『ふるさと』


 屋上に京ちゃんがやってきたのは、約束の時間から八分過ぎた頃だった。
「もう。遅いよ、京ちゃん」
「悪ぃ。ちっと野暮用でな」
「ふぅん、そ」
 京ちゃんは私のいるフェンスまでやってくると、両手でフェンスを掴んでぐっと空を見
上げた。
「おーう。綺麗なもんだ」
「そうだねぇ、綺麗だよねぇ」
 くすくすと、互いに笑い合った。何てどうでもいいコトで笑えるのだろう、とふと思う。
 箸が転がっても可笑しい年頃、というやつか。
「部活は?」
「うん。ちょっと出てきた」
「そっか。……一年が多くて、大変だな」
「大変だよ、もう。最近は麻雀を打つより、教えてる方が多いかも」
「見所のある奴は?」
「……うん。何人かは、きっと全国でも通用すると思う。今はまだだけど、頑張って綺麗
な花を咲かせられるって、そう思ってる」
「いいことだな」
 ぎしり、とフェンスが鳴った。京ちゃんは、また空を見上げている。
 夕暮れの雲は綺麗で、大きくて。でも見る見る内に夜に溶けて消えていくのだろう。
 遠くから、運動部の掛け声が聞こえてくる。吹奏楽部の曲が、ガラス越しに囁いている。
 見慣れた光景、聞き慣れた音なのに、どこか切ないのは――当たり前なのだろうか。
「……日曜さ」
「うん」
「見ちゃったんだ、京ちゃんと……あの女の子」
「……そうか」
 沈黙。重苦しい。私はごくりと唾を呑んだ。
 京ちゃんは動くのを止めて、待っている。私の言葉に対して、厳粛に、覚悟を決めるよ
うに。


「付き合ってるん……だよね?」

 日曜のことだった。私は麻雀部の後輩と一緒に駅前まで買い物に来ていた。待ち合わせ
の少し前、見かけた京ちゃんを呼び止めようとして凍りついた。
 京ちゃんの隣には、名前も知らない女の子がいた。
 微笑み合い、しっかりと手を握って歩き出していた。
 その瞬間の感覚は、二度と忘れることができないだろう。世界が一気に走り出して、私
を一人置き去りにしていくようなあの感覚は。

 京ちゃんは、微かに頷いて答えた。
「――ああ、付き合ってる」
 その言葉は、重く重く私の胸に響いた。
「……そっ、か」
「それが、聞きたかったのか?」
 そう、それが聞きたかった。
 ……いや、違う。そうじゃない。もっともっと、色んなことを京ちゃんから聞きたかっ
た。でも、頭がぐるぐるで、どうしようもなく世界が揺れていて、分からなくて、何も分
からなくて――。
「……どうして?」
 やっと口に出せたのはそんな訳の分からない質問だった。何がどうしてなのか、そのこ
とを尋ねなければいけないだろうに。
 けれど、京ちゃんは震えて俯く私の頭にぽん、と軽く手を置いた。
「そうだな。一から説明するか」


 そうして、京ちゃんは教えてくれた。
「一年のとき、インターハイが終わってすぐに俺は何となく気付いたんだ。あ、この部は
もう俺が居るべき場所じゃないんだろうなって」
「嘘、そんな――」
 あんなに楽しかったのに。
 あんなに、充実した麻雀を打てたのに。
「違う。お前たちはもう、次を目指してた。準優勝じゃ飽きたらず、次こそは優勝をって
前を向いていた。……俺は他人事なのに、あれでもう充分だって思ったんだ。
 もう、血を吐くような麻雀の打ち方をしなくてもいいんじゃないかってさ。


