「和とまた遊びたいっ!」
デデーン! という効果音が似合う程に勢いのある声で阿知賀女子高校麻雀部員である高鴨穏乃は叫んだ。
全国大会が終わり、しばらく経ったある日の麻雀部の部室での事。
傍から見ると気が狂ったように思われる行動であったが、それに対して他の麻雀部員の対応はもう慣れたものであった。
新子憧はまたかと言う様に溜息をつき、松実玄、松実宥の姉妹は困ったように笑い、鷺森灼は我関せずといった様子だ。
何せ全国大会が終わってから毎日の様に言っているのだ。流石に皆慣れるのである。
「遊びたいいいいいいいいいい!」
しかし慣れたと言っても、煩い事に変わりはない。
このまま放っておくといつまでも言っていそうなので、憧が止めに入る。
「遊びたいってもう全国で遊べたじゃない」
「あれだけじゃ足りないいいいいいいいいい」
「来年また全国で会えばいいじゃない」
「そうだけど今すぐリベンジしたいいいいいいいいいい」
全国大会での順位が清澄より下というのも影響しているようで、その程度では止まるはずがなかった。
しかし何を言われても物理的距離があり無理なものは無理なのである。
「むきいいいいいいいいいい」
「はぁ……」
憧は額に手を当てながら溜息を吐く。
何を言っても止まる気配のない穏乃にいっそ物理的行動に出ようかと考えていると、赤土晴絵が部室の扉を開き入って来た。
「よーしっ! 今日は久々に部活をやろうか……って何してるの?」
晴絵が部室に入って早々に見た光景がむきいと唸る穏乃とそれを宥める憧である。
疑問も尤もの事と言えた。
「いやー、しずが――」
晴絵の疑問に対して、どこか飽きれたように憧は事情を説明する。
全国が終わりプロへの道を考え色々活動していた為に、部活に出る事が少なくなっていた晴絵には穏乃の奇行は初耳であった。
「んー」
事情を聞くと考え込むように晴絵は少し考え込み、そして答えが出たのかその口を開いた。
「そういえば清澄が夏休みを利用してこっちに遠征に来たがってたけど?」
「えっ! 来るの?」
「一応あんた達に聞いてから返答をしようと思ってたんだけど、これなら問題はないようだね」
「やったー!」
「来てくれるのならもっと早く言ってよ……」
喜びを体全体で表す穏乃に、もっと早く来る事を言ってくれればと愚痴る憧。
しかし憧もその口では不満を言いながらも、どこか顔は嬉しげであった。
何だかんだ言っても和と一緒に麻雀をしたいというのは憧も同じなのだ。
こうして清澄高校から阿知賀女子高校への遠征が決まったのであった。
***
「ようこそ阿知賀へ!」
阿知賀女子高校へ着いた清澄の部員を出迎えたのは歓迎の言葉であった。
「じゃあしばらくの間お願いしますね」
「お願いします」
久と灼の部長同士で形式的な挨拶をしているその横で、穏乃は興奮しきっていた。
「和あああああああああ」
「穏乃、皆さんお久しぶりです」
全国大会で一度会った後だというのに感動の再会と言った様子で和の周りを飛び回っていた。
あからさまに態度に出てる穏乃は別格として、憧も嬉しそうに和と話をしている。
その様子を微笑みながら見ていた玄と宥は、見知った男性もいる事に気がついた。
「京太郎君だー」
「京太郎君!」
「あっ、玄さんに宥さんお久しぶりです」
京太郎は全国大会で東京にいた頃に松実姉妹と知り合っているがそれはまた別のお話。
「京太郎君も来てくれたんだね」
「はははっ、雑用をする人がいないと大変ですからね」
「ご立派ですね」
「なるほど、なるほど、なるほど~」
「犬は私の為に働いていればいいんだじぇ」
横から口を挟んできたのは、普段から京太郎を犬扱いして、タコスを買いに行かせている片岡優希であった。
いつものような扱いをされ、いつものように京太郎は言い返す。
「うるせー、いつか俺だって強くなって全国に行ってやるんだよ」
「犬ごときが全国だなんて生意気なんだじょ!」
「なにをー」
「えっ、あのっ、そのっ」
