―― 上重漫が長野に降り立った時、そこは既に雪景色だった。

漫「(クリスマスまで後一ヶ月もちょっとやもんなぁ…)」

12月25日。
日本では恋人の為のイベントと化しているそれを目前にした時期に、日本有数の豪雪地帯である長野は既に雪を降らし始めていた。
その勢いは決して激しくはないものの、まだそんな気配を感じさせない大阪在住の漫にとっては不思議な光景に映る。
周りの景色が自分のよく知る日本のものであるが故に、まるで時間を飛び越えてしまったようにも思えるのだ。

漫「(まぁ、勿論、錯覚やねんけれど)」

ところ変われば、気候も変わる。
例え狭い島国である日本の中でもそれは同じなのだろう。
そう漫は判断しながら、タラップから降りきった。
瞬間、雪を含んだ冷たい風がスルリと漫の身体を撫でていく。
その殆どを防寒具が防いでくれたものの、寒いものはやっぱり寒い。
特に彼女の心は今、寂しさに凍え、飢えているのだから尚更だ。

京太郎「漫さん、こっちです」
漫「あ…っ♪」

そんな彼女の視界に入ってきたのは見慣れた顔だった。
漫が毎日、携帯に入れて夜中に一人で見つめているそれは決して整っている訳じゃない。
不細工と呼ばれるほどではないが、しかし、所謂、『イケメン』の部類に入るかと言えば、首を傾げるものもいるだろう。
だが、それでもその顔は漫にとって、世界で最高の男に思えて仕方がないのだ。

漫「えへへ…♪」

それは男の元へと向かう彼女の足取りを見れば分かる。
数センチ積もった雪の中をスキップでもしそうな軽い足取りで男 ―― 須賀京太郎の元へと近づいていくのだから。
まるで子どものような無邪気な歩みは、それだけ漫が京太郎と会える日を楽しみにしていたからだ。
そして、それを京太郎も分かっているからこそ、そんな漫を受け入れるように腕を開く。

漫「ん~っ♪」

そこに迷いなく飛び込んだ漫が最初に感じたのは固い胸板だった。
自分のそれとは比べ物にならないほど逞しいそれは広く、そして力強い。
そんな場所で自分の身体を受け止められ、抱きしめられる感覚に漫の喉がゴロリと鳴った。
まるで猫になったような自分の反応に、しかし、漫は自嘲さえも覚えない。
それよりもこうして数週間ぶりに恋人と触れ合えた事の方が遥かに大きかったのだ。

京太郎「まったく…悪い子ですね」

そんな漫に京太郎が言うのは、今回の長野行きが急に決まった事だからだ。
実際は、漫の中でとっくの昔に決定事項だったのだが、京太郎がそれを聞かされたのは一週間前だったのである。
お陰で漫の事を説得する暇もなく、なし崩し的に自分の本拠地へと乗り込まれてしまった。
それほどまでに自分の事を愛してくれているのは嬉しいけれど、あんまり無茶をして欲しくないというのが彼の本音である。

漫「京太郎君がうちの事、こんなに悪い子にしたんやで…♪」

勿論、漫とてそんな京太郎の気持ちは分かっている。
その辺りの事は既に何度か彼と話し合った事なのだから。
誰より京太郎の事を理解する漫にとって、彼がそれを看過出来る訳がない分かっていた。
しかし、上重漫というのはされっぱなしを良しとする性格ではなく、また臆病な人間でもあるのである。
自分だけ大阪という遠距離にいて京太郎の事を待ち続ける生活に、彼女は少しずつ怯えを覚え始めていた。
さらには以前のデートで大恥をかかされた漫は、ついつい我慢出来ずに長野へと乗り込んできた訳である。

漫「(せめて家だけでも知っておきたい…って言うのは多分、重いやろうなぁ…)」

それがストーカー一歩手前の思考である事を漫はちゃんと理解している。
だが、それ以上に漫は自分が出遅れている事を理解しているのだ。
勿論、京太郎とのメールや電話で彼の家族構成などはおおまかに把握してはいるが、大阪にいる漫は一度も京太郎の両親に顔を合わせていない。
婚約者として受け入れ始めている神代小蒔たちとは違い、彼の家族に認識さえされていない自分。
未だスタートラインにさえ立てていないそれは、彼女にとって大きな壁として映ってしまうのだ。

漫「責任…取ってな?」

無論、漫とてこんな重い女になるつもりはなかった。
彼女の尊敬する末原恭子のように一人で自立する立派な女になるつもりだったのである。
しかし、その目標とする先輩像故に後輩を見捨てられなかった彼女は今や、京太郎の虜になっていた。
もう一人ではどうしようもないくらいの激情に飲まれ、独り立ちする事なんて不可能なくらいに。

京太郎「分かってますよ。俺に出来る限り…漫さんの望む結果にしますから」

そんな彼女の頭をそっと撫でながら、京太郎は力強く頷く。
既にその為の覚悟は彼の中で固まっていた。
勿論、それは漫を娶るという正式な覚悟の固め方ではない。
漫と同じく自身の能力によっておかしくなった二人の女性もまた手放さないという歪で自分勝手な覚悟だ。

京太郎「(そして…その為の方策も俺の中で出来ている)」

漫が長野にやってくるというのは突然で驚いた事だった。
けれど、驚いたばかりではいられないと京太郎は漫に説得を始めたのである。
しかし、結果的に彼女に押し込まれ、長野にやって来た漫を迎えた今、彼にはそれが天運に思える。
三人がこうして一堂に会する機会なんて、高校生でいる限りはまずないのだから。
それがクリスマス前という比較的、早い時期に訪れた幸運を利用しない手はないと京太郎は考えていた。

漫「ふふ…っ♪楽しみやわぁ」
京太郎「そんなに…楽しみですか?」

その考えは既に漫に伝えている。
他の二人はともかく、彼女は学生にとって少なくない額を支払って長野に来てくれているのだから。
そんな彼女に長野を案内する事は出来ないと最初に伝えておくのが礼儀だと京太郎が判断した為である。
勿論、そこには彼女が長野行きを取りやめてくれないかという期待もあった。
しかし、漫はそんな京太郎の考えに賛同し、こうして長野行きが実現したのである。

漫「そりゃそうやん。あの二人がどれだけショックを受けるか…楽しみ」

勿論、それは彼女なりのジョークである。
幾ら一人だけ仲間外れにされている時期が長かったと言っても、それほど漫は性格が悪くはない。
とは言え、その喜びが一片も心の中にないかと言えば、答えは否である。
漫はあくまで普通の人間であり、聖女でもなんでもないのだから。
嫉妬だってするし、不平等感だって覚える事は日常茶飯事だ。
そんな彼女にとって、京太郎の傍にいる二人が知らない事を、自分が知っているという事は自尊心を刺激される事だったのである。

漫「(それに何より…京太郎君はうちを頼ってくれた…♥)」

京太郎の企みを実現させる為に、漫には全てが話された。
そして京太郎は彼女の助力を求めたのである。
それが、漫にとっては堪らなく嬉しい事だった。
京太郎が一番、愛する原村和でもなく、一番、大事にしている神代小蒔でもなく。
一番、支えてきた上重漫を求めてくれた事が嬉しくてにやけてしまったのである。

