(ある日のこと)

    「ところで竹井先輩」

    「なぁに?」

    「以前加治木さんと打ったこと、覚えてますか」

    「忘れるわけないでしょ……あれは悪夢よ」

    「よかった、忘れてないんですね」

    そういうと京太郎は悪魔の笑みを浮かべる。久は思わず後ずさりした。

    「あの日の結果ってこうなってたと思うんですけど、間違いないですよね?」


    店員  73000
    久   -23000
    京太郎 25000
    ゆみ  25000


    「えっ、えぇ」

    「はい、店員さんがトップ。先輩がラス。これはいいです」

    「そ、そうだけど?」

    「俺と加治木さんは当然同点ですが……俺のほうが上家なんですよ」

    「……」

    「つまり、俺が2位で加治木さんが3位」

    「……それで?」

    「先輩、あの時言いましたよね。『私と加治木さんより順位が上ならご褒美あげる』と」

    「う、うぐ」

    「あの時はあまりの衝撃に忘れてましたけど……まだその『ご褒美』もらってないですよねぇ」


    ずぃっと久ににじり寄る。久はびくりとしながらもため息をついた。


    「しっかり覚えてたのね……」

    「当り前です。さぁ! パンツ! パンツ!」

    「もう……。まぁ、約束は、約束だからね」


    そういうと久は自分のスカートの裾を持った。囃し立てていた京太郎も思わず黙り込む。
    久は、裾を持ったまま、ゆっくりとまくりあげていく。
    タイツに覆われた久のふくらはぎが見える。京太郎は、思わず生唾を飲み込み瞬きもせず眺め続けた。


    「す、須賀君。ごめんね、ちょっとだけ、目をつぶっててもらっていい?」


    恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、久は京太郎が今まで見たことがないような羞恥の表情で言った。


    「ねぇ、お願い……」


    京太郎が反論しようとするが妙にしおらしい態度に思わず反射的に目を閉じる。


    「ありがとう」


    そういうとごそごそ、と物音が聞こえる。
    京太郎は今か今かと落ち着かない気分のまま、立ち尽くした。


    「はい、いいわよ」


    その声とともに、京太郎の手に何かを握らされた。
    目を開けた瞬間握らされたものを、見た。



    それは、パンツだった。まごうことなき、一点の曇りもない、パンツであった。





    ただし、未開封のものであったが。



    「竹井先輩……?」


    思わず目の前の久を見る。さっきまでのしおらしさはどこへやら、いつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


    「須賀君がいつ言いだしてきてもいいように、持ち歩いていたのよ。その婦人用サービス価格の298円のパンツ」

    「い、いや、そうじゃなくてですね?」

    「あら? 私はパンツを見せてあげると入ったけど、私が履いているパンツを見せるとはいってないわよ?」

    「へっ、屁理屈だーーーーーーーーー!」


    思わず叫びながら手に持ったパンツ(未開封)を地面にたたきつけた。


    「残念だったわね、須賀君! まだまだ修行が足りないわ!」


    そういいながら久は笑いながら去っていく。
    後には京太郎がただ一人残された。


    「……どうすんだよ、これ」


    そういいながら思わず叩きつけたパンツを拾い上げる。
    その時、後ろから何かの気配を感じ振り返った。


    「京ちゃん……何、もってるの?」

    「さ、咲ぃ!?」






    週中の夜。
    京太郎は個人経営の居酒屋でビールを飲んでいた。
    週中と言うこともありそこまで人は多くない上に、個室なため比較的静かな空気が流れている。


    「そろそろ、かな?」


    京太郎はちらりと時計を見た。
    約束の時間から30分ほど過ぎているが、それについてはすでに謝罪の連絡が来ている。
    どうしても手持ち無沙汰なため一杯だけビールを頼んだが、あまり進んでいない。


    「やっぱこんな部屋でひとり飲んでてもなぁ……」


    そうぼやきながら京太郎はお通しの枝豆を口に入れた。
    その後、手持ち無沙汰になった京太郎は何気なく携帯を手に取った。
    手馴れた手つきで操作し、ブックマークに入れたそのページを開く。
    味も素っ気無いただのニュースサイトだが、そこに書かれた記事を読むだけで京太郎は笑みが止まらなくなった。
    ニュースの掲載時期はもう1か月も前だが、
    それでもここ最近の京太郎は何気ないときにそのニュースを見るのが習慣になっていた。


    「やっぱ、すげぇよな」


    そんなことをポツリと呟くと個室に近づいてくる足音を聞いた。
    京太郎は思わず佇まいを直す。
    小走り気味のその足音はまっすぐ近づいてきて、扉を開けた。


    「すまない、遅くなったな」

    「いえいえ。お仕事お疲れ様です」


    そんな挨拶を交わすと、店員にビールの注文をして、加治木ゆみは京太郎の目の前に座った。


    「思ったより対局が長引いてしまってな。待ったか?」

    「ちょっとだけですよ。気にしないでください」

    「そうか」


    そんな会話をしていると店員がビールを持ってくる。
    ゆみはそれを手に取り、京太郎に向けた。
    京太郎もそれに続く。


    「それでは、加治木プロの初タイトル獲得を祝って、乾杯!」

    「若干照れくさいが……乾杯」


    そう言って、グラスを合わせる。
    小気味いい音が響いた後、二人はグラスに口をつけた。
    ふぅ、とゆみはグラスから口を離してため息をついた。


    「昔はビールなんて飲めたものじゃないと思ってたんだがな」

    「少なくとも、最初の一口は大体の人がおいしく感じてくるんですよね」


    そう言いながら二人はグラスを置いた。
    すると京太郎は満面の笑みを浮かべながら口を開いた。


    「でもほんと、おめでとうございます。中継、見てましたよ。最後の逆転手をアガったときは思わず大声出しちゃいました」

    「ありがとう。とは言え、そこまでのビックタイトルではないんだがな。規模的には小規模だし、運に助けられた所も多かった」

    「いやいや、運とかそういうのもひっくるめて麻雀じゃないですか。あと、小規模だろうと何だろうとタイトルはタイトルです」


    そこまで言うと京太郎はグラスに残ったビールを一気に流し込んで言った。
    殆ど何も食べていない状況で一気に流し込んだため多少クるものがあったがそれを堪えながら言った。


    「俺、ほんとに嬉しかったんですよ。やっと、やっと、加治木さんに確かなものが手に入って」

    「……そうだな。トッププロから言わせればタイトルのひとつぐらいで、と思うんだろうが…」
    「うん、やはり、嬉しかった。ようやく報われた気がするよ」


    ゆみが柔らかく微笑んだ。
    嬉しかった、その一言にいろいろな思いがこめられているのを感じて、京太郎は思わず目頭が熱くなった。
    それを振り払うように京太郎はにやりと笑う。


    「というわけで、加治木プロファンクラブとしてはどうしても祝わずには居られなくてこんな席を設けさせていただきました」

    「なんだそれは……。ファンクラブがあるなんて聞いたことがないぞ」

    「非公式ですがありますよ? メンバーは俺しか居ませんが」

    「一人きりのファンクラブなど聴いたことがないが?」

    「じゃあ、大々的に作りましょうか? 俺、会長やります! 声をかければきっと東横さんとかも……」

    「やめてくれ」


    言葉をさえぎって苦笑するゆみ。それにつられて、京太郎も笑った。

    それから、お互いの近況を話し合う。
    誰々が結婚した、誰々が転職した、誰々に子供が生まれた。
    もともと別々の高校の2人だったが、15年越しの付き合いとなってくると共通の知り合いと言うのも増えてくる。
    しばらくそんな話が途絶えることがなかった。
    それに伴いお酒の量も増えていき、テーブルに並ぶ料理も徐々に減っていった。


    「そうだ。こんなお祝いの席でいうのもなんですが」


    顔がすっかり赤くなり、多少呂律が怪しくなってきた京太郎が話題を切り出す。


    「ん? どうした?」


    こちらは多少赤くなっているものの、まだまだ平気そうなゆみが返事をする。


    「俺、この前……ようやく、咲たちに勝つことが出来ました」

    「!」

    「やっとです。15年、かかっちゃいました」


    怪しい呂律でも、その言葉にどれほどの重みがあるのかゆみは理解していた。
    京太郎がどれほどの敗北を積み上げ、どれほど苦難の道を歩み続けたのか、ゆみにはわかっていた。


    「そうか。よく、頑張ったな。おめでとう」


    ゆみはそう言うのが限界だった。
    それ以上何かを言おうと思ったが陳腐になってしまいそうだったので口を閉じた。


    「ありがとうございます」


    京太郎もそう小さく返した。目頭が潤んでいるのは酒だけのせいではないだろう。
    それを隠すように京太郎は上を向いた。


    「ほんと、長かったです。理不尽な振込みやらツモに苛立ったり、皆が嫌いになりそうになったり、何度もありました」

    「……でも君はやり遂げた」

    「正直、自分でも驚いています。15年前、歩き続けると決めて、ここまで来れた事に」
    「途中でなんども倒れそうになったのに、でも立ち上がれたんです」


    本当に不思議そうに京太郎は首をかしげた。
    ゆみはそれを聞いて手元の日本酒に口をつけて微笑みながらそれに答えた。


    「月並みで陳腐な言い方だが、君は強くなったんだろう。技術よりなにより、精神的に。感服するよ」

    「そうですかね? 俺は、俺なんかよりまっすぐ背筋を伸ばして歩き続けている人を知っているんで、その人と比べちゃうと」


    そういうと京太郎は赤くなった顔でにやり、と笑った。
    ゆみは少し考えるようなそぶりをして、とぼけたように答える。


    「さて、誰のことだ?」

    「さぁ、誰でしょうね。ただ、その人は俺の目標で、憧れで……」
    「俺に手本を示してくれたから、俺はそのあとをついて行っただけですよ」

    「……そうか。ではその人も君を失望させないように頑張らないとな」

    「うっす、俺も負けないように頑張ります。とりあえず、次は通算勝率1%を目指したいですね」
    「多分、今勝率0.000……いくつでしょ?」


    京太郎は笑いながらそんなことを言っているが、もどこか真剣な決意を秘めているのをゆみは感じていた。


    「しかし、先ほど君は15年といったが、そうなると私と君が出会って15年ということになるのか」

    「そう……なりますね」


    あれからさらに酒が進んでいた。
    京太郎はもう真っ赤であり、ゆみも顔には出ていないがそれなりに酔いがまわっているようだ。


    「お互い、年を取ったな」

    「いやいや、加治木さんは相変わらずお綺麗で」


    酒の勢いか、京太郎は普段ではとても言えないような軽口を叩く。


    「おだてても、支払は割り勘だぞ?」


    お猪口を片手にゆみは苦笑する。


    「いやいや、ほんとですって! 流石、美人すぎるプロ雀士なんて評判になっただけありますね」

    「……読んだのか、あの雑誌」


    ゆみはタイトルを取った時、いくつかの麻雀専門紙の取材を受けた。
    それもプロの仕事だと割り切って受けたのだが発売された雑誌の煽り分に
    「美人すぎるプロ雀士。初タイトルを奪取!」などと煽り文が描かれていた。
    もともとあまり目立つつもりはなかったため、雑誌に載るなどといったことは誰にも言わなかったが、
    やはり見ている人間は見ているな、とゆみは頭を抱えた。。


