黒髪の女と金髪の男が歩いている。
     夜空の下だ。月下に晒され、互いの姿が照らされている。


    「じゃあ、東横さん、俺はここで」
    「はい、さよならっす」


     立ち止まったのは、バスの停留所の前だ。別れを告げ、ゆっくりと名残惜しげに女のほうが去っていく。
     数度、振り返るたびに、寂しそうな笑みを男に向けて。

    〇

     炎天下だ。既に七月ともなれば太陽はその勢力を増し、勢いを強める。
     汗が滴る。額の水滴を白のワイシャツの袖で拭い、男は一息をついた。金髪の男だ。
      端整な顔立ちは軽い歪みを見せ、息は喘いでいる。


    「ああ、くそ、何で俺はこんなところに来ているんだか」


     男はぼやくかのごとく呟く。
     理由はあった。男はとある部活動に所属していた。麻雀部という。
     清澄高校麻雀部。今年県予選を突破し、インターハイに出場することになった。弱小――、否"元"弱小部だった。
     男はそこに所属していたが、男性部員は男一人しかいないが故に、ある種雑用ともいえる立場に存在している。
      男はそれをどうと思ったことはない。男自身、自身が弱いと理解しているし、女性に頼りにされるのは嫌いではない。
     何より、女性に頼られるというのは男としてひとつのナルシチズムとでもいう何かをくすぐられるのは快感だ。

     ――まあ、それが雑用という立場というわけだが。
     努力をしていないわけではない、入部してすぐに役は覚えた。符計算もできる。戦術とその理論も理解した。
     されど、結局のところ――、圧倒的に経験が足りない。


    「まあ、俺は俺のペースでゆっくり行けばいいさ」


     男は息を整え、歩みを続ける。
     と、


    「わ」

    「きゃ」


     衝撃がくる。鈍く感じたそれは人と接触したものだ。当たったそれは軽く此方に損傷はないが、


    「あたた……」


     男の目の前に、一人女が尻餅をついていた。
     ああ、と男は呻いた。
     ――少しボーっとしすぎたかな。
     失敗したな、と思いつつ、男は手を差し伸べ、


    「えっと、ごめん。立てる?」


     声をかけた。
     沈黙。
     ――あれ、俺何か間違えたことしたか?
     思考の波が来る。対応を間違えたとは思わない。少なくとも紳士的な行為に分類されるはず――、はずだ。


    「あ、あの」


     声。控えめに女の声が来る。


    「貴方は、私が見えるっすか?」


     女の問いを不可思議に思いつつ、


    「ああ」


     肯定の意を示した。


    「そ、それ本当っすよね? 実はからかったりしてるとかそういうオチじゃないっすよね!!!??」

    「??? あ、ああ」


     弾丸を髣髴とさせる勢いで女がまくし立てる。男は意図がわからない。
     まあ、とりあえず――、


    「と、とりあえずどこか座れるところでゆっくりしよう」


     男は提案した。

     都会というにはこじんまりしている。精々、市とでも呼ぶ規模の一意の片隅に小さくまとまった喫茶があった。
     モダン調で明治を髣髴とさせる。外装は赤いレンガと目立つのに、意識せねば目立たないような喫茶だった。
     店内は薄暗く、天井にはゆっくりと回転する三本の羽で構築されたオブジェが釣り下がっていた。


    「いいところだね」

    「そう思ってくれるっすか? それなら案内した甲斐があったっす」


     既に汗は引いていた。
     店内は薄く冷房が効いていて、快適だ。
     男は、手を上げ、従業員を呼んだ。


    「アイスコーヒー、二つ」


     従業員は慣れた手つきで注文を書き込み、再度確認をとり厨房に戻った。


    「え、と」


     軽業、早業ともいえるそれにあっさりとおいていかれた女性の顔を見て、


    「ああ、ここは奢り。気にしなくていいよ」


     男は言った。


    「でも」


     女が声を続けようとするが、男は制止を促し、


    「男はさ、格好つけたい生き物なのさ。ここは俺に格好つけさせておいてくれよ」


     笑う。


    「案外気障っすね」


     女は釣られて笑った。


    「褒め言葉さ」


     そういえば、と、


    「名前、聞いてなかったな。俺は須賀。須賀・京太郎。清澄高校の一年」


     へえ、と女――桃子は声をもらす。


    「結構、大人びてるのに一年っすか。ああ、私は桃子。東横・桃子。鶴賀学園の一年っす」


     その言葉に、男――、京太郎は少し目を見開き、


    「君、和と戦った子か」

    「? しってるんっすか?」


     知っているも何も、


    「まあ、控えのほうで見てたからね」

    「もしかして、やるんすか? 麻雀」

     ま、ね、と、


    「俺は弱いから、ただ見てただけだけどね」


     情けないな、と思う。先ほど男は格好をつけたがる生き物と吐いた割にはまったく格好がつかない。
     しかし、それを気にしてないかのように桃子は笑って、


    「けど、続けてるんっすよね? 麻雀」

    「ああ」


     即答してみせた。


    「なら、いいと思うっすよ。継続は力なりって言うっすしね」


     そうだな、と男は思う反面、不安がよぎる。端的に言えば、怖い。
     麻雀は今、はやっているというよりは世界的に認められた娯楽の一つだった。
     多くの男女が職業のひとつとしてプロ麻雀師を目指すこともある意味普通だ。
     規模は男性のほうが大きいはずだった。