京太郎「漫さんって意外とSだったんですね」
漫「んーそうかも」

とは言え、漫はそれを京太郎に素直に伝えるつもりはなかった。
自分が二人に対してこんなにも醜く嫉妬しているなんて大好きな人には思われたくなかったのである。
無論、その程度で京太郎が幻滅したり嫌いになったりしないという事はちゃんと漫も理解していた。
だが、それを知った京太郎が不出来だと彼自身を責めない訳ではない事を彼女はちゃんと知っているのである。


漫「うちがマゾ奴隷になっちゃうんは…京太郎君の前だけかもね♪」
京太郎「ぅ…」

だからこそ、話題を逸らす為のその言葉に京太郎が小さく呻く。
それは漫がそっと足を伸ばし、首元で囁きかけたからだ。
ふっと首筋に吐息を吹きかけるようなその甘い言葉に、彼の身体がゾクゾクとした寒気を覚える。
こんな可愛い事を言う子を早く抱きたいと本能が訴えるようなそれを京太郎の理性は投げ捨てた。

京太郎「(勿論…したくない訳じゃないけどさ)」

しかし、そうやって漫にばかり構っていたら折角の計画がぱぁになってしまうのである。
わざわざ長野にまで来てくれた漫には悪いとは思うものの、今日は彼女にだけ構ってはいられないのだから。
既に計画は動き出している以上、ここでホテルに直行…という訳にはいかない。
それよりも出来るだけ早く家へと戻り、準備を進めるべきなのだ。

京太郎「じゃ…行きましょうか」
漫「ぅー…相変わらずつれないんやからぁ…」

そう言いながらも漫は嬉しそうにその頬をにやけさせていた。
何だかんだ言いながら、容易く欲望に流されない京太郎が漫は好きなのだ。
頑固と言っても良いくらいに抑圧的な人だって分かっているからこそ、心も身体も預けられるのだから。
それがつれないと、辛いと思う事はあれど、そんな京太郎の事を漫は誰よりも信頼しているのだった。

京太郎「ちゃんと後で一杯、可愛がってあげますから…ね」
漫「うん…っ♥約束やで…♪」

それに何より…京太郎が自分を蔑ろにするつもりはない。
そう確信する漫の耳にそっと京太郎の言葉が吹きかけられる。
さっきのお返しだと言わんばかりに低く抑えられたそれに彼女の身体がブルリと震える。
そんな反応に合わせて絞り出されたその声は陶酔で甘く染まっていた。

漫「(本当は…今すぐセックスしたいけどぉ…♪)」

しかし、漫もまたそうしていられないという事は理解しているのだ。
今日という日は原村和や神代小蒔を含む四人の関係を一変させる記念日なのだから。
その為の仕掛け人に愛しい人が自分を選んでくれた以上、まずはそれを果たさなければいけない。
例え、もう既に愛液がショーツに染みだしそうになっていても…最優先はまず京太郎の依頼だ。
そう自分に言い聞かせながら、漫はそっと愛しい人から身体を離し、その腕に絡みつく。

京太郎「ふふ…」

そんな漫の様はまるで大好きな父親を迎えに来た子どものように愛らしかった。
それに思わず笑みを漏らした京太郎に、漫はその頬を微かに膨らませ、拗ねている事をアピールする。
勿論、それは漫が京太郎がどうして笑みを浮かべたのかを正確に感じ取ったが故だ。
自分がバカにされている訳ではないとは言え、子ども扱いされているのだと、彼女はそう理解したのである。

漫「京太郎くぅーん?」
京太郎「す、すみません…」

その何とも言えない悔しさに漫は頬を膨らませながら、じっと京太郎の顔を見上げた。
それはさっきと同じく可愛らしいものではあるが、さりとて笑う訳にはいかない。
京太郎とて本気で漫が怒っている訳ではない事は理解しているものの、からかいが過ぎると意固地になるのも分かっているのだ。
上重漫という先輩は基本的には大らかだが、負けず嫌いな性格をしているのだから。

漫「まったく…そんなナマイキな後輩は…こうやで!」
京太郎「わっ!」

そう言って漫は抱きついた京太郎の腕を谷間に挟んだ。
そのままスリスリと身体を寄せる漫に京太郎の中の興奮が高まっていく。
幾ら厚着しているとは言え、それらは女の子の柔からさ全てを阻むものではないのだから。
分厚いセーター越しにもしっかりと伝わっている感触の真髄を理解しているのもあって、それはもどかしい感覚だった。

京太郎「と言うか、これ…漫さんがやりたかっただけじゃないですか?」
漫「さぁ、どやろうね?」

しかし、それが罰になるかと言えば、決して否である。
確かにそうやって密着されると性的欲求こそ覚えるが、それだけだ。
度重なる誘惑を乗り越え、性的経験を積み重ねてきた京太郎にとってそれを抑えこむのは決して難しい事じゃない。
寧ろ、そうやって柔らかな双丘を感じるのはご褒美と言っても良いくらいのものだった。

漫「でも、虫よけはちゃんとしとかへんとあかんやろ?」
京太郎「俺そんなにモテないと思うんですけれど…」

そう悪戯っぽく言う漫にとって、それは決して嘘ではなかった。
それほど飛び抜けて優れているところがある訳ではないが、この須賀京太郎という少年は人に親しまれやすい性格をしているのである。
その上、婚姻関係によって家を維持し続けてきた家系に属する所為か、才能ある美少女たちに好かれやすい傾向にあるのだ。
それをよく知る漫にとって、虫よけは決して軽視出来るものじゃない。
京太郎は既に売約済みなのだと彼のホームである長野で主張する事は、寧ろ、大いに意味がある事だったのだ。

漫「…はぁ」
京太郎「えー…」

しかし、そんな漫の不安を京太郎がまったく分かっていない。
それに思わず彼女が吐いたため息に京太郎は不満そうな声を返した。
須賀京太郎という人間は三人の美少女に好かれるようになって尚、自己評価が低いままなのである。
まさか自分が能力絡み以外で人に好かれるはずがないと心の底から思い込んでいた。
恋する乙女というフィルターを介した上重漫と能力の発現によってさらに自己評価が落ち込んだ須賀京太郎。
そんな二人の認識をどれだけすりあわせたところで一致するはずがないだろう。

漫「まぁ…京太郎君はそのまんまでええと思うよ」
京太郎「どういう意味ですかそれ」

そう結論付ける漫の言葉は諦め混じりのものだった。
彼女はどれだけ言っても、京太郎の認識を変える事が出来ないと分かっていたのである。
漫自身、能力によって京太郎に絡め取られたのだから、何を言っても能力の所為と解釈されるだろう。
勿論、京太郎とてそんな二人のズレには何となく気づいているものの、しかし、呆れるように言われるのを聞いて、流せはしない。
流石に怒り出したりはしないものの、そんな言い方はないんじゃないかとそう思ってしまうのだ。

漫「うちらだけ見といてくれたら…それでええって事」
京太郎「…む…ぅ」

しかし、その気持ちは輝かんばかりの漫の笑顔にかき消されてしまう。
ニコニコと上機嫌なそれに怒っているのがバカらしくなってしまうのだ。
それが彼女の思い通りだと理解していても、萎えていく気持ちは否定出来ない。
元々、本気で怒っている訳でもないのもあって、京太郎が肩を落とした頃にはもう拗ねる気も失せていた。