    「加治木さんがタイトル取ってからそれ系の雑誌全部チェックしましたから!」


    どこか誇らしげに京太郎は胸を張った。


    「今すぐ捨てるんだ」

    「いやです」

    「捨てなさい」

    「いやです。保存用布教用観賞用で3冊も買ったんですから」

    「なぜそんな無駄なことを……大体布教とは何だ布教とは」

    「ファンクラブですから」

    「それはもういい……」


    酒の飲みすぎとはまた違う頭痛をゆみは感じていた。


    「全く……周りから散々からかわれたんだ。勘弁してほしい」

    「いやーでも、しょうがないですよ。俺が雑誌の編集長だったらあの煽り文を訂正するどころかよく書いたって褒めてやりますよ!」

    「君まで私をかつぐんじゃない。全く」


    そういってゆみは京太郎の額を軽くパシッとはじいた。
    叱られている側の京太郎はなぜか嬉しそうに笑った。


    「うー……あー……」


    ゆみの目の前で京太郎がテーブルに突っ伏して呻いている。典型的な飲みすぎであった。


    「全く、調子に乗って飲みすぎだ」

    「ずみまぜーん……ずごじやずめば大丈夫だどおもいまず……」

    「今水をお願いしたから、少し休んでいるといい」

    「あー……」


    もはや返事を返す気力もないようで京太郎はそれきり黙りこくった。
    ゆみは、そんな京太郎の姿を見ながらふと思った。


    (私と彼は、いったいどういう関係なんだろうな?)


    あの新人戦で交流が途絶えると思った二人だが、細く長く交流は続いた。
    時たま一緒に麻雀を打ったり、受験の際は勉強を見たり相談に乗ったこともあった。
    お互い働き始めてもメールや電話はしているし、こうやって時々飲みに行くこともあった。


    (先輩後輩……というわけではないな。結局高校も大学も違ったわけだ)

    (友人……まぁ、妥当な線だがどうもしっくりこない)

    (同志……うん、しっくりくる。同じ物を志す、同志。うん、そうだ)


    例え歩いている道が違っても、二人が目指しているものは一緒だった。
    それはアレから一度たりとも変わることはなった。
    京太郎もゆみもただひたすらに進み続けた。


    (とはいえ)


    すっと、机に突っ伏す京太郎に頭に手を伸ばしてみる。


    (お互い、目標に対してそこそこの結果は得ることができた)


    軽く撫でると京太郎は特に何も反応せず黙っていた。


    (もちろんまだまだ、納得できるレベルではないが)


    髪をやさしくかきあげ、ゆみは京太郎の顔を覗き込んでみる。
    京太郎はぼーっとした目でゆみを見た。


    「なんでずがー……」

    (ちょうどいい、変わるきっかけなのだろうか)
    (須賀君は、私のことをどう思っているのだろうか)
    (私は、須賀君をどう思っているのだろうか)

    「かじきさーん?」


    再度呼び掛けられ、ゆみは我に返った。


    「いや、なんでもない」

    そういいつつも京太郎を軽く撫でる手は止まらなかった。


    (ただの飲み友達? 気の合う先輩? 仲間?)
    (……それとも?)

    (っと何を女々しいことを。バカバカしい。年を考えろ)
    (いや、年を考えたから、か。月並みに私もそういうことを考える余裕ができてきたということか)
    (だが、私と須賀君か……)

    (……)

    (うん)
    (悪くないかもしれない)
    (いいかもしれないな)
    (そんな未来も、悪くないかもしれないな)

    「須賀君」

    「なんでずがー」


    ゾンビのような声を出して京太郎は返事をする。
    それに構わず、どこか真剣な口調でゆみは続けた。


    「2人で、旅行にでも行かないか。お祝いも兼ねて」

    「……えっ?」


    一気に酔いが覚めたかのように、真顔になって京太郎は跳ね起きる。
    そんな様子を見て、ゆみはくすりと笑った。
    京太郎は慌てながらもその問いに対して、大きく頷いた。


    夏休みももうすぐ終わろうしているある日。
    まこは麻雀部部室に向かって校舎の中を歩いていた。
    まこにとっての最後のインターハイは終わり、まこの最後の仕事は部長職の引き継ぎを京太郎に行うことだった。


    (あっという間、か)


    部長職を引き継いで1年。
    いい部長だったのかはわからない。
    失敗したこともあった。
    それでも、自分にできることはすべてやり尽くしたとまこは考えていた。


    (後は、京太郎がうまくやってくれるだろ)


    実力は女子3人に劣るが、敗北の苦しみを知り、弱い人間の気持ちがわかる人間。
    そして情熱にかける情熱とひたむきさは部内で随一だ。
    京太郎本人は部長職を引き受けることを最後まで拒否していたが、
    一番部長としての素質があるのは京太郎だというのは先輩、同級生後輩を含めた部内の共通見解だった。


    (きっと、いい部長になるな)


    そんな考え事をしているとあっという間に部室の前にたどり着く。
    本日は京太郎と最後の引き継ぎを行う予定であり、これが終われば
    まこの麻雀部で過ごす時間は終わりを告げることになる。

    一瞬、ドアノブを握るのをためらうが1つ呼吸を置いて、扉を開けた。


    「お疲れ……」

    「しー!」


    まこが部室に入りながら挨拶をした瞬間、部室の中にいた数人の1年生がまこに沈黙を促した。
    突然のことに面喰い呆然とするが、1年生が指差す方向を見て納得した。


    「くー……かー……」


    小さく息を吐きながら京太郎が椅子に座ったままうたた寝をしていた。
    その姿を見ながら1年生の1人が近づき小声でまこに告げた。


    「今日は自主練だったんですけど、須賀先輩が見てくれるってことでさっきまで練習してたんですけど」

    「昨日あまり寝てなかったみたいで、気づいたら……」


    1年生同志顔を見合せてくすくすと笑っていた。
    まこ頭に手を当ててため息をついた。


    「まったく、何をやっとるんじゃ……」

    「ふふふ。じゃあ、染谷部長。私たちは先に帰ります。これから引継ぎがあるんですよね?」

    「ん? あぁ、そうじゃな……聞いておったんか」

    「えぇ。最後の引き継ぎなんですよね? 須賀先輩、ちょっと寂しそうでしたよ?」


    後輩がにやにやとからかうようにまこに告げた。
    まこは苦笑しなが1年生輩の頭をぺしりと軽く叩いた。


    「まったく。からかうんでない」


    叱られた1年生はなぜか嬉しそうに笑いながらまこに頭を下げた。


    「それじゃあ、お先に失礼します」


    そう言い残し、1年生数人はまとめて部室を出ていき呆れ顔のまこと今だうたた寝している京太郎が残された。


    「さて……どうするかのう」


    叩き起こそうかと思ったまこだったが、あまりに気持ちよさそうに寝ている京太郎の姿に頭を掻いた。


    「……先に書類関連の準備だけするか」


    京太郎が寝ている横で机にファイルや書類を並べていく。
    だが、大半の引き継ぎが終わっている状況ということもあり、あっという間に終わった。
    まこは少し悩んだあと、再び京太郎の前に立った。


    「まったく、気持ちよさそうに眠りおって」


    何となく起こすのが躊躇われたまこは椅子を引いてきて京太郎の前に座った。


    「いい気なもんじゃ。……ほれ」


    軽く頭を撫でてみるが、起きる気配はなかった。
    そうしているとなぜかこの2年間のことが思い出され、胸が締め付けられた。


    (よく、わしのような部長についてきてくれたな)
    (いろいろ失敗したり、頼りないところもあったというのに、わしを立ててくれたな)
    (笑われたり、馬鹿にされたりすることもあったというのに、よく頑張ったな)
    (毎日毎日、誰にも負けないぐらい一生懸命練習したな)
    (それでも後輩の面倒も見て、部を支えてくれたな)
    (ほんとに……ほんとに、自慢の後輩じゃよ。おんしは)


    何気なく、まこは京太郎の顔を覗き込んでみた。


    (おっ、ひげが生えとる。剃り残しっちゅうやつか)
    (……そういえば、最近少し背が伸びたのう。少し見上げる必要がでてきたな)
    (顔つきも……うん、どこか、子供っぽさが取れてきた、よう……な……)


    じっと顔を見つめながらそう考えていると、まこの心臓はなぜか激しく高鳴った。
    気恥ずかしい気持ちもあったが、なぜか京太郎目を逸らすことができなかった。


    (子供っぽいと思っておったが、いつのまにか)
    (こんなふうに、変わっておったんじゃな)


    頬を軽く撫でてみる。剃り残しのひげがちくりとまこの掌に触れるのを感じた。
    そうされても京太郎は起きず、気持ちよさそうに眠っていた。


    (最初は軽い後輩だと思っておったが)
    (いつの間にか、頼りになる男になっておったな)
    (……いかん、なんじゃろうな、この感情。柄にもない)


    頭の中でそんなことを考えつつも、まこは京太郎にもう少し顔を近づけた。


    (寝息、聞こえるのう)
    (息が、かかりそうじゃ)
    (こんなところに、ほくろ、あったんじゃな)


    まこの心臓が激しく鳴った。
    自分自身の感情が理解できず、混乱していた。
    ゆっくりと京太郎の頭に手を伸ばし、軽く撫でた。


    (こんなに、近いのに)
    (いやじゃ、ない)

    (なぜ)
    (なぜか、ひどく、京太郎が)


    まこは、京太郎に向けて顔を近づける。
    何かに導かれるように、ゆっくりと。


    (ひどく、愛おしい……)


    激しい心臓の鼓動を聞きながら、まこはその感情を抑えられずにいた。
    まこの唇が京太郎の唇に、ゆっくりと近づく。
    あと、ほんの少し。


    「うぅ、あぅ……」


    その時、京太郎が言葉にならない声を発した。
    ただの意味のない寝言だったがその声はまこを現実に立ち返らせた。
    びくりと体を震わせ、慌てて体を離す。


    「わ、わしは、何をやっておるんじゃ」


    まこは頬に手を当てながら頭を振った。
    顔はひどく熱くなっており、掌に体温が伝わった。


    「く、くそっ!」


    恥かしさと悔しさが織り交じった感情に支配されるまま、まこは悪態をついた。
    そしていまだに気持ちよさそうに眠りこける京太郎の頭をぱしんと軽くはたいた。


    「うっあああっ!」


    突然現実の世界に戻された京太郎は現状が理解できずあたりを見回した。
    するとまこと目が合うと若干寝ぼけたまま口を開いた。


    「……おはようございます?」

    「やかましい! 最後の引継ぎだというのに気持ちよさそうに眠りこけおって!」

    「うっ、あっ、す、すいません」


    起き抜けということもあるがなぜか非常に不機嫌なまこのテンションに京太郎はついていけなかった。
    呆然とするその姿にいら立ちを加速させたまこは京太郎を怒鳴りつけた。


