茎はまだまっすぐで、根は(土に埋まって見えないが)ぴんと張り、再び暖かくなる季節をいつでも準備万端に待っているようだった。
みなみは日課として毎日ジョウロに汲み置いていた水をやった。
そしてその未来に目を輝かせているようなカモミールの葉をじっと見つめていた。





学校から家までの街路を、みなみは身震いしつつ、風に乗ってアスファルトを吹く雪の嵐を、髪に鞄に学生服にまともに受けながら、懸命に走っていた。
もう十分も前から上がりがちだった息は寒気に白く濁っては溶けていた、だがみなみはそんなものには気づかない、いや気づいている暇はまるでなかった。
寒さでさえもはや意識の外であった。

家に着くとまっすぐ自分の部屋へ上がった、鞄を置き、ドアを閉め、窓を閉じ、布団へ潜り込んだ。
一切の動作は手が痺れていたせいで不器用であった。
みなみはうつ伏せになり腕を交差させて枕にしそこに頭を乗せ、息を荒げぶるぶる震えながら、体の温まるのを待った。

(寒い、とにかく寒い……)

みなみは未だ身体を小刻みに振動させながら考えた。

(傘があれば寒さを凌げたか……いやまさか、傘があろうが無かろうが結局こうなっただろう。しかし雪が髪にかかることはなかった……あいつらの仕業に違いない。
 五月の雨の日を思い出す……あの日は頭から胴、靴まで濡れた……そしてやはり傘を隠した、あるいは盗んでいったのはあいつらに間違いなかった)

小さなくしゃみが出た。

(布団が身体にまとわりついた雪に濡れるのも構わずこうしている……あいつらの仕業……もう散々だ……もう……)

その時みなみは今自分の思ったことに気づいてはっとした。
いやまさか、そんなことができるものか、みなみは自らの思惑を否定した。
しかしそのような考えが頭の隅にでも浮かぶほどみなみが弱りきっていたのも事実だった。

(学校を……いや、やはりだめだ。逃げなんてみっともない……)

指の先の血が少しずつ巡り出し、感覚が戻った気がした。
身体もいくらか温まってきたようだ。

(今日は寒いから……昨日やった水がまだ蒸発しきっていないはず……だから今日は水やりをする必要はないはず)

漠然とそのような推論を行っているうち、ふと意識が脱落した。


みなみは激しく唸るとともに目を覚ました。
慌てて枕元の時計を見た、針は7時を指していた。

「……またこんな時間に寝てしまった」

みなみは若干の嫌悪を自らに差し向け呟いた。
そして今見た夢の記憶を思い起こしてさらに嫌悪を抱いた。

(まったくひどかった……誰もかもが私を裏切った!私は定刻通り席に着いた……突然あいつらが噂話を始めた、大声で、露骨に私を中傷した。それまでは良くも悪くも通常の範疇ではあった……しかしそこからだ!
 クラスメートの、今まで全く関わりもしなかった人間がそれに大きな声で賛同を始めた、するとまた一人同様の者が現われた、さらに一人現れ、それが伝染病のようになった。
 そして最後には皆一様に口をそろえて私を責めるのだ。私はおぞましい気がしていた、今でもその片鱗が残っている。ひどいものだ……
 私はちょうど教室へ入ってきた教師の所へ駆けつけ事の内容を訴えた、ところが教師までもが私を嘲笑した……なんてことだろう!
 私は何もできなかった、それ以上話すことも、動くことも、そして泣くことも……)

みなみは起き上がって机の椅子に座った。
相変わらずそこには一本の茎を生やした鉢植えがあった。
みなみは指先で土に触ってその具合を確かめた。

(うん、やはりまだ十分な水分がある……)

ふと、みなみは残酷な行動を思いついた。

(もし、この花の水やりをやめて、すっかり枯らしてしまったらどうだろう?)

たちまち自分の思惑に驚愕した。

(馬鹿な!そんなことができるものか。この花は私の救い──そう、救うものだ、なぜ私はそれを壊滅しようなどと考えたんだ。……いや、まさか?)