京太郎「漫さんには敵いませんよ、ホント」
漫「そりゃ先輩やからね♪」

そう自慢げに言う漫の魅力的な笑顔に、京太郎も笑みを返した。
何だかんだ言いながらも、こうして先輩ぶる彼女の事が京太郎も好きなのである。
それは決してオンリーワンのそれではないが、決して他の二人にも見劣りしない。
だからこそ、京太郎はそっと抱きしめられた手で漫の指を求め、そのまま指を絡ませあった。

京太郎「んじゃ、行きましょうか」
漫「うんっ♥」

所謂、恋人繋ぎで歩き出す二人は街の中に溶け込んでいく。
それはクリスマス間近ともあって街中にカップルが溢れかえっているからなのだろう。
そんな中で二人の姿は特に目立つものではなく、有象無象の一部でしかない。
しかし、そう理解しながらも二人はそれを気にする事はない。
数週間ぶりに顔を合わせて話し合う二人にはお互いの姿しか見えていないのだから。
寧ろ、そうやって数多くカップルの中に埋没する事を楽しみながら、二人は須賀邸へと足を運ぶのだった。

………



……







―― かつの神代小蒔の部屋は基本的にものがなかった。

ぬいぐるみやクッションなど女の子らしい小物はあれど、あくまでそれだけだ。
私服の殆どを巫女服で済ます彼女にとって、収納棚すらあまり必要なものではない。
さらに彼女は何か目立った趣味を持つ事は出来ず、また本も自由に買う事を許されてはいなかった。
他の巫女が閲覧したものを借りるしかない彼女は、本棚もこじんまりとした小さなもので済んでいたのである。

小蒔「ふふ…っ♪」

けれど、今の彼女の部屋は大きく様変わりしていた。
ベッドの上のぬいぐるみとクッションはその数を膨れ上がらせ、本棚は壁際を埋め尽くすくらいに立ち並んでいる。
そこに並ぶのはレディコミや女性雑誌など霧島にいた頃には買う事も許されていなかったものばかりだ。
中には本来であれば小蒔がまだ買えないような本まで綺麗に整頓させられている。

―― また机の上には幾つもの写真立てが並んでいた。

そこに大事に収納されているのは清澄麻雀部の面々や京太郎と一緒に取ったプリクラの類である。
彼女はそれを写真として印刷し、一つ一つ写真立てに入れて大事にしていた。
それらは長野に来てから少しずつ増えていった友人たちとの大事な思い出の結晶なのだから。
宝物と言っても過言ではないそれに小さく笑みを浮かべながら、小蒔は手に持った木の棒を細かく動かす。


小蒔「んー…こうでしょうか?」

そう言いながら小蒔が見つめているのはある雑誌の1ページだ。
クリスマス特集と銘打たれたそのページには手編みのマフラーの作り方が書いてある。
それと睨めっこしながら小蒔が作っているのは勿論、京太郎へのクリスマスプレゼントだ。
実家との縁を切り、生活の事を真剣に考えなければいけなくなった彼女に出来る精一杯の贈り物だったのである。

小蒔「(京太郎様…喜んでくれるでしょうか…?)」

勿論、京太郎は小蒔が贈ってくれるのであれば、何でも喜んで受け取るだろう。
どんなプレゼントだってそこに篭った思いを感じ取れるのが須賀京太郎という少年なのだから。
だからこそ、小蒔が何度もそうやって何度もその言葉を思い浮かべるのは不安の為ではない。
これを受け取り、喜んでくれるであろう愛しい婚約者の姿を想像する為だ。

―― コンコン

小蒔「あら?」

その瞬間、小さくなったノックの音に小蒔は真っ赤なマフラーからそっと顔をあげた。
そのまま小蒔はベッドの脇に編みかけのマフラーを大事そうに置く。
クリスマスという一大イベントを前にして初めて編み始めたそれを何かの片手間に完成させられるほど小蒔は器用なタイプではない。
また何か別の作業をしながら相手と会話するのを良しとするような性格でもなかった。

小蒔「どうぞ」
霞「失礼します」

そんな彼女が告げる言葉に一つ断ってから入ってきたのは、小蒔に良く似た顔の女性であった。
少しだけ彼女を大人っぽくしたようなその顔立ちは姉妹と言っても十二分に通用するものであろう。
しかし、二人の間には直接的な血の繋がりはなく、少し遠い親戚程度でしかない。

小蒔「もう…そういうの良いって言うのに」

とは言え、彼女 ―― 石戸霞と小蒔の間に築かれた絆というものは決して遠い親戚という言葉で収まるものではない。
幼い頃から両親と別れ、小蒔の傍に支え続けていた霞にとって、小蒔は妹も同然なのだから。
それは会話した記憶も殆ど薄れた両親などよりもよほど身近で、大事なものである。
そして、それは小蒔にとっても同様だ。
物心ついてすぐからずっと自分の事を護ってきてくれた霞は、小蒔にとっては姉か母に近い存在だったのである。

霞「ごめんなさい。何か癖になっちゃって」

だからこその小蒔の訴えに霞は小さく笑みを浮かべた。
二人がどれだけ想い合っていたとしても、二人の関係は主従の枠を超える事はなかった。
その前提には家の格というものがあり、小蒔が主で霞が従者という関係は決して崩してはいけないものだったのである。
だからこそ、霞は時折、自分を戒めるように「姫様」と呼んでいたし、小蒔はそれに異を唱えたりはしなかった。
しかし、今の二人にはもうそんな堅苦しい主従は関係ない。
家から絶縁し、独り立ちを始めた二人は既に『家族』という新しい絆で結ばれるようになったのだ。

霞「(ううん…それだけじゃないわよね…)」

誰よりも小蒔の身近にいた霞には分かる。
小蒔は昔とは比べ物にならないくらいに明るい少女になった。
勿論、昔から暗い少女ではなかったものの、その身に背負った重圧や力の所為か、暗い表情を見せる事も少なくなかったのである。
けれど、今の小蒔は心から笑い、そして、同時に心から日々を楽しんでいた。
麻雀だけではなく、人生さえも楽しむような小蒔のその表情に、霞は小さな嫉妬を覚える。

霞「(私じゃ…これは引き出せなかったでしょうし…)」

小蒔がそうやって変わったのは他でもない須賀京太郎のお陰だ。
何処にでもいるような男子高校生に小蒔が恋をした結果、彼女の人生は大きく様変わりしたのである。
勿論、小蒔の姉や母代わりを長年続けていた霞にとって、それは心から喜ばしいものだ。
そんな小蒔の笑顔を曇らせようとする神代本家に離縁状を叩きつけるくらいに霞はその変化を喜んでいる。
だが、その一方で霞は自分でそれを引き出してやる事が出来なかった事に気づいていた。

霞「(まったく…本当、ズルいんだから…)」

恋をすると女は変わるという言葉を、霞も知っている。
だが、ついこの前まで彼女はその言葉を理解していても、その本当の意味に気づく事はなかったのだ。
周りに異性というものを極力排除した環境で生活してきた彼女たちにとって恋というのは無縁の存在だったのだから。
しかし、今、こうして京太郎に恋をして、大きく花開いていくような小蒔を間近で見ているとその言葉の意味が良く分かる。
長年、築き上げてきた関係を一足飛びに乗り越えて…小蒔を変えていくそれに霞が思わず胸中でズルいと言ってしまうくらいに。