    「えぇい、アホ面晒してないでさっさと顔を洗ってこい!」

    「え、でも、俺」

    「い・い・か・ら。行ってこい!」

    「は、はい!」


    一旦は口を挟もうとするもまこの有無を言わさないその言い方に京太郎は慌てて部室の外に出て行った。
    再び、部室は沈黙に包まれた。


    (京太郎が、帰ってくるまでに、落ち着かねば)
    (本当にアホじゃ、わし)


    そんな中、まこは熱くなった頬と頭を冷ますのに悪戦苦闘していた。


    ――――――――――――――――――――

    ――――――――――

    ―――――


    「あの時、そのままキスしとれば何か変わったのかのう」


    まこは手元の綺麗に装飾された封筒を見ながら呟いた。
    封筒には「WEDDING INVITATION」と記載されており、差出人の名前に京太郎の名前があった。
    昨日届いたものであり、まこはそれを見ながら何となく高校時代のことを思い出していた。


    「結局、先輩後輩のまま、か」


    2人は卒業後も会う機会はあった。
    一緒に麻雀をしたり、食事したり飲みにいくこともあった。
    いまでも非常に仲がいい。だが、先輩後輩の範疇を出ることはなかった。
    むしろ、まこ自身がその範疇を出ないように過度に意識していた。


    「なぜあんなに意地を張っていたのか……まぁ、今更じゃが」


    今、彼のことを異性として好きかと聞かれるとまこは返答に困るだろう。
    だが、それでもまこは針で穴をあけたような小さな喪失感を感じていた。


    「そう、全て、今更じゃな」


    京太郎を男として意識したことも

    京太郎に心をときめかせたのも

    京太郎に確かな愛おしさを感じたことも

    全て、あの部室の中でのひと時の出来事であった。


    「やれやれ、若さとはためらわないこととはよく言ったもんじゃ」


    まこは封筒をバッグに入れると立ち上がった。
    玄関に向けて歩き出そうとする前に、壁に貼られた写真を見る。
    まこがまだ高校2年生の時に、東京駅で撮った写真だった。
    最前列でメンバーにもみくちゃにされている京太郎に、そっと、指を当てた


    (ためらわず行動していれば、きっと……)


    別の未来があっただろう。
    そう思った自分の女々しさに苦笑をしながら、まこは踵を返し玄関に向けて歩き出した。
    靴を履きながら携帯を取出し電話を掛ける。


    「久か? 京太郎からの招待状……あぁ、届いたか。ん? あぁ、もちろん出るぞ。たっぷり祝ってやらんと――」


    そんな会話をしながら、まこは部屋をでた。
    扉を閉める直前に吹き込んだ風で、壁に貼られた写真が小さく揺れた。




    すっかり冬本番となった12月。
    俺は旧校舎の寒い廊下を部室に向かって一人歩いていた。
    窓の外を見ると雪が降っている。
    日本で有数の豪雪地帯である長野県にとっては珍しい光景ではないが、やはり雪は忌々しかった。


    (これからまた雪かきが大変な時期か。めんどくさいなぁ)


    今日は練習日でもないためさっさと帰ろうとしたのだが、部室に忘れ物をしたことに気付いた。
    そんなわけで渋々と部室へ向かって歩いている。
    天気予報によるとこれから雪はさらに振り続ける一方のようだし、さっさと回収してさっさと帰ろう。
    そう思いながら部室の扉に手をかけた。


    「あれ?」


    そこで気づいた。
    鍵は俺が預かっているのに鍵が開いている。
    首をかしげながら俺は扉を開いた。


    「あれ、竹井先輩?」

    「あら、須賀君」


    そこに居たのは竹井先輩だった。
    部室の隅に置かれたストーブの前で体を小さくしていた。


    「どうしたんですか?」

    「暇だったからねー。部室でちょっとごろごろしてたら寝ちゃって……気づいたらこんな時間」


    受験も推薦で決まり、ほぼ登校義務がなくなった三年生は気楽なものだ。羨ましい。


    「須賀君はどうしたの?」

    「俺はちょっと忘れ物を。おっ、あったあった」


    部室の隅に置きっぱなしになっていた麻雀雑誌を回収する。
    とりあえずこれで目的は完了した。


    「これから雪は強くなるそうですよ。早く帰った方がいいっすよ」

    「わかってるんだけどね。外寒いじゃない? 帰るのめんどくさいのよ」


    まるで恋人のようにストーブの間近に座り込んでいる先輩を見ていると若干の可笑しさを感じる。
    麻雀やっているときや、全校生徒の前で話しているときなどあんなに凛々しいのに一歩離れるとこんなものだ。
    俺のクラスにも憧れている連中がいるというのに全くもってガッカリ女子だ。


    「……須賀君、今すごく失礼なことを考えたでしょ?」

    「いえいえ、そんなことありませんよ?」


    そして妙に鋭いのにも困ったものだ。
    最初はビシビシ指摘されて動揺していたがもう慣れたものだ。
    最近はこうやって流せるようになってきた。


    「怪しいわねぇ」

    「俺は正直さと誠実さが売りです」


    訝しげに見る竹井先輩に自分なりにキリッとした表情を見せるが、何故か先輩は噴出した。
    うん、よっぽどこの人の方が失礼だ。


    「嘘ばっかり。正直や誠実っていうのは私のような人のことを言うのよ」

    「寝ぼけてるならコーヒーでも入れましょうか?」

    「言うわね……」

    「先輩の後輩ですから」

    「なるほど、立派に育ってくれてうれしいわ」

    「えぇ。俺も素晴らしい先輩が居てくれて幸せです」


    ふふふと二人で笑いあう。
    全くもって慣れたやり取りだ。
    そうしていると、ふと思い出したことがあった。
    先ほどの話の流れ、2人っきりのこの状況。

    ……チャンスだ。


    「そういえば竹井先輩。以前加治木先輩と麻雀したときのこと覚えてますか?」

    「忘れるわけないでしょ。あれは悪夢よ」


    露骨に嫌そうな顔をして返事をする竹井先輩。
    まぁ、ダブリースッタンなんぞに振り込めば誰でもそう感じるだろう。
    ともかく、覚えていてくれたのは幸いだ。思わず悪い笑みが浮かぶ。
    俺はカバンからシャープペンとルーズリーフを取り出して先輩に突きつける証文を書き始めた。
    竹井先輩は首をかしげながら見ている。
    そして書き上がったそれを差し出しながら続けた。


    「あの日の結果ってこうなってたと思うんですけど、間違いないですよね?」

    『対局結果』
    店員  73000
    久   -23000
    京太郎 25000
    ゆみ  25000

    「え、えぇ。そうね」


    竹井先輩の顔が歪む。
    どうやらあの事を思い出したようだけど最後まで追い詰めさせてもらおう。
    これは俺の正当な権利だ。


    「店員さんがトップ。先輩がラス。俺と加治木さんは当然同点ですが……俺のほうが上家なんですよ」


    ニヤリと、我ながら悪い笑みが浮かぶ。
    先輩は思わずたじろいて何かを言おうとするが、させるものか。
    今は攻めの一手だ。


    「つまり、俺が2位で加治木さんが3位」

    「……それで?」


    平静を装っているが動揺が隠せていないですよ、先輩。
    声が震えてます。


    「先輩、あの時言いましたよね。『私と加治木さんより順位が上ならご褒美あげる』と」

    「う、うぐ」

    「あの時はあまりの衝撃に忘れてましたけど……まだその『ご褒美』もらってないですよねぇ」

    「しっかり覚えてたのね……」


    ぼそっと先輩が呟く。
    忘れるわけがなかろう。
    思春期少年の性欲なめんな。


    「当り前です。さぁ! パンツ! パンツ!」

    「ちょ、ちょっと。やめて!」


    囃し立てる俺に先輩は何とかごまかそうとしているようだ。


    「あれ? 先輩さっき言いましたよね? 正直と誠実は私のような人間のことを言うって」

    「あ、う……」

    「約束、破るんですか。酷いなー先輩。酷い人だーショックだなー。信じていたのになー」


    白い目で見ながら当てつけのように責めてやる。
    先輩も自分の発言がもとになって居るとあっては強く否定できないのだろうか。


    「わ、わかったわよ。見せてあげるわ」


    最後には不承不承、といった感じで折れた。
    内心ガッツポーズをしたことは言うまでもない。
    俺は椅子に座って先輩に向かい合った。
    先輩は何やらモジモジと恥かしそうに手を擦り合わせつつも視線をあちこちに彷徨わせている。


    「先輩?」

    「だ、大丈夫よ。ちょっと、待ってなさい」


    そういって先輩は大きく息を吸ってよし、と小さく気合を入れた後ゆっくりとスカートの裾を掴んだ。
    優希とかと比べて、議会長らしく学校規定を守った長めのスカートは普段、先輩の足の大半を覆い隠している。
    それが、今ゆっくりと俺の眼前に晒されていく。

    黒いタイツに覆われていて、素肌が見えるわけではないのだがなぜか逆にいやらしく感じる。
    普段はあまり見えない太腿が見えてくる。
    ふっくらと膨らんだそれは、許しがあれば思わず頬を寄せたくなるほどの柔らかさを想像させられた。
    指を這わせるとどうなるのだろうか。その白い肌が赤くなるほど強く撫ぜるとどうなるのか。

    心臓が高鳴る。まだ肝心のものを見ていないというのにこの有様だ。
    最初は余裕ぶって先輩をいじめてやろうと思ったのにそんな余裕はあっという間に消え失せた。
    ストーブの燃える音だけが響いている静かな部室が、甘ったるい香でも焚いたような異様な空気になっている。

    先輩は下着がギリギリ見えるラインでいったん手を止めた。
    手が震えている。膝頭も震えている。
    顔は普段は見られないような羞恥の表情を浮かべ、若干呼吸が荒かった。
    その手は止まったままで、なかなか上に行かなかった。
    ちらりとこちらを見てくる。
    きっと期待しているんだろう。

    ――もういいですよ。
    ――ごめんなさい。調子に乗りました。

    そんな言葉を。
    俺も理屈では分かっている。
    明らかに限界な先輩の様子を見ればそう言うべきだというのはわかる。
    今ならまだ間に合うだろう。
    謝ればまたいつも通り。
    先輩はいつもの調子を取り戻し俺をからかってくるだろう。
    しばらくはこのネタで弄られるだろう。
    だが、全て元通り。
    いつも通りの日常に戻れるだろう。

    でも、その言葉は出なかった。

    理由は明白だった。
    最初はパンツが見たいっていう子供のような下心だった。
    だが、今はそれだけじゃない。
    普段は俺をからかう先輩が俺の目の前で羞恥の表情を浮かべている。
    赤い顔。
    揺れる体。
    何か言いたげに震える唇。
    何かを訴える瞳。

