いかにも梅雨らしい、今日はそんなぐずついた空模様の日だった。予報通りの曇り空からは雨がぽつぽつと控えめに落ちてきている。雨に濡れないように、苦心して歩く人々の視線が空に向くことはない。そんな、どこか物憂げな大気に包まれた街のファミリーレストラン。その一角で、私は怒りに声を荒げていた。「……でも!そんなのってないじゃない!」「ま、まあまあかがみん、落ち着いて。ここ、外、外」時刻はそろそろランチタイムも終わろうかという頃。平日のせいか雨のせいか閑散として、それでも親子連れやカップルでそれなりに賑わう店内、気がつけば私は全員の注目の的となっていた。キッチンの奥からも、エプロン姿の渋い男性が苦い顔を覗かせている。当然、私は意気消沈して、握り締めた拳からは力が抜けていき、続いて耳の熱くなる音が聞こえた。「よろしいよろしいー、羞恥に戸惑うかがみんもかわいいよ」テーブル対面のこなたがニヤニヤと私を見つめる。蛍光灯に照らされた肌はひどく不健康な色をしていた。聞けば、大学も2年目に入って手の抜き方を完璧に覚えたらしく、最近はネトゲ三昧の生活を送っているとのことだ。しかし、試験期間になると他大の私に泣きつくのはどうかと思う。「……気色わるい言い方すんな」お祭りの、そのあとは「―――さて、それでは話を整理しようか………どったの?かがみん」「いや…アンタがそんな物言いをするなんて、って……」「ああこれ?いやー!最近ハマってる探偵物のアニメがあってねー」「…………」「あれ?もしかして呆れてる?」「……いや、アンタのことだからどーせそんなとこだと思ってたわよ」「さっすがかがみん!あたしのことよーーっくわかってるねえ」「もう、いいから続けて」「りょーかーい。さて、それでは話を整理しようか……」「もういいって……」「で、かがみんがそんなに怒ってる理由だけどさ」そう、とにかく私は怒っている。「つかさが一人暮らしを始めることにしたから、じゃなくて」つかさは次の春に専門学校を卒業する。早々と都内で就職先を見つけたつかさは、その近くで一人暮らしをすると言い始めた。まあ、都内と言っても職場から家まで1時間もかからないし、わざわざ引っ越さずに実家から通えばいいとは思った。でも自立するのは悪いことじゃないし、それは怒った理由じゃない。「急な話だったから、でもなくて」つかさは、夏休みに入ったら、つまりあと一ヶ月もしたら一人暮らしを始めると言った。そして、それを聞かされたのが今朝。まあ、今の学校もバイト先も引っ越せば近くなるし、早くから生活の基盤を作っておくのも悪くないと思う。急な話だったけど、つかさは働いて自力でお金も貯めてたみたいだし、無計画なわけじゃないから、それも違う。「ひとえに……なんの相談も無かったから、ってこと?」……そうよ。そんな話、つかさは一言も私には話してくれてなかった。お母さんやお父さんに、いのり姉さんまつり姉さんにだって相談していたのに。そんなのって、あんまりじゃない。「つかさはかがみんに話したら止められる、って分かってたんじゃない?」たしかに、そうかもしれない。。私ならたぶん…ううん、絶対にまず反対したと思う。それでも、つかさが本気で考えてることなら、私だって一緒に考えたい。キツいこと言うかもしれないけど、手助けもしてあげたい。けど……だけど、つかさがそれを拒むんだったら……私……本当は、つかさに嫌われてるんじゃないかって思えて。そう思うと、頭ん中がぐしゃぐしゃになって……「で、つかさとケンカして家を飛び出して、愛する私に頼ってきたんだね」愛する、は余計よ。呟いて少し目線を上げると、いつものようなどこか泰然とした笑顔で、こなたが私を見澄ましていた。不意に、その少し細めた瞳に心臓が衝き動かされ、私は慌ててコーヒーカップに手を伸ばした。カップの中でスプーンがカラカラと音をたて、一口にも満たない冷めたコーヒーが喉を通り過ぎていく。そうして平静を装った次の瞬間にはもう、こなたの表情はいつもの剣呑なものに戻っていた。