     ――焦り、だよな。

     自分は自分のペースで、そんな思いの反面が京太郎の心を蝕む。
     怖い。女性においていかれるということが怖い。
     中学の三年を友人として過ごした女性においていかれている現在の状況が、
     麻雀部の一人だというのにおいていかれているという状況が、否――、

     ――怖い、か。

     恐れている。自分が必要とされなくなる状況が。怖い。
     県予選を突破し、インターハイに出場するとなれば知名度が上がる。
     そうなれば来年の入部者が増えるのは明確で、しかし、だからこそ、

     ――雑用としての立場すら失われていく、か。

     もしも来年、入部者が現れれば雑用等の仕事も結果としてその入部者、来年の一年生に繰り越されることとなる。
     だが、それは今の京太郎の立ち居地すら危うく――、

     ――って、何考えてんだ、俺は!!

     頭を振った。あまりにも嫌な未来予想図を振り払うかのように。
     そもそも、来年まで雑用をやっているなんて考えている自分がみみっちい。
     雑用しすぎて、犬根性が染み付いたのかもしれない。嫌なものだ。


    「どうかしたっすか?」


     桃子が不安そうに問うてきた。
     なんでもない、と京太郎は言いつつ、


    「そう言えば、東横さんは何であんなところに?」


     京太郎は問う。


     ありていに言えば京太郎は雑用で遠出をしていた。
     清澄と鶴賀はほぼ反対の方向に位置し、用事がないならばあまり向かうこともない。
     用事はひとつ、タコスだった。
     部員の一人にタコスをこよなく愛する少女がおり、鶴賀のほうに新しくできたタコスの買出しを命じられたわけである。
     本来ならば断るところだが、京太郎に断る意思はなかった。心理的な要因が閉めるのは確実で、

     ――こういうのがだめなのだろうけど。

     部活内部での立ち居地をどこか必死に守ろうと、断ることができない。
     桃子は笑って、


    「あ――、なんて言えば良いんっすかね。まあ、単純に言えば散歩なんっすけど」


     何かを含んだような、笑み。


    「ちょっと自分が分からなくなって」


     顔に翳りが表れてくる。


    「県予選でうちが負けて、三年の先輩たちが引退して」


     あ、と桃子が笑って、


    「そう言えば、前提が分からないっすよね」


     私は、と桃子は、


    「私は影が薄いんっすよ。須賀さん、カメラ越しだからわからなかったでしょうけど。普通の人に私は見えないんっすよ」


     手を差し出され、


    「握ってみてください」


     京太郎は息を呑み、軽く桃子の手を握った。
     熱がある。肉の感触が自身の手を包んだ。柔らかく、肉感的なそれは確かに生の鼓動を京太郎に穿つ。


    「どうっすか」

    「どうって、その、柔らかい、かな」


     なんつーか、セクハラみたいなせりふだな、反省。と、思考し、
     しかし、彼女は笑い、


    「ありがとう」


     手が離れていく。若干の名残惜しさを感じた。


    「私は、私は確かにここにいる。だけど誰からも見えないほどに影が薄い」
    「小さいころからね、私はこうだったんっすよ。ほら、出会ったとき、何度も確認しったっすよね? これが原因なんっす」


     少しだけ楽しそうに、


    「いつもいつもつまらない。一言で言えば灰色みたいな毎日は、先輩のおかげで終わった。終わったように見えたんっすよね」


     しかし、寂しそうに、


    「けど、やっぱり長くは続かないみたいで、ね」
    「私をよく見てくれていた先輩も、大学に進学するとかで、特別補修だとかで顔を現すことが少なくなって」
    「麻雀部での私の居場所が分からなくなったんっすよ」