    そして、その姿を見ているのが俺一人。
    普段見られれない先輩を俺が独占している。

    それらすべてが俺の今まで感じたことのない欲望を呼び覚ましていた。

    もっと見ていたい。
    その表情をもっと見たい。
    その先へ。


    「先輩」


    先輩が期待を込めた目でこちらを見つめてくる。
    俺は口元にわずかな笑みを浮かべてその期待を裏切った。


    「手が止まってますよ?」


    「わ、わかってるってば」


    精一杯の強がりなのだろう。
    明らかに限界な様子を見せながらも先輩は気丈に告げた。
    だがその姿は俺の期待したもので、酷く満たされた気分だった。

    ゆっくりと、残りわずかな部分をたくし上げていく。
    視線を逸らし、ギュっと目をつぶり、手を震わせながらもゆっくりと。
    思わず、生唾を飲み込んだ。
    あと、少し。
    もう少し。


    「こ、これで、いいでしょ」


    とうとう、黒いタイツのに隠れて、部長の薄い青のパンツが見えた。
    わずかなレースで飾られたそれは俺の体温を熱くさせるのには十分だった。

    頭が熱い。
    ぐらぐらと、言いようのない感情が湧きあがってくる。
    先輩は何度も手を下げて隠そうとするのを必死に耐えていた。
    震えるほど強く瞑られた眼。
    軽く唇を噛み、耐えるかのようなその表情。

    あの、先輩が。
    あの、部長が。
    俺にこんなことをしている。
    俺にこんな姿を見せている。

    何時もの余裕はどこへやら。
    その表情はひどく、ひどく魅力的だった。
    がちり、と頭の中で何かのスイッチが入った。
    もう、止まる要素は何もなかった。


    「先輩」


    もっと。


    「な、なぁに? もう、いい?」


    もっと。


    「約束が違いますよ、先輩」


    もっと、そんな姿が見たい。


    「えっ?」


    もっと、もっと綺麗な。


    「タイツに隠れてパンツがよく見えません。だから」


    綺麗な先輩が、見たい。



    「タイツ、脱いでください。今すぐ」







    最近の加治木先輩がおかしい。

    私は最近そう思っている。高校大学プロチームとすべて一緒で相当長い付き合いだからわかる。
    たとえば先週の話だ。
    私はその日、事務作業のために所属するチームのクラブハウスに入った。


    「お疲れさまっす」


    見知ったチームメイトにあいさつしがてら、椅子に座って雑誌と睨めっこしている加治木先輩を見た。
    まぁ、私の特性もあるだろうがそれ以上に何か必死に考えているようで、気づいていない。


    「どうだろう。いつもの格好では地味すぎ……」
    「かといってこれも年を考えるとちょっと……」
    「こ、これはあまりにも……」
    「いや、彼はこういうやつのが好きそう……」


    ぶつぶつと何かを呟いている。
    私は首をかしげながら先輩に声をかけた。


    「お疲れ様っす。先輩、何読んでるっすか?」

    「おっ、も、モモか」


    そうやって先輩はファッション雑誌――普段先輩が読まないような系統の――から慌てて顔を離した。


    「い、いや違う。ちょっと暇つぶしに読んでいただけで、別に、そんな」

    「へぇ、先輩もこういう系の服着るっすか?」


    雑誌を手に取りペラペラとめくる。
    普段先輩が着ないような、少々派手目の服装が目についた。


    「そんなわけないだろ……。私には合わんだろう」


    念のため言っておくが、普段の加治木先輩のファッションセンスが悪いわけではない。
    むしろ、いわゆるデキる女、と言った感じが出ていて女性人気も高い。


    「いやいや、たまにはいいと思うっすよ。ほら、これとかどうっすか?」

    「待て、そろそろそこまで足を出すのには抵抗があってな……」

    「そんなことないっす、まだいけるっすよ! あっ、これかわいいっすよ」

    「うっ、かわいいとは思うが私が着るのは……」


    私はその日、肝心の用事を忘れしばし加治木先輩とファッション談義に華を咲かせた。
    その日はそこまで疑問を抱かなかった。

    また別の日、私はチームメイトと遠方に泊まり込みに行っていた。
    試合日程も無事こなして帰りの電車の中。
    チームメイト全員が疲れ切ってうたた寝をしている。
    私も多少眠っていたが、ふと目を覚ますと隣で難しい顔でいくつかの旅行雑誌を読んでいる加治木先輩が目に入った。
    またぶつぶつと、独り言を言っていた。


    「いきなり海外はないとして……」
    「妥当に東京や大阪に……遊園地に行きたいとか子供っぽいだろうか……」
    「いっそ北海道や沖縄……いや、沖縄はマズイ。必然的に海に行くことになる……」
    「温泉……さすがにいきなり距離を詰めすぎか……」
    「いや、そもそも日帰り? 泊り? 泊まりだとしたら……部屋は……」


    麻雀を打っているときは非常に凛々しい表情の加治木先輩がこれほど難しい顔をしているのは久しぶりに見た気がする。


    「加治木先輩? 旅行にでもいくっすか?」

    「わっ! も、モモ。起きていたのか」


    明らかに驚きすぎなその姿に逆にこっちが驚いてしまう。


    「い、いや、その、か、家族とな、その、あぁ、そうだ。家族とな」

    「……その割には随分と難しそうに悩んでいたっすね? 距離を詰めるだのなんだの」

    「そ、そんなこと言ってたか? そうだ、モモ。お前は旅行に行ってみたいところとかあるのか?」


    露骨に話題を逸らされる。私は首をかしげながらも温泉に行ってゆっくりしたいと返答した。
    それを聞いた加治木先輩はまた何かを悩み始めた。
    この辺りから私の疑心は膨らみ始めた。

    そしてこれは先日の話。
    私と加治木先輩はチームの集まりで市内のホテルに足を運んだ。
    まぁ、いろいろとめんどくさい大人の集まりというやつだ。
    いろいろ偉い人にあいさつだのなんだのしなくてはならない。
    私はようやく挨拶に一区切りつけ、一旦会場であるホールから抜け出して背伸びをした。


    「……あれ?」


    そうしていると視線の先に加治木先輩が立っていることに気づいた。
    ここは2階だが、吹き抜けになっており廊下から1階の様子を見渡すことができた。
    私は加治木先輩に近づきつつも1階の様子に目をやった。
    どうやら結婚披露宴が行われていたようで、廊下で新郎新婦が去っていく友人たちを見送っていた。
    加治木先輩はその様子をボーっと見ていた。


    「幸せそうっすね」

    「ん? あぁ、モモか」

    「私たちも、もういい年っすからねー。そろそろそういうのを考える時期っすか?」


    私は手すりにもたれながら新郎新婦の様子を見つめた。
    大台の年齢に突入してしまった身としては、なかなか見ていてつらいものがある。


    「……あぁ、そうだな」

    「えっ?」


    私はその加治木先輩の発言に驚きを隠せなかった。
    昔似たような質問があるが、その時は今は麻雀に集中したい、と言って一刀両断されたのだ。


    「意外か?」

    「す、すみません」

    「まぁ、うん。小さいながらもタイトルを取ることができた。だから……」


    そこまで行って加治木先輩は苦笑しながら、天井を見上げ――何かを思い出すかのように――言った。


    「そう言うことを少し考えてみてもいいかなって、最近そう思えるようになった」


    その発言と、いつもの雰囲気とは違う、柔らかで優しげな加治木先輩の笑みに私は思わぬ発言に言葉を失った。
    こう言っては大変失礼なのだが、ただひたすら自分の道を邁進し続けてそういったことは切り捨てていく人間だと思っていた。
    これは一体どういうことだろう。


    「……と、言うわけなんです。どう思うっすか、須賀君」


    そして現在。私は今までのことを須賀君に話して相談をしている。
    須賀君は私と加治木先輩の共通の知り合いだ。
    昔、行き詰った須賀君を加治木先輩を救ったのが知り合ったきっかけだとかなんだとか。
    その後、加治木先輩を通して私も知りあうことになった。

    最初はまぁ、いろいろと勘繰った物だ。
    だが2人の関係はそういうものじゃなくて、それをもっと超越したなにかが感じられた。
    尊敬だとか、敬意だとか、そういった類のものだ。
    加治木先輩にそういった感情を抱くのは、非常によくわかる。
    そんなわけで今でも共通の飲み友達と言った感じで親しくしてもらっている。


    『……』


    電話の向こうの須賀君はなぜか沈黙を保っている。
    様子がおかしい。


    「須賀君? 聞いてるっすか」

    『あっ、あぁ! 聞いてる聞いてる?』

    「何故疑問形っすか? で、何か心当たりとかあるっすか?」

    『こ、心当たり、ねぇ? さぁ、どうだろう、どうだろう」


    露骨に動揺している。
    それこそファッション雑誌や旅行雑誌の時の加治木先輩のように。


    「……もしかして、恋人とか、好きな人とかできたんすかねぇ?」

    『ど、ドウダロウネ』


    今度は棒読みだ。
    怪しい、非常に怪しい。
    まさか、まさかまさか。

    まさか15年目にしてこの男は……。


    「須賀君……あなた、もしかして?」

    『いや、してない! してない! 俺は何にもしてない!』

    「……俺は、ねぇ」

    『あ、いや、その深い意味は』


    その発言を聞いて、私は座り直し長期戦の構えをした。


    「さーって、まだ夜は長いっす。しっかり、聞かせてもらうっすよ」


    まぁ、そのあと須賀君が白状した内容を聞いて私が驚きひっくり返るのはまた別の話である。




    市内のとあるバーで東横桃子は一人酒を飲んでいた。
    座席はカウンターのみ10席ほどのバーに現在は彼女と二人のバーテンダー以外は誰もいなかった。
    何処か思い悩んだ表情でグラスを傾ける彼女に2人のバーテンダーは何も言わずグラスやボトルを磨いていた。


    「マティーニ。甘めでお願いするっす」

    「かしこまりました」


    手元の酒を飲みつくした桃子は新たな酒を注文していた。
    ミキシンググラスにリキュールを注ぐバーテンダーを見つつちらりと時計を見た。


    「そろそろっすかね……」


    そんな呟きを見計らっていたかのようにバーの扉が開いた。
    2人のバーテンダーは小さく来客を迎える言葉を呟いた。


    「待ってたっすよ」

    「ごめんなさい、遅くなって」


    そう言いながらヒールを鳴らしつつ、宮永咲は桃子の隣の席に座った。


    「私はジンフィズをください」

    「かしこまりました」


    もう一人のバーテンが咲の注文を受けてシェイカーを振り始める。
    桃子は手元にやってきたマティーニを見つつちょっと楽しそうに笑った。


    「お酒飲めたんすね」

    「……知らないのに誘ったの?」

    「いやー、誘ってからお酒を飲むような人かなーって疑問に思ったもんっすから」

    「そんなには飲めないけど軽いお酒なら飲めますよーだ。あっ、来た来た」


    咲は目の前に出されたグラスを手に取り小さく掲げた。


    「とりあえず、乾杯?」

    「そうっすね、乾杯」


    グラスがチン、と小さく鳴った。


    「悪かったっすね。いきなり呼び出して」

    「ううん、別に大丈夫だよ」


    2人は昔からの知り合いではあった。
    会えば普通にしゃべる程度の仲ではあった。
    だが、こうやって個別に会って出かけるといったことはしたことがない。
    そんな関係の2人であったが桃子は咲に話したいことがあるからと飲みに誘い、咲はそれを2つ返事で了承した。