雨音が、少しだけ耳に障る。「でも、かがみんは仲直りがしたいんだよね?なら今言ったことをつかさにも話せばいいじゃん」かがみんの気持ちを素直に伝えればいいんだよ、と芝居がかった調子でこなたは言う。たしかに、それを伝えればきっとつかさは私を許してくれるし、つかさが理由を話してくれたらきっと私だって理解できる。姉妹なんだから、ずっと一緒だったんだからそれくらい分かってる。でも、なぜだろう。わからないけれど。「……それは、イヤなの」心底驚いた、というようにこなたは目を見開いた。構わず私は続ける。「なんでだろ、わかんないわよ。頭の中ぐちゃぐちゃで全然わかんない……だけど……だけど、イヤなのよ」私の気持ちが、その素晴らしい解決策を良しとしなかった。胸の中のモヤモヤが疼いて、心がざらついて、私は自分の本音をつかさに伝えることを拒んでいた。隠していたつかさが悪いと思ってる?ひょっとして、自分が姉だからなんて思ってる?それは一体なぜなのか、次々に仮定を浮かべてはそれを否定していく。初めての戸惑いに、私の感情は闇に囚われたように出口を見失っていた。「なるほどねー」そんな苦悩もどこ吹く風といった調子で、こなたは妙に納得したように頷いていた。「……は?」当然、ワケが分からず私の口からは疑問の声が洩れる。「いやーかがみんがなんで怒ってるのかわかっちゃったのだよ。それはもう、ピコーンと」こなたは口を猫のように丸めながら、人差し指を立てた両手を頭の上でぐるぐると回している。その動作にツッコむ気力は、今の私には無い。「聞きたい?ねえ、聞きたい!?」楽しくてしょうがない、そう顔に書いてある。その屈託の無い笑顔は、まあ嫌いじゃないけど。けど、今はムカつく!「……自分で考える」その答に満足したようだったこなたは、すぐに震える携帯を手に席を外した。私はと言えば、まるで見当もつかない答を探してさ迷っていた。今までの会話を探っても、あらためて自分に問いかけても、それらしいものを見つけることはできない。なんでつかさに謝れないのだろう、このモヤモヤは一体なんなのだろう。頭を抱えても抱えても思考の道筋すら見つけられず、ついに、私は震える左手を伸ばした。「すいません……この豆乳仕立てのミルクレープを一つお願いします」ケーキがテーブルに届けられ、私が紅茶を淹れたところでこなたが席に戻ってくる。黙ってテーブルに着くと、フォークを片手にした私をじっと見つめた。「……言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」なんというか。「……それで頭が回るなら、いいと思うよ」見透かされてるなあ、私。「…ちょっと食べる?」「うん、ありがとー」心持ち大きめににケーキを切り分けて差し出す。それを一口でほおばって、こなたは喋り始めた。「…ひょっと……聞ひたいんあけど……」「いや、どっちかにしなさいよ、ほら」紅茶でケーキを飲み下し、再びこなたは喋りだす。「いやごめんごめん……んでさあ、かがみんとつかさってケンカしたことあるの?」私が目をぱちぱちさせていると、少し慌てたようにこなたは続ける。「いやーだって私の知る限り二人のケンカなんて初めてだったからさ。そこんとこ、どーだったのかなーって思って」「ケンカねえ…」何か拾い物もあるかもしれないし、糖分が頭に回るまで時間もかかるし、少しくらい脱線してもいいかな。そんなことを、考えていた。「どうだったかな……あ!そうそう、一度だけあったわね」「おおー!聞かせて聞かせて!ね、ね!」身を乗り出して、目を輝かせてこなたは私につっかかる。その姿を視界に収めながら、私の意識は既に記憶の海へと没入していた。あれはたしか……「えっと……あれは、ちょうど今くらいの季節で、たしか小1だったかしら……私は……」…………あたしは、つかさが嫌いだった。このかわいらしい妹はどこへ行くにも後ろからついてきて、でも一緒にいたらかわいがられるのはつかさばっかり。