ID:AeTzyT.0氏:Giovane Due

「ゆたか」
 私は、左隣に座る彼女の名を呼んだ。
「なに?」
「たまにはドライブもいい」
「うん」彼女は小さく首肯する。
「みなみちゃんは、風を切るのは好き?」
「好き。バイクにもよく乗るから」
 顔を合わせない。運転中に余所見をするわけにはいかないから。
「私も好きだよ、風を切って走るの」
「……」
 ゆたからしくないと思うのは失礼だろう。彼女は新しい楽しみを見つけたのだ。
 彼女の横顔の向こうには、深い青色の太平洋が見える。天候は雲ひとつない快晴。
「料金所……」私は財布を膝の上に置いた。
「あとでお金返すね」
「いい。言い出したのは私だから」
 オープンカーは料金所で停まる。小銭がほとんどなくなってしまっていることに気付き、仕方なく千円札を崩した。

-- Giovane Due --

 アクセルを優しく踏み込む。クルマは私に僅かな縦Gを感じさせてゆっくりと加速していく。

 ハンドルを握っているのは私ではなく、ゆたかだ。彼女の愛車フィアット・バルケッタ――イタリア語で舟を意味する――が左ハンドルであるために、ナビシートに座る私が料金所での支払いを請け負っている。

 ゆたかと会うのは久しぶりなのだが、まさかクルマを買ったとは思わなかった。私たちにとって遊びに行くと言えば未だに電車が普通だったし、現に私は免許証を身分証としてしか使っていない。原付に乗ることはあるが、クルマに乗って遠出などしたことのないペーパードライバーなのだ。
 彼女の運転に粗さはない。高校生の頃はもちろん、大学に入ってから会った時だって、ゆたかは子供っぽく見えるからと言って髪を結ぶのはやめていたが、免許なんて持っていなかったはずなのだ。なのに今や若葉さえ付いていない。知らないうちに差をつけられてしまったような気分だ。
 でもよく考えれば私たちも20代半ばだ……よく考えたら、免許を取っていたって何らおかしくはないのである。私も就職してからは髪を伸ばした。

「ゆたか」
「どうしたの?」
「今日、びっくりした」
 ゆたかは、さすがにこちらを向くことは出来ない。だからと言って無愛想だったり、会話が途切れたりすることはない。
「ゆたかが、クルマを買うのはちょっと意外だったから」
「自分でもそう思うよ。こなたお姉ちゃんが薦めてくれたから、ちょっと高かったけど思い切って買っちゃった!」
「よかった」
「実は、みなみちゃんに見せたかったから、今日はドライブに誘ったんだ……」
「え?」
 ちょっと図々しいな、って自分でも思うけどね。ゆたかはそう言って、照れるように笑った。
「もうちょっと行った先に喫茶店があるんだけど……一休みしない?」
「うん、休もう」

 ゆたかは駐車場にクルマを停めた。ゆたかの言葉通り、海と自動車道の間にポツンと一軒だけ喫茶店が建っていたのだ。

 私たちはクルマを降りた。私はちらりとクルマの方を振り返る。

 ゆたかの赤いバルケッタ……どことなく、持ち主のゆたか本人の持つイメージとは違うように見える。私がゆたかに勝手な印象を抱いているだけなのだろうか?切れ長な目だったり、シャープな表情はやっぱりゆたかとは違う。
 かと言って、このクルマを勧めた泉先輩のイメージとも違うと思うのは気のせいではない。泉先輩の近況は田村さんから逐一聞いている。

 カランカラン、とゆたかは小さく扉を開いた。決して寂れてはいないようだ。一組のアベックが、向かい合って珈琲を飲んでいる。

「ごめんください……」ゆたかはカウンターに呼びかける。
「はい、いらっしゃいませ」
 店の奥から現れたのは、やや背丈の低い男性だった。人懐っこそうな顔立ちだ。親しみやすい人のように見える。銀縁の眼鏡が、柔和でくりっとした彼の両目に宿した優しさを強調していた。
「そこのカウンター席にしますか?」
「ええ……それで」
 私は思わず答えてしまった。未だに人と目を合わせて話すのが苦手だ。ゆたかと向かい合って座る度胸はやっぱりない。

「カフェ・ラテお願いできますか?」ゆたかはマスターに言う。
「お連れ様は?」
「ダッチ・コーヒーで」
「承知いたしました。しばしお待ちを」
「みなみちゃん、ダッチ・コーヒーって何?」
「水出しのコーヒー……なかなか置いてあるお店はないけれど」
「みなみちゃんは飲んだことあるの?」
「前に一回だけみゆきさんに頂いたことはある」
 でもやっぱり苦かった、と私が告げると、ゆたかは、じゃあ私には無理かもね、と苦笑いした。