「なにごと!」
突如始まり、なおもエスカレートしていく二人の言い争いに、玄と宥は止める事も出来ずあたふたと慌てる事しかできない。
放っておくといつまでも続きそうなそれは部長である久にの制止によって終わりをみせた。
「ほらほら、二人ともお客様に変な所を見せてないで」
「うっ、部長ごめんだじぇ」
「そうですね。すいません宥さん」
「えっと、これは喧嘩じゃないの?」
「いえいえ、俺たちの間ではこれくらい普通です」
「そっかーよかったぁ」
「よかったねー」
(うっ……)
安堵の微笑を浮かべる宥。その笑顔を見て胸が高まる京太郎であった。
(やっぱり清澄の皆とは、違ったタイプの人だなー)
「どうかしましたか?」
「あっ、いや、なんでもないです」
「はいはい、じゃあ落ち着いた所で対局をしましょうか」
そんな京太郎の気持ちなど知らない久の宣言により対局が始まるのであった。
***
「また和に勝てなかったー」
「やっぱり和は強いね」
「いえ、危ない所でしたよ」
穏乃、憧、和、優希の四人での対局は和がトップで穏乃が僅差でその下に憧、優希という結果であった。
「タコスがないから力が入らないんだじぇ~。京太郎買ってきてくれだじぇ~」
「おいおい、流石にここではそう簡単に買えないだろ」
その結果の要因として優希にタコスがなかったということが大きい。
長野からも持ってきてはいたのだが、移動の間に食べてしまい既になくなってしまっていたのだ。
「ちょっと休憩するから京太郎変わってくれだじぇ」
「えっ、俺か?」
突然の指名に京太郎は驚く。そもそも今回の遠征でも雑用で来たのであって、麻雀をやるとは思っていなかったのだ。
「おっ、いいね! 私男の人と打つの初めてなんだー」
「いつも和と打ってる実力を見せてもらいましょうか」
乗り乗りの穏乃に、どこか挑発気な憧。
せっかくだから打ってみたいという気持ちはあるが、実力を勘違いされているのは京太郎としても非常に困ってしまう。
「うっ、俺弱いんで練習にならないと思うけどそれでもいいかな?」
「いいからいいからー」
「それでもいいですよー」
「和もそれでいいのか?」
自分の実力をきちんと言うのだが、二人は本当に分かっているのか分からないような返事。
それではと、実力をよく知っている和にも確認をするが、
「ええ、構いませんよ」
問題ないと返されてしまう。
ここまで来たらもう京太郎に拒否をする理由はない。
「じゃあやりますか!」
***
「弱かったね」
「弱いですね」
当然の如く対局は京太郎の惨敗に終わった。予想以上だったのか、穏乃と憧の二人か容赦のない感想が漏れる。
「ぐふぅ……」
「須賀君――」
言葉もなく卓に倒れこむ京太郎に、流石に不憫に思ったのか和が言葉をかけようとするが、
「穏乃も憧もめちゃくちゃ強いな!」
当の京太郎は先程の落ち込みがどこにいったのか、一転して二人を褒め称えた。
「まあねー」
「まあこのくらいはね」
ふふーんと誇らしげな穏乃に、満更でもなさそうな憧。二人とも褒められて悪い気はしないのである。
「京太郎も頑張ればいつかは私みたいになれるさ!」
「そっかー穏乃みたいに打てたら格好いいよな」
「格好いい? 私格好よかったかな?」
「そうだな。俺はまだまだ素人だから技術的な事は分かんないんだけど。
全国の決勝を見てて、穏乃の諦めない麻雀って言うのかな? 凄い格好よく思ったよ」
「そっそうかな。ま、まあそこまで言うなら私が鍛えてやってもいいかなー」
「しずったら調子に乗っちゃって、結局和には勝てなかったくせに」
「はははっ」
ない胸を誇らしげに張っている穏乃に容赦なく憧は突込みを入れるが、はははっと笑いもはや言葉も届いていなかった。
「じゃあ俺も負けたままじゃいられないし、もう一勝負お願いします!」
「よしっ! 掛かって来なさい!」
「今度はそう簡単には負けないぜ!」
「返り討ちにしてくれよう!」
何だかよく分からない世界に入ってる二人を見て憧は思う。