みなみは肘をつき、左手を軽く握り口に当てて考えた。

(まさか……そうなのか?私は…………もうこの花に愛情はないのか?愛情……愛情とは?そもそも私は「愛情」などという感情をこの植物に抱いたか?
 なぜ私はこのローマンカモミールに惹かれた?甘い香りがしたからか?それとも見かけがそれとなく綺麗だったからか?
 ……そうだ、見かけだけじゃないか。私はこの綺麗な花を部屋に置くことで自己満足していたんだ……)

左手に込められる力が強くなった。

(そして……同じようにだ、この花とて私のことを愛していただろうか!無論そんなはずはない。知っている、植物に感情はないことを!「植物人間」などと言うじゃないか……それはどうでもいいことだ。
 つまり救いも何も無かったんだ。確かにこの花は元気に咲いた。それは一見私を元気付けているように見えた……しかしそんなものは私の身勝手な欲求でしかなかった!
 現実私の身の周りの状況は良くならなかった……私はこうも落ち込みがちで、少しも満たされはしなかった。そのくせこの花は……自分ばかり楽しそうに次の春を待ちわびて……
 私はとんでもない勘違いをしていたんだ……カモミール、この花があれば全てが良くなるなんて……もちろん、そんな夢想を100パーセント信じきっていたわけではない。
 しかし心底私は信じていたんだ……愚かにも……)

みなみは自分の息が荒くなっているのに気付いた。
慌てて息を押し殺して、じっと冷静に鉢植えを見据えた。

それから少しの間して、みなみは立ち上がり、その鉢植えを持つと、ゆっくり部屋の扉の方へ歩き、出ていった。
その後数十分ほど、ドアも窓も閉め切られたまま、この部屋は空室だった。





冬休みが過ぎたある晴れた日だ。
極寒の街路を黒白紺様々な色の学生服が彩り始めた朝、岩崎家の扉はまだ開けられていなかった。
その中、リビングルームではほのかが受話器を持って話していた。

「……はい、ええ。……いえ、それがその、うーん。ただ気が進まないって言うばかりで……あるいは体がだるいとも言っていました。
 ……そうですか、んー、そうですねえ……無理に行かせるのはちょっと、と思いまして…………もう一度説得、そうですねえ、はい……」

ほのかは失礼しますと儀礼通りの挨拶を言って電話を切った。
その後すぐみなみの部屋のドアをノックしようと歩み寄ったが、手前2メートルほどでふと立ち止まり、代わりにリビングの中央にある大きなテーブルの一席に座り頬杖をついた。

その頃みなみは窓から顔を出し自宅を囲う庭をしげしげと眺めていた。

(雑草が少し目立つ……最近外に出ていなかったから庭の世話もしていない……)

家の白い壁と土との境目に緑色の雑草がちびちびと群れているところがあった。
そこから少し離れた壁際にやや土の色の濃くなっているところがあった。
みなみは努めてそこに目の焦点を当てないようにしていた。

(できるだけ気にしないことだ……あれはもう終わったことなのだから……もう私には無関係だ。あれはもう私の友でも何でもない、もともと友ではなかったが……)

コンコン、とノックの音が聞こえた。
みなみはドアの方を軽く振り向いて、何も返答せずそれが開かれるのを待った。
間もなくドアが開かれた。

みなみはやや慎重な足取りでベッドへ戻り、その角へ腰を下ろした。
ほのかは囁きかけるように口を開いた。

「お休みのお電話入れといたけど、先生がねえ、できれば来てほしいですが、って頼むのよ。まあ私も、その、あんまり無理言いたくないからね、すぐに連れ出しますとは言わなかったんだけどさ……」

みなみは顔を俯かせ、少し鋭い目つきで床に敷かれたマットの花模様を見つめていた。

「学校、どうしても行きたくない?そもそも、少しだるいっていうのは、どんな感じなのかしら。まあいいけど、とにかく、みなみ自身で決めてね。あとでまた学校に連絡入れないといけないし」

ほのかはそう言うと、前髪の先に隠れてよく見えないみなみの目の表情を気にしつつ、静かに部屋を退出した。
みなみはドアの完全に閉められたのをしっかり確認すると、ゆっくり立ち上がって、部屋を隅から隅へ歩きまわりつつ、考えをめぐらせた。

(……恐らく、母がどう言おうが、私はこの決断を変えまい……答えははっきりしている……たださっきは言いだしづらかった。
 しかし……そもそもどうして私は休もうとしているんだ?体がだるいというのは確かにそれとなくあるが、外出も能わないほどではないし、二十分くらい歩いても全然倒れることはないだろう。
 身体でないなら、やはり心か……心の病なのだろうか?そういえば私はずっと満たされていないんだ……だとするとそれは何によるものだ?やはり……あれか?一学期・二学期とあの教室で経験してきたことの蓄積なのか?)