「お待たせいたしました」
 マスターが戻ってくる。
「どうぞ、ごゆっくりと」
「いただきます」
 ゆたかは、自分のカップを見た瞬間に目を丸くした。「これは一体……」
「フリープア・ラテ・アートでございます」
 私もゆたかのカップに視線を移す。
 コーヒーの表面に、ミルクでハートマークがあしらってあるのが見えた。
「あまりに可愛らしいお方だったもので」
 マスターは優しげに微笑む。
「お連れ様はこちら、ダッチ・コーヒーでございます」
「ありがとう」
 さすがに装飾はなかったが……。
「なかなか風変わりなオーダーをされますね?」
「ええ……前々から興味があったもので」
「そう言って頂けると、店を構える側としては嬉しい限りでございます」
 私は少しカップに口をつけた。さすがに苦い。しかしそれが楽しみだ。
「普段からダッチはお飲みになるんでしょうか?」
「いえ、以前一度だけ……なかなか頂けるお店がなくて」
「なるほど……豆自体はさほど高級品というわけでもないのですが、やはり置いてらっしゃるお店は少ないでしょう?」
 はい、と私は頷いた。そしてまたひとくちコーヒーを飲んだ。
「お二方、今日はどちらから?」
「……埼玉です」
私は少し悩んで、結局はゆたかの出身地を言った。
「なるほど……わりと山の手になると、ここまでいらっしゃるのには時間がかかったのでは?」
「今、ドライブの途中なんです」今度はゆたかが答える。
「ドライブでございますか……仲がよろしいようで、うらやましい限りです。お友達ですか?」
 はい。大事な親友です。年甲斐もなく、私はきっぱりとそう言った。
「本当に、大事になさってるんですね」
「私は……彼女が大事ですから」

 私たちは店を出た。マスターは少し勘定を安くしてくれた。クルマに乗り直し、再び交通量の少ない道路に飛び出してゆく。
「みなみちゃんは、お仕事は順調?」
「うん。この間、またひとつ新しいブランドを請け負ったから」
 私は大学を出て、海外ブランドの代理店に就職したのだ。
「かっこいいなぁ……私もそういう会社で働いてみたかった」
「でも残業で帰れない日もある……」
 一時は3日間帰れなかった。
「うーん、やっぱり私じゃ倒れちゃうかも。フランス語も話せないし……」
「でもやりがいはあると思う。ゆたかの仕事だってそう……おめでとう」
ゆたかは今小説を書いている。この間も賞を取ったと聴いた。
「私はおじさんに全部教えてもらったみたいなものだもん、他人様よりうまいわけじゃないよ」
「でも大事なこと」私はそう思う。
「そうなのかな」
「自分の書いたものが人に喜んでもらえたり、求められたりするのが……うらやましい」
「うらやましい?私が?」
「うん」
「……ありがとう」
 私はその言葉に答えなかった。いや、答えられなかった。
 風がさっきよりも幾分か涼しい。もうかなり遠くまで来たのだろうか。道の続く先には岬が見えた。いや、岬と言うよりは崖だ。
 ゆたかは何も言わず、そこにクルマを停める。青々と広がる太平洋まで、50mもないところに。
「どうしたの?」
「ちょっと、風に当たろうよ」
「うん。分かった」