小蒔「次やったら罰ゲームですからね」
霞「ば、罰ゲームって…」

とは言え、それは霞の中でとても小さなものだった。
彼女にとって重要なのは自分の中の小さな嫉妬よりも小蒔が良い方向へと変化していく事であったのだから。
何より、今の霞は実家の支援というものをまったく受けられない状態なのである。
そんな彼女の事情を知った周りは出来るだけの支援はしてくれているものの、霞はあまり迷惑を掛けるのを良しとするタイプではない。
結果、今の霞にとって日々の生活というものはとても重要で、あまり小さな心の動きに気を取られている訳にはいかなかったのだ。

小蒔「京太郎様と麻雀を打って貰うとか」
霞「それだけは止めて頂戴…」

勿論、霞とて須賀京太郎の事を嫌っている訳じゃない。
自分には出来なかった事を成し遂げた彼に嫉妬を感じるものの、それ以上に感謝している。
とは言え、京太郎の不思議な力を知っている霞にとって、それは恐怖を感じるものだった。
京太郎の事は憎からず思っているものの、それは決して異性に向けるそれではないし、何より小蒔のライバルになどなりたくはない。

小蒔「ふふ♪冗談ですよ。京太郎様は私だけのものなんですから」

そんな霞に小蒔は小さく笑いながら、ぎゅっとその大きな胸を抑えた。
その奥にある心臓の鼓動を確かめようとするような仕草に霞は小さく胸の痛みを覚える。
それは須賀京太郎という人物が決して小蒔だけのものではないと知っているからだ。
事情があるとは言え、京太郎は小蒔以外に二人の女性と身体を重ねている。
それを知って尚、小蒔の幸せを無条件に肯定出来るかと言えば答えは否だった。


霞「…小蒔ちゃんは今、幸せ?」
小蒔「えぇ。勿論です」

断言するようなその言葉は、まったく疑いのないものだった。
自分が幸せである事を何ら疑問に思わないそれに霞は理解する事が出来ない。
霞は未だ恋を知らないとは言え、それを題材に書かれた少女漫画というものを幾つも読んでいる。
だが、そこに描かれていた少女たちの葛藤と今の小蒔はあまりにもかけ離れているのだ。

霞「…どうして?」
小蒔「え?」
霞「どうしてそこまで須賀君の事を信じられるの?」

京太郎の能力に因るものなのか、或いは小蒔が人を疑う事を知らない所為か。
そのどちらかなのか霞には分からないものの、しかし、どちらであっても納得がいかない。
そう思うのは霞が小蒔の事を誰よりも大事に思っているからだ。
勿論、京太郎が小蒔を預けるに足る男であると思っているが、その盲信はあまりにも危うい。
他の家族たちが京太郎の事を信頼している以上、自分がそれを指摘しなければと霞は思ったのだ。

小蒔「京太郎様が私に一杯、素敵なものをくれたからです」
霞「…」

そんな霞の言葉に小蒔は小さく微笑みながらそう応える。
自身が幸せである事をはっきりと表現するそれに霞は何を言えば良いのか分からなくなる。
今までの実績に裏打ちされたそれを揺らがせるには、霞はあまりにも京太郎の事を知らないのだ。
婚約者の家族としての距離感を保ってきた霞の言葉は、それまでに苦しみながらも確立してきた小蒔の信頼を揺るがせるのにはあまりにも弱いのである。

霞「でも、須賀君の傍には一杯、女の子がいるのよ」
小蒔「知ってます。その人たちが私よりも素晴らしい人だって事も」

それでも、紡いだ言葉が負け惜しみなのか、霞自身にも分からなかった。
何せ、そんな事は小蒔自身が誰よりも良く分かっている話なのだから。
つい先日、その事実に死者が出てしまいそうな大騒ぎを起こした小蒔がそれを知らないはずがない。
それを今更、こうして指摘したところで小蒔の心の傷をほじくり返すだけなのは霞にもうっすらと理解出来ていたのだ。

小蒔「でも、京太郎様は私の事を愛してるって…幸せにしてくれるってそう言ってくれたんです」

だが、そんな言葉さえも小蒔にはもう届かない。
盲信と共に口にするそれははっきりと硬い意思を示している。
それに霞は小さな驚きを感じながらも、こうなって当然であると内心思っていた。
霞の知る小蒔はとても優しく、そして臆病で、何事にも真剣な少女なのである。
そんな子が躊躇いなく家を捨て、駆け落ちを選べるほど一人の男に入れ込んでいるのだ。
それほどまでに高まった信頼や愛情を、ただの言葉で崩せるほど小蒔という少女は容易くない。
最早、家族の言葉でさえ届かないほどに小蒔は京太郎に心酔しきっていた。

小蒔「京太郎様は約束を破るような人じゃありません。きっと私の事を選んでくれるはずですから」

それをさらに感じさせる小蒔の言葉に霞はそっと肩を落とす。
そこに何処か敗北感めいたものを感じるのは、誰よりも小蒔の傍にいた自負があるからだ。
つい半年までは小蒔に一番頼りにされるのは自分だったのに、あっという間に京太郎に追い抜かされている。
それに敗北感に似たものを感じるほど、霞は小蒔の事を大事にしてきたのだ。

霞「…そう。ごめんなさい。変な事言ってしまったわね」
小蒔「良いんですよ。私だって…今の状況が異常だって分かってるんですから」

霞の言葉に、小蒔はその笑みを崩さずにそう返した。
小蒔自身、自分が世間知らずであり、また自分と京太郎を取り巻く環境が特殊だと理解しているのである。
少なくとも、小蒔を心配して霞が京太郎の危険性を訴えるのも当然だと思うくらいに。
だが、そう思いながらも、小蒔は自身が京太郎へと向ける信頼を決して揺るがせる事はない。

小蒔「でも…私はとっても幸せです」
霞「それは…須賀君がいるから?」
小蒔「いいえ。皆がいるからです」

それは今の彼女の幸せを、京太郎がくれたからだ。
半年前からは想像も出来ないくらいに充実した日々は全て京太郎が起因とするものなのである。
勿論、小蒔とてそれが京太郎だけの手によって作られたものではない事くらい理解出来ていた。
だが、それでも京太郎が自分の為に駆けずり回り、手を尽くそうとしてくれていたのは変わらない。

小蒔「京太郎様は私に友達を作ってくれました。私の居場所を作ってくれました。私を誰よりも受け入れてくれました」

そう言葉を続ける小蒔の胸に様々な像が浮かびあがる。
長野に来てから友人になれた仲間たちの事。
孤立しかけていたクラスに馴染めている自分の事。
そして、あんなに嫌っていた能力を受け入れ…真の力を発揮した時の事。


小蒔「それに何より…私に霞ちゃんたちって言う…大事な家族を作ってくれたんです」

そして最後に浮かび上がってきたのは目の前の霞たちを筆頭とする家族の事だ。
土台こそ幼い頃から出来ていたとは言え、こうして家族と呼べるようになったのは最近である。
そしてその起因となり、小蒔にそう呼べるだけの勇気をくれたのも他でもない京太郎なのだ。
京太郎がいなければ、小蒔は今でも霞たちの事を何ら憚る事なく、家族と呼ぶ事は出来なかっただろう。

小蒔「だから…私は京太郎様と…この幸せを信じられるんです」
霞「そう…」

そう言葉を結ぶ小蒔に霞もまた笑みを返した。
それは諦観めいたものではなく、心から微笑ましげな優しいものである。
何だかんだ言いながらも、霞は心優しい少女であり、小蒔に甘いのだ。
小蒔がそう言うのであれば…出来るだけ望む結果を得られるようにサポートしよう。
微笑みの奥でそう決意を固めた瞬間、彼女はベッドに置かれたマフラーに気づいた。