     それは、と、


    「私はある意味、その先輩のために麻雀部に在籍していたから」
    「そこに居続ける意味の支柱が抜け落ちたみたいで、なんというか空っぽみたいな――」

     似ているな、と京太郎は思った。
     彼女は自分に似ている。立ち居地に悩む。自分と。
     まるで、空気みたいな――、
     と、


    「あはは、いや、すいません。急にこんな話振られても困るっすよねー」


     彼女は笑う。無理をしたような、笑み、
     京太郎は堪らず、


    「良いなぁ」


     そんな言葉を漏らしていた。
     桃子は少し語りすぎたかな、と多少失敗したような感覚を思うが、唐突に来た声がそれをさえぎった。


    「俺は、さ」


     京太郎は、


    「そんな風になれなかったから」


     何かを搾り出すように、


    「誰かのためになるほどの力がないから、雑用で甘んじて、それを仕方ないと思って」


     告げてくる。


    「分かってるんだ。努力が足りないってさ。身にしみてる。努力はしてても足りないってさ」


     それは告解のようで、


    「天性の才も、環境もなかったのに、努力しなきゃ追いつけないなんてとーぜんの理屈。なのに、俺はどこかで言い訳している」


     懺悔のよう。


    「"弱いから"そうやって逃げている」


     あぁ、と京太郎は呻き、


    「だから、羨ましい。嫉妬すら覚える。誰かのために、それだけの思いをもてる東横さんが羨ましい」


     自嘲がくる。


    「――悪い。今のも結局逃げだったよ。何よりも自分を思ってくれる何かを思う、なんて逃げだよな」
    「東横さんとは状況が違うみたいだし、さ」

     桃子は息を呑む。
     その姿はどこか疲弊している。
     そして似ていた。
     ――本当に似ているっす。自分と彼は。
     言葉にできないようなどこかが、自分と似ていた。


    「悪い、今のオフレコ。気にしないでくれ」


     京太郎が目元を手のひらで覆う。
     それはまるで、見られたくないかのような仕草。しかし、桃子は見つめ続ける。
     放っておけない。このままだと、どこかに消えてしまいそうな雰囲気があり、それは儚いような、きっとそんな感じ。


    「失礼します。アイスコーヒー二つです」


     割って入るように従業員の声がする。
     テーブルに置かれたアイスコーヒーは既に水滴にまみれていた。

    〇

     帰りがけ、既に買い物を終えて、京太郎はバスに乗り込んだ。
     そこそこ時間がたってしまった。
     右手を見る。携帯を握る手はアドレス帳を開いており、
     そこには新たに名前が加わっている。

    『東横・桃子』

     喫茶店で連絡先を交換して別れた。
     帰り際に見せた笑顔は、どこか儚げだったことを覚えている。


    『必ず、連絡くださいいっす』


     そう言って、彼女は笑った。
     消えてしまいそうだと思った。だが、


    「暖かかったな」


     握った手を思い返す。それは生の実感を感じさせるには十分だった。

     ――さて、どうしようかね。

     京太郎はメール画面を開き、文脈を思った。
     そもそも、いつから京太郎は自らが、他者のために動くことを是としているのだろうか、と思考する。

     ――ああ、そうだ。

     あれは確かまだ、中学生のころか。
     今だ、咲との仲が深くなっていない時期。接点が図書委員というだけの中だった時期。
     放課後、一人、山積みとなった本に埋もれて読書をしている咲の隣に座った時だ。
     京太郎もつられるように、何となく一冊の本を手に取った。
     とったのは単純な自己啓発の本。タイトルはありきたり、内容は凡庸、ハードカバーで内容以上の値段。そんな本。
     たまたまとったそれを、斜め読み、最初は捲る手もゆっくりだった。
     しかし、捲るにつれてだんだんと速度は飛躍的に加速していく。
     それを見つけたのは、いまだ自己形成段階の中学という時期だったからか、京太郎はあまりにもそれに影響を受けた。
     否、受けてしまった。


    『あなたは本当に必要な人間なのか』
    『必要とされる人間になりなさい』


     端的に言えば、そんな内容。
     しかし、その言葉が嫌に響く。
     金槌でたたかれたような、そんな気分。
     それからだろうか、京太郎が他者のために自らをすり減らすようになったのは。
     
    ○

     まあ、それは、今となっては記憶の片隅にしまわれたモノ。
     未だに夏の暑さは引くことを知らない。汗で張り付いたシャツが不快感をあおる。
     涼しい場所で一服したいと、思うが、
     ――"彼女"が来る前に移動もできるはずがないか。
     吐息。
     頬をかけば、水滴が指先につく。鬱陶しげに振り払う。
     と、


    「あ、須賀さーん、待ったっすか?」


     声が来る。数日前に出会い、知り合った女の声だ。


    「いや、待っていないさ」


     京太郎は笑みを見せる。
     しかし、女は目ざとく、


    「須賀さん。汗でシャツ張り付いてますし、色も滲んでるっすよ? それ、十分二十分じゃならないっすから」


     ばれてたか、と思うが、


    「時間指定のミスのせいで待つことになったのは待つって言わないさ」


     どちらかといえば地方に属する長野の地は、やはりバスの本数が少ない。
     そのせいで適当に時間を指定した罰が当たったらしい。京太郎は炎天下の下で待つことになったわけである。