あたしがお守りしないといけないし、そのせいであたしは好きなことできないし。こないだだって、あたしがかわいいって言われた髪形マネされて、けっきょくつかさがほめられてた。だからね。「おねえちゃーん、おまつり楽しいね!」絶対に、今日は一緒にいてあげないんだから!「…お母さん、あたしちょっと一人で色々見てくるね!」「ま、待ってよお、おねえちゃーーん」お母さんの注意する声からも、追いかけてくるつかさからも逃げて、あたしは走り出す。待って、待ってというつかさの声も遠くなり、あたしはお祭りの騒ぎの中でやっと一人になれた。おこづかいの1000円を握りしめて、どんな楽しいことをしてやろうかと考えると胸がドキドキする。射的とか、わなげとか、かたぬきとか…くじびきじゃちょっともったいないな。わたあめもおいしそう、だけどたぶん後でお母さんが買ってくれる。お祭りの魔法があたしの胸をいっぱいにして、見える景色がぜんぶキラキラかがやいていた。そしてそんな中であたしの心はいつしか、ある屋台に吸い寄せられていた。「おっ!お嬢ちゃん一人?一回三百円だよ!やってくかい?」勇気を出して、期待に心おどらせて、あたしのチャレンジが始まる。初めての金魚すくい。もらった一枚のアミはすぐ破けてしまい、あたしのチャレンジは終わった。「やったあ!取れた!取れたよおかあさん!」となりで、あたしと同じか少し小さいくらいの女の子が大声をあげた。彼女はお母さんに頭をなでられながら、幸せそうに笑っている。あたしはその姿を、自分と重ねていた。「おじさん、もう一回やります!」アミとおわんを両手に抱いて、あたしは注意深く水面を見つめた。さっきの失敗でわかった。やみくもに振り回してたら、アミはすぐに破けてしまう。だから、アミは横にしてなるべく水とぶつからないように、狙いを定めてすぐに金魚をつかまえる!さっと水中にアミを差し込むと狙い通り、あたしは金魚をすくい上げた。「やった―――あ!」小さな水音を残して、金魚はプールへ帰って行った。「惜しかったねえ、お嬢ちゃん!掬ったらすぐお椀に入れないとな!」「おじさん、もっかい!」すぐにあたしは最後の300円を差し出す。「毎度あり!特別だ、お嬢ちゃんに教えてやろう!お椀はもっと水に近づけたら簡単だぜ!」おじさんの言葉にしたがって水面ギリギリまでおわんを近づける。再び狙いを定めて、さっきよりも鋭くアミを水の中へ。一匹の金魚をアミからおわんのなかへ滑り込ませる。アミは破けたが、もう金魚が落ちていくことはない。そしてあたしは勝者のようにおわんを掲げた。あたしはとうとう、金魚をすくったのだ!「おめでとう、お嬢ちゃん!今袋につめてやるからな!」おじさんが金魚をビニール袋に入れている間に、あたしの頭はぐるぐると回っていた。名前はどうしようか。どこで飼おうか。池がいいかな?水槽のほうがいいかな?あ、お母さんもお父さんも許してくれるかな?みんななんて言うかな?ほめてくれるかな?ほめてくれたら…いいな!「はいよお待たせ……おや、またかわいらしいお嬢ちゃんが来たな!」……?「おねえちゃん、やっと見つけたー!」……つかさ。「わあー、金魚、おねえちゃんが取ったのー?すごいね!」「……ま、まあね」「いいなー、わたしもやってみたいなー!」「じゃ、じゃあコツを教えてあげる!」「ホント!?ありがとう、おねえちゃん!」「いい?アミはこう、横にして…おわんは水に近づけるの…」「ははは、毎度あり!お姉ちゃんはすっかり金魚掬いの達人だな!妹ちゃんもがんばれよ!」このときあたしは喜びのあまり、いつも抱いていたつかさへの気持ちをすっかり忘れていた。全てが楽しいことにさえ思えていた。つかさにほめられることも、頼られることも。あたし自身がつかさにお姉ちゃんとして接するのも。屋台のおじさんの軽口さえも。そしてつかさはすぐに3回のチャレンジに失敗して、あたしに泣きついてくる。