    「なんとなく、要件はわかってたし」

    「あぁ、やっぱりバレてたっすか」

    「まぁ、ね。タイミングもぴったりだったし。……これでしょ?」


    咲はバッグから一枚の封筒を取り出した。
    そこには「WEDDING INVITATION」と記されている。
    桃子はそれを見て苦笑しながらも軽く頷いた。
    手元のマティーニをぐっと飲み干した。


    「正解っす。まぁ、前々から話だけは聞いてっすから驚かないと思ってたんすけど、形としてやってくると意外と」

    「結構、心に来るよね」

    「全くっす」


    2人は苦笑気味に笑いあった。
    咲は目の前のグラスを軽く傾けて小さく息を吐いた。


    「多分、男女の違いがあれど似たような気持ちを抱えてるんじゃないかなーって思って」

    「うん。その人選は間違ってないと思うよ」


    グラスに入った酒は半分程度しか入っていなかったが咲の顔はすでに赤くなっていた。
    それと対照的に桃子はまだ赤くもなっておらず、新たな酒を注文していた。
    咲はちょっと驚きの表情で桃子を見た。


    「お酒強いね」

    「いやいや。加治木先輩とかもっと強いっすよ。私はまだまだっす」


    桃子は手元のビーフジャーキーを口に入れ、それを咲にも勧めた。
    咲は軽く礼を言いつつそれを小さくかじった。
    わずかな沈黙が2人の間に流れた。


    「ずっと」

    「?」


    不意に、桃子が口を開いた。
    グラスに口をつけていた咲はそれから口を離し、桃子の顔を見た。


    「ずっと一緒に居たっす。私と加治木先輩」

    「うん……」

    「高校、大学、プロチーム。ずっとずーっと、一緒だったっす。まぁ、私が加治木先輩の後を追いかけたからなんすがね」


    桃子はそこまで言ってふぅ、とため息を吐いた。
    何かを言おうと口を軽く動かすが声にならず、手元の酒を流し込んだ。
    そして、それで息を意を付けたように再びしゃべりだす。


    「これからも2人で同じ道を歩んで行くんだな、って勝手に思っていたっす。変わらないまま」

    「うん。わかる、よ」


    桃子の言葉に咲も絞り出すような返事を返した。
    喋る桃子も、聞く咲もどちらもどこか辛そうな顔をしていた。


    「でも、加治木先輩は別の道を歩もうとしている。……わかってるっす」
    「別に加治木先輩がプロをやめるわけじゃないし、そこまで大きく変わるわけじゃないって」


    桃子はカウンターに肘をついて手を組み、それに頭を預けた。
    まるで表情を悟られないように。


    「でも、私にとって加治木先輩は憧れで、ヒーローで、目標で……本当に、大切な先輩っす」
    「私自身、学んだことや影響を受けたことがたくさんあるっす」


    咲が小さく頷く。
    桃子はそれにも気づかずまるで独り言をつぶやくように続けた。


    「でも、その加治木先輩が人のものになっちゃう。人の奥さんになって、苗字も変わって、別の人と2人で歩き始める。そう考えると」


    再び沈黙が流れる。
    店内には二人のバーテンダーがグラスを磨いたりフルーツをカットする音のみが響いていた。
    咲は何も言わず桃子の言葉を待った。
    どれほどの時間が過ぎたか、ようやく桃子が口を開いた。


    「そう考えると、私の憧れていた加治木先輩はもう居なくなっちゃって、私の中の憧れとかそういう気持ちまで取られた気がして……」


    最後は絞り出すような声だった。
    桃子は残った酒を一気に呷り、おかわりをバーテンに告げた。


    「別に加治木先輩が悪いとか須賀君が悪いとかいうつもりはないんすけど、ね」
    「きっと結婚したって加治木先輩は加治木先輩のままってのもわかってるんすがね」


    八つ当たり、とぽつりとつぶやいて苦笑した。
    咲はその言葉に小さく頷いた。


    「わかるよ。わかる。理屈じゃないもんね」

    「……吐き出せて少し楽になったっす。ありがとう」


    咲は小さく首を振りわずかに残ったジンフィズを飲み欲した。


    「すみません、ゴッドファーザーください」

    「……大丈夫っすか?」


    アルコール度数が高いカクテルを注文する咲に桃子は驚きの声を漏らした。
    咲は赤くなった顔でにこりと笑って大きく頷いた。


    「大丈夫。私も今日はちょっと飲みたい気分だし」

    「そうっすか」


    桃子は赤くなった先の顔を横目で見つつ、前々から思っていた疑問を先にぶつけた。


    「最初、私は須賀君と付き合ってると勘違いしてたっす」

    「私が? 残念ながらそういうのは無かったなぁ」

    「残念ながら?」


    桃子の言葉尻を捕まえた問いに咲は少し悩んで小さく頷いた。


    「うん。今思うと、ちょっとだけね」


    咲はそう言って新たに来たカクテルを小さく口に含んだ。
    口当たりはいいとは言え、強いアルコール度数に小さく息を吐く。


    「京ちゃんとは仲がいいよ。一緒にご飯食べに行くことは沢山あったし、2人で遊びに行ったり買い物に行くこともあった」


    その発言に対して疑問の声を投げかけようとする桃子だったが咲のでも、という声に遮られた。


    「でも、そこまで。結局仲のいい友達だった。少なくとも京ちゃんは、それ以上になろうだなんて考えなかったと思う」

    「わかるんすか?」

    「うん。京ちゃんにとってきっと私は友達で、超えるべき壁で、目標で……そういう色っぽい何かが入り込む余地は、なかったんだ」


    咲は少し多めに酒を口に含んだ。
    喉が熱くなってくるが、こみ上げてきた言い知れぬ感情を飲み込むように酒を流し込んだ。


    「……私が京ちゃんを男の人として好きだったかは正直わからないんだ」

    「えっ?」

    「でも、でもね」


    咲はそう言いながらテーブルに零れた水滴に人差し指を当て、すっと軽く横に指を滑らせる。
    カウンターにできた水滴の線を眺めつつどこか悲しそうに言った。


    「京ちゃんとそういう関係になってみても、いいんじゃないかななんて、思ったことはあったよ」


    顔を伏せた咲に何を言えばいいのかわからなくなった桃子は言葉の続きを待った。


    「でも、駄目。私と京ちゃんの間には越えられない溝が、越えられない壁があって……」


    あの時のことを思い出すと咲の胸は今でも痛む。
    彼の苦しみを分かれなかったあの時。
    あの時の拒絶の言葉は未来永劫忘れることはないだろうと咲は思っていた。


    「だから、私は諦めたんだ。私と京ちゃんがそういう関係になるのは、無理なんだって。どうしようもないんだって」


    桃子は以前、清澄の麻雀部でかつて何が起こったのかを大まかに聞いていた。
    それが故に、何の事情も知らぬものだったら臆病すぎると切って捨てるかもしれないその発言に否定の言葉を返せなかった。


    「まぁ、ほら、恋してたとかそういうのじゃないから。誰だって思うときあるでしょ?」
    「誰々さんと付き合ってみたいとか、恋人になってみてもいいかなとか」

    「……わかるっす」


    慌ててフォローするかのように、取り繕うかのような咲の言葉に、桃子はそう返すのが精いっぱいだった。


    「だけど、京ちゃんが結婚するって聞いて、この結婚式の招待状を受け取った時にまた思ったことがあったんだ」

    「……思ったこと、っすか?」

    「うん。私、加治木さんと京ちゃんって私と京ちゃんみたいに、そんな関係にならないって勝手に思ってた」


    咲は京太郎を通じてゆみと交流を持つことも多かった。
    その時、咲の眼から見る限りは男女の関係というより、何か深い信頼だとか、強い意志だとか、そう言うどこか純粋な何かを感じた。


    「ほんとにわかるっす、それ。2人とも信頼し合って、尊敬しあってた感じだったすからね。まさかそんな関係になるとは」

    「うん。そう、だからこそ」


    咲はカウンターに突っ伏した。
    酒に酔ったわけではなかったが、顔を上げていることができなかった。


    「加治木さんのことすごいって思ったんだ」
    「恋愛以上に強い感情が最初にあったのに、それを乗り越えてその先に進んだから。……だ、だから」


    カウンターに突っ伏したままの咲の声は小さかったがそれでも桃子の耳にしっかりと入ってきた。


    「も、もしかして、壁とかそういうのを勝手に作ってたのは私じゃないかって……」


    咲の体が小さく震える。
    言い知れぬ感情に胸が痛くなるが、それを抑えて口を開いた。


    「だから私も、壁とか溝とかそう言うこと考えずにほんのちょっと勇気を出して前に進んでみれば何か変わったんじゃないかって……」


    そこから先は言葉にならなかった。
    桃子は何も言わず咲の背中を軽く撫でた。


    「ごめんね……」

    「いいっすよ。理屈じゃないっすもんね。こういうこと」

    「馬鹿みたいだよね。自分ひとりで勝手にいじけて勝手に諦めて、人のものになってから後悔するなんて」
    「行動しておけばよかったって思うなんて」

    「しかたないっす。いつだって、誰だって後悔しない選択ができるわけじゃないんですから」


    桃子はしばらく何も言わずに咲の背中を撫で続けた。
    そんな時、桃子はふと思った。


    (麻雀じゃ無敵。裏目引いたとか、受けを間違えたとか、フリテンが残ったとか)
    (そういうことで後悔しているところなんて見たことないっすけど)

    (あぁ、やっぱ、この人も人間なんすね。こんな風に後悔して悲しんだりすることも、あるんすね)
    (むしろ普通の人よりよっぽど不器用っす。麻雀じゃあんな器用なのに……)
    (あぁ、本当。人生ままならんっすね)


    咲が落ち着くまで桃子は咲の背中を撫で続けた。


    「ご、ごめんね」

    「いいっすいいっす。今日はこうやって愚痴を吐き合おうと思って集まったんっすから」


    少し目が赤くなった咲が桃子に頭を下げた。
    桃子はそれを笑いながら流した。


    「さっ、私らも負けていられないっすよ。須賀君よりカッコいい彼氏見つけて2人に見せつけてやるっす! 婚活っすよ婚活!」

    「こ、婚活……」

    「何引いてるんすか。私たちもう三十路っすよ! 手をこまねいてたらアラフォー待ったなしっすよ!」

    「そ、そっか。そうだよね! よし、頑張ろう!」

    「その意気っす! さぁ、とりあえず今日は飲みましょう。改めてかんぱーい!」

    「うん、かんぱーい!」


    2人はその後、2時間に渡り飲み、喋り、歌い大いに楽しんだ。


    そしてべろべろに酔いつぶれ見るも無残な姿になった咲に桃子が頭を抱えるのもその2時間後の話であった。



    カン!