    「むー、まあ、いいっすけどね」


     どこか拗ねたような彼女が面白い。


    「それじゃあ、行こうか」


     京太郎は告げて、歩き出し、


    「そうっすね」


     その隣に沿うよう、彼女――、桃子も動き出した。

    〇

     出会いは三日ほど前。京太郎がいつものように雑用をしていたときだ。
     どのような采配か桃子と出会った。
     その後軽い連絡を取り続け、休日に会うことになったのだ。


    「さて、どこに行こうか?」


     京太郎は問う。


    「さあ? っていうか、どこに行くか決めてなかったんすか?」


     攻めるような視線を逸らしつつも、しかし、


    「悪い」


     素直に謝る。確かに、甲斐性としてはここは男性が動くプランを立てておくべきだった。
     困った様子を見られたらしく、ほんの少しだけ笑顔を見せた東横は悪戯っぽく、


    「うそっすよ」


     笑って見せた。
     不覚にもその笑顔は可愛い。

    〇

    「いやいや、面白いことになってますなー」


     女の姿が見える。二人の影だ。
     一人はどこか猫を髣髴とさせるトリックスター然とした女。一人は理知的に見える清廉とした女。
     二つの影が追うのは一つの目標だった。
     情報は理知的に見える女――加治木・ゆみからもたらされた。
     東横・桃子の所属する部活の副部長、加治木が二日ほど前に携帯の前で挙動不審な後輩を見たことが原因だ。
     最初は容貌が見えなかったが、だんだんと崩されていく断片的な情報が拾い集められ、
     ・東横・桃子が男とであった。
     ・その男は清澄高校の男である。
     ・休日にデートする。
     こういったことである。


    「――情報を渡したのは正解だったのだろうか?」


     加治木は頭を抱える。
     興味があったのは事実だ。入れ込んでいる後輩が幸福を感受している姿は悪くない。
     特にその後輩の桃子は自分に依存している節があった。
     哲学的に言うのならば、永遠は存在しない。時に季節があるように、人も時を刻んで換わっていく。
     だから、

     ――これで、モモも変わることができればいいんだが。

     分かれはある。必ずだ。望むも望まぬもかかわらず。
     だから、後輩が良く変わっていくのを見届けたいと思う気持ちはある。
     しかし、罪悪感はあった。


    「なあ、今からでも遅くはない。尾行などやめたほうが――」


     ふう、とトリックスター然とした女――、竹井・久は分かっていないな、そんな笑みを浮かべて、


    「あのねえ、ここまできたら引くことなんてできるのかしら?」


     う、と加治木は唸る。興味がなければここには居ない。


    「だが」

    「あ、ほら、行っちゃうわよ? 行きましょう」


     進むことを前提としているかのように動く竹井に加治木は頭を抱え、
     ――妙なことにならなければ良いが……。
     自身が原因であることを忘れ、そう思ってしまう。

     桃子は踊ることが好きだ。踊っているときだけは誰もが自分を感知する。
     今ではかつてほどではあるが、だからといって嫌いになったわけではない。


    「ほ、よ」


     鮮やかな足並み、ステップを、小刻みに、粋に、軽い足取りで、


    「と」


     回転を一つ、そして静止。
     ダンスゲームの筐体から降り、点数を見る。高得点。


    「凄いな」


     桃子はそんな京太郎の呟きに心を良くし、自慢げに胸を張る。


    「当然っす」

    「いや、本当に凄いよ」


     少なくとも俺には無理だ、と京太郎は言う。

     ――無理、か。

     桃子は、京太郎がその言葉を口に挟むとき、どこか暗いものを吐き出しているように感じる。
     自分には無理だ。そういうことを言って、自己を正当化する感覚。
     それは、味わったことのある感覚で、

     ――そう、無理、っす。

     かつてがいつかを侵食し、いまになる。
     自分は今、かつてほど無理を思うことはなくなっていた。

     ――助けたいっすよね。

     傲慢かもしれないが、それはかつて敬愛する加治木から与えられたそれであり、
     かつて背負い込んでいた無力感を感じている目の前の人を、

     ――少しでも和らげたい、そう思うのは傲慢じゃないっすよね?