「何か京太郎君ってしずみたいだね」
「どこがかな?」
「どこがだ?」
「単純そうなところとか?」
「ひどっ!」
「ひでえー!」
返す言葉が被ってる所に、否定しようにも説得力もなくなっていた。
***
「暇だ」
遠征から数日たったある日。その日は休日という事になっており自由な時間であった。
けれど雑用の為に来ている京太郎には休みもなく、阿知賀の備品の買出しなどをおこなっていた。
しかしそれも終わると、逆に暇になり困っていた。
他の皆はそれぞれ遊んでるというのに一人というのがまた空しい。
「せっかく奈良まで来たんだから、あの立派なおもちを持っている方々と付きあえたら……でへへ」
脳裏に浮かぶのは、松実姉妹。立派なおもちもさることながらあの優しい性格が魅力的に思えた。
「まあそうそううまくいかないんだけどな」
既に知り合っていて仲良くはなったものの、ここに来てからは同学年という事もあり穏乃と憧の二人の方が接する事が多いのが現状だ。
特に穏乃は、戯れに持ってきていたお菓子をあげたら妙に懐かれてしまい憧に餌付けとまで評される程だ。
「あいつはあいつで可愛いんだけど」
可愛いのは京太郎も素直に認める。明るい性格で話をしてて楽しいと思わせる魅力もある。
しかしどうにも女の子として、異性として見る事はできなかった。
そんなような事を考えながら、ぷらぷらと散歩をしていると知ってる顔が目に入った。
「あれっ、穏乃?」
「おおっ! 京太郎じゃないか!」
「穏乃は他の皆と遊びに行かなかったのか?」
「うん。家の手伝いがあってさ。それがさっき終わってこれから遊びに行くところ。京太郎こそ一人でどうしたの?」
「俺は買出しとか雑用してて、それが終わって暇だからぷらぷらしてたところだな」
「一人なんだ?」
「雑用は俺の仕事だしな。他の皆は遊びに行ってるよ」
「だったら一緒に遊び行く?」
「いいのか?」
「うん。いいよー」
「それで穏乃。どこに行くんだ?」
「山!」
当然の事ながら、いきなり山と言われても大半の人は理解できないだろう。
京太郎もその大半に含まれる人間な為に、穏乃の答えに、えっ……としか返す事ができなかった。
「山って、ハイキングって事か?」
「うん! 目指せ熊野!」
なんとか復帰して問いかけるも、帰ってくる答えはまたもやよく分からない単語。
地理的な名称だというのは分かる。そこまではいい。しかしそこまでどのくらいかかるかとなるとまた別だ。
京太郎には、熊野がここから近いという予感がまったくなかった。
「この辺の地理はよく分からないんだけど、熊野ってここからどのくらいあるんだ?」
「んっー、100kmちょい?」
「おいっ! 流石に無理だろ」
「そのくらいの勢いで行こうってことさ!」
「うーん」
穏乃の返答はだいたい京太郎の予想通りであった。
根拠もない自信で行く気満々。直感だがこういう時の穏乃は止まらないと感じる。
(まあどうせ暇だし、別にいいか)
それに何より京太郎は、元気で見てるだけでこちらまで元気が出てくるこの少女が嫌いでなかった。
「……行かないの?」
黙ってしまった京太郎に、穏乃は幼げな顔を不安に染めながら問いかけてくる。
そんな顔で見つめられてしまったら、行かないという選択肢はもはや京太郎にはなかった。
「行くよ。せっかく穏乃が誘ってくれたのに悪いしな」
「よしっ! じゃあしゅっぱーつ!」
***
山登りを始めてから数時間後。
「自然を見てると気持ちが落ち着くなー」
京太郎の視界に入る光景は木、木、木と、まさに山の光景。
人や文明の痕跡をほとんど感じさせず、僅かに整備された道だけ人の存在を感じさせる。
天気も快晴、たまに吹いてくる風が頬に当たり程よく体温を下げてくれ、心地よい日和だ。
「おーい京太郎ー! 早くー」
「おー、今行くからなー」
そんな現実逃避をしながら、自然を感じていた京太郎を現実へと引き戻すのは穏乃の声。
