かがみがパソコンに向かって仕事をしていると、電話がかかってきた。
事務員が電話をとる。少しばかりの受け答えがあってから、
「所長。お電話です。お父様からですよ」
かがみは、転送されてきた電話をとった。
「はい。かがみです。お父さん、何かあったの?」
「ちょっと相談したいことがあるんだけど、そっちに行ってもいいかな?」
「何?」
「まつりのことでな……。詳しいことはそっちで話すから」
「分かったわ。時間空けとくから」
そして、数時間後、ただおとみきとまつりが事務所にやってきた。
かがみは、個室に案内した。
三人は、かがみとテーブルに向かい合って座ったっきり、しばし沈黙していたが、みきが話を切り出した。
まつりが離婚することになったという話だった。
原因は、夫の方の浮気で、身内の話という点を差し引いても相手方に非がありそうな話ではあった。
まあ、日本では離婚なんて離婚届ひとつ出せば成立するようなものではあるが、今回の場合は、ただひとつの点で対立しているために協議離婚が成立せずにこじれているということだった。
「相手のご実家が面子を重んじる家庭でしてね。子供の親権だけは絶対に譲ろうとしないのよ」
みきが事実を述べた。
「あんな男にうちの娘は渡せないわ」
まつりが憤懣やるかたないといった口調でそう言った。
肝心の娘はというと、とりあえず柊家で預かっているということだった。今ごろはいのりの娘と一緒に遊んでるだろう。
「まつりになついてるし、いのりやつかさの娘たちとも仲がいいから、引き離すのも不憫でね」
ただおが、穏やかにそう述べ、さらに続ける。
「こちらとしては話し合いで何とかしたかったんだけど、相手方が弁護士をつけてきてね」
「で、対抗上、こちらも弁護士をつけたいって話ね?」
「かがみ、お願い」
まつりがテーブルにこすりつけんばかりに頭を下げた。普段のおちゃらけた姉からは想像もつかない姿だった。
母親というのはそういうものなのだろう。
「仕事としてなら引き受けるわよ。必要経費と報酬、きちんと払える?」
かがみはそう問う。
冷たい言い方になるが、弁護士業はボランティアではない。
「それは私が払うよ」
「ごめん、お父さん」
「かわいい孫のためだ。これぐらいはどうってことはないよ」
「依頼は成立ね。話を聞く限りでは、相手方は話し合いに応じる気はなさそうだから、さっさと離婚調停を申し立てる方が手っ取り早いと思うわ」
「いきなり裁判とかにはならないのね?」
母のその疑問に、かがみは簡潔に答えた。
「離婚裁判は、原則として調停不調の場合にしか起こせない決まりになってるから。姉さん」
かがみの呼びかけに、まつりが顔をあげた。
「調停の場は非公開だけど、裁判になったら公開の場で相手と罵りあいをすることになるわよ。その覚悟はあるの?」
「娘のためならなんだってやるわよ」
「それともう一つ。養育費をすべて自分で出せる? いいたくはないけど、何をするにも先立つものは金よ。これを相手方に頼るようだと、付け入る隙を与えることになるわ」
「うっ、それは……」
言葉に詰まるまつりを、ただおがフォローした。
「それもうちが出すよ。娘四人を大学や専門学校に行かせることができただけの収入はまだあるんだ。いのりの娘だけじゃなく、まつりの娘の面倒も見れるよ」
「本当にごめん、お父さん」
「相手方の弁護士の名前は分かるかしら?」
ただおが、名刺を取り出して手渡した。
連絡先もきちんと書かれている。
「姉さん。財産分与と慰謝料については、私に一任してくれる?」
「うん。かがみに任せる」
かがみは、個室を出て自分の机に戻ると、電話をとって相方の番号をプッシュした。
「こちら、柊かがみ法律事務所の柊と申します。○○弁護士はいらっしゃいますか?」
相手方が出ると、かがみは淡々と話を進めていった。
「……ええ、私がまつりさんの弁護につくことになりました。よろしくお願いいたします。……はい、こちらとしましては、離婚調停を申し立てるつもりですが、争点は子供の親権だけのようですので、調停手続に入る前に、財産分与と慰謝料についてはあらかた合意しておいた方が、調停もスムーズに進むかと思いまして。……ええ、では、日時の調整がつきましたら、ご連絡ください」
電話を切る。
そして、パソコンのメモソフトで箇条書きで打ち込んで、プリントアウトした紙をもって個室に戻ってきた。
紙をまつりに手渡す。
「財産の状況を確認したいから、そこに書いてあるのコピーでもいいから全部用意して」
「うん」
「あとは姉さんだけ残って。お父さんとお母さんは帰っていいわよ」
「どうしてかしら?」
みきの疑問には、こう答えた。
「姉さんから詳しい話を聞かなきゃならないから」
