本が好きだ。
 ページを繰る感触が好きだ。
 物語の先を、胸を高鳴らせながらあれこれ予想するのが好きだ。
 登場人物の心境を考えるのも好きだ。
 本の世界に、頭の天辺までどっぷり浸かって、浸かって、浸かって、そうして分かる楽しみがある。
 人は小さな世界だと言うかもしれない。私も実は少しだけそう思っている。
 でも、その小さな世界では、確かに私は主人公なのだ。
 だから私は、本が好きだ。



 
「……咲ってさ、昔から本読んでたよな」

 お昼の食堂で、京ちゃんは私の手にある本を見ながらそう言った。
 今日はレディースランチの日ではないので、手には掛け蕎麦の器がある。
 カツオの効いためんつゆの豊かな香りが、湯気とともに感じられる。

「……ん、まあ。急に、何?」
「んー?」

 私は言葉を返す。
 しかし京ちゃんは(自分で話を振ったのに!)返事をしない。
 彼の言葉を待つ私をそのままに、勢いよく麺をすする。
 何の気兼ねも遠慮もせず、本当においしそうに、そして豪快にごはんを食べる様は、何というか男の子らしくて訳もなく良いと思った。
 
「それで、急にどうしたの?」

 麺をすすり、めんつゆをすする。そのちょっとの間に私は話を戻した。
 京ちゃんは私を見ながら言う

「急にってわけじゃないんだけどな。俺は前から思ってたんだ、咲って本ばっか読んでるよなーって」
「確かに本は好きだけど。本ばっかって、……そうかな?」

 そんなに私、京ちゃんの前で本を読んでいただろうか。

「おう。そんでいつも咲は心ここにあらずって感じだな」
「えー?」

 思わず疑いの視線を京ちゃんに投げかけてしまう。
 ちょっとそれは言い過ぎじゃない?そんな気持ちを込めて声をあげた。

「ええって、気付いてなかったのか?」

 ただの雑談程度だと思っていた。
 けれども京ちゃんは、かなり本気でそう思っていたらしい。
 心底驚いて、そして呆れたといった様子で首を傾げた。

「そんなに、わたし、あの、ぼーっとしてるかな?」

 だから、急に不安になってしまった。
 知らずの内に、同級生に失礼な態度をとっていたかもしれない。そう思うと、今更どうしようもないのに焦る心が止められない。
 私、失礼な事したかも。ううんでもそんな事今まで言われた事ないし、京ちゃんが気にしすぎって事もあるよね。
 でもでも鈍い京ちゃんがいう位なんだから相当かも。ううう、今さらどうしようもないよお。

「そうだなあ……」
(やっぱり勘違いだった、そう言って!嘘でもいいから!)

 その後彼はたっぷり十秒ほど唸った後、

「間違いないな。咲はいつもぼーっとしてる」

 無慈悲にもそう断言した。
 体から力が抜ける。
 ……そっか。私ぼーっとしてるんだあ……

「これからは気をつけるよ……」
「ていうか誰かと一緒に居る時に本読むなよ」
「うん……」

 がっくりと私は肩を落とした。
 そんな私をよそに、京ちゃんは今までよりも一際大きく音をたて、蕎麦をすすった。たぶん最後の蕎麦だったのだろう。
 たっぷりおつゆまで飲み干した空の器が、卓の上に置かれた。

「ごちそーさんっ」

 パン、と両手を合わせた音が響いた。
 ふー食った食った、とお腹をさすり満足そうにしている京ちゃん。
 私はまるで子供みたいな行動をとる彼を見ながら、本を開く……

「おい」
「ううっ」

 口元を引き攣らせながら発せられた言葉に、私の肩がはねる。

「今言ったばっかりだろー……」
「あはは……」

 苦笑しながらそれでごまかそうとする私を、彼は半目で見つめる。
 居心地の悪さに目をそらそうとした瞬間、彼は身を乗り出して、対面の私の手にあった本を取った。

「あ、」
「んー何々……」
「だ、だめ、見ないでよ京ちゃん!」
「うわ、なんだこの小説。こんなセリフ男は言わねーって」

 そういいながら彼は笑う。
 本音を言うと、むかついた。
 勝手に人の本取るだけじゃなくて、その内容を笑うなんて。
 まるで私自信をバカにされたようで腹立たしいし、悲しい。
 自分でもみっともないと思いつつ、涙ぐみながらせめてもの反撃を試みる。

「京ちゃんが言えないだけでしょ。度胸が無いからそうやって茶化すんだ」
「かっちーん。……おいおい咲さん。この須賀京太郎をなめて貰っちゃ困りますなあ」

「――こんなセリフ、余裕だよ」

 足を組み、左手を顎に当て、少し斜に構えながら彼は言った。
 いかにも芝居がかった口調だ。多分、これが、京ちゃんの想像するかっこいい男のポーズ……なのかな?
 全然かっこよくないけど。

 京ちゃんは私に本を返し、両手を広げてみせる。

「ホラ。好きなセリフを選べよ、咲。俺がどんなセリフもかっこよくキメてみせるさ」

 どうやら、どこからでもかかってきなさい、と。そういう類のポーズらしい。
 こうなったら私も意地だ。京ちゃんが思わず参ったと言いたくなるような、とびっきり恥ずかしいセリフを選んでやる。