「ねえ、みなみちゃん」
「何?」
「私は、もうみなみちゃんの親友に相応しくなれたかな?」
 ゆたかはクルマを降りながら私に問う。ドアの閉まる音が心地良かった。
「相応しくなる?」
「うん。この10年間、ずっと考え続けてきたことなんだ」
 ゆたかはひとり、岬の先端に歩いてゆく。
「私には、みなみちゃんはもったいないんじゃないかって」
 そんなこと、ない。それだけは確信を持って言える。
「高2の頃だったかな。私をつけ回してた男の子を、わざわざみなみちゃんが振り払ってくれたこと、実は知ってるんだ」
 ゆたかは向こう側、海の方を向いたまま話す。
「そんな……」私は言葉を失う。
「わざわざ言わないままにしてくれたんだよね。私が不安にならないように」
「……そう」
「二十歳の頃に、みなみちゃんに言い寄ってきた人をわざと振ったのも、本当は私のためだったんでしょ?」
「あれは、私があの人と釣り合わないと思ったから……」
「みなみちゃん、ちょっとやりすぎだよ。本当のことを知った時はびっくりしたんだ。感謝してもしきれないのは分かってる。義理だけじゃなくて、心の底から感謝してるのは嘘じゃないよ。でも、言わせて」
 助手席に座ったままの私は何ひとつ言い返せない。
「なんで、そんなに私にこだわるの?」
「どうしてって……」言葉が出ない。昔の自分に戻ったようだ。今だって会話は得意じゃないけれど。
「怒ってるわけじゃないよ。ただ私には分からないだけ。どうして、そこまでみなみちゃんは私と一緒にいたいと思ってくれるのか」
「それは……友達だから」
「本当に?」「嘘じゃない!」
 私は思わず怒鳴ってしまった。こんな所で怒鳴ったって、誰ひとり得しないのに。
「怒らないで」「……」
「始めは、親切心でハンカチをくれた。そして再会した。全ては偶然なんかじゃないよ。私たちはいずれ、出会わなきゃいけなかったのかもしれない。私がみなみちゃんと仲良くしているのは、今は友達だからという理由だけじゃないんだ」
「……どうして」
「私が高校生の頃は、秩父の実家に帰らずに幸手にいたのは知ってるよね?」
「うん……泉先輩の」
「そう、お姉ちゃんの家に居候してたから気付けなかったけれど、こないだ実家に帰った時に見つけたんだ」

 その瞬間、ポケットの中にあった私の携帯電話が震えた。
「携帯、見てみてよ」
ゆたかは私を促す。画面を見る。メールには写真がついていた。
「これは……」
「私の、お父さん」
 どことなく、ゆたかよりも成実さんに似ていた。それでもゆたかの父親なのだ。そしてその隣に立っていたのは、今の私よりも若い、私の母親。
「不思議だと思わない?ゆいお姉ちゃんと私が、全く似てないこと。10歳も年齢が離れてること」
「……」
「私は正真正銘、こなたお姉ちゃんの従妹。でもゆいお姉ちゃんは違う。私とは、お母さんが違うから」
「……まさか」
「みなみちゃんのお母さんが結婚したのはいつ頃?」
「私が生まれる……5年前」
「それまでのお母さんのことは知らない?」
「あまり……よく知らない」
「私も、最初に知った時は驚いたよ」
「……言わないで」
「ゆいお姉ちゃんは、私だけのお姉ちゃんじゃないんだよ、みなみちゃん」
「……いや……お願いだから」
結末が分かるが為に、それをゆたかの口から言わせることがつらい。ゆたかにこんなこと、話させたくなかった。
「確かに、私とみなみちゃんの血は繋がってない。でも、私とみなみちゃんは、間違いなく姉妹なんだ」
「……ゆたか」
「このことは、黙ってることも出来たんだ。私が話さなければ、みなみちゃんがこんなことを知るはずもないと思ったから、本来は話す必要もないんだよ」
 もういい。もう充分だ。やめてくれ。
「もちろん戸籍上は私とみなみちゃんは他人同士。姉妹になったりはしない。でも、私はみなみちゃんを試してしまった。ここまで話しても、みなみちゃんは私から離れていかないだろうか」
 私が離れていくはずなんて、ない。
「ここまで話しても、まだ私を友達として見られる?今まで通りにいてくれる?私はそれを試そうとしたんだ。最低だよね、親友を秤にかけようだなんて」
「ゆたか!」
「本当は、一番悪いのは私のお父さんなのかもしれない。みなみちゃんのお母さんに手を出して、子供も産ませて、それでも最後まで籍は入れなかった。私たちは誰を憎むべきなんだろう?お父さん?それともお母さん?」
「やめて!」
私は思わず声を荒げた。
「もういいよ!何があったって私たちは親友じゃなかったの?」
 思い切り叫んだ。何年ぶりだろうか、普段の私からは絶対に想像できないくらいに叫んだ。
「もうやめて……ゆたか、帰ろう」
「うん。帰ろう、みなみちゃん」
 ゆたかはこちらを振り返り、バルケッタに戻ってくる。私は、自分の顔に出来た涙の一筋に気付いた。
「みなみちゃん、帰ろう」
 言葉を繰り返す。誰のために?それは誰へのけじめ?
「うん」
「また、遊びに行こう」
「うん」
「おいしいものも食べよう」
「うん」
「私と一緒に行こう」
「うん。もちろん」
 言わずもがな、私は感傷的になっていた。ゆたかの心境はどんな風なんだろう?でも今のゆたかは、どこか爽やかな、吹っ切れたような表情だった。
 夕日を背にしながら帰る道のりで、私たちが何を話したのか忘れてしまった。何も話さなかったかもしれない。ゆたかが何か私に話しかけても、ひょっとしたら耳に入らなかったのかもしれない。あまりにショックだった。どのくらいショックだった?そう、ゆたかを失うのではないかと思った。