     思う。


    「須賀さん、無理、なんてそう簡単に言うもんじゃないっすよ」


     だから、"私"は笑ってみせる。

    〇

     ――無理なんていうもんじゃない、か。

     そうだよな、と分かっちゃいるんだけどね、と心に渦巻いた。
     無理、そういった瞬間から、可能性は本当に無理に変化する。

     ――分かっていても、実行できるかは別問題、か。

     言うは易し行うは難し、詰まるところ単純にそう帰結する。努力"しよう"と"する"はまったくの別問題だ。


    「ああ、そうだな」


     だから、返したのは生返事だった。

     ――こりゃ、相当やられてるみたいっすね……。

     桃子は思う。
     "かつて"の自分と同じだ。
     否、症状としては京太郎のほうが酷いかもしれない。
     自分は焦る必要がなかった。友人を望んだこともあったが、いつかそれすら止めた。
     相手に合わせる必要を持たずとも良い状況だった。重責を必要とせず、ただ流されるままでも良かった。
     しかし、京太郎の今は、違う。実力がないことへの苛み、危うい立場への焦燥感、
     気持ちと肉体がすりあわない矛盾への怒り、それらが急激に合わさり濁流のように京太郎の今を飲み込んでいる。
     桃子はそう理解する。息を吐き、


    「じゃ、須賀さん、ほかのところもまわって見ましょ」


     桃子は京太郎の手を取った。

    〇

    「ほうほう、なかなかに大胆な子ですな」


     竹井はチェシャ猫を髣髴とさせる笑みを持って二人を見つめる。


    「意外だな」


     問う呟いたのは加治木だ。


    「ふうん? 何が」

    「モモがあそこまで彼に入れ込むことが」


     そう? と、竹井の声に生返事で返す。
     しかし竹井は、


    「いやいや、ある意味当然なのかもね」


     軽くそういってみせる。


    「それは――」

    「ま、ある意味私のせいでもあるんだけどね」


     ばつが悪そうに竹井は後頭部を軽く掻いてみせる。
     ああ、と、

     ――きっと、こいつにはもう何もかもが――、

     幾度か会う機会が設けられ、それなりの会話もしたが、話せば話すたびに、

     ――あらゆるものを見定められているような……、

     深い洞察力からくる、何もかもを見通すような魔眼に睨まれているような、そんな気分を思わせる。


    「ま、良いわ、行きましょう」


     だが、すぐに表情を切り替えて、


    「あ、ちょっと待て……!!」


     加治木は竹井を追いかける。

    〇

     楽しかった、と京太郎は素直に感じた。
     振り回されるようだったが、幾分か気分は楽になった。
     目の前でアイスコーヒーを飲む桃子を見て、そう思う。
     手の中に納まるアイスコーヒーは冷たく、舌に落ちる液体は苦く、しかしそれが身を引き締めるようで逆に良い。
     ねえ、と、声が突然来る。とっさに身構え、


    「あはは、そんなに身構えなくても良いっすよ」


     桃子の言葉にゆっくりと肉体を落ち着かせる。

     ――ったく、俺はいったい何をやってるんだか。


    「ねえ、須賀さん。今日は――楽しかったっすか?」


     桃子の問いが来る。


    「? ああ」


     答えるが、


    「本当に?」


     再度の問いかけがくる。


    「ああ」


     告げる。


    「……なら、よかったす」


     意図が分からない。


    「えっと、どうか、したのか?」


     京太郎は問う。


    「それは、っすね」


     一瞬のいいよどみを経て、


    「須賀さん。似てるんっすよ」


     言った。


    「かつての、私と」


     これは切開だ。心をこじ開ける余計なお世話。かかわってほしくないところにかかわろうとするような――、


    「今、須賀さんは思ってるはずっす。自分は無力、居場所はない、価値を見出せない」


     うまい言葉が見つからない。ゆえに陳腐。しかし痛烈。オブラートはそこに存在せず、


    「かつての私もそう。望んでほしい。望まれたい。だけど、それを思われない」
    「必要とされず、気づけば孤独。ようやく見つけた陽だまりは、時が過ぎれば朧に消える」
    「たとえまた会うことができるとしても、いつかは今と同じではない」


     吐息、


    「孤独だけではなく、不安まで押し寄せて一切合切を飲み込み、そしてなくしていくような感情がただもまれているような」
    「不安定な感情を宙の間で吊り下げられているような不安とも言い切れない不定形な感情」


     ねえ、と、


    「須賀さん。貴方は望んでいるんっすよね? 望まれることを。確固とした立ち居地を。"自ら"にしか望まれない"何か"を」


     何もかもを言い終えたように、口をつぐんだ。
     京太郎を見る。
     目に光はなかった。
     それは何もかもを言い当てられたかのような顔。


    「御見それしました、とでも言えばいいのかな、俺は」


     絞り出された声は細く、


    「まったくそのとおり、なんだよ」


     頼りがない。


    「雑用なんてさ、前にも言ったけど俺じゃなくてもできる。来期の一年生がどうにかする。少なくとも、今の麻雀部で、
     咲は咲じゃないといけない。和は和じゃないといけない。優希は優希じゃないといけない。先輩は先輩じゃないといけない。
     俺は――」


    ああ、


    「俺じゃなくても、良い」


     涙がくる。押しとどめていた堤防を決裂させたように――、


    「俺の価値は、俺がそこに立つ位置はどこにあるんだろう。部活に顔を出すたび思うんですよ」


     流れていく。


    「雑用を引き受けることで、部活動に専念してもらうことができる、そう思うことでやってきた。やってこれた」
    「けど本当は思っていた。見ない振りをしていた。そもそも、俺は必要であるのだろうかって」


