「……おい淡、そこに座れ」

「うぐっ! はい……」

夏が過ぎ、風も冷たさを帯び始める初秋のある日。白糸台高校の麻雀部部室には、ある種の緊張感が漂っていた。
静かな怒気を漂わせる弘世菫、圧されて椅子の上で縮こまる大星淡。
事の被害者を抱き込みなだめる亦野誠子、今日一番の香りを静かに堪能する渋谷堯深。
手にした英書に目を落とし、菓匠三全は萩の月の類似品をそろそろ本気で駆逐すべきではないかと思案を巡らせる宮永照。

緊迫の雰囲気は、偏に菫によって発せられていた。

「私は確かに、インターハイ決勝で競い合った各校の情報が必要と言った。こと記録の少ない清澄に関しては入念にとも言った。だがな……」

事の発端は数週間前、菫が淡に対してこのように話した事である。
とはいえ、これらは凡そ、選抜から漏れたメンバーが自主的に奔走するもので、淡の様なレギュラーメンバーが積極的に携わるものではない。
だが、もうすぐ引退する自分や照とは違い、淡は今後の白糸台を担う未来ある逸材である。今後も凌ぎを削り合う事になる強豪校の情報を直に集め、その強みや打ち筋を観察し、次代の糧として欲しかったのだ。
その為に牌譜の取り方も見方も教えた。参考になるであろ大会の映像を探せるサイトについても話をした。

誠子や堯深には、助力を求められれば最低限の範囲で手を貸すようにと言ってある。出来不出来は別として、何らかの成果物は上がってくるだろう。
そう思って待っていた。しかし結果は、予想の遥か斜め上を行くものだった。

「誰が人攫いをしろと言った!?」

清澄高校麻雀部・男子部員兼マネージャー 須賀京太郎
大星淡が“最高に旬で生きた情報”として汗水流して運んできたトランクの中には、確かに、比喩抜きで“生きた情報”が入っていた。

――――

「と言うか、どこで彼と交友を持っていたんだお前は……?」

淡に連れられてきた(?)男子学生は見覚えがあった。インハイの後、照に会いに来たという清澄の大将・宮永咲に途中まで同行していた一人だ。
聞けば唯一の男子部員で、その宮永咲とは馴染みがあるのだとか。照もあの後からは何度か姉妹の橋渡しを頼んでいるようで……確かに、清澄の情報を得るに過不足無い人物という部分は間違っていないであろう。
だが、彼は長野在住の人間だ。学生の身でそう都合よく東京まで来るとは思えない。

加えて淡と彼の交友が読めない。淡は非常にクセのある人間だ。
彼女を見出した照か、実際に麻雀で対局し強さを感じた人物にしか寄っていかず、興味関心のない人間に対しては、例え上級生や教員であっても冷淡で淡白な対応をする。
男子の大会記録を調べてみても彼の名は出ず、間違いなく麻雀の強さで興味を持たれた訳では無いだろう。

「えーとね、顔はインハイの時にチラッと見てて……後は、テル経由でサキからキョータローのネト麻アカウント聞き出して、ぼっこぼっこにしてから晴れてフレンドに!」

「……で、その繋がりを利用して呼び出したと?」

「東京案内のついでに、色々サービスしちゃうよーって」

「思った以上に酷いな……!」

打たれ強さでも感じ取ったのだろうか……まさか、自分より麻雀が「弱い」方面の人間に価値を見出すとは予想外だった。
そして後輩の行動力自体は賞賛に値するが、その方向性だけは間違えないで欲しい。自分や照も完全に御せている訳ではないが、卒業後の麻雀部で一体誰が彼女を止められるのだろうかと心配になる。
なまじ本質を知らなければ女性として充分に魅力的である淡に釣られた彼に同情……と同時に、確証もない目先の餌に容易く引っかかった節操のなさを小一日説教してやりたい気持ちに駆られたが、今回彼はあくまで被害者である。
一刻も早く開放をと思った彼の方を見て……先程まで居た人間が足りない事に気づいた。
「堯深、須賀君はどうした?」

「誠子ちゃんがもう連れ出して……宮永先輩もその後を追って行きました」

問われた渋谷堯深はありのままを答える。尤も、“宮永先輩は殺意の波動が籠った様な表情でした”とは言わなかった。
思い出すだけでお茶の味もなにも分からなくなりそうだった。

「そうか、話が早くて助か」

「あーっ! 亦野先輩ずっこい! キョータローは私のモノなのにぃ!」

菫が誠子の手早さに感心している隙に、さっきまで縮こまっていた筈の淡は猛然と部室を駆け出していった。
彼女の切り替えの早さは充分に承知していたが、その都度対応出来るかは別問題である。

「まぁ、彼の開放という目的は果たせたのだし、後は誠子に連絡を入れて一任すれば……」

そこまで考え、連絡を取ろうとした菫の手がふと止まる。

(……何故、誠子は彼をずっと押さえていた?)

目隠しにギャグボールを噛まされトランクに押し込まれ、開放一番に暴れそうだった彼を抑えたのが誠子だった。
その後、呆れ返った自分が淡に説教を始めた。そこまではいい。

だが、その後はどうだった?
彼は誠子から状況説明や説得を受けてからなだめられ、一応の落ち着きを見ていた。
その様子を傍目に見ていた事もあり淡への説教に集中していたが、冷静になって考えれば不自然だった。
殆ど初対面同然の男子に、状況説明や説得を終えた後まで接している理由があるだろうか?