霞「それは須賀君へのプレゼント?」
小蒔「はいっ」

尋ねる霞に小蒔はその顔を子ども染みたものへと変える。
まるで自分の宝物を褒められたようなその素直な反応に霞はクスリと笑みを漏らした。
けれど、小蒔がそれを自慢気に広げた時にその笑みはぎこちないものへと変わる。

小蒔「ここに『LOVE♥』って入れるんですよー」
霞「そ、そう…?」

そう言って小蒔が見せる真っ赤なマフラーに霞はその頬を引き攣らせた。
ニコニコと嬉しそうな小蒔には言い難いが今時、そのセンスはどうなのかと微かに思う。
しかし、それをはっきりと口に出せるほど霞もまた恋に詳しい訳じゃない。
恋人のプレゼントってそういうものなのかしら、と自分を納得させながら、じっとそのマフラーを見つめた。

霞「あ、そこ失敗してるわよ」
小蒔「え…?ど、何処ですか!?」
霞「ほら、ここよここ」

指摘する霞の声に小蒔はじっとマフラーを見つめる。
そんな彼女の視線を指で誘導しながら、霞は編み違えになっているそこを指さした。
そこは微かに盛り上がり、周囲に違和感を放っている。
まだ完成には程遠い今の状況ではそれほど目立たないが、完成した頃には一目で分かるものになっているだろう。

小蒔「あ、本当です…ちゃんと直さないと…」
霞「編み物大変だものね…」

それが一目で分かったのは霞もまたそうやって四苦八苦した時期があったからだ。
一時期、編み物を趣味にしていた彼女もまたそれに悩まされたのである。
今では慣れた所為か殆どそんなミスはしなくなったものの、今でもその時の苦労は簡単に胸に浮かんだ。
大作を完成させた後にミスを見つけた時など、一日中落ち込んだくらいである。

霞「(とは言え、手伝う訳にもいかないでしょうし…)」

そんな苦労も乗り越えてきた霞が手を貸せば、小蒔はきっとすぐさまそれを完成させる事が出来るだろう。
だが、そうやって手を貸せば、それは小蒔の望むものにならない事くらい霞にも良く分かっていた。
小蒔がプレゼントしたいのはあくまでも手作りマフラーであり、見栄えの良いマフラーなどではないのだから。

霞「…明日から一緒にやりましょうか?」
小蒔「え?」

だからこそ、それが霞に出来る最大限の小蒔のサポートだ。
手を貸せばそれが小蒔の望むものではなくなってしまうが、今のようにミスの指摘くらいは出来る。
近くに居れば小蒔だってわかりにくいところを霞に教えを乞う事だってしやすいだろう。
何よりここ最近は忙しくて出来なかった編み物がしたいという感情も霞の中にはあった。

霞「隣に居れば色々とアドバイスもしてあげられるでしょ?」
小蒔「はいっ!」

そう尋ねる霞に小蒔は輝かんばかりの笑みで頷いた。
実際、小蒔自身、本当は霞に色々と尋ねたかったのである。
彼女にとってはこれは初めての編み物で、そして霞が編み物上手なのを知っていたのだから。
しかし、それを簡単に口に出来なかったのは霞がバイトや進路の事などで忙しい事を小蒔も分かっていたからだ。
それでも、こうして霞から言い出してくれた今、小蒔は遠慮などしない。
最近、忙しくてあまりスキンシップを取れなかった妹に甘えられたいと、霞が思っているのが伝わってくるからだ。

小蒔「それで…何か用ですか?」
霞「あ、そうそう。忘れるところだったわ」

小蒔の言葉に霞はそっと手を打って、そう返した。
こうして小蒔の部屋に足を踏み入れたのは何も小言を言う為でも、編み物を手伝う為でもない。
バイトや家事の合間に伝手を頼って調べた情報を、家族に伝える為だったのだ。

霞「あの時…ご当主様が言っていた事が気になって調べていたのだけれど…」
小蒔「分かったんですか?」
霞「えぇ。お祖母様が話してくれたわ」

霞の言葉に小蒔はそっとベッドのスペースを空けた。
それは霞の話が立ったまま出来るようなものではないと理解したからである。
何せ、それは神代の巫女にも伏せられていた神代家の陰とも言うべき歴史なのだから。
その真偽を確かめるのに神代家にも近い祖母に接触した霞を労う為にもそうするべきだと判断したのだ。

霞「500年前の巫女が暴走したキッカケには…確かに須賀という名前の人が関わっていたそうよ」
小蒔「そう…ですか…」

そんな小蒔の隣に腰を下ろしながら霞はそう切り出した。
それに小さく頷く小蒔の胸中には、「やっぱり」という言葉が真っ先に浮かんでくる。
それは勿論、あの時、あの場所で神代家のトップである小蒔の父が嘘を吐く理由がなかったからだ。
どれだけ激昂していたとしても、彼は無駄な嘘を吐くタイプではない。
疎まれ離されていたとは言え、その程度の理解が出来る程度には小蒔は父の事を大事に思っていたのだ。

霞「当時の巫女は既に結婚していた。けれど、それは彼女にとって望まない結婚で…二人は駆け落ちしようとしていたみたい」
小蒔「駆け落ち…」

その言葉に小蒔はそっと胸を抑えた。
それは微かに胸の奥に走る同情と痛みを和らげる為である。
当時とは状況こそ違えども、小蒔もまた駆け落ち同然に家を飛び出しているのだから。
その二人の末路を知っているが故に、似た境遇の小蒔にとって、それは胸を痛めるものだったのだ。

霞「巫女を手助けしようとした人がいたのもあってそれは途中まで順調だった。けれど…結局、二人は捕まってしまって…」

そこで霞が言葉を濁すのは、そこから先の二人が悲惨であったからである。
巫女を連れ出した男は追手に殺され、巫女はそれを目の前で見せつけられた。
それは政略結婚とは言え、結婚したばかりの妻に逃げられた男の嫉妬もあったのだろう。
だが、結果として巫女はその身に怒りと絶望を満たし、降ろしてはいけないものを降ろしてしまった。

霞「その結果、起こった永禄噴火。そこで生き残った人々の中には…巫女の駆け落ちを手引きした人もいたの」
霞「その人は責任を追求されたわ。巫女を失う直接的な原因ではなかったとは言え、間違いなくその一因にはなっていたんだから」

続く霞の言葉も陰鬱なものだった。
今にもため息を漏らしてしまいそうなそれは仕えてきた家の暗部を知ってしまったからである。
勿論、霞とてもう子どもではなく、諸手を上げて称賛出来るほど神代家が素晴らしいものだと思っていた訳ではない。
しかし、小蒔の純朴さに少なからず助けられてきた彼女にとって、神代家とは護るべきものであったのだ。

霞「でも…殺したりは出来なかった。それは…その人が生き残った中では尤も神代の本流に近い人だったから」

それを覆すような事実を小蒔に伝えるのは霞とて辛い。
ある程度、世間慣れしている自分ならともかく、小蒔がそれに耐えられるかという不安はどうしてもあった。
だが、それは小蒔直々に調べて欲しいと頼まれていた事だったのである。
それを黙っている事は出来ないし、何より、小蒔には霞以外に頼れる人が沢山いるのだ。
霞はまだ認めきれてはいないものの、須賀京太郎という恋人はきっと小蒔の苦しみと悲しみを受け止めてくれる。
そう思いながら、霞はゆっくりと口を開き、神代家のタブーを口にした。