     桃子にはそれが理解できた。同じだった。
     自分の価値がどこにあるのかを理解できない。理解することを望めない。

     ――ある意味、悲しいっすよね。

     目の前に居る少年は本当に"普通"の少年なのだろう。
     自身のように影が薄いわけでもない。しかし、

     ――だからこそ、埋もれてしまう。

     これは加治木との交流を経て気づいたことだ。
     本当は、自分も、いわゆる"かつて"望んでいた"普通"となんら変わりないということに。
     人は結局のところ普遍的に普通であり、テレビに出るような芸能人ですら拾われなければただの"人"と変わりがない。
     自分はある種特殊な立場に存在しつつも、結局のところ何にも"普通"と変わりがなかったのだ。
     ただそれが"他者"と違う視点から気づいただけの話で。
     そしてそれゆえに、

     ――やっぱり、同じなんすよね、私と彼は。

     人はあやふやな存在故に、あやふやな状況であることに気付かない。
     自らの立場がいかに砂上の楼閣のような物であろうとも、それが自分の立ち位置だと思い込む。
     そこには他者が割り込むことができるというのに。
     しかし、気づかない。気づけない。気づこうとしない。気づいてしまえば、

     ――怖いっすもんね。

     そこが立ち位置だと思っていた何もかもがただの夢幻のようであることを、理解することが。
     しかし京太郎は気づいてしまったのだ。
     もしも、周囲の人間が京太郎と同じような人間なのならば、きっと彼はそれに気づくことがなかった。
     だが、周囲にいるのは全員がスペシャルというやつで、
     ――そこに必要とされている人間っす。
     その違いを対比し、自らの危うい立ち位置を認識し、
     だからこそ飢えている。"望まれたい"その願望。
     京太郎は今、その思いにとらわれている。
     かつて加治木に出会う前、ひっそりと持っていたそれを目の前に居る彼も感じている。


    「俺が俺である必要性を望んでほしい。俺じゃなければならない何かがほしい――なのに――」


     言葉が終わる前に桃子は京太郎の手を取っていて、


    「私が望んであげるっすよ」



     そう告げていた。


    「私が、貴方が貴方であることを――、"須賀・京太郎"が"須賀・京太郎"であることを望んであげるっすよ」


     声が来る。


    「私もかつてそうだったっす。私を望む誰かが居てくれることを望んで、そしてその望みはかなった」
    「だから、かつての私の位置に居る須賀君を私はほっておけない」


     ねえ、と、


    「私は、私は望むっす。須賀君が須賀君であることを」


     だから、と、


    「だから須賀君にも一つお願いがあるっす」


     それは、


    「私が私であることを望んでください」


     桃子は笑って、


    「"東横・桃子"と言う存在を見つけることのできる貴方に"東横・桃子"と言う存在を望み、認めてほしい。そう望むっす」

    〇

     桃子は既に理解していた。
     加治木との別れはいつか来る。必ず。必然を必然的に行うように。
     このままではいけないということも、理解している。

     ――だから、まずは一歩として、


    「いかがっすか」


     桃子は控えめに問う。
     京太郎は告げた。


    「喜んで」


     まずはまた新しいいつかを構築する今を求めていこう。
     それは依存ではなく、
     それはただ傷をなめあうような関係ではなく、
     それは平等という、     
     それは対等という、
     そんな形で求めていこう。
     桃子/京太郎はそう思えた。

    〇

     黒髪の女と金髪の男が歩いている。
     夜空の下だ。月下に晒され、互いの姿が照らされている。


    「じゃあ、東横さん、俺はここで」

    「はい、さよならっす」


     立ち止まったのは、バスの停留所の前だ。別れを告げ、ゆっくりと名残惜しげに女のほうが去っていく。
     数度、振り返るたびに、寂しそうな笑みを男に向けて。
     しかし、その寂しさにはどこか希望がある。


    「二度と、会えないわけじゃないっすしね」


     新たな関係を気づくことができた人と別れるのは名残惜しくも、
     だが、それがまた楽しくもあった。


    「さて、じゃ、来週はどんな内容で遊びに誘ってみるっすかね」




    ―終―



     既に幾度も逢瀬を重ねて、気づけば恋人という関係になるのに時間は必要としなかった。
     ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて互いの距離は縮められていき、


    「桃子」

    「京太郎さん」


     既に互いの距離はゼロに等しい。
     水音がする。淫靡さが溶け出したような水音だ。
     それは口付けの音であった。
     互いに求め貪り、そして必要であるということを確認しあうようにだ。
     既に肌は上気している。目の前に居る桃子の肌はまさしく桃のようで、