いやいい、とみなみはこの検証を続けるのをやめた。
机を見た。
一冊のノートが裏向きに閉じてそこに置いてあった。

(何か一つ考えるか……課題がなければこれくらいしかやることはない)

みなみは椅子に腰をかけると、ノートの詩を書きつくされた塊の最後尾の白紙の部分を開き、手元に転がっていたシャープペンシルを手に取った。


みなみの不登校が学級で問題となるのはそう遅くなかった。
三学期が始まって一週間弱経ったころに、連日岩崎家から欠席の連絡が入るので(しかも体の調子が悪いという具体的な病名もない漠然とした理由で)、おかしいと感じ始めた担任教師が、ついにこの懸念を生徒に向かって投げかけたのだ。
教師はみなみが最近授業に出てこないこと、それはおそらく精神的な問題であることを提示した。
さらに、決まりきったことではあるが、この件について何か事情を掴んでいる者がいれば、是非その情報を提供してくれるように頼んだ。
事情を知っていたのは、合唱コンクールの時のソプラノパートの仲間と、いじめっ子本人たちだけだった(それだけ、あまり表沙汰にならないようにいじめっ子も注意していたのである)。
だが、その誰一人として、教師にみなみの苛めの実態を打ち明ける者はいなかった。
それどころか、そんな瑣事には関心がないというように、学級の雰囲気はまるで変わる様子が無かった。





二月のある雨の日、ほのかはみなみの部屋のドアをノックした。
やはり返答がないので、申し訳なく思いながら、静かにドアノブを下ろして押し開けた。
みなみは机に座って何か作業をしているところだった。

「あ、えっとね、玄関に光堂ちゃんがいるのよ。光堂ちゃん、まあわかるわね、学級委員の子が直々にね。ほら、こんなのを届けに来てくれたのよ、わざわざ雨の中よ。
 しかもね、できれば直接会えないか、って。何かお話したいことがあるんでしょうね。ねえどうかしら、会ってみない?」

みなみは驚いた様子で、といっても表向きにはあまり大げさな挙動は見せないのだが、しかし目つきを変え、口元に手を当て非常に迷った。

(……何のために、だろう。いや、もうそれは大方予想がつく。何のためになどという問いは無意味だ。きっと事情を聞きにきたんだ……恐らく先生に頼まれて。
 しかしそれにしては遅い、私が学校に出なくなってもう一か月は経つ、いったいどういうことだろう。……それこそ無意味な詮索か。うん、素直に会って事を済ませるのが手っ取り早い)

うん、行くとみなみはぼそぼそした声で返事をした。


みなみが玄関先に出ると、まだ傘を持ち、少し寒さに震えながら、告げられたとおりの人物が立っていた。

「あ、久しぶり。元気、とはちょっと言えないか。あのね、今日、先生に頼まれてだけど、こうやって岩崎さんにクラスの皆のメッセージを送ってくれって、色紙届けに来たんだよ。
 あ、頼まれごとだけど、私自身もさ、結構気になってたんだよ、岩崎さんがさ。ほら合唱コンクールの練習の時もさ、あの三人が岩崎さんが歌ってるの聞いてなんかひそひそしゃべってたじゃない。
 あれって何か良くないこと言ってんだろうなーって思ってさ」

光堂は実直にそう切り出した。
みなみはその隠し事も何もしている様子がない彼女の顔を見て内心ほっとした。

「ねえそれでね、やっぱり、色々教えてほしいんだけど、あの三人からどういうことされてたの?あ、言いづらいか、こう聞いたら。
 でもね、やっぱり、知りたいから。じゃないと岩崎さんがどう思ってるかとか私もわかんないし。それを聞くために来たって感じだから」