    「ツモ! 1000-2000の1枚!」


    上家の大学生らしい男が元気よく牌を引きアガった。
    京太郎はそれをちらりと見て点数に間違いないことを確認すると軽く返事をして、1000点棒と500円玉を渡した。
    点棒のやり取りが完了し、牌を落としたタイミングで京太郎は口を開いた。


    「2卓オーラスです。頑張りましょう」


    頑張りましょう、とほかのメンバーが続く。
    京太郎が雀荘のメンバーを続けてもう3年経っており、このやり取りもすっかりと手慣れたものだった。
    配牌を取りながら京太郎は点棒状況を確認した。


    『オーラス開始時』
    上家  50,200
    京太郎 13,400
    下家  34,100
    対面   2,300(親)


    ダントツのトップが1人。それに追随する者が1人。ダンラスだが最後の親番の者が1人。
    そして京太郎はそんな順位争いから若干置き去りになっている。
    2着目の下家に跳満を直撃すれば2着浮上だが、ツモならば3倍満が必要だった。
    トップを狙いに行くであろう2着目はある程度は前に出てくるだろうが、直撃を取れるかどうかは別問題だった。


    『京太郎配牌』
    【5】78m56s2246p東西白撥 ドラ8m

    (ドラ赤だけど、微妙な形だな……)


    そう心の中で愚痴りながらも赤が来てくれたことに若干の安心感を感じていた。
    親が牌の切り出しを悩んでいる姿を見ながら京太郎は煙草を口に咥え、火をつけた。
    何気なく、ちらりと雀荘内に置かれたテレビに視線をやった。


    『さぁ、タイトル戦もオーラスを迎えました。点棒状況は……』


    そんな映像を他のメンバーが見つめていた。
    京太郎も同じようにそれに目をやっていたが、知った顔が出てきたタイミングで目線を卓に戻した。
    ちょうど京太郎のツモ番であった。


    (……あれは、別世界の話だ)


    京太郎はそう思いながら、ツモに手を伸ばした。
    その後、京太郎の手はかなり目覚ましく伸び、10順目で聴牌を入れた。


    『京太郎手牌』
    【5】678m5【5】67s22267p ドラ8m ツモ8s


    赤5萬を切り出してリーチをかけ、高目が出ればメンタン三色赤ドラの跳満。
    一応は2位を目指せる手が完成した。
    京太郎は萬子に手を伸ばし、場に切り出す寸前にもう一度テレビを見た。
    見知った顔が2万点離れたトップを追うために逆転のリーチを打っていた。
    それを見ると、ちらりと心の中に芽生えたモノがあった。
    だが京太郎はそれを即座に振り払った。
    流れるような手つきで京太郎は牌を切り、宣言した。


    「リーチ」

    『京太郎手牌』
    【5】678m5【5】67s22267p ツモ8s ドラ8m 打8m


    立直、タンヤオ、赤赤。
    相当都合よく裏ドラが乗らない限りはとてもではないが跳満に届かない。
    だが、京太郎にとっては必然の1打だった。


    (この麻雀は一発赤裏に500円のチップ)
    (つまりこの手をツモればチップが2枚×3人で3000円の収入)
    (1000点100円のこの麻雀では3000円は3万点分の点棒に等しい)
    (3倍満ツモなんて逆立ちしても届かない上、2着目が高目を出してくれなきゃ変わらない順位)
    (だったら3確でもいいから目の前の金を拾いに行く)
    (これが正しい。これが正しいんだ)


    京太郎の勤めている店ではメンバーに打牌制限はない。
    順位の変わらないアガリも当然認められている。
    別段マナー違反を犯したわけではないのだが、京太郎はなぜか普段感じない後ろめたさを感じていた。
    そんな煮え切らない何かとは裏腹に、2巡後に京太郎はツモりアガった。


    「ツモ。2,000-4,000の2枚オールです」

    『京太郎手牌』
    【5】67m5【5】678s22267p ツモ8p ドラ8m 裏ドラ1m 打8m


    結果的には、赤5萬を切れば高目がツモれていた。
    だが、それでも2位にはなれていないため、最終的な収支で考えると京太郎の選んだ選択肢が最善だった。
    文句なしの1手だった。
    だが、大した喜びもないまま京太郎は表情を変えず口を開いた。


    「ラスト。ご優勝は田中さんです。おめでとうございます」


    牌を卓に落とす直前、2着目の手配が見えた。
    萬子の染め手。8索を掴めば出ていた可能性は十分にあった。


    (結果論だ)


    京太郎はなぜか芽生えた後ろめたさや罪悪感をそう切って捨てた。
    そして、淡々と自分の負け分を支払っていった。
    だが、負け分を支払っても先ほどのチップのおかげでこの局だけを見ればプラス収支。
    文句のない内容だったはずだったが、京太郎の心は暗かった。


    (何だってんだ、クソ)


    清算後、待っていた客を案内して京太郎はふたたび立ち番に戻った。
    他のメンバーの横に並びテレビに視線をやった。
    見知った顔が残り少ないツモに手をかけている。
    京太郎はその姿を見ながら先ほどの局を思い出していた。


    (昔の俺なら、あの手は赤5萬切って何が何でも2位を目指していたよな)


    高校時代、まだ京太郎が麻雀部で活動している頃のことを思い出していた。
    心がじくりと痛む。
    そんなタイミングでテレビの中で見知った顔が逆転の1手をツモりあがった。


    『決まった! 優勝は原村和プロ! これでタイトル3冠、止まることを知りません!』


    アナウンサーが興奮気味にまくしたてる。
    テレビの中で見知った顔――和はにこやかな顔を浮かべていた。


    「最近勢いすごいな、原村プロ」


    先輩にあたるこの店のチーフがタバコ片手にそうやって話しかけてきた。
    京太郎はコーヒーを飲みながらさほど興味もなさげに応対する。


    「大学卒業してすぐに破竹の3冠っすからね。恐ろしい恐ろしい」


    テレビの中ではインタビューを受けている和の姿があった。
    その姿に重なるように、画面の下に和の略歴がテロップで表示されている。
    それを見ていたチーフは何かに気付いて、京太郎に向き直った。


    「清澄って確か、お前の出身校だよな。麻雀の名門の。そっか、原村プロと高校一緒だったんだな。そう言えば年も同じだし」

    「……えぇ、まぁ」

    「実は知り合いだったりしねぇの?」

    「……一応、話したことぐらいはありますけど」

    「マジで!? だったら原村プロと会わせてくれよ。俺ファンなんだ」


    明らかに触れてほしくないと言った態度を示す京太郎を気にも留めず、チーフは勢いよく食いついた。
    京太郎は内心の苛立ちを抑えながら、無理矢理にこやかな表情を浮かべた。


    「だから話したことある程度で親しいってわけじゃないんですってば。高校時代から会ってませんし」


    それに、と付け加えてテレビを見ると、トロフィーを受け取り涙を流している和が居た。
    京太郎はそれを見て、一瞬辛そうな顔をした後、自嘲的な笑みを浮かべて言った。


    「向こうは、俺のことなんざ覚えちゃいませんよ」


    決定的な訣別をしたあの日からもうかなりの時間が過ぎている。
    結局京太郎は最初の決意が揺るがないまま、麻雀部を退部した。
    退部届をまこに渡した時、潤んだ眼を必死にこらえながら気丈に頑張ったことを褒めてくれた
    京太郎は今でもその時のことを鮮明に思い出せた。

    その後、何度か優希や和から引きとめられたが京太郎の意思は変わらなかった。
    咲は特に止めもしなかった。ただもう一度、ごめんなさい、と謝られた。
    そして、それを最後に麻雀部のメンバーと会話をすることはなかった。
    休み時間でも学校行事でも話そうと思えば話すことはできたが、全員が意図的に交渉を持とうとはしなかった。

    翌年のインターハイでは規模が大きくなった清澄高校麻雀部が辛うじて全国まで駒を進め、
    そこそこの結果を残したことを聞いても京太郎は詳しく聞こうとも調べようともしなかった。
    ただ、前年に驚異的な成績を残した咲があまり振るわなかったことを聞いたときは少し心が騒いだ。
    その後の秋季、春季大会や3年次のインターハイでは龍門渕や風越の後塵を拝することも何度かあり、
    周りが期待するほど圧倒的な力を発揮しなかったという点についても少し気になった。
    だが、それらの感情を京太郎はすべて他人事だと、自分には関係ない話だとして深く考えようと、関わろうとはしなかった。

    京太郎はそれからしばらく、無為に高校生活を過ごした。
    1年間ほど麻雀から離れ、いろいろなことにチャレンジしようと思ったがすべて長続きしなかった。
    大学も推薦で決まり、3年の秋口にはさらに暇を持て余すようになった。
    結局、京太郎はとある雀荘でアルバイトを始めた。
    最初はまこの店の扉を叩こうとしたが結局それはできず、全く関係のない店だった。
    そして雀荘でのメンバー生活は楽しく、京太郎は自分がやはり麻雀が好きなことを再確認することになった。
    その後、雀荘での仕事にのめりこんでいくことになった。
    それは大学に入学してからになっても変わらなかった。

    最初は真面目に講義を受けていたのだが、勉強していても友人と話していてもふと麻雀がしたくなりその欲求が止められなくなった。
    どれだけ打ってもどれだけ勝ってもどれだけ負けても麻雀がし足りなかった。満たされなかった。
    徐々に講義に出なくなり、最終的には全く大学に行かなくなった。
    雀荘のメンバーとして客と打ち、アルバイト以外でも雀荘に行き麻雀を打つ日々。
    そんな生活をしていればろくに単位など取れるはずもなく2年の時に留年が確定した。
    それが露見したとき京太郎は散々親と揉め、大学を辞めて勘当同然で家を飛び出した。
    慣れ親しんだ故郷を離れ、隣県である静岡県に辿り着き、とある雀荘のメンバーに落ち着いて今に至る。


    (お手本のような転落人生だな、我ながら)


    チーフに過去をつつかれたせいか、あれからのことを思い返した京太郎はあまりの悲惨さに乾いた笑いが出た。


    「そうかい。まっ、確かにプロのご友人が体一つで転がり込んできてこんな場末の雀荘でメンバーなんざやってるはずないよな」


    ある種無神経なチーフの発言にも京太郎は笑いで返した。
    この人間が無神経なのはいつものことであり、そして言っていることも事実であるため京太郎はさして怒りも湧かなかった。