霞「老人たちは考えたわ。何とか巫女を…神代家を復興させなければいけないと。そして…もう二度と巫女が失われない為に予備の血統を作らなければいけないと」
小蒔「まさか…」

その言葉の意味するところを小蒔もまた気づいた。
一度、途絶した血筋を取り戻す事なんて不可能である。
そもそも人間というものは数えきれないほど交配を繰り返し、その多様性を得てきた種なのだから。
だが、それに近い血筋のものさえ残っていれば、それに出来るだけ近づける方法はある。
それは ――

霞「…えぇ。神代家は…近親婚を繰り返し…巫女を取り戻そうとしたの。その結果…生まれたのが今の神代家と六女仙」

500年も前とは言え、近親婚を繰り返す事の禁忌は知れ渡っていた。
そんな中でかつての栄華を取り戻す為に近親婚を続ける狂気がどれほどのものだったのか霞には分からない。
だが、その結果、生まれたのが自分たちだと思うと暗く、陰鬱な気分になる。
六女仙のルーツであり、巫女を逃した『責任』を取らされたであろう彼女の末路を思えば、尚更だ。

霞「六女仙が大事にされていたのも…有事の際には巫女になりうる存在だから。そして…神代家の男子に嫁ぎ、血を濃くする為の存在だったから」

そう自嘲気味に口にする霞の声は少しだけ疲れていた。
勿論、霞とて六女仙などと持ち上げられて、良い気になっていた訳ではない。
だが、誰よりも巫女の傍に居て、その心を導き、護る存在であると誇らしさを感じていたのである。
しかし、現実は巫女の予備や血を濃くする為の道具程度にしか思われていなかった。
その事実に霞はため息を吐きたくなるのを堪えながら、そっと小蒔の反応を待つ。

小蒔「きっと…その所為…なんですね」
霞「えっ」
小蒔「私達がそんな風に…家族を蔑ろにしてしまったから…だから、九面様たちは…あそこを男子禁制にしたんだと…そう思います」

数秒後、霞の耳に届いたのは漏らすような声だった。
それに驚きながらじっと見れば、そこには俯く彼女の顔がある。
悲しさとやるせなさを浮かべるそれは九面という神々に同情しているからだ。
『神代の巫女』の中でも、誰よりも九面という神々に近い彼女にとって、それは真っ先に浮かぶものだったのである。

霞「そう…ね」

500年前の一連の事件の中…一番、辛かったのは誰か霞には分からなかった。
あくまで霞は祖母から聞いただけであり、その時代に生きていた訳ではないのだから。
だが、身内を傷つけ、狂気に陥るような巫女の家系を見て、その家系へと加護を授け続けた神々が辛くなかったはずがない。

霞「(でも…私は自分の事で頭が一杯で…)」

これまで少なからず尽くそうとしてきた家の知りたくなかった『真実』。
それに霞が最初に覚えたのは強いショックであり、誰かに対する気遣いではなかった。
勿論、それは人として当然の反応であり、彼女が自己中心的な人物である事を意味しない。
寧ろ、そうやって真っ先に主祭神の辛さに思い至る小蒔の方が異常だと言っても良いだろう。

霞「(何だかんだ言いながらも…やっぱり小蒔ちゃんは神代の巫女なのね)」

そうやって真っ先に主祭神の事を思う小蒔のそれは優しさだ。
霞にこの子だけは辛い思いをさせないように護ってあげようと心に決めさせた小蒔の美徳である。
しかし、それだけとは思えないのは、彼女の特殊性を彼女は何度も目にしているからだろう。
これまでの巫女と比べても一線を画するその力は、器としてではなく、側に並び立つ『神々の花嫁』としての面が強い。
そんな彼女が真っ先に主祭神への優しさを見せたという事に、霞は彼女が未だに根本的な部分では『神代の巫女』であり続けているのを感じた。

小蒔「でも…私…少しだけ嬉しいです」
霞「えっ…?」

けれど、その瞬間、聞こえてきた小蒔の声を霞は理解する事が出来なかった。
何せ、今語ったそれはあまりにも陰鬱で、知りたくなかった事実なのである。
恐らくこうして神代の外に出なければ祖母だって教えてくれなかったものなのだ。
そんな暗い事実を伝えて、嬉しくなれる要素が何処にあるのか。
そう思う霞の前で小蒔は恥ずかしそうにはにかみながら、ゆっくりと口を開いた。

小蒔「だって…もし、本当にその須賀さんたちが京太郎様のご先祖様なら…私達は運命的な出会いをしたって事ですから」
霞「あ…」

一時は引き離され、無縁となったはずの二つの家系。
それが500年の時を経て、再び結ばれようとしている事に小蒔は運命を感じていた。
勿論、そうやって過去、災厄に見舞われた人たちに対する同情がない訳ではない。
だが、その一方で、小蒔は思うのだ。
そうまでして結ばれなかった二人の為にも、今度こそは結ばれなければいけないと。
愛する京太郎に選んで貰わなければいけないと、そう決意を新たにしたのである。

霞「まったく…小蒔ちゃんったら」
小蒔「えへへ…」

勿論、それが強がり混じりなのは霞も気づいていた。
小蒔は優しく、感受性の強いタイプなのだから。
そんな彼女がこんな苦しい話を聞いて、心から嬉しいと思えるはずがない。
だが、それを表に出さず、こうして前向きに捉えようとしている。
その成長が心から嬉しくなった霞はその髪を優しく撫でた。
まるで姉のような気安くも優しいそれに小蒔は嬉しそうな声をあげる。

―― ピリリリリ

小蒔「あっ」

そんな彼女の耳に届いたのは聞き慣れた時計のアラームだった。
それに小蒔が視線を机の上に向ければ、緑の光を放つ時計が目に入る。
そこに映しだされている数字はもうそろそろ家を出なければいけないものだった。
だからこそ、小蒔はそっとベッドから立ち上がり、霞に対して頭を下げる。

小蒔「ごめんなさい。そろそろ京太郎様のお家に行かないと…」
霞「あぁ、そう言えば今日はお泊りだったものね」
小蒔「はいっ♪」

そう嬉しそうに小蒔が応えるのは、今日の須賀邸には彼の父母がいないからだ。
お陰で思いっきり愛しい婚約者に甘えられると思うと、ついつい頬が緩んでしまう。
勿論、暖かな京太郎の両親の事は実の親以上に大切に思ってはいるが、あくまでそれだけだ。
思う存分、能力の影響もあって心酔している相手に愛してもらえる魅力にはどうしても敵わない。

霞「じゃあ、須賀君によろしくね」
小蒔「分かりました!」

そして、それは自分たちもまた同様だ。
それを理解する霞は小蒔の邪魔をしないようにベッドから立ち上がり、そっと部屋を去っていく。
その後姿を見ながら、小蒔は小さく鼻歌を歌い、準備を始めた。
愛用の性玩具をカバンへとそっとしまい込み、鏡に向かって髪や肌の張りをチェックする。
そうしている内に約束の時間は近づき… ―― 