光堂はそこまで言うと手に息を吹きかけ温めつつ、みなみの顔をまっすぐに見、その口が開くのを待った。
みなみはしかしまだ腹を決められずに沈黙を保っていた。

(どうするんだ、言うべきなのかそうでないのか。いや、言うべきだ、言ってすべてすっきりさせてしまえばいい、その方が楽になる。
 それにもかかわらず……なぜ私は黙っている、何が口に糸を縫い付けている?わからない……いや、違う!本当はわかっているんだ……だがそれを認められないだけなんだ……それは自尊心だ。
 私はきっと自尊心の強い人間だ、だから恥をさらすことを恐れているんだ……それによって自分が弱くつまらない者だと思われるのを。
 しかし彼女──目の前の学級委員ははたしてそう思うだろうか?恥を告白することで私を程度の低い人間だと見做すだろうか?そうとは思いたくない……
 そうだ、きっと認められるさ。当たって砕けろだ、やってみることだ……)

みなみはいつの間にか自分が呼吸を荒げているのに気付いた、慌てて平静であるように息を収めた。
光堂は目に多少の不安な色を浮かべた。
みなみはついに口を開こうとした、その時鉛色の空全体が刹那真っ白に光り、たちまち大きな雷鳴が地を打つように響いた。
二人はぎょっとして目を見開いた、みなみは動悸がし始めた。
一種の錯乱状態の中みなみは唐突に別の案件が気がかりになった。

(雷……大丈夫だろうか?庭の草木は、あの大木は?いやあれはどうでもいい……土だ、土のなかに埋めたあれだ、あれは大丈夫か?死にはしないだろうか?)

みなみはさらに落ち着いていられなくなり、目を真横に向けああ、ああとか細く息を漏らした。
光堂はそんなクラスメートを見ていられなくなったのか、こう切り出した。

「ああ、ごめん、って雷は私のせいじゃないけど。でもなんかもう私帰った方がいいみたい、何ていうか、うーん。んじゃ、ごめんね、じゃあね」

光堂はぎこちない笑顔で素早くみなみに手を振り、後ずさりながら身体の方向を転換させそのまま街路に出て行った。
みなみは慌てて呼び止めようとしたが、声が出なかった。


幾分がっかりした様子で、みなみは自室に戻った。
机に件の届け物があった。
立ったままその大きな白い封筒をじっと眺めつつ、みなみは思案に暮れた。

(帰られた……いやいいんだ、結果私の自尊心は保たれた。それに収穫としてこの色紙のプレゼントもある……しかし私はこれを見ないかもしれない、なぜだろう、何となく見る気分にならないからか?
 まあいい、理由なんて後で分かる、それより彼女は帰る時やけに急いだ、あれが気になる……私が何か挙動不審な仕草を始めたからか?あれは確かに思い返すと不審だったが……
 彼女は寛容だからそれに目をつむれたのでは?)

みなみは無意識に首を横に振った。

(何を考えているんだ、彼女だって人間だ、良くない感情もあるはずだ、私を醜いと思っても無理はない……勝手に他人の性格を解釈し設定してはいけない。
 それならばなぜ私はあんな精神のおかしいような振る舞いをしたのか……あの時は突然土に埋めたものが気になった……あれだ、冬の最初まで部屋を分かち合っていたあの植物だ。
 そんなとうの昔に棄てたものがなぜ今更私の心を震わせるんだ!心配になるなどあってはいけない、あれはもう私の友でも恋人でも何でもない、赤の他人だ!どうなってしまってもいいんだ……
 …………仮に、仮にだ。私があの花をまだ心底惜しんでいるとしよう。つまりそれが私にとって本当は必要なものだったとするんだ。
 するとあの時すっかり土に全てを預けあらゆる世話を放棄したことは、一時の気の迷いだったことになる……あの時私はどうかしていて、気が乱れていて、必要と不要の判断すら正しく下せなくなっていた!
 しかし、そうなのか?本当に気が乱れていたのか?あの時私はもっと冷静だった気がする……いや待った、私は自分自身の経験でだ、怒りの中に冷静さを見出してきたことがあったじゃないか……
 すっかり頭に血が昇って考えることの全てが偏っているのに、自分はいかにもまともで冷静であると思い込んでいるようなことが!
 ……では、私はミスを犯したのか?それも二度と取り返しのつかないような……)