    「そうっすよ。大学中退で親からは勘当されたダメ人間ですからね。麻雀プロ様とお近づきなんてとてもとても」

    「おっと、ダメ人間なら俺も負けてねーぞ。もうすぐ三十路でろくに貯金もないのにまだこんな生活してるからな」


    そう言い合いながら2人は笑った。


    「そういや、今日だったか? 新オーナーが来るの」

    「そう言えばそうでしたね。どんな人なのやら」


    チーフがカレンダーを見ながらそう言った。
    京太郎が務める店は先月まで別の人間がオーナーをやっていたのだが、
    その男が別の事業に失敗し借金返済のため店を手放すこととなった。
    それを聞いた京太郎はすわ一大事と新たな勤め先を求めて右往左往することになった。
    麻雀メンバーの給料は自分が打った際の負け分を引くとほとんど手元に残らない。
    つまり京太郎の貯金は殆どないに等しいため、店がつぶれ仕事を失うとすぐに干上がってしまう。
    チーフと慌てて探し回る日々だったがある日、旧オーナーから店の権利をとある雀荘グループが買ってくれたことを告げられた。
    最近景気のいいそのグループは現在のメンバーもそのまま雇用することを保証してくれ京太郎は胸をなでおろした。


    「噂によると結構美人の女らしいぜ。しかもかなり若いとか」

    「マジっすか。この業界じゃ珍しいっすね」

    「できる女社長ってやつか? そそるな」


    そんな話をしていると客から少し切羽詰まった声が上がった。


    「すんません、リーチ代走お願いします」

    「あ、はーい」


    京太郎は反射的にそう返事をして声を上げた客と席を替わった。
    席を替わった客は慌ててトイレに走って行った。
    手を見るといたって普通のリーチドラ1。待ちも普通の1-4索待ち。
    京太郎はそれを確認して牌を取っていった。
    そして、そのタイミングでドアベルがチリンとなった。


    「いらっしゃいませ!」


    チーフが元気よく声を出す。
    京太郎もそれに続きいらっしゃいませ、と声を出した。
    入口に背を向けて座っているため、京太郎から客の姿は見えなかった。
    先輩メンバーが客に応対する声だけが聞こえてくる。


    「フリーですか?」

    「いや、私は今日伺わせて頂くことになっておりました……」

    「あ、もしかしてオーナー、ですか」

    「はい」


    噂通りの若い女性の声だった。
    だが、京太郎はその声を聴いてドキリと胸が高鳴った。
    聞き覚えのある声だった。
    そして標準語を話しているがイントネーションが微妙に関西圏のものであった。
    思わず手が止まってしまう。同卓している他家から急かされて慌ててツモを手に取った。
    そうしているとトイレから客が戻ってくる。


    「状況は変わらずリーチ続行中です。ツモ番です」


    京太郎はそう言って再び客と席を替わった。
    そして、恐る恐る入口のほうへ向きなおった。


    「わざわざ長野から? お疲れ様です。俺がチーフの……」

    「あぁ、伺っております。少しこれからの話をさせて……」


    チーフがやってきた新オーナーを伴ってバックヤードに向けて歩き出そうとしているところであった。
    チーフは噂通りの若い美人のオーナーがやってきたことに相好を崩している。
    だが京太郎はそれとは対照的にその新オーナーの顔を見て驚きの表情を隠せなかった。
    すると、ぽかんと立ち尽くす京太郎とその新オーナーの目があった。





    「染谷、せんぱい?」

    「……京太郎? 須賀、京太郎か?」




    京太郎と新オーナー、染谷まこはそう言ったきりお互いしばらく立ち尽くした。




    「まさか、まさか買い取った店のメンバーに京太郎がいるとはのう」

    「どんな天文学的確率だって話ですね」


    京太郎とまこは現在雀荘を出てほど近い喫茶店で話をしている。
    京太郎はチーフからはゆっくり話して来いと送り出されたが、後で根ほり葉ほり聞かれることが容易に想像できて多少憂鬱だった。


    「しかし、最近勢いのあるあのグループが染谷先輩のご実家だったとは知らなかったです」

    「まぁ、のう。若干手前味噌じゃが大学に通いながらわしが色々と動き回ったら意外と上手くいってな
    「今では長野県下にいくつか店舗を持てるようになったんじゃ」

    「若き女社長ってやつですか。凄いですね」

    「やめい。親父も現役だし、わしは所詮手伝いの身分じゃ。そんな大したもんじゃないわい」


    まこはそう言って苦笑しながら手元のコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜた。
    京太郎はそれを見つつ手元のコーヒーに口をつけた。


    「県外にも1店舗持ちたいという計画はもともとあったんじゃ。いろいろ探しとるうちに都合のいい居抜き物件があると聞いて」

    「それがうちですか」

    「そう。物件も設備も従業員も揃っているとあれば、1にも2にも真っ先に飛びついたんじゃ」


    そこまで会話をして若干の沈黙が流れた。
    京太郎もまこも話したいこと、聞きたいことはあったのだが口に出そうとすると躊躇してしまう。
    たっぷり3分間ほどの沈黙が流れた後、口火を切ったのはまこだった。


    「大学を辞めたというのは、風の噂で聞いておった」

    「……そうですか」

    「だが、なぜこんなところで雀荘メンバーをやっておるんじゃ?」


    まこのその問いかけに少し躊躇しながらも結局あれからのことを正直にすべて話した。

    麻雀から1度は離れたこと。
    でも結局、麻雀に溺れたこと。
    大学にも行かずひたすら麻雀を打ち続けたこと。
    勘当同然で家を飛び出したこと。
    流れに流れてこの雀荘のメンバーになったこと。

    すべてを話した。


    「そう、か」

    「まぁ、貧乏でピーピーしていますがね。そこそこ楽しくやっていますよ」


    京太郎はそう言って笑った。
    だがその笑いはひどく空虚でまこは思わず目を逸らしたくなった。
    まこは辛そうな、申し訳なさそうな表情をして京太郎に頭をさげた。


    「すまん」

    「……なんで染谷先輩が謝るですか?」

    「わしがあの時、京太郎にも麻雀を楽しめる環境を作っていれば、こんな、こんなことには」

    「やめてください」


    まこの言葉を京太郎の言葉が遮った。
    その有無を言わせぬ強い語気にまこはびくりと体を震わせた。


    「全部、全部俺の責任です。俺が勝手に麻雀部をやめて勝手に麻雀に溺れて勝手に道を踏み外しただけなんです」
    「染谷先輩の責任じゃありません」

    「しかし……」

    「やめましょう、この話は。それよりそちらの話を聞かせてください」
    「竹井先輩と和がプロになったことは知ってますが他のことは全然知らないんですよ」


    京太郎が乾いた笑いを浮かべてまこに向き直った。
    何か言いたげにしつつもまこは麻雀部メンバーの近況を告げた。

    久と和は京太郎も知る通りプロに進んだこと。
    和に関しては知ってのとおり破竹の勢いで勝ち進んでいること。
    優希は社会人リーグに所属していること。
    そこで圧倒的な成績を残し、今年のドラフトの目玉になりそうであること。

    そして咲は大学院に進み今も勉学に励んでいること。


    「……咲」


    最後に聞いた咲の近況に京太郎は思わずぽつりと言葉を漏らした。
    まこは若干苦しそうな顔をしつつも先についての詳しい話を続けた。


    「あれから、咲は麻雀に対して「何か」を失ったようでな。……あれからの大会の結果は聞いとるか?」

    「まぁ、だいたいは」

    「一応は麻雀部に所属し続けたのだが、前のような熱心さも楽しさも、あまり見られなくなった」
    「そんな状態でもその辺人間じゃ手も足も出ないほど強かった。じゃが」


    まこはコーヒーに口をつけ、胸にせりあがる苦い思いを無理矢理流し込んだ。
    小さく息を吐き、淡々と続けた。


    「全国レベルが相手となれば話は別。やはり、思うようには勝てなんだ。いろいろ期待はされていたんじゃがな」


    京太郎は思わず謝罪の言葉を吐きかけた。
    だが、数分前に言った自分の言葉を思い出し口を閉じた。


    「結局咲は高校で麻雀を辞めた。今は大学で麻雀とは違う分野の勉強をしとるようじゃ」
    「今でも時々会うが、楽しい大学生活を送っとるようじゃぞ」


    まこがそう言った後、二人の間には再び沈黙が流れた。
    そんな沈黙の中、先ほどまで昼のドラマを映していた喫茶店内のテレビのチャンネルが
    他の客によって変えられ昼のニュース番組に変えられた。
    そこでは和が三冠を達成したことが取り上げられていた。


    「和、凄いですね」

    「ん? あぁ。そうじゃな」


    ぽつりと呟いた京太郎の言葉にまこは若干戸惑いながら返事を返す。
    京太郎はどこか遠くにあるものを見るようにテレビの画面を見つめながら口を開いた。


    「一緒に麻雀打ってた時期があるとか、正直信じられないです」

    「何を言う。半年間だけとはいえ、京太郎は清澄の麻雀部員じゃった。そのことに間違いはない」

    「そう、ですよね……」


    再び沈黙。
    テレビの画面は政治家の不祥事についてのニュースに変わっていたが、それでも京太郎はテレビに視線を向けたままだった。
    そんな様子を痛ましげな顔で見つめたまこは若干の迷いを見せながらも京太郎に問いかけた。


    「なぁ、京太郎」

    「何ですか?」

    「麻雀部辞めたことを、今はどう思っとる?」

    「どう、とは?」

    「間違ってなかったと今でも思うのか。それとも……」


    まこはそれ以上言わなかったが京太郎は言いたいことをなんとなく察していた。
    京太郎は少し考え込み、若干言いにくそうに口を開いた。


    「正直、少し後悔してます」

    「そうか」

    「最初は全く後悔してませんでした。解放されたって、喜びしかなかったんです。でも」


    表情を変えず真剣に聞くまこの視線が辛くて、京太郎は視線を下げた。


    「竹井先輩や和がプロに行って強い連中の中で必死に戦っているのを見ると、少しずつ考えが変わっていきました」


    テレビで初めて久を見た時の感情は京太郎は今でも覚えている。
    その日、徹麻明けに自宅に帰った時、気だるい体を引きずりながらテレビをつけると久が対局している姿が映った。
    並居るプロに翻弄され、あの久が苦しそうな表情を浮かべながら必死に闘っていた。
    それを見たとき、京太郎の心に初めて後悔の念が生まれた。


    「プロの中で必死にトップを目指して戦い続けている中」
    「俺は結局麻雀が捨てられなくて生活のために目の前の100円を拾う麻雀をしてる」


    そう話ながら京太郎は、先ほど行った3確アガリを思い出す。
    こうやって口に出して自分の気持ちを吐露して、ようやく分かった。
    和と比較したとき余りにも惨めで、小さくて、そんな気持ちから罪悪感や後ろめたさを感じていたのだと。