―― 結局、小蒔は慌てて家を飛び出す事になったのだった。






………



……




―― 原村和という少女は努力家だ。

非の打ち所のない美少女のように言われている彼女だが、何も最初から全てを完璧にこなせた訳ではない。
今では得意と言える料理だって何度も失敗しているし、掃除や洗濯もまた同じだ。
特に麻雀という分野ではここ最近、負け続きで、あまり順調とは言えない。
しかし、それでも歩みを止めないのが、原村和が原村和たる所以だ。

和「(新妻作戦…順調ですね…)」

そんな彼女が今、最もその性質を強く発揮しているのが、親友たちから言い渡された『新妻作戦』だった。
子犬のように甘える小蒔に対抗する為に考えだされたそれは今のところそれなりの成果をあげている。
それは勿論、作戦司令本部でもある二人の親友が優秀なだけではない。
一度、失敗だと思ったところを書き出し、それを埋めるように行動する生真面目さと努力があってこそだ。

和「(ふふ…今日は何を作ってあげましょうか…♪)」

そう思いながら和が目を向けているのは、弁当を振る舞った時に京太郎が見せた反応を纏めたノートだ。
オカルトと呼ばれる領域にまで昇華したその集中力と記憶力を遺憾なく発揮して記録されたそれはいっそ病的にも映るかもしれない。
実際、和自身、そうやって全てを書き出す自分をストーカーのように思える時がある。
だが、そうやって京太郎との記録が増えていくのが嬉しくて、ついついそれらを書き出してしまうのだ。

和「(これはそこそこ好評でしたし…あ、でも、味付けはこっちの方が好みなんでしたっけ…?)」

そんなデータと睨めっこしながら、頭の中で料理を組み立てていく時間。
それは決して楽なものではないものの、とても楽しいものだった。
こうして記録と向き合っていると、その瞬間の出来事が脳裏に浮かび上がるという事も勿論ある。
だが、それ以上に和の心を浮かれさせているのは、それを振る舞った時に京太郎がどんな反応をしてくれるか楽しみだからだ。

和「(きっと…一杯、喜んでくれますよね…♥)」

頑張れば頑張っただけ京太郎は褒めてくれる。
失敗したら京太郎は慰めてくれるだろう。
そして、どちらにせよ、自分が頑張った事に京太郎は喜んでくれるはずだ。
そう信じているからこそ、和は素直に気分を浮かれさせる事が出来たのである。

和「(ちゃんと美味しいご飯を作れば…ご褒美も貰えるでしょうし…♥)」

その浮かれた心に欲情が差し込む自分を和は少しだけ恥じた。
まるでご褒美という言葉に反応するような自分がケダモノのように思えたのである。
けれど、それを完全に厭う事が出来ないのは、それ以上に期待する和がいる所為だ。
初めて須賀邸にお邪魔して夕食を作るという一大イベントを和は待ちわびていたのである。

和「(最近は…こういった事は少なかったですから…仕方ないですよね)」

龍門渕との練習試合も終わり、京太郎はまたバイトに精を出すようになった。
お陰で彼は原村邸で食事をする事がめっきり減ってしまったのである。
勿論、触れ合いの時間は今まで以上に確保して貰っているものの、やっぱり寂しい。
部活から終わった後、実家でそのまま特訓を続ける日々を懐かしく思う和にとって、今日のイベントは決して外せないものだった。

和「(勿論、学校でお弁当を食べさせてあげるのも楽しいんですけれど…♥)」

惚気のような言葉を紡ぐ和の脳裏に、昼休みの京太郎が浮かび上がる。
和が作った料理を美味しそうに頬張るその姿は、和にとってまるでハムスターのように愛らしく映った。
モグモグと精一杯咀嚼する様に笑みを浮かべそうになった回数は数え切れないほどである。
そんな和にとって昼休みでの逢瀬は決して軽視出来ないものであった。

和「(食べ終わった後には膝枕もありますし…♪)」

それが終わった後には自身の膝に京太郎を迎え入れての休憩である。
うららかな午後の日差しの中、愛しい男を膝に載せるその時間が和は大好きだ。
うとうとと眠そうにするその顔は子どもっぽく、そして愛らしいのだから。
それを引き出したのが自分だと思うと誇らしく、そして幸せな気分になる。


和「(その所為か…最近は少しずつ京太郎君も甘えてくれるようになりました…♥)」

その他、大小様々なアピールの結果、京太郎は少しずつそのタガを緩ませ始めていた。
それまでは和や小蒔の前では頼れる男でいなければ、と彼なりに自分を戒めていたのである。
しかし、和の努力に寄ってその戒めを少しずつ緩ませた彼は、二人に対して甘えるようになり始めていた。
勿論、それは漫に対するそれと比べれば、まだまだ微弱で遠慮の残るものだ。
しかし、そんな事を知らない和にとって、その信頼が嬉しいのには変わらない。

和「(二人には…感謝しないといけませんね)」

和が二人の親友に対して、そう思うのは何もアピールの仕方を考えてくれているからだけではない。
和もまた、二人があの決意表明の場で分かっていたのである。
そもそも、和は小蒔とは違い、自分の感情を除けば、それほど鈍い訳ではないのだ。
小蒔に対する初期の反応を思い返せば、二人がどんな風に京太郎を見ていたか良く分かる。
しかし、譲ってくれた二人の親友に感謝する和は、それを追求したりする事はなかった。

和「(きっと…やきもきさせていたでしょう…)」

和と京太郎の関係に気づいた時、二人がどう思ったのかは和には分からない。
だが、公然と二人っきりにするその行為は、和の背中を押してくれるものだった。
それに感謝する一方で申し訳なくなるのは、一人だけ幸せになる為か、和自身にも判別がつかない。
しかし、ふとした時にその感情は顔を出し、和の胸を曇らせる。

和「(もっと早くに素直になっていれば…もしかしたら…)」

小蒔が長野に転校してくる前に…和が二人に決意表明をしていればまだ話は違ったかもしれない。
二人は必要以上に和に遠慮する事はなく、きちんとした場で戦えたかもしれないのだ。
だが、それはあくまでIFの話であり、幾ら考えても意味のないものである。
和にもそれが分かっているものの、その仮定は根絶出来るものではなかった。

和「(私が二人に出来る一番の恩返しは…京太郎君に選んでもらう事です)」

その仮定を振り払うように頭を振りながら、和はそう考え直した。
二人が自分のサポートを決めた以上、落ち込んでいる暇などはない。
和と京太郎を奪い合う小蒔は強敵で、また遠方には上重漫というライバルも控えているのだから。
何より…和自身、もう京太郎の事に関して遠慮などしたくはない。
それほどまでに和は京太郎に惹かれ、そして支配されていた。

和「(その為にも…美味しい夕食を作ってあげないと…)」

そう決意を新たにしながら、和は再びノートと睨めっこを開始する。
その視線はさっきよりもさらに真剣で、空気も張り詰めたものになっていた。
話しかける事さえ躊躇うようなその真剣さは親友に対する後ろ暗さから逃避する為もあるのだろう。
だが、そんな自分を自覚する事がないくらい、今の和は集中していた。

「…和」
和「ひゃぅ!?」

天性の才能とまで言って良い、並桁外れた集中力。
それをかき乱したのは後ろから投げかけられた男性の声だった。
京太郎のそれとは比べ物にならないくらい低く、そして落ち着いたトーンのそれに和がビクンと肩を跳ねさせる。
そのままそっと声のした方に目を向ければ、そこには苦虫を噛み潰したような父の姿があった。