     ――綺麗、だな。

     そう思った。
     肉体を反転させる。ベッドの上に肉体を下ろす。自身が桃子を見下ろす形に持っていき、


    「剥がす、ぞ?」


     声の変わりに一度、頭部を立てに振るという挙動でその行為への許可がくる。
     胸元のボタンからゆっくりとはがし、しかし、どこか獣のような挙動で手を動かす。
     情けないことに男とは目の前に餌があればがっつかずにはいられない性分らしい。挙動はだんだんと早くなり、


    「~~~~~!!」


     上半身が裸体として晒される。
     しかし手は止めず、自らのシャツをはずしていく。
     京太郎が行ったのはまず互いの上半身を重ね合わせることからだった。


    「――」

    「――」


     そしてそれ以上は動くことをせずただその行為だけを京太郎は求めた。
     それは互いに"はじめて"であったこともあるだろうし、
     かつて互いに"望む"互いであろうというその意思の表れでもあり、そして、体温を感じたいという京太郎の思いもあった。
     東横・桃子は相変わらず影が薄かった。京太郎にはその姿を確認できるが、未だにその姿を見失う人間も多い。
     否、そちらが大半で、京太郎がその唯一だった。
     恐れているのだ。いつか自身の目の前からすら消えてしまうのではないかという心理が、
     ただ抱くという行為に踏みとどまらせている。
     それに気づいたのか、桃子も京太郎の肉体を握り返す。
     互いの肉の隙間が埋まっていき、密着していく。服と服の境界はない。


    「求めないんっすか?」


     小さく声が来る。
     ああ、と京太郎は答えた。


    「もう、求めているからさ」


     体温を感じるというのも、また一つの求めに他ならないと京太郎は感じる。
     闇雲に繋がることは、

     ――違うよ、な。

     繋がることと互いを求め合うことは等号の関係とは当てはまらない。
     繋がるのは原初、男女の概念が生まれたときにできたものだが、
     ――求めあうのは、違うはずだ。
     求め合う概念は、きっともっと後、互いにかけたことを理解することができるようになってからの話だ。
     強く思い。その思いはさらに比例して力になる。


    「京太郎さん。痛いっすよ」


     その言葉に、あ、と、


    「悪い」

    「気にしなくて良いっすよ」


     だって、と、


    「それだけ強く私を望んでくれているのは嬉しいっすから」


     頬を染めている彼女は愛しく、


    「なあ」


     だから、


    「求めていいか?」


     京太郎はそう問うていた。

     ――プラトニックは、ここで終了ってことっすか。

     それは覚悟していたことであり、

     ――望んでいたことでもあるっす。

     それは一線だ。
     互いが互いである一線。
     この行為は意思を融け合わせる行為であり、互いの意思の交わりであり、だからこそ。

     ――意思と意思の一線ってことでもあるっす。

     身をもみ合うように動かしつつ、


    「はがして良いっすか?」


     これ、本当は男の側の言葉っすよね? などと思いつつも、腰にある金属片に手を伸ばし、

     ――あ、あれ?

     ぎこちない動きで手を動かすが京太郎が状態にあるゆえに影となって視界が狭まっているということもあり、
     なかなか先に進むことができない。


    「ああ、俺、自分ではずそうか?」


     いやいや、それはいけない。一度やり始めたことを途中で投げ出すのは許容してよいことではない。
     故に、


    「わ、私がはずしてみせるっすよ」


     必死に手を動かす。

     ――な、何でとれないんすか?

     単純に下手? 否、そんなことはないはず。
     と、


    「あ」


     一息でベルトが外れた。
     得意げに、


    「ふ、ふふん、どうっすか? 私にかかればこれくらい簡単っす」


     桃子の言葉に京太郎から笑みがこぼれ。


    「ああ」


     ただその一言がくる。充足感だ。何か満たされたような気持ちが現れ、だから、


    「京太郎さん。今度はこっちをお願いするっす」


     言葉に、無言で手を伸ばすことで京太郎が肯定を示してくる。金属と金属が小さくすりあわされ、スカートがはずされた。
     小さくと息が漏れた。呼吸が激しくなる。心臓が激しく高鳴り、


    「いくぞ?」

    「――っ!!??」


     自身の湿りに、京太郎の下の湿りが這わされ、悲鳴にも似た、しかし悲鳴のような悲惨さはまるでなく、
     どちらかといえば快感を思わせるような声が湧き出てくる。

     ――ほ、本当に私がこんな声を?

     桃子の未だに冷静な部分が無意識にそんなことを思うが、すぐにそれは胡散する。
     さらに熱がきた。時間差や、うねりの大小を加え、動くからだ。


    「~~~~~~~っ!!」


     声にならないような声を上げ、力が急激に腰の部分に来る。そりあがりさらに京太郎に肉を押し付けるようにして、

     ――!!