    「そう考えると、どうしても思っちゃうんです。あの時、麻雀から逃げ出さずに歯を食いしばって必死に戦い続けていれば」


    自嘲気味に笑いながら京太郎は温くなったコーヒーを一気に流し込んだ。


    「何か、違う未来があったんじゃないかって。……烏滸がましい話ですけど、俺だけじゃなくて、皆も」

    「すまんな。言いづらいことを聞いてしまって」


    まこは京太郎の言葉をひとしきり聞いた後軽く頭を下げた。


    「いや、いいんです。俺自身誰かに話して気持ちの整理がつきました」


    コーヒーカップに手を伸ばし、もう飲みきったことを思い出して水が入ったグラスを手に取り口を付けた。


    「まぁ、後悔した所でどうしようもないですけどね」
    「麻雀はやっぱり好きですから、もうちょっとメンバー生活は続けようと思ってま──」

    「京太郎」


    そうやって自虐的に自分のことを話す京太郎の言葉をまこが遮った。
    京太郎はあっけにとられながら、口を閉じた。


    「確かに後悔した所でどうしようもならん。だからこれからのことを考えてみんか?」

    「これから、ですか」

    「あぁ、京太郎。……プロを、目指してみんか?」

    「はあっ!?」


    まこの突拍子もない言葉に京太郎は思わず素っ頓狂な声を漏らす。
    だがまこは真剣な瞳で京太郎を見つめた。
    京太郎は思わず息を飲んだ。


    「冗談で言っとらん、わしは本気じゃ。うちで小さいながらも社会人リーグに参加するチームを作ろうと思っとる」

    「チーム、ですか」

    「あぁ。まだ紙面上の話じゃが、京太郎と話して猶更やる気が出てきたわ」


    まこはそこまで言ってコーヒーに口をつけ、にやりと笑った。
    京太郎はその雰囲気と笑みに気圧される。


    「京太郎。うちのチームに来んか?」
    「社会人リーグで活躍すればドラフトに引っかかる可能性もあるけぇ。そうすればプロの仲間入りじゃ」

    「で、でも俺の実力じゃ」

    「実力不足とは思わん。京太郎は京太郎なりに数年間必死に闘い続けてきたんじゃろう?」
    「例え小さくとも、誰にも見られてなくとも、闘っておったんじゃろ?」


    自信たっぷりなまこの問いかけに京太郎は小さく首を縦に振った。
    それを見てまこは満足そうに笑った。


    「自信を持ちぃ。京太郎が絶望の中、それでも麻雀が捨てられずに戦い続けて磨いてきた武器は通じるはずじゃ」

    「あ……」


    まこのその言葉に必死に反論しようとしていた京太郎の言葉が引っ込む。


    「高校生の時、結局闘うことから逃げ出したことを後悔しとるのなら今度は後悔がないように、もう一度闘ってみんか?」
    「わしも今度は後悔のないよう、必死にいいチームを作ってみせる」


    信用はないかもしれんがな、とまこはわずかに苦笑したのち真剣な面持ちに戻った。


    「わしにもう一度チャンスをくれ。頼む」


    京太郎はまこのその言葉に動揺していた。
    余りにも突然な提案であった。
    プロなど別の世界の話だとほんの数時間前まで思っていた。
    だが、それに向けてもう一度戦わないかと今は誘われている。

    余りにも骨董無形な話だ。
    目指す頂が高すぎる。
    新設チームが勝ちあがり、ドラフトに引っかかる活躍をするなど夢物語だ。
    できるわけがない。

    京太郎は頭の中ではそう考えていた。
    だが、それとは対照的に胸は激しく高鳴った。

    もう一度、戦える。
    何かを目指して、戦える。
    ただ目の前の生活のため、何かの渇きを満たすためにひたすらに麻雀を打ち続ける生活ではない。
    何か高い頂を目指して進むということができる。

    その事実が京太郎の血が熱くなった気がした。
    麻雀部をやめてからずっと最低限の働きしかしてこなかった心臓が激しく動き出す。
    全身に血液がいきわたり、頭が熱くなってくる。
    思わず、握り拳を握った。


    「染谷先輩」

    「なんじゃ?」

    「……こちらこそ、お願いします」


    京太郎は頭を下げた。強く拳を握りながら。


    「もう一度俺に、チャンスをください。もう一度、もう一度俺も闘いたい。後悔がないように、闘いたい」


    京太郎のその言葉にまこは瞳を潤ませ、満面の笑みを浮かべて京太郎の手を握った。


    「あぁ、あぁ! もう一度、もう一度じゃ。今度は、今度こそは……」

    「……はい!」


    まこはそれ以上言葉にならないようだったが、京太郎は何も言わずに大きく頷いた。



    (実況室にて)

    恒子「さぁ、このタイトル戦もいよいよ大詰め! オーラスを迎えました! トップは現在のタイトル所持者、福路プロ!」

    健夜「ほかの3人のうち2人はもう総得点的に望みはないけど、加治木プロは跳満をツモれば逆転だね」

    恒子「あー、すこやんまた間違えた。今はもう加治木プロじゃなくて」

    健夜「そうだった、須賀プロだったね……」

    恒子「すこやんもいい加減慣れなってば。もう3か月は経つんだから」

    健夜「わかってるんだけど、つい……」

    恒子「そう言えばすこやん、須賀プロが結婚するとは思わなかったとか言ってたもんね」

    健夜「うん、何度か話したときはそういうことに興味なさそうだったし……」

    恒子「すこやんとしては独身アラサー仲間が減ってしまって残念って感じ?」

    健夜「アラフォーだよ!」

    健夜「何言わせるの!?」


    シーン

    カメラマン「……(うわぁ)」

    音声「……(アカン)」

    恒子「……(キツッ)」

    健夜「ねぇ、こーこちゃん。振ったなら振ったで最後まで責任持って拾ってよ。折角体張ったのに」プルプル

    恒子「おっと須賀プロ! ここでリーチが入った!」

    健夜「無視っ!?」


    (対局室)

    ゆみ「リーチ」

    美穂子「(来ましたか……闘える体制ではないのでオリるしかありません。流局なら私の勝ちです)」

    プロA「(勝ちの目はないから)」

    プロB「(見守るのみ)」

    ゆみ「(あと2巡だがっ……ここでっ)」ググッ

    ゆみ「! ツモッ。リーヅモタンヤオ三暗刻ドラ1で3,000-6,000!」

    ゆみ「……間違いないな。500点差で、逆転だ」

    美穂子「っ。引かれてしまいましたか……。最後の1枚がまだ山に残っていたんですね」

    ゆみ「あぁ。その1枚を掴むのにかなり時間がかかってしまったがな」

    美穂子「これで2冠ですね、おめでとうございます」

    ゆみ「ありがとう。これからは追われる立場ということもあるから気を引き締めないとな……」

    美穂子「苗字が変わってから、調子がいいですね。愛の力とは偉大です」ニコニコ

    ゆみ「っ、やめてくれ。馬鹿馬鹿しい」プィッ

    美穂子「ふふふ、ごめんなさい。さっ、記者の人たちも待ってますし、行きましょうか」

    ゆみ「あぁ。正直憂鬱だが、これも仕事だしな……」

    美穂子「しかたありませんね。私も正直インタビューとかは苦手です」スタスタ

    ゆみ「あぁ、この扉の向こうにはマスコミが待ち構えているんだな。……気が重い。」ガチャッ


    (対局前廊下)

    京太郎「あっ!」

    ゆみ「えっ?」

    美穂子「あら?」

    京太郎「~~~~~~~! ゆみさーーーーーーーん!」ダダダダダダ、ガシッ!

    ゆみ「ちょ、や、やめ!」ワタワタ

    京太郎「居てもたってもいられずに観客席から走って来ちゃった! おめでとおおおおおおおおおおおおおお!」カカエアゲ

    ゆみ「きゃっ。お、おい! 人が見て……」

    京太郎「ははは、やった。やった。2冠だ! ほんとにおめでとう!」クルクル

    ゆみ「わひゃ!」クルクル


    ガヤガヤ

    記者1「おい、須賀プロを抱き上げてるのって」

    記者2「最近結婚した噂の旦那か。一般人だからメディアには顔を出さないって聞いてたが」

    記者3「とにかくいい絵だ! 撮れ撮れ!」


    パシャパシャパシャパシャ!

    ゆみ「お、おい。撮られてるぞ!」

    京太郎「えっ? あっ……」ピタッ

    ゆみ「まったく、人前だというのにこんな……」マッカ

    記者4「すみません、須賀プロの旦那様ですかね?」

    京太郎「あっ、はい」

    京太郎「(しまった……。顔は出さないようにしてたのに)」

    ゆみ「(まったく。だから止めたんだ)」

    記者4「この度はおめでとうございます。奥様のご活躍を見られてどんなお気持ちですか?」

    京太郎「いや、ほんと嬉しいです。感動です! ほんと、自慢の妻です!」デレデレ

    ゆみ「ちょ、ま!」

    美穂子「(嬉しさのあまり脳がとろけきって正常な判断ができていないのかもしれませんね……)

    記者4「ははは、これはおアツい。このタイトル戦に向けて夫として何か協力したことはありますか?」

    京太郎「もちろん! 勝負に集中できるように家事やなんかの雑事は一手に引き受けていました。スケジュール管理なんかも……」

    ゆみ「こら、あまり余計なことは……」

    記者1「須賀プロ、ちょうどいいので聞かせてください。旦那様とのなれ初めなんかを聞かせてもらえますか?」

    ゆみ「えっ?」

    記者2「そうそう、プロポーズはどちらからどのように?」

    ゆみ「えぅ?」カオマッカ

    記者3「お互い普段はどのように呼び合っているのですか?」

    ゆみ「」プシュー


    パシャパシャパシャ
    ガヤガヤ


    (再び実況室にて)

    恒子「(モニタを見ながら)幸せそうだねー」

    健夜「うん、そうだね」

    恒子「すこやん、顔が能面のようになってる……怖いよ」

    健夜「そう? ごめんね」グギッ

    カメラマン「(その無理矢理な笑みは映すには忍びないな……)」

    音声「(アカン)」

    恒子「あー、すこやん。その最近はいろんな人生を送る女性がいるから結婚だけがその……」

    健夜「でもこーこちゃんは6年前に結婚したよね」

    恒子「いや、それは……」

    健夜「うん、大丈夫だよ。別に嫉妬しているわけじゃないよ」グギッ

    健夜「でもさぁ。最近不思議なんだ」

    健夜「昔は結婚とかをネタにからかわれたのに最近はからかわれなくなったの」

    健夜「私は独身主義者っていうことになってるみたい。不思議だね、そんなこと言ったことないのに。思ってもいないのに」

    健夜「最近はさ、お父さんもお母さんも何も言わなくなってきたんだ。むしろ一緒に老後の話をするようになったんだ」

    健夜「このまえ自立した女性ってかっこいいって若い女子プロに言われちゃった」

    健夜「ふふ、おかしいな。おかしいよね」グギッ

    健夜「あーあ、結婚したいなー。このまま老後も一人なのかなー」

    健夜「ねぇ、どうすればいいと思うこーこちゃん?」グギッ

    恒子「……カメラ止めろ」

    カメラマン「ウス」

    音声「(アカン)」