それに応えながら京太郎は、現実を直視し、重くなったら身体を再び動かしていく。
穏乃の調子からして普通の山登りだとは思っていなかった。
しかしまさか何時間も山道を走り続けて行くとは思っていなかった。
しかも道なき道を行く事もあるのだ。流石に木の中に突っ込んでいくのは京太郎としてもやめてほしかった。
そしてその中を軽快に駆け抜ける穏乃は正直――
「お猿だよなあ……」
こんな事を穏乃本人には言えないけど、そう思う事は止められない京太郎であった。
そう考えると思い出されるのは、木の枝を掴み、巧みに移動する穏乃の姿。
どうみてもお猿です。本当にありがとうございました状態であった。
「おっ、ようやく来た」
そんな事を考えている間に穏乃に追いついたようだ。
「いやー、やっぱり男の子って凄いね。前に憧を誘った事があるけどすぐ降参しちゃってさ。
小学校の頃はよく一緒に走ったりしてたのになー」
憧は駄目な方向に成長しちゃったなと愚痴る穏乃。
しかしと京太郎は思う。それは憧の成長が女の子として正しいのであって、穏乃がちょっとおかしいのではないかと。
「はあはあ……」
思った所で、疲れで呼吸も思考も乱れている京太郎はまともに突っ込みを入れる事さえも出来ないでいた。
「GJ! 京太郎」
GJをしてくる穏乃に京太郎は無言でGJで返した。
もう喋るのも辛いのであった。
***
「とーちゃくっ!」
「おおっ、ようやく着いたか!」
へとへとになりながらもなんとか穏乃に付いて行った京太郎だったが、ようやく山頂に着いたようだ。
ふぅ、と一息をつき山頂の澄んだ空気をたっぷりと吸い込む。
すると崖の方で穏乃が、ちょいちょいと手招きをしているので足元に気をつけながら行ってみる。
そして――
「ほらっ!ここからの景色は凄いだろ?」
「すげえー」
取って置きの宝物を見せる子供のように穏乃は笑顔で山頂からの景色を見せてきた。
山々の連なる景色、季節を彩る花々、まぶしいくらいの緑の草原、水墨画のような山の景色がそこにあった。
その景色は穏乃が誇るのが当然と思える程に、素晴らしいものであった。
「麻雀部が出来るまでは、する事もなくて暇でさー」
そんな景色を前にどこか寂しげに穏乃が喋りだす。
憧と違う中学に行き、和とは転校で別れ、麻雀とも離れていた時の一番寂しかった記憶を思い出しているのだろう。
「色んな山に登って色んな景色を見てきたけど、ここからの景色が一番好きなんだ」
「もしかして俺の為にわざわざここまで?」
「まあねー」
「そっか」
一人暇をしていた自分と昔の自分を重ね、穏乃は不器用ながら気を使ってくれたことなのだろう。
京太郎には穏乃のその気持ちがとても嬉しかった。
「穏乃。ありがとうな」
「いいよー。もしよかったら、他のお薦めの所にも案内するけど?」
「もう簡便してください」
気持ちはありがたくも、京太郎の身体は流石に限界であったので丁重にお断りした。
***
「じゃあ帰ろっか」
「おう」
しばらく雑談をしながら休憩として景色を堪能していた二人であったが、帰りの時間も考えると日が沈みそうなので帰る事にした。
「じゃあ帰りは競争だからなー」
「ちょっ、待てよ」
言うが早いか、行きの疲れも感じさせない軽快な速度で穏乃は走り去っていった。
「待たないいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ」
走り去りながらも京太郎に、ドップラー効果で遠のいていく返事をする穏乃は律儀と言えた。
それを京太郎は見ながら、穏乃にまだあんなに余裕があったのかと驚く。
休憩はしたにしても正直足がしんどい。だがしかし――
「男の子としては負けてられないよな!」
京太郎にも男の子としての意地がある。先へ行った穏乃を追うべき、頑張り走り出した。
しばらく走り続け、そろそろ追いつくかなと思った頃。
「うわっ!」
先の方向から凄まじい音と穏乃の悲鳴が京太郎の耳に届いた。
「穏乃!?」