和「お、お父さん…」
「何をしているんだ?」

そう和に話しかけながら近寄ってくる彼はスーツ姿であった。
ついさっきまで仕事であった彼はようやく自宅へと戻る事が出来たのである。
しかし、玄関で帰宅を告げても、愛する妻はおろか娘からの返事もない。
不審に思った彼がリビングへと入った瞬間、そこには真剣な表情でノートを睨めつける和の姿があったのだ。

和「え、えっと…」

そんな彼にあけすけに事実を話すのを和は躊躇う。
彼女は彼女なりに父の事を尊敬してはいるが、それはあくまでも男親に対してのものだ。
何もかもを話せるようなベタベタとした関係ではなく、適度な距離を取って付き合っている。
そんな相手に親友相手にさえ言いづらかった報告を出来るはずがなく、和は口篭ってしまった。


和「(それに…お父さんは京太郎君の事を嫌っているみたいですし…)」

以前、京太郎が原村邸を尋ねた時、応対したのは彼だった。
その時から彼は口には出さないものの、京太郎の事を嫌っているのである。
そこに娘を渡したくはない男親独特の心理が働いているのだが、それに和は気づいてはいない。
彼女にとって事実なのは自身の父が京太郎の事を嫌っている事であり、そしてそれが自分の心情の吐露を阻んでいるという事だけだ。

和「き、今日の献立を考えていました」
「その割には大分、真剣だったようだが…」

和の言葉に彼はそう返しながらも、深く追求する事はなかった。
そもそも多少、不思議に思った程度で、愛する妻の仕事のように理論詰めて事実を求めるつもりなど最初からなかったのだから。
娘が何か自分に対して、心から後ろ暗い事をするような子ではないと彼は信頼しているのだ。

「(それでも…最近は色々とあるようだが…)」

勿論、それを和から聞いた事はない。
しかし、真実に携わる仕事をする彼にとって、娘の変化というものは容易く見て取れるものだった。
とは言え、それは深刻なものではなく、また男親である自分には話しづらい類のものだと理解もしていたのである。
だからこそ、彼は自分に対して隠し事をしている我が子の事を追求せず、これまであまり干渉しようとはしなかった。


和「あの…今日は早いんですね」
「あぁ…少し顔を合わせるだけだったからな」

そんな娘の言葉に彼は小さく頷きながら、ネクタイを緩める。
そのままキッチンの中へと入っていく彼の背中を和はドキドキしながら見送った。
今日も仕事だと聞いていたので、てっきり夜中まで帰ってこないものだと思い込んでいたのである。
だからこそ、彼女は堂々とリビングでノートを広げ、京太郎へと振る舞う料理に悩む事が出来たのだ。

「ん?」
和「あっ…」

本来ならその目論見が崩れ去ったところで和は自室へと撤退するべきだったのだろう。
だが、急な親の帰宅という予期せぬアクシデントに和は冷静さを失っていたのだ。
結果、机の上に広げっぱなしであったノートを父に見られてしまう。
それに和が自分の迂闊さを呪った時にはもう遅い。
ジワジワと漏れだすような父の不機嫌さに和は肩を縮こまらせ、その顔をそっと俯かせてしまう。

「…和」
和「は、はい…」

そんな娘に彼は何を言えば良いのか分からなかった。
勿論、ノートに細かく書いてあった内容は娘が誰かに懸想している証なのだと分かっている。
その文面や踊るような文字など、見ているだけでも娘の歓喜が伝わってくるくらいなのだから。
だが、それに対して、自分がどんなアクションを取るべきなのか、彼は自分でも良く分からなかった。


「(結局は…私も追求する事を恐れていただけなのかもしれないな)」

久方ぶりに感じる自分の狼狽に彼は自嘲気味にそう思った。
寛容で理解力のある父親…というポーズを取っていただけで、結局は自分に不都合な事実から逃げていただけなのだと。
実際、こうして予想もついていた事を目の当たりにして、彼はどう対応するべきか迷っていたのだから。
そんな自分が弁護士という仕事に就いている事に少なからず自嘲を覚えながらも、彼はゆっくりと口を開いた。

「…お前は母さんに似て、頭が良いのに思い込むと一直線なところがあるからな」

そう紡ぐ言葉には追求の意図はなかった。
しかし、それは彼が目の前の事実から逃げているという事を意味しない。
自身の弱さを自覚した今、それを是正する強さがこの男にはあるのだから。
その言葉は理解力のある父親を演じるものではなく、本心から紡がれるものだった。

「時には自分を思い返すクセをつけなさい」
和「え…」

それだけ言ってノートから自分から目を離す父親の姿が和は信じられなかった。
あれだけ京太郎に対して拒否反応を示していたのだから、てっきり深く追求されると思っていたのである。
しかし、彼は京太郎の名前すら出さず、アドバイス一つだけで済ませた。
そこにはかつて和と大喧嘩するほど京太郎を嫌っていた父の姿はなく…だからこそ、そう驚きの声を返してしまうのである。


「何だ?もっと言われたかったのか?」
和「そういう訳じゃ…ないですけれど…」

そんな娘に返される彼の声は少しだけ浮かれたものになっていた。
それが冗談の類であると娘である和には十二分に伝わっている。
しかし、それに安堵する事が出来ないのは、目の前の父の姿が彼女にとって違和感そのものだからだろう。
何か企んでいると思う訳ではないが、本当にこれで良いのだろうか。
どうしてもそう思って内心、首を傾げてしまうのである。

「…私とて無闇矢鱈と反対している訳じゃない」

そう言えるのは彼が京太郎の誠実さを内心、認める事が出来ていたからだろう。
あの日、娘に会う為だけに待ち続け、頭を下げた京太郎の事をそれなりに評価していたのだ。
流石に交際相手として手放しに喜べる相手ではないにせよ、悪い人間ではない。
そう思える程度には彼は京太郎の事を信頼していた。

「それにお前は聡い子だからな。惚れて良い相手とそうでない相手の区別くらいは出来るだろう」

そして、それ以上に彼が信頼していたのは娘の事だ。
彼の愛する妻の血を引く和は聡明で、悪い男には騙されないと思っていたのである。
ならば、ここで下手に反対して、娘の態度を頑なにさせるべきではない。
前回、京太郎の事で大喧嘩してしまった事を彼も少なからず反省していたのだ。


「そして…お前は私に似て頑固だからな。親に言われた程度で自分を曲げはしないのは…私が良く分かっている」

そう言いながら彼が自嘲気味に笑うのは、自身もまたそうやって親と衝突した経験が少なからずあったからだ。
特に恋愛関係では一度も譲った事はなく、今の妻との結婚も半ば強引に強行した経緯がある。
そんな彼の頑固さを受け継いでいるであろう娘の頑なさを言葉で変えられるはずがない。
ましてや、まだ相手のことを殆ど知らない自身の言葉で心変わりするような軽薄な人間に育てたようなつもりもないのだから、ここで論じても無駄である。

「以上の事から私はお前にとやかく言うつもりはない。好きにしなさい」

そう言葉を結ぶ彼に和はポカンとした表情を向ける。
その視線には納得と驚きが混じり、何とも言えない微妙な色を見せていた。
どうやら自分はよっぽど理解のない親だと思われていたらしい。
それに少しだけ悲しさを感じながら、彼はそっと口を開いた。

「…その代わり、今度、相手の男を連れて来い。じっくりと話をする必要がありそうだからな」
和「お、お手柔らかにお願いします…」

その言葉に和がぎこちなく返すのは、父の声が真