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陵桜学園を出ると、既に夜の帳が空を覆っていた。
正直、ここまで帰りが遅くなるなんて思ってもみなかった。そういえば親にも連絡を入れていない。
ポケットの中の携帯電話を手に取って待ち受けを見ると、思った通り、メールが一件に着信が二件入っていた。どちらも母親から。
心配させてしまったかなと息をつき、それから私は携帯を耳に当てて通話を開始する。
「もしもし。……うん、用事で遅くなっちゃった。これから帰るね」
八月二十八日、夏期講習の最終日。
同時にこの日は約一ヶ月ぶりにクラスメイト全員が集う登校日でもある。
早い話、自習が午後過ぎまで続くようなもので、みんな課題もそこそこに友達とのおしゃべりを楽しんでいるというわけだ。
さらには、まだ夏休み中だというのに委員会まで開かれるのだから困ったもの。ついでにできることはしてしまえという方針なのだろうか。
クラスの委員長を務めているこの私、若瀬いずみも当然参加しなきゃならない。
そのあと黒井先生にも「ついでの用事」で呼ばれ、気が付いたらこの時間だった。
先生からは「遅くなるんは引き止めたウチの責任やし、今日は晩メシおごったるわ」なんてお誘いをもらっていたけど、
そこまでしてもらうのは逆に悪い。そこに親への連絡を忘れていることも思い出し、それを断って今に至るというわけだ。
「夜に下校っていうのも新鮮だし」
――そういえば、今日発売の漫画があるんだったっけ。
本屋に寄りたいのはやまやまだけど……お腹も空いてるし、まっすぐ家に帰ろう。
そんなことを考えながら駅までの道を歩いていると、少し先の街灯の下に何かの影が見えた。
……車も人通りも少ない道だ。私はちょっとだけ警戒しながら、意識しない風を装って歩みを進める。
近づくにつれ、影の正体が判別できるようになってくる。
人だ。電柱に手をついてうずくまっている。ポニーテールで、ジャージ姿の……女の子。
その人がぜいぜいとひどい呼吸を繰り返していることに気付いた瞬間、私はその子のもとへ駆け寄っていた。
「あの、大丈夫ですか!?」
背後から声をかけられて驚いたのだろう、彼女はびくりと肩を震わせる。
「い、や、……平気で――」
「えっ」
「えっ」
聞き覚えのある声。やがて振り向いたその顔は――
「! 委員長!?」
「なっ、田村さん!?」
駅までの道のりを、今度は二人でゆっくりと歩いていく。
昨日から始めたランニングで、考え事をしながら走っていたらやりすぎていた。田村さんはそう話してくれた。
道もわからなくなっていたので徒歩では帰れず、電車を使うことにすると言うので駅まで一緒に行くことになったのだ。
走りすぎるのはともかく、自分のいる場所がどこなのかわからなくなるほど集中することなどあるのだろうか。
そんな疑問をなんとなく口にすると、
「ここんとこ本のネタ出しが詰まり気味でねー。運動しながらやってみたら? って先輩に言われて」
そんな答えを不意に返してくるものだから、私は反射的に周囲を確認してしまった。
「あ、そっか。外でこういう話はやめた方がいいかな?」
「やー……まあ、ね。今は人いないから大丈夫」
そうなのだ。私は自分がオタクであることを、家族以外の人間にはひた隠しにしている。
偶然に偶然が重なって、田村さんにはそれがバレてしまったのだ。
事の発端は夏のコミケ。
目的のサークルも全て回ることができ、何もかもが順風満帆だったはずのあの日。
ノルマの買い物を終え、私はカタログのサークルカットを頼りに会場をブラつき始めた。それが最大のミスだった。
たどり着いたサークルで試しに読んだ本は実に私好みの絵柄・作風だったのだけれど、
机を挟んで座っていた作者がなんと彼女、クラスメイトの田村ひより!
隠れオタを自負する私はこの想定外の事態にただテンパることしかできず、まともな挨拶もしないままその場を離れてしまった。
あ、本はしっかり買ったけど。
「……私は描く側作る側に回ったことはないから何だけど、やっぱり本の一冊にも苦労が凝縮されてるんだね」
「いやー、ホントに毎回難産で。一度でいいからすんなり描き上げてみたいなぁ」
しかし、だ。
「子供なんて産んだことないのに。……ふふ」
「それは物の例えってヤツだよ――って、なんか笑われた!?」
田村さんは思っていたよりも話しやすい人なのかもしれない。
こんな込み入った話ができる友人が、やっぱり少しは欲しい――
「一生懸命なんだなって。もし良かったら、田村さんのこと応援させて?」
「え、え、ええっ!? いい、いや、私より面白い本書ける人は世界にごまんどころか数え切れないほどいるし!」
そう、面と向かってこんなことを言われたら照れてしまうのも当然だと思う。私だって少し、いやかなり顔が熱い。
「コミケで買った本、すごく面白かったから。また今度読ませてね」
「あ、はは。ありがとぅ……」
耳まですっかり紅くなり、ぎこちない笑顔を浮かべる田村さん。
恥ずかしさを押し殺して、私も特上の笑顔を彼女に返した。
「そうだ、私の携帯のアドレス。これからよろしくね」
「こ、こちらこそ……」
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