「嫌な、予感がする……」
――――

「ホントごめん! 大星って、たまに信じられないくらいアクティブになってさ……」

「いや、まぁ俺の方にも落ち度はあった訳で……何にせよ、ありがとうございます亦野さん」

「別に直接の先輩後輩って訳じゃないんだから、あんまり畏まらなくていいって」

白糸台高校の部室を抜け出し、どうにか街中まで出る事に成功した二人。
畏まらなくていい。そう言って微笑む少女の顔は、およそチームメイトの誰も見たことがないであろう、驚く程に乙女であった。

何の事は無い。インハイ後の清澄一年の訪問……あの時から既に、亦野誠子は須賀京太郎に心奪われていた。
所謂一目惚れ。だが確かなる恋心、一体誰に否定できようか。

(いぃぃやったぁぁぁぁぁ! デート、須賀君とデート! まさか現実になるなんてっ……ありがとな大星!)

心の中で会心のガッツポーズ。後輩の淡への感謝は、自分が大失態を晒してしまったインハイ準決勝をどうにか抜けてくれた、あの時以上のものだった。
降って湧いた好機であっても、逃す理由は欠片もない。偶然針にかかった獲物であろうとも釣り上げてこそのフィッシャーだ。

「取り敢えず大星を撒くのは当然として、せっかく東京まで来て、こんなアクシデントで終わるのも勿体無いよな……よし、どっか遊んでいこう!」

「え、いやいやそんな! 亦野さんの迷惑になるんじゃ……」

「全然迷惑なんかじゃないって! 寧ろ気晴らしに丁度いいから、ほら早く!」

遠慮がちに離れて歩く彼の手を引き歩き出す。先程から鼓動が高鳴りっぱなしになっている。

そもそも、今日の一発目から衝撃の連続だった。
トランクに丸め込まれた彼の姿。抑えてなだめていた時の彼の体温。間近で鼻腔をくすぐる彼の香り。
恋心の再認識どころではない、最早「彼を手にして生涯を共にしよう」という意識しか残っていなかった。

(このまま須賀君に街を案内して、楽しい時間があっという間に過ぎたせいで帰りの電車を逃した須賀君をお泊りに誘って、それから、それから……)

楽しい即席デートプラン(既成事実成立作戦)を考え、これから過ごせるであろう甘い時間に思いを馳せるその幻想は

「やっと見つけた……」

「あれ、宮永先輩? どうしてここ、に……っ!?」

「別に。本やお菓子で押さえ込むのも、そろそろ限度だったし……」

背後から声をかけてきた先輩……右手に特大の嵐を、左手にファンシーなお菓子袋を携えた鬼神と

「こんな所にいたんですねー、亦野先輩……?」

「お、大星!?」

「機会を逃さずフィーッシュ! っていう先輩の打ち筋は好きですけどぉ、場面と獲物をちょっと間違えちゃいましたねぇ……」

前から悠然と歩いてきた後輩……夜空の暗さと明るさを背にした天人の登場によって、粉微塵に打ち砕かれた。

「そうか、彼は無事帰路に着いたか……」

彼を追いかけたという照からの連絡で、須賀京太郎が無事に長野への電車へ乗り込んだという話を聞いた弘世菫は、ようやく安堵の息をつく事ができた。

(淡にはまた別の課題を与えるとして……まさか、あの誠子がな……)

亦野誠子が彼を、須賀京太郎を手篭めにと企んでいたという話を照から聞かされた時は激しく動揺したが、思えばインハイ後の彼女は少し思い詰めている様な表情をしていた気がする。
きっと、色々と爆発しかねない感情もあったのだろう。そう思うと、彼女の暴走も自分の手落ちと言えないでもない。

(卒業までは、チーム全体のメンタルケアにも意識を向けねばならないか……)

引退を前に難題が増え頭を抱えている所へ、気の落ち着く良い香りと仄かな湯気を漂わせる、一杯の紅茶が差し出された。

「お茶、どうぞ……」

「あぁ、すまない堯深。戴くとしよう」

一礼をして離れる後輩の気遣いに暖かな気持ちになり、差し入れられた紅茶を飲む。
慣れ親しんだその風味が、今日一日の騒動で疲れた菫の心を解きほぐしてくれた。

(堯深の落ち着きと平静を、あいつらにも見習って欲しいものだな……)



先輩へ紅茶を入れ、渋谷堯深は椅子に深く腰掛けて思案に耽る。
恋は盲目という言葉が実に良く分かる。今日の誠子や淡はそのいい例だ。

(彼はまだ、実をつけたばかりなのに……)

まだ、誰の手入れも受けていない。四季の風も、陽光も、雨も……彼にはまだ足りていない。
今のままでは、青い果実のまま潰れるか、何の実かも分からないまま食い破られてしまうだろう。

(でも大丈夫、何も心配はいらないんだよ……)

手元のタブレットに指を走らせる。
彼の住所も、電話番号も、ネト麻のプレイングアカウントも。接触するに必要な最低限の情報は、チームメンバーの携帯端末を通じて「収穫」した。
後は、手入れを始めるのみ。
彼は素直な“実”だ。丁寧に手入れをして、守り、与えてあげれば……やがて芳醇の時を迎えるだろう。

(私は、ちゃんと待っていてあげるから……)

そして時が来たのなら、赤く実った果実を収穫して……その熟れた果肉を、滴る果汁を、余す事無く喰み、啜り尽くす。
渋谷堯深の静かな瞳は、ただその時だけに向けられていた。



カンッ