みなみは今にも失神しそうによろめいていた。
そして今の推論が仮定であることも忘れ、目をむき息を荒げて失敗を嘆き始めた。

(軽率だった……私は私自身をもっとよく観察するべきだった!往々にしてあるんだ!自分が迷いの森にいるとも分からずそこを棲み家だと思っているようなことが!
 今となっては……もう枯れてしまったに違いない。すっかり雨風が吹いて、雪の重しを載せられて、雷に打たれて……何より世話を怠ったことで。
 そういえば、何という花だったか……先の黄色い、丸みを帯びてふんわりた白い花弁が周りに付いていて……思い出した、カモミールだ!
 正確にはローマンカモミール、多年草で、一度種を植えたらその先数年は花を咲かせることができるんだ!あの時の花屋の店員さんに聞いたことだ……
 あれをもっと丹念に育てていれば私も今よりどれほどましになっただろうか、満たされただろうか!
 私はあれの世話を、平静ならいともたやすく見抜ける程度の錯覚に踊らされて、完全に放棄することで、あのカモミールの一生を奪ってしまったんだ……)

みなみは激しい罪悪感と自己嫌悪に打ちひしがれそうになった。
そして布団にもぐり込み、出血しそうなほど頭を掻き毟った。





そのまま春になり、学校では終業式が執り行われた翌日、岩崎家に突然の訪問があった(突然といっても事前連絡はあったが)。
訪ねて来たのは担任の教師で、彼はみなみと二者での対面を望んだ。
ほのかは不思議がったが、彼をリビングルームへ案内し、紅茶を一杯差し出すと、みなみを部屋から呼び出した。
朝の十時だったが、みなみはまだ寝ていたので、寝間着姿のまま対応せざるを得なくなった。

リビングに出ると、教師はまず当たり障りない挨拶を交わしてきた。
みなみはそれに小声で返事をして教師の向いの席に座ろうとしたが、教師の呼びかけによって、その隣の席へ座ることになった。
教師は業務用のスーツケースから色々な書類を取り出し、みなみに話しかけた。

「ええと、まず通知表だな。まあ、仕方がないけど、三学期の点数は残念ながらない。一応二学期まで完全に出席してたから、留年ってことはないけど。
 とりあえずな、三年に上がった時にこれだと授業についていけないかもしれないから、この春休みに、そうだな、家庭教師を雇うなりしてカバーしてくれるかな」

みなみは必要上の用件から入られたことで、ひとまず安心した。
家庭教師には自分より一つ学年が上で、隣に住んでいて、幼いころから懇ろの仲である高良みゆきを頼ろうと考えた。
しかし自分は本当に進級して学校へ通うことになるだろうかという不安もあった。

「岩崎は、まあ勉強はよくできるからな、一か月もあれば十分だと思う。数学は、二年の教科書の内容は終わったからな、確率までやった。
 図形の合同のあたりが少し難しいか……あ、その頃はまだ来てたな。すると円周角のあたりからか?まあ対して難しくはない、大丈夫だろう。
 それからな、二月の終わりに学年末テストがあったが、その問題と解答用紙もこれ、渡しておこう。自習に役立ててもらえればいい。
 そういえば、岩崎はこの数か月はどんなふうに過ごしてたんだ?あ、別に大げさなことを言う必要はなくて、なんだ、ずっと家にいて何もしなかったでもいい。正直に」

みなみはぎくっとしかけたが、正直のところを告白してもよいという申し出により、多少気が和らいだ。

「はい、その……おっしゃる通りで、何もしていません……部屋から出ることすら、食事と入浴の時以外ありませんでした」

みなみはこうぼそついた声で返した。
ふと一月前の雨の日の訪問を思い出した。

(あのときは何も言えなかったが……今はずいぶん正直に打ち明けられている)

「なるほどなあ……」

教師は同調するように何度か頷くと、指で上唇を弾いて、みなみの少し脇に視線を逸らしつつ、口を開いた。
みなみが授業中何度か観察できた、教師が何か真剣なことを言うときの癖であった。

