「言論」と「社会」と「政治」

「言論」がない、と思う。
しかし、そんなことはない、とも思う。日夜様々な場所で、専門家の間で、メディアで、Twitterで、「言論」による熱い議論が交わされている、と思う。
でもやはり、「言論」がない、とは思う。ないから、311から1年3ヵ月の「状況」が、「こう」なのだと思う。

ひとつは、「言論」の内容なのだと思う。
「目にする言論」が、あまりに「一辺倒」だったり、「各論だけ」だったり、「誹謗」であったり、「自己完結」してたりで、例えば「原発」について、もっと「今の社会」の「象徴」もしくは「包括的な問題」として論じられていいのではないかと思う。

「原発」は「現代日本」の「象徴」だと思う。
そして近代からこっちの「日本のあり方」を表しているのだと思う。だから「原発そのもの」の危険性の問題もさることながら、「原発」を存在させてきた「構造」に目を向けなければ、自分たちの抱える「本質的な問題」を知ることはできない。

また他方、「そのようなこと」は既に「言論」となっていて自分が知らないだけかと思ったりもする。もし、だとするならば、「誰」が「どこ」で「どのように」して論じていて、その「言論」は「どんな人たちに知られている」のだろうかと思う。そして、自分は「何故その事を知らないのだろう」と思う。

また、「すでにある程度は『言論』となっている」として、その「言論」によって、この社会の「何か」に「影響」させることができたのか、と思う。そして、もし「影響」があったのであれば、それは「どのような」影響で、なかったのであれば、その「言論」には何の意味があったのか、と思う。


整理すると、自分はなされるべき「言論」がある筈という「言論の質」についての問いがあり、次にその「言論」が「誰」によってなし得るのかという「言論の主体」、「どこ」でなせるかという「言論の場」への問い、そしてその「効果」の有無という「言論の意味」への問いがあると言える。

別の言い方をすれば、「『言論』が然るべき『質』をもって、然るべき『場』でなされれば、社会に対して何らかの影響を与えうる『意味』があるのではないか」と自分は思っているということになる。そして、「そうでなければ『言論』に『意味』などないのではいか」、と。

そう思い至った時、他の国はいざ知らず、この日本ではこれまで「言論」がそのように「意味」をなしたことがあったのだろうかという疑問が浮かんでくる。そして、なしたことがあるのであれば、それは「いつ」、「どのようにして」なされたのかと。

もし、そのような時が「ある」のならば、それを「鏡」にして、なせるようにすればよいのだし、もし「ない」のであれば「それは何故か」を深く掘り下げて検証をし、「ではどうすればできるのか」を考えなければいけない。何れにせよ、「そもそも『言論』になど『意味がない』」とは、自分にはできない。

しかし、「これまで」を翻ってのそれを本当にやろうと思ったら、(それはそれでやれば力になるし、楽しそうだが)大変な労力がいるし、時間もかかる。その事そのものが自分の本旨ではないので、今現在では大きく端折って考えることとする。

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最終更新:2012年06月05日 23:20