「確かに私たちに何度も聞かせるような話ではないわね。分かったわ」
みきとただおが、ぐれぐれもよろしくと言い残して、事務所をあとにした。
「さぁ、姉さん。旦那さんの浮気について詳しく聞かせてもらうわよ。それをもとに慰謝料を算定するから」
それは傷に塩を塗ったうえにナイフでえぐり返すような所業だったが、弁護士としてその作業を避けるわけにはいかない。
「あれは、一年前のことよ……」
まつりは、ぽつりぽつりと語り始めた。
そして、すべてが語り終えたあと、かがみはただひとつだけ問うた。
「姉さん。旦那さんのこと、まだ愛してる?」
「……」
まつりは、力なくうなずくと、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「この部屋は一応防音仕様だから、好きなだけ泣いていいわよ。今日はこれで終わりだから、気が済んだら、帰っていいから」
かがみは、そういい残すと個室を出て扉をしっかりと閉めた。
中でまつりが号泣してようとも、聞こえることはない。
まつりは、それから30分後に個室から出てきた。
かがみに、ありがとうと言い残して、事務所をあとにした。
それから、弁護士同士の交渉で財産分与と慰謝料について案が作成され、双方の当事者に提示されて承諾を得る。
それは合意書の形で文章化され、双方の記名押印がなされた。
そして、かがみがまつりの代理人として、離婚調停の申立てを家庭裁判所に行なった。申立書には合意書を添付しておいた。
調停の期日が決定され、双方が呼び出される。
離婚調停は、家庭裁判所裁判官1名と調停委員2名が主催するが、裁判官も忙しいので基本的に調停委員2名が中心になる。
裁判所によってもやり方が異なるが、ほとんどの場合は、当事者同士が直接対面することはない。両当事者が単独あるいは弁護士などと一緒に交互に個室に呼び出されて、調停委員が事情や要求などを聞き出す形になる。
まず、双方ともに、さきの合意書の内容に本当に同意しているのかの確認が行なわれた。
そして、争点である子供の親権の話へと移っていく。
調停手続が一日で終わることはほとんどなく、この場合も日にちをおいて3回呼び出しがあった。
2回目ともなると、調停委員の方から、どの程度なら妥協できるのかを探るような質問が頻繁に投げかけられる。
そして、3回目の呼び出し。そこで、裁判官も同席のうえで、調停案の提示があった。
内容は、まつり側の要求をほぼ受け入れたようなものだった。離婚原因で相手に非があること、娘がまつりになついてることや柊家側の親戚とかかわりあいが深いこと、そして、何といっても養育費を柊家側で全部もつという切り札が効いたようだ。
細かい点では相手側の要望も取り入れられていたが、まつり側としてはのめないことはない条件だった。
まつり側は受け入れを表明。
あとは、相手側がどう判断するかだ。調停案をのむか、それとも調停案を蹴って裁判で争うか。
かがみは、相手側ものまざるをえまいと予測していた。相手の家庭は面子を重んじている。裁判になれば、公開の法廷の場ですべてが赤裸々になってしまうわけで、それこそ面子丸つぶれだ。
はたして、予測どおり、相手側も調停案を受け入れた。
親権をめぐる紛争は、ここに終結を見た。
お正月の三が日をすぎたある日、かがみは久々に実家に帰省した。
神社の境内は、正月の喧騒が嘘のように静まりかえり、いつもの光景に戻っている。
「あっ、お姉さん、いらっしゃい」
一足先に娘たちとともに帰省していたつかさが、まず出迎えてくれた。
「「おばさん、こんにちは」」
つかさの双子の娘も挨拶してきた。
「こんにちは」
ちなみに、つかさの旦那さんは、年末年始はいろいろと忙しい仕事なので、ここにはいない。
「あっ、かがみ。帰ってきたんだ。今回も一人だけ? 彼氏でも連れてくればいいのに」
まつりが、ちゃかすようにそういって出迎えた。
「まつり姉さんに言われたくはないわよ」
そこに、まつりの娘が顔を出す。
「あっ、かがみおばさん、こんにちは。今回も彼氏いないんだ?」
「こらっ」
「おお、こわっ」
かがみがにらみつけると、まつりの娘はそういってまつりの背後に隠れた。
「まったく誰に似たんだか」
「私に決まってるじゃん」
そのあと、いのりとその婿さんとその娘、みきにただおも出てきて、かがみを出迎えてくれた。
子供たちが一緒に遊んでいる光景を、縁側から眺める。
「かがみには感謝してるよ。あの子がああしてられるのも、かがみのおかげだしね」
まつりがぽつりとそう言った。
「私は仕事をしただけよ」
かがみはぶっきらぼうにそう答えた。
最終更新:2009年03月10日 01:32