何が起きたのかと、走る足を更に急がせ駆けつけると――
「あいたたたー」
そこには土が付き多少汚れていて、擦り傷がある穏乃がずっこけた体制のままでいた。
「おいおい、大丈夫か?」
「んっ。なんとかー」
軽い調子で答えながら身体に付いた土を払う穏乃。
その調子から特に大きな怪我もないようで安心する。
「まったく、穏乃も可愛い女の子なんだから気をつけろよ。顔とか怪我したら大変だろ」
「おおおおおお女の子じゃないし!」
中高と女子校で来て男性とあまり関わる事もなく、女の子扱いされる事などなかった穏乃。
その穏乃にとって、可愛い女の子発言は酷い動揺を誘った。
しかし京太郎は、普通に思っている事を言っただけであったのでそんな穏乃の動揺は理解不能であった。
それ故に穏乃の女の子否定発言も意味不明過ぎて困ってしまっていた。
「え? 何言ってるんだよ? 可愛い女の子だろ」
「ななななななななな」
二度も可愛い女の子と言われ、真っ赤になってまともな言葉を返せない穏乃。
「どうかしたか?」
「ななななななんでもないですよ」
そんな様子に京太郎はどうしたのかと思い突っ込みを入れる。
しかしなんでもないと返されればそれ以上突っ込む事もできなくなってしまう。
京太郎としては何で敬語になってるんだよとも思うが、それどころでもないかと思いしゃがんだままの穏乃に手を差し出した。
「ほらっ、立てるか?」
「うん……」
穏乃は差し出された京太郎の手を掴み立ち上がろうとして――
「あつっ」
足の痛みに顔を歪めてしまった。
「痛むのか?」
「う、うん。足挫いてるかもしれない」
それなりに距離を走ったとはいえ家まではまだ距離はある。
どうしようと不安がる穏乃。
「仕方ないな。ほら、おぶってやるから乗れよ」
そう呟き京太郎は、穏乃の前でしゃがみ込み背中をみせた。
「あんなに疲れてるのに平気なの?」
「うっ、そこを言われると辛いが穏乃の為だ頑張るよ」
「……うん。ありがと」
「よいしょっと」
流れるように京太郎の背中へとしがみつく。
優しい言葉、そして大きな背中に今まで感じた事のなかった異性を感じる穏乃。
先程の可愛いと言う言葉もあり、心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「しっかり捕まっておけよ」
「うん」
その京太郎の言葉に答えるように穏乃はさらに、ぎゅっとしがみついた。
「うっ……」
「あっ……」
しがみつくという事はより密着するという事である。
つまり――
しがみついた事で高鳴っている心臓の音が京太郎に聞こえるんじゃないかとおびえる穏乃。
しがみつかれた事でささやかな膨らみがぎゅと背中に当たる京太郎。
理由は違えどこの時の二人の気持ちは似たようなものであった。
(これはやべえ)
(これはやばい)
「ご、ごめんね」
「お、おう。気にするな」
普通に話をしようとするも互いに意識をする事は止められないでいた。
それでも少しでも意識を逸らすべく話を続けていくが。
「わ、わたし重くないかな?」
「ぜ、全然重くなんかないぞ。むしろ軽過ぎてちゃんと食べてるのか不安になるくらいだぞ」
「いやー、一杯食べて玄さんや宥さんみたく大きくなりたいんだけど……って、あっ……」
「玄さんや宥さんみたくって……あっ……」
見事に穏乃は墓穴を掘った。
「は、はやくつかないかなー」
「そ、そうだねー」
(本当に早くついてくれー)
(本当に早くついてー)
この時二人の心は一つになっていたのであった。
***
ドキドキしながらもなんとか穏乃の部屋まで辿り着いた二人。
家に着いた際に穏乃の家族が丁度留守にしていた為に、部屋まで送るというかどうかで一悶着あったのは些細な事である。
「じゃあ、ちゃんと手当てしておけよ」
無事送り届け終わった事で安心した京太郎は帰ろうとする。
その際に注意も忘れない。捻挫もそうだが、多々見える擦り傷もしっかり対処をしておかないと治りも遅くよくない。