「あのな、俺なあ、一月の時にクラスの皆に言ったんだけどな、岩崎が全然学校に来なくなったから、何か知ってる人はいないかってな。
 ちょっと時期が早すぎた気もするけどな、不登校だと知るには。まあ結局不登校だったが……それで、そう言っておいたんだが、なかなか誰も何も言いに来なくてな。
 俺も正直岩崎にそれほど注目してはいなかったし、正直な、だから何もわからなくて、けっこう頭を悩ませられてんだよ。
 それが昨日の終業式のときになって、突然高橋がな、打ち明けてくれたんだよ。合唱コンクールの練習の時に露骨に悪口を言われてたことをな。
 それでさらに聞いてみると、それ以外には特に思い当たることはない、ってな、けど一つ引っ掛かることがあると。それは二学期の英語の授業のときにお前の机で携帯が鳴ったあの件だな。
 俺も最初あのことを聞いておかしいと思った。岩崎はお前さ、携帯電話とかは持ってこないよな。あ、そもそも持ってないのか。なら尚更だな。
 高橋からな、岩崎のことを特に悪く言ってたのが誰か聞きだしたんだよ。まあ、隠すこともないから言うが、桜川、中戸、大栗の三人だな、間違いないな。
 その三人の家に連絡してな、携帯電話のことについて聞いたんだ、すると大栗の親御さんがな、確かに秋の中頃携帯電話を買い替えさせたと言うんだ。
 それで昔持っていた携帯電話の特徴を聞いてみると、確か折りたたみ式で、ピンク色で、丸っこかったと言うんだな。するとそれがまさにあの時没収された携帯電話の特徴に一致してたんだよ。間違いはなかった。
 卑劣なことをするんだな、全く。お前をルール違反の悪者に仕立て上げようとして、濡れ衣なのにな、クラスの全員はみなみを本当にそういう人間だと思ってしまったかもしれない。
 本当に卑劣だ。あの三人は、他にどんな卑劣なことをしたか俺は知りたい。なあ、何か知ってるか」
「手紙を渡されました」

みなみは間髪入れずに答えた。
途端にはっとした。

(なぜ今自分はこうも素直に弱みを告白できたのか?相手があの学級委員ではなく、教師だからか?それとも……いや、わからない。
 むしろそんなことは取るに足りない。そうだ、あの時も思ったじゃないか、素直に打ち明けて楽になってしまえばいいと。今私は少し楽になった気がした、それはいいことだ!)

「手紙、か。多分、いやまず間違いなく悪い内容だったんだろうな。そうか、それはどういう風にして岩崎のもとに届けられたんだ?」
「……いつの間にか机の中に入れられていました」
「また机の中か。まったく人目に付かないようにそこばっかり神経質になりやがってな。一度叱りに行かなきゃならんな。そうしても上手くいくとは限らんが……」

教師は再び指で上唇を弾いた。
みなみは少し身構えた。

「いいか、岩崎、お前はもっと良い友達を持たなきゃいけない。お前は、うん、ちょっと気が弱いんだ、少なくとも俺にはそう見える。
 お前はもしかすると自分の弱いところを情けないと思ってるかもしれない。しかしそれを嫌う気持ちを抑えることもできずに苛めに走ってしまうあいつらの方がよっぽど情けないと思うな。
 お前は正当な存在だ、そう思えばいい。恥ずかしいなんて思わないことだ。なあ、誰かお前を理解してくれそうな人物はいないか」
「向いに、幼馴染の人が」
「幼馴染、いいな……あ、思い出した、最初の家庭訪問の時に言っていた高良という子のことだな、いい人だって言ってたな。そしたらもっとその子を頼るんだよ。迷惑だなんて思わなくていい。
 まあ、確かにな、他人に甘えっきりになるのが良くないと思う気持ちはわかるけどな。いっさいの事情を説明すればいいんだよ。わかってくれるから。いや、その高良という子なら、言わずともわかってくれるかもしれんな」

確かに、とみなみは思った。

「はい、わかりました……」
「じゃあ、大体こんなもんだな、話したかったことは。どうだ、岩崎から話したいことはあるか?」
「……特には」
「そしたら、お茶も一杯頂いたしな、そろそろ失礼するよ。あ、そうだ、二月に光堂が来たよな、あれ見たか?思ってたより味方は多かったみたいだぞ」

教師は席を立ち、飾らぬ最上の笑顔を見せてみなみに手を振り別れた。
みなみは何かこの機会が惜しまれる気がしたが、他のことがとても気になっていたので呼び止めなかった。