     力が抜けた。鉄の棒で支えられていたような状況から急激にその支えを抜きはずされたように思える。
     荒い吐息を整えるようにして、しかしどこか名残惜しげに、


    「ぷ、は」


     京太郎の湿りはそこから失われた。
     酒など飲んでいないのに、すでに酔いが回ったかのような気分が桃子の中を駆け抜けていく。
     しかし、


    「いいか……?」


     酔いなどすぐに引きはがされた。
     "熱い"ものが桃子の下腹部にあたっている。

     ――俺も、まだまだ"男の子"なんだな。

     自身が男である象徴を隆起させ、思う。
     飢えがある。求めていることを理解させられる。
     熱が脳内をかすみがからせ、しかし小さく残った理性がいまだ踏みとどまらせている。
     ここがレッドゾーンだ、と。
     今、この先を行けば、確実に変化が来る。"求め"と"望み"に。
     しかし、

     ――"望んで"るんだよな、それを。

     それだけは確実だ、と己の意志の所在を己に問いかけ、
     そして、答えは来る。
     それは両者互いの意志の交わりを意味する。
     小さく、小刻みの動作で、ゆっくりと、頭が、――縦に振られた。
     それが確認だった。
     まずは一度離れた体からすり合わせる。互いの胸の隙間を埋めていくよう、力強く。
     そこから腹を合わせ、そして、両者の境界を失わせていき、

     ――!!

     まずは粘性の液体に自身の"男性"が包まれた。液体は熱く、しかしそれは不快ではない温度。
     滑り落ちそうなのを必死にこらえ、ゆっくりと落とす。
     静止が来た。侵入を阻む壁だ。ゆくぞ、と自分と相手に問いかけるように告げてから、さらに力を籠める。
     力を感じた。肉を引き裂くような感触がまず伝えられ、そこからさらに、

     ――痛っ……!!

     背に痛みを感じた。固いものが突き刺さるような感触に神経が強張り、筋肉が震える。爪だ。
     桃子が手に力を入れたと同時に、桃子の爪が背に深々と食い込んでいる。

     ――これくらい。

     いい。これは男の名誉だ、そう京太郎は意識することで痛みをさらに思う。痛みから目をそむけない。
     これは"望み""望まれた"一つの証であると。
     だから、京太郎はさらに"求め"た。
     比喩的に言うのなら、貫かれたというのが正しい。
     異物が無理に自分の中へ入ってくるような感覚を思い、しかしそれを望んだのは自分であるということを捉え、
     それゆえにその異物の侵入を許した。
     それは一線を越えた証でもあり、

     ――互いの"望み"が変化する境界線、っすよね。

     いまだに熱が肉体から取れない。そもそも自分の動きがどこにあるかする今だ理解できておらず、

     ――けど、

     それを心地よいと感じる自分が確かにあることを理解した。


    「痛いか」


     声がかかる。


    「痛いっすね」


     だからそれに対し、素直に答えを返し、


    「そうか」

    「そうっす」

    「少し、休むか?」


     いえ、と、


    「休めば、覚めるっすよ」


     そうか、と、言葉を聞き、


    「なら、いく」


     動きが来た。
     痛みがある。それを感じ、しかし多幸感があり、

     ――意志の、所在っすよね。

     科学が進歩し、そしてさらに発展していけば、男が女を、女が男を必要としない時代が来るかもしれない。
     しかし、きっとそれは訪れることはないと思う。
     科学と技術の入りいれぬ隙間に、人間の"意志"があり、そしてその所在を男女互いに思い続ける限りは、
     その時代が来ることはないだろう。
     故に、桃子は求めた。京太郎も求めてくる。

     喘ぎ、
     貪り、
     組み合い、
     混じり、
     喘ぎ、
     語り、
     それを繰り返す。
     ――そして、


    「あ、あああああああああああああ!?」


     果てが来る。際限がないなどあり得ないから、その思いの落としどころ、終着点に両者がたつ。
     それは、


    「っ――、く」


     一つの終わりであり、始まりでもあった。
     交わったまま、布団の中に両者は存在した。
     肉にこもる熱はいま冷めず、互いの熱を自身の熱と勘違いしそうになりながら、自身の意思を思い出す。


    「京太郎さん」


     声がくる。


    「ん? どうした?」

    「明日、休みっすね」

    「ああ。休みだな」


     力が込められた。背筋に腕が回され、


    「どこか、行きましょうか」


     それに呼応するように、自身も腕を背に回す。


    「そうだな。天気予報じゃ晴れだったし、少しくらい遠出しても、良いか」


     そうっすね、とゆっくりとした声が来て、


    「とりあえず、寝よう。明日が来るなら、また朝にでも」

    「ん、そうっすね」


     闇が来る。
     心地の良い闇が。
     来る。