それゆえの注意なのであるが――
「唾でもつけておけば治るって」
しかし当の穏乃は適当であった。
「そういうわけにもいかないだろ」
「いやーそういうのはいつもめんどくさくて」
「仕方ないな。俺がやってやるよ。薬箱は?」
京太郎は、穏乃が指差す方に行き、薬箱を持って来て治療を始める。
擦り傷の方は水で湿らせたガーゼで患部をしっかり洗い清潔にして、ラップで被い乾燥を予防する。
「挫いた足の方はどうだ?」
「んっ、今はもう痛くないかな」
「そんな腫れてるわけじゃないし、すぐ治ると思うぞ」
京太郎は言いながら患部に湿布を貼り付ける。
「よし、これでいいかな……あっ」
そして治療を終えた所で京太郎は気が付いてしまった。
山の時はそれどころじゃないと意識する事なかったのだが、
しゃがんで足の様子を見るという事は穏乃の服装的に色々といけない部分も見えてしまうわけで――
それに気が付いた京太郎は顔を赤くし、とっさにそこから眼を逸らす。
「えっ、どうしたの?」
「いや、ほら……」
急に黙り、視線を逸らす京太郎に穏乃は疑問の声をあげる。
それに対し、言葉ではなく、目線でちらちら合図を送ってくる京太郎。
疑問に思いながら京太郎がさっきまで見ていた方向を目で追ってみると、ようやく穏乃も気が付いた。
「……京太郎のえっち」
「……ごめんなさい」
京太郎は、ジト目で文句を言ってくる穏乃に返す言葉もないのであった。
「……」
「……」
二人の間に気まずい沈黙が訪れた。
「あのっ」
「えっと」
そして二人で気まずい沈黙を破ろうとして見事に被った。
「あっー、俺の方からでいいかな?」
「う、うん。いいよ」
「さっきのは本当ごめんな。今度から気をつける」
「う、うん。それならいいよ」
「穏乃の方は?」
「……わ、私ってさ、中高と女子校で男の人と遊んだりってしたのってほとんどないんだよね」
「そ、そうか」
「だから男の人にこういう風にしてもらうのも初めてで、その所為なのかな?
京太郎に可愛いって言われてから、背負われてる間も、ここで優しくされてる間も、何でか凄くどきどきするんだ」
「穏乃……」
そう言われると京太郎としては、今までそういう目では見ていなかったが見てしまうわけで。
さらに言うならば二人の距離は互いを意識するには充分過ぎる程近づき、そんな距離で見つめ合っている。
「ねえ、これって何でなのかな?」
「それは……」
それはきっと、恋と言う感情だ。
しかしそれを素直に言うには流石に恥ずかしく、京太郎は言葉に詰まってしまう。
「京太郎が分かるのならこの気持ちの事を教えて欲しいんだ……」
羞恥からか頬どころか顔全体を真っ赤に染め、答えを求め潤んだ瞳で見つめてくる穏乃。
そんな穏乃の前では――先程から女性として意識をしている少女の前では隠す事など出来るはずがなく京太郎はその答えを口にする。
「穏乃のその気持ちは好きって事なんだと思う」
「すっ好きって!? わわわ私は京太郎だけじゃなくて憧とか皆の事が好きだぞ!」
「いや、そういう好きじゃなくて恋愛的な意味での好きって事だよ」
「こ、これが? 恋……」
「多分だけどな」
京太郎とて恋愛経験があるわけでもないので断言は出来ない。
けれども穏乃のそれは恋と思わせるには充分だった。
「じゃ、じゃあ私が京太郎に恋してるって事?」
「うっ、それは……」
そうだろうとは思う。しかし流石にそれを素直に言う事に抵抗を感じて言葉に詰まる。
「穏乃自身はどう思う?」
「ん。よく分かんないよぉ。京太郎はどう思うの?」
「そうだな。そう言うのは俺が言って気が付くんじゃなくて、自分自身でちゃんと気づいて欲しいな」
ここで恋だと言うのは簡単だ。しかしそれを京太郎はしない。
もしかしたら恋でないかもしれないのに、そう言ってしまえば今の穏乃はそうだと思い込んでしまうだろう。
それはお互いの為にならない事だ。
「分かった。考える……」
最終更新:2012年07月15日 21:22