部屋に戻り、机の一番下の引出しを開けた。
大きな白い封筒があった。
みなみはその中に手を入れ、中に分厚い紙質の物があることを確かめると、慎重にそれを引き出した。

正方形の厚紙に金箔の縁取り、そして中央に手書きの黒ペンで引かれた歪みがちな円。
≪岩崎さんへ≫
桃色の蛍光ペンで活気良く丸みを帯びた字が、その中に書かれていた。
その周囲には縦書きの文が31、綺麗に揃ったものからややラインの崩れたもの、油性ペンのものからボールペンのもの、黒いものから明るく光るものまで様々なものがあり、全ての末尾に名前が書き加えられていた。

みなみは真っ先に三つの名前を探した。
それらはみな揃っているかと思ったが分散していた。
≪がんばれ 桜川≫
≪また来てね 中戸≫
≪早くよくなって 大栗≫
今度は光堂と教師の名前を探した。
≪悩みやすいもんね。何が起きてるのか知りたい。会いに行くから全部隠さずに話してほしいな 光堂≫。
≪岩崎が来なくなって席がいつも空いてるのが寂しい。岩崎は行きたくないかもしれないが、事情を話しには来てほしいな。今授業では円周角のことをやってる。 鈴山(担任)≫
他のクラスメートの文を見た。
≪大丈夫。岩崎さんいい人だもん 行成≫
≪クラスの最高点が落ちたよ、岩崎さんいなくなってから。あの90点台の快進撃がまた見たーいっ 金子≫
≪私も小学校の頃不登校だったことあった。まさに今の岩崎さんみたいに。でもいつか治るから、がんばって 高橋≫
≪岩崎さんかわええやん。また来てよなー 江原≫
≪岩崎さんの絵めっちゃ好きだから、来てほしい 美術んときだけでも!(笑) 桑野≫

徐々に、徐々に気が高ぶってきくるのを感じた。
すると何かが色紙の白い紙面に落ちた。
それは水性ペンの字を滲ませ、白を灰色に変えた。
同じ物が、もう一つ、今度は字のない色紙の角の近くを濡らした。
慌ててみなみは左の人差し指を左目の下辺に当てた、すると指の腹に温かい感触がした。

(……そういえばずっとこんなものを流したことはなかった……やっとわかった……私が常々心の病だと言っていたものが。あるいは闇だと言っていたものが……涙一つで変わるんだ。
 ずっと、満たされないと思っていた、ところが逆だったんだ……私はむしろ満たされすぎていたんだ……神経質な物事に。
 心はジョウロのようだ……様々な精神を圧迫するものが水として蓄えられていくんだ、忌まわしいものは貯まるばかりだった……
 そして上限まで貯められるとすっかり壊れてしまうんだ。だから私は学校へ行くのをやめてしまった……ああ、この不快な水をどんなに排出したがっていたことか、私のジョウロは!
 そして今ようやくそれが流れている……とても楽な気分だ……なんともすっかり全てが変わってしまうものだ!)

みなみは今の感動をどうしても忘れ去ってしまいたくなかった。
机の上のノートを広げ、また新たに一篇の詩を残した。





庭の桜が今が一番だと言わんばかりに咲かせた薄い桃色の花が風に散っている四月の朝、みなみは久しぶりに学生服に着替えていた。

(クラス割を見た、あいつらは皆別のクラスに離れていた……代わりに光堂さんや高橋さんが一緒だった。知らない人もたくさんいる……)

心なしか脈が速くなっている気がしたので、それを押し殺すように息をひそめ、部屋を見渡すと、開いている窓が視線を捉えた。
みなみはそれに近寄り、下の地面を眺めると、少し安堵したように微笑み、それから窓を閉め、鞄を持って出た。

「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」

みなみの挨拶にほのかはいつになく大きく声を張って返し、また大きく手を振った。
みなみは悠然とした歩調で、二十分ほどの道のりを、春風とほどよい陽光を浴びながら、歩いて行った。


窓枠の下には、雑草は少し残らず取り除かれ、代わりに依然少し土の色の濃くなった所に、先が黄色く丸く白い花びらをつけた小さな花が、ひっそりと咲いていた。
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