「おねえちゃん、わたしダメだったよー!」「あはは、しょうがないわねー」あたしが取った一匹がいるから。そう口に出す、その瞬間だった。「ははは、しょうがない!たくさん遊んでくれた、かわいらしい妹ちゃんにサービスだ!」そう言って、おじさんは金魚を2匹ビニール袋に入れてつかさに押しつける。つかさがとまどいながら嬉しそうに、とてもとても嬉しそうにそれを受け取ると、あたしの中で何かが弾けた。仲良くやれよー、とあたしたちを見送るおじさん、手に持った金魚、となりを歩くつかさ、全てが遠くに感じた。あたしには1匹、つかさには2匹。あたしはすくって、つかさはもらって。つまりは、そういうことなのだと思う。―――つかさちゃんお姉ちゃんと同じ髪にしたの?やっぱりかわいいわね――――――つかさちゃんまたかわいくなって、浴衣も似合うのねえ―――かがみちゃんはしっかり者で偉いわ。お姉ちゃんなんだからつかさちゃんを守ってあげないとね。「―――あ!お母さん、お父さん!」気がつけば、あたし達は両親のもとへ帰り着いていた。かけ足でつかさはお父さんに飛びつき、お父さんはつかさの頭をなでる。「見て見てお父さん!かわいいでしょー」お父さんは2匹の金魚とつかさを交互に見て、ほほえんだ。「ああ、かわいい金魚だね。二匹も取るなんてすごいぞ」いつの間にかそばにいたお母さんが、あたしに喋りかける。「かがみも、かわいい金魚ね。つかさのこと見てくれてありがとう」耳鳴りの向こうで、つかさの声が聞こえる。違うよお父さん、お姉ちゃんは取ったけど、わたしは取れなかったから…お父さんがあたしを見てほほえむ。つかさはお日様のように笑う。あたしの手から、ビニール袋がこぼれ落ちていった。水がざあっと流れ出して、石畳に広がっていく。お母さんは、何か喋りながら慌ててしゃがみこんだ。「―――ない……!」金魚が水を求めて必死に跳ね回り、みんなが疑問の顔をあたしに向ける。「―――いらないよ!そんなの!」やがて金魚は力尽きて、その動きを止めた。「なんで!なんでいっつもつかさばっかり!そんなのずるいよ!」お父さんお母さんが何か言っていたが、何も耳に入らなかった。「やだ、もうやだ!お父さんもお母さんも嫌い!嫌い!」あたしはただ、つかさを睨み続けていた。「……つかさなんて、つかさなんて……」その顔は驚き、そして怯えていた。そして次の瞬間のつかさの表情を、たぶん、私は一生忘れられない。「つかさなんて、大っ嫌い!」あたしは走り出した。お祭りの人波から人波をぬって、お父さんお母さんから逃げるように。誰よりも、つかさから逃げるように。つかさは涙をぽろぽろとこぼしながら、あたしを見つめていた。あたしには、それが何よりも恐ろしかった。何か大切なものを壊してしまったような気がして、胸がずきずきと痛んだ。その気持ちの正体を知るのは本当に怖くて、瞳に焼きついたつかさの泣き顔を忘れるために、あたしはただ走り続ける。でも、どれだけ走ってもそれはあたしの心から離れない。そのうちに疲れきってしまったあたしは、川のほとりでフェンスに背中を預けて腰を下ろした。泥まみれの足にスリ傷がたくさんついていて、じわじわと痛む。買ってもらったばっかりの浴衣は、すそが破けてしまっていた。なんだか不意に泣けてきたので、上を向いて鼻をすする。すると、あんまりにも星空が綺麗で、なぜかあたしはつかさのことを思い出していた。そのうちに視界がぼやけてきたので、浴衣の袖で顔を拭う。拭っても拭っても涙は止まらないので、あたしは体育座りになって膝に顔をうずめた。喉から声が漏れ出して、止まらなくなる。我慢できなくなって、あたしは大声をあげて泣きだした。遠く遠くのほうからお祭りの声が聞こえる。夜の静寂とかすかな喧騒に包まれながら、いつまでも、いつまでもあたしはその場所で泣きじゃくっていた。次のページへ
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