 それでようやく自覚したんだ。俺は多分、『ほどほど』にしか情熱が無かったんだ。勝
っても負けても時の運。俺は麻雀をその程度でしか認識できていない。お前たちや部長み
たいな、真摯なまでの取り組みがどうしてもできなかった」
 ほんの少し、悔しさを滲ませて。
 京ちゃんはそう言った。
「それで、もう駄目だと思った。部長にはそう伝えたけど、あの状況で一名でも部員が減
るのは致命的だろ。だから、話し合った末にひとまず『雑用』扱いで留まることにした。
 インターハイの後、俺と麻雀打った記憶ないだろ?」
 無かった。京ちゃんが四人目として卓に入ることは決して無かった。
「咲、お前は強くなった。前を向いて、歩くようになった。……俺がいる場所は定位置な
んだ。だけど、俺だって定位置に居たい訳じゃない。麻雀以外にだって、頑張れるものは
いくらでもある。運動だったり、勉強だったり、あるいは――恋だって、そうだろう」
「恋を、したの?」
 そう言うと、京ちゃんは照れたように頭を掻いた。
「……告白してきたのは、向こうだった。正直、名前も知らなかった。たださ、あれはき
っと、彼女にとって『前を向いた』一歩だったんだろう。……俺はその感覚がどういうも
のか、どうしても知りたくなった。……うん、ヒドい奴かもしれない。
 でも、それでも。……彼女の決意を、踏みにじることができなかった」
「そう――」
 ただ、そう呟くだけしかできない。
 私に京ちゃんの感覚が分からないように、京ちゃんも私の感覚が分からないだろう。
「始めは緊張して、失敗したりもした。ぎこちなく笑い合って、どこかでお互いに無理を
して、小さい喧嘩をして、話し合って、仲直りしたりして、ふと――彼女無しじゃいられ
ない自分に気付いた」
 ――そのことごとくを想像できる自分が、厭になる。
 スカートを握って、ただ震えた。
「ああ、うん。俺は間違いなく、彼女に恋をしている。俺も彼女も、部活とか勉強とかで
目指すものは何もなかった。でも……前に進んでいることだけは、分かったような気にな
った。
 春になって新入部員が一挙に押し寄せてきたのをきっかけに、時間が取れそうにない部
活を辞めることにした。
 彼女と付き合うことと、部活を辞めた経緯は以上だ。……これでいいか、咲?」
 自身の名を呼ばれるたびに仄かに温かかったあの感覚は、すっかりと凍りついていた。



 ああ、夕焼けが消えていく。
 情熱が消えていく。
 赤い色が、黒に塗り潰されていく。


「そっか。……幸せなんだ」
「ま、幸せだな」
「……私、幸せじゃないかも」
「どうして?」
 問われて、分からなくなる。
 どうしてだろう。どうしてこんなに、幸せじゃないのだろう。
 答えなんて決まっているのに、どうしても口から出てこない。


 長い、長い沈黙があった。
 ぎしり、とフェンスが鳴った。京ちゃんの両手がフェンスから離れていた。
「……俺、もう帰るよ」
 私から背を向けて、京ちゃんは屋上扉へと向かっていく。
 帰る。
 帰る。
 京ちゃんが、クラスメイトでもない、部活の仲間でもない、ただの――元同級生という
だけでしかない京ちゃんが、帰ってしまう。
 厭だ。
 それは、厭だ。
 それだけは、それだけは、厭だ……!
「――ッ!!」
 気付けば、学ランの端をしっかりと摘んでいた。
「……咲?」
「………………………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………すき、です」
 私はそっと、叶うはずのない夢を言葉に載せた。


「咲……」
「好きです、京ちゃん」
 彼は哀しげに首を横に振った。
「それは――」
「本気だよ、好きなの京ちゃん! 好きなの! 私、私、本当に京ちゃんのコト好きなの!
 厭だよこんなの! こんな別れ方厭だッ!! 京ちゃんと一緒にいれないなんて絶対いや!
 お願い、お願い京ちゃん。行かないで、行かないで行かないで行かないで……!」
 涙がはらはらと零れ落ちていく。
 哀しかった。麻雀で敗北するのとは、別次元の哀しみだった。
 それは拒絶される悲しさであり、誰かの心に――好きな人の心に、自分がいないという
ことへの嗚咽だった。
「いか、ないで…………」
「――それは、できない」
 中学の頃から、ずっと好きだった。
 麻雀部に誘ってくれなければ、大好きな友達と出会うこともできなかった。
 京ちゃんには返したくても返せない恩だけが山盛りだ。
 ……いつか、返せると思っていた。
 ……いつか、心が通い合う日々が来ると思っていた。
 あなたが傍にいてくれれば、ただそれだけで良かった。
「――それは嘘だ、咲」
「……うそじゃ、ない」
「……お前は、麻雀という前に進むべき切符を手に入れた。
 俺みたいな過去の幽霊に囚われるべきじゃない」
「麻雀、なんて――」
 要らないと思った。そう言えば、京ちゃんが戻ってきてくれるなら言えると思った。
 なのに、喉まで出かかった言葉が口に出せなかった。
「咲。――責任を果たせ。お前たちは準優勝したんだから。
 お前が負かしたみんなの為に、麻雀を捨てるな」


 もう一度、長い沈黙。
 けれど、今度は京ちゃんはじっと待っていてくれた。




 もしかすると、彼女との約束があるかもしれないのに。携帯を手に取ろうとすらしなか
った。
「……京ちゃん、一つだけお願い聞いて」
「何だ?」
「キスして。……一度だけ、一秒だけでいいから」
「なっ……」
「――それで、思い出にするから。お願いします」
 京ちゃんの制服から手を放し、瞼を閉じた。
 心臓が早鐘を打つ。頬は真っ赤に火照っていて、胃がきゅぅと締め付けられた。
 感触はない。このまま置き去りにされても文句は言えないな、とふと思った。
「……もうちょっと、上を向いてくれ」
 言われた通りにした瞬間、微かに唇に何かが触れた。
「あ――」
 瞼を開けば、そこには赤い顔をした京ちゃんが一人。
「……誰にも言うなよ」
 そっぽを向いて、京ちゃんはぽつりと呟いた。
 心が、ただただ温かかった。
「……うん。誰にも言わない」
 京ちゃんはゆっくり、一歩一歩離れていく。今度は追いかけるようなことはしないし、
したくないと思った。
 でも、最後に一つだけ。
「ねー、京ちゃーん!」
「何だよ?」
 律儀に振り向く京ちゃんに、私は満面の笑顔を浮かべて言った。
「もし。……麻雀をやってなかったらさ、私たち付き合ってたかな!?」
 京ちゃんは考えることもなく、強く頷いた。
「付き合ってたと思う」
「そっか。……うん、しょうがないね!」
「しょうがないか」
「しょうがないんだよ! じゃあね、京ちゃん。
 彼女さんに、よろしくね!」
 おう、と笑って――京ちゃんは、屋上扉を閉めた。


 ふぅ、と一息ついて。
 私はへなへなと屋上に座って星空を見上げた。
 ああ、綺麗なものだ――。


「ふられちゃった」
 言葉にすると、実感が湧く。私は振られたんだ。
 中学生の頃から大好きだった、あの人に。
 一つだけ救いがあるとすれば。私の好きな人は、どこまでも誠実だった。
 ただの元クラスメイトに、ちゃんと理由を説明してくれた。
 ずっと泣いていれば、ずっと傍にいてくれたに違いない。


 だからこそ。その誠実な人が自分をねじ曲げてまで、私にキスをしてくれたのが嬉しか
った。そして、そうさせたコトが哀しかった。


「うぅぁぁ……ひっく……ひぅ……うぅぅぅぅ……うぁぁぁっぁぁぁぁっ……!!
 うわあああああああああああああああああああああああああああああああん!」
 空に向かってただ泣き叫ぶ。
 誰かに聞こえただろうか。聞こえたとしてもかまやしない。
 これは負け犬の遠吠えで、赤ん坊の泣き声なのだから。

 こうして。
 私と京ちゃんは別の道を歩き始めた。
 もしかすると、大人になって案外あっさりと交わるのかもしれないけれど。高校生としての私と京ちゃんの物語はこれで終わった。
 私は麻雀の道を進み、京ちゃんとはどんどん離れていく。
 名残惜しくはないけれど、それでも少しばかり気が滅入ったとき。
 私は机の中から一枚の写真を取り出す。私が一年で麻雀部に入ったばかりの頃。
 皆で記念撮影をしたときに撮って貰った、私と京ちゃんだけが写された写真。
 それが、私にとっての『ふるさと』だった。
 写真をぼんやり眺めながら、もしもの世界を夢想する。
 その世界の京ちゃんの笑顔が、現実の京ちゃんと同じであるように祈りながら。