「し、シーンは夕暮れの教室。真っ赤に染まった教室の中で、達也が美穂に思いを告げる所っ」
 
 状況を完結に説明して、本を京ちゃんの手に押し付ける。
 私はセリフを覚えているから問題は無かった。

「オーケーオーケー。ゴホン。『ま、待ってくれっ』」
「『な、何……』」

 そうして寸劇は始まった。
 意外にも感情のこもった声に少し驚く。
 私も負けじと記憶の中の美穂の発言を再現する。

「『き、聞きたい事があるんだ……』」

 達也と美穂の二人は幼馴染。
 達也は少しお調子者で、美穂は少し内気な少女。
 中学生からの付き合い。達也は昔から美穂の事が気になっていた。
 達也は美穂の物静かな所が気に入っていて、だけど同級生や美穂にそれが知られるのが気恥ずかしいから、わざと自分の好みとはかけ離れた女の子が好きだと公言している。
 そんな風に中学時代を過ごして、二人は高校生になった。
 幸い同じ学校にクラスと二人一緒になったけれど、最近の二人は少し疎遠気味。
 達也の秘めた思いは抑えきれずに……

「『お前、さ。最近、渡辺と仲良いよな』」

 美穂は美穂で達也の事を好いている。
 作中で時期は語られないが、地の文の描写は確かに彼女が達也を気にしていることを示唆している。
 けれども、達也の好みが自分のような女の子ではないとわかっているから、彼がそう言っていたから、自分の想いは秘めている。

「『そんな事ないよ。渡辺君は、あの、委員会とか手伝ってくれてるだけで』」
「『……だからそれが仲がいいって事だろ』」
「『そんな』」
「『だってそうだろっ。なんだよ渡辺といるときの笑顔はっ』」
「『だっ、だったら君だって!花村さんとっ』」

 売り言葉に買い言葉。

「『~~~っ。あ、あいつは今関係ない!』」
「だって、は、……『花村さんが好きって達也君言ってた!だったら私の事なんか関係ないでしょ!』」
「『あいつは……、あいつの事は……どうでもいいんだ。あいつじゃなくて、俺は……』」

 ――次。次の言葉が、

「……っ」

 京ちゃんの動きが止まる。
 少しずつ、彼の頬に赤みが差していく。それを私は見つめていた。

 ――魔法が、とける。

 ホントはどっちでも良かった。
 京ちゃんが羞恥に黙ったら、私はバカにするつもりだった。
 京ちゃんが最後まで役になりきってセリフを言い切ったら、私は――

「…………」

 パタンと、京ちゃんは本を閉じた。
 それで、私は、これで終わりなのだと、そう思った。

「……ほら。京ちゃんには言えなかった」
「なっ!?」
「京ちゃんはいくじがないんだよ、それなのに人の読んでる本をバカにするんだもん」
「そ、そりゃさすがに食堂じゃいらぬ誤解を招くと思ってだなあ……!」
「言い訳なんてみっともないよ」

 そうだ。みっともないよ、京ちゃんは。
 いっつも色んな女の子に鼻の下伸ばしてる。
 すぐに女の子と仲良くなる。私の知らない内に沢山女の子の友達が出来てる。
 私知ってるよ。京ちゃんが中学生の卒業式の時、一つ下の後輩の子から告白されてた事。
 それに、高校生になってから、別のクラスの胸の大きい子にアプローチしてるのも知ってる。

「言い訳じゃないって!ただ、あのままだと咲に迷惑がかかると思ってだな、」
「じゃあ私が迷惑じゃないって言ったら、京ちゃんは言えるんだ?」
「……」

 でも、いつも鼻を伸ばしてるけど、分かる。
 京ちゃんの好みは違うんだって。
 小説の達也君そっくりそのままとはいかないけど、でも京ちゃんは言う程本気じゃないんだ。
 中学時代、ずっと見てきた私だから分かる。
 彼は面白いものが好きだ。楽しい事をいつも探してる。
 いろんな事に挑戦して、いろんな事に失敗して。それを楽しんでる。
 別にうまくいかなくてもいいくらいの気持ちなんだ。

 京ちゃんはまだ、本当の恋をしたことがないんだと、私は思う。

 この人とずっと一緒に居たい、とか。
 この人が笑っている所を見ると幸せになれる、とか。
 一日言葉を交わせない日があると凄く気分が落ち込む、とか。

 そこまで思いつめたことがないんだよ。

 ――安易に好きだなんて、口に出してしまえば関係が壊れてしまうかもしれないのに。
 
 

 私は、少しでもいじわるに見えるように、笑顔を作る。
 京ちゃんが言葉に詰まり、顔を赤くしているこのタイミングだからこそ、言える。

「ねえ、京ちゃん。私は迷惑じゃないから、その続き言ってみせてよ」



 本が好きだ。
 ページを繰る感触が好きだ。
 物語の先を、胸を高鳴らせながらあれこれ予想するのが好きだ。
 登場人物の心境を考えるのも好きだ。
 本の世界に、頭の天辺までどっぷり浸かって、浸かって、浸かって、そうして分かる楽しみがある。
 人は小さな世界だと言うかもしれない。私も実は少しだけそう思っている。
 でも、その小さな世界では、確かに私は主人公なのだ。
 だから私は、本が好きだ。

 でもそろそろ、本じゃない、この世界で主人公になりたい。



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「……何だ、あれ」

 宮永咲は言いたいことだけ言って席を立った。
 その場に残された京太郎は呆然と呟く。
 まったくひどい幼馴染も居たもんだ、と。
 
 ――食堂で、しかも借り物の言葉で言えっていうのか?こっちの気も知らずに挑発染みた物言いしやがって


「今日はレディースランチじゃない日に誘ったんだから、気が付いても良さそうなもんだろ……」