「みなみちゃん、」
 ゆたかが私に呼びかける。
「家、着いたよ」
 ……眠ってしまっていたらしい。重いまぶたを開くと、目の前には愛すべき田園調布の我が家が在った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「また、遊びに行こう。一緒に、おいしいものも食べよう」
ゆたかに言われた言葉を、そっくりそのまま返した。
「じゃあ、また……」
「うん、またね」
 ゆたかは私に向かって微笑み、そして前に向き直って、ゆっくりとその愛車を加速させてゆく。
 今、言わなきゃ。あとで絶対に後悔する。それだけは絶対に嫌だ。
 ゆたか!
 自分の意志と関係なく、私は彼女の名前を呼んでいた。
「私たち、ずっと友達だよね!」
 100mほど向こうか、ゆたかのクルマは、らしくない哮りと光を交互に放ち――アクセルとブレーキを交互に踏んだのだろう――、そのまま十字路を左に曲がって、私の前から姿を消した。

「お母さん……」
「何?」
「たぶん明日、向こうに戻るよ……」
「……切符はあるの?」
「どっちにせよ自由席なんだし、変わらないよ」
「そう。気をつけなさいね」
「うん」
 今はひとりにして。私は母に一言謝ると、そのまま自室へと引っ込んでしまった。
 お母さんが?ゆたかのお父さんと?私とゆたかが姉妹?信じられない。信じたくない。当たり前だ。私たちは親友だけれど、それ以外の何者でもないのだから。それはゆたかだって分かっているはず。ならば何故わざわざ、自分に話した?知らずにいたって良かったのだ。誰も咎めやしない。だから余計に分からない。誰かがやらざるを得ないことならまだ理解できる。なのに、どうして?分からない。分からない。ゆたかが伝えたかったことは何?ゆたかが、私に、伝えたかったことはいったい何?
 悩んでも答えなんて出るわけはないし、ましてや出なかったところで何も変わらない。もし答えが出なくてもゆたかはこれからも――まるで今日のことなんて無かったかのように振る舞い――、私の親友でいてくれるだろう。
 でも、だからこそ知りたい。ゆたかの真意を知りたい。今日の出来事は夢じゃない。

 突然、重低音が聞こえた。携帯電話、か。またメール。忌々しい。誰から?
 ゆたかだ。私は一瞬だけ、メールを読まないまま消去してしまおうかと思った。でもそれは駄目。私は意を決してメールを開いた。

Subject:実は……
From:小早川 ゆたか
Date:Aug.16, 2017
みなみちゃん、さっきはありがとう。
今日の話、実は……嘘でした。
こなたお姉ちゃんの入れ知恵だったんだよ……本当にごめん。
あの写真は本物です。私のお父さんとみなみちゃんのお母さんが、並んで写真に写ってる。
実は……私も最近まで知らなかったんだけど、あの2人は同じサークルの先輩後輩だったんだって!
運悪く(?)こなたお姉ちゃんに見つかっちゃって……私は反対したんだけど、どっちにしても私が嘘ついたんだもんね。本当にごめん。怒らないでね?

一緒に出かけよう!それでは、また。
あ、お仕事も頑張って!私で良かったら相談にも乗るよ。

P.S.
料金所のお金、返し忘れてました。
今度、会った時にでも返すね。

 私は自室を出た。階段を降りてリビングへ戻る。片手には携帯電話。

「お母さん、この写真……」
「これ、私の大学の頃の写真じゃない!みなみ、どこでこんなものを……」
「ゆたかに、貰った」
「この人、やっぱりゆたかちゃんのお父さんだったのね……」
「知ってたの?」
「秩父で小早川さんなんて名字だから、ひょっとして、とは思ってたのよ」
「そう……」
「懐かしいわ……何年ぶりかしら」
「……お母さん」
「何?」
「私、やっぱりまだここに残る」
「そう。切符は大丈夫ね?」
「うん」


 私はコーヒーを淹れて、ひとくち飲んだ。水出しではなかったけれど、今まで飲んだどんなコーヒーよりも、苦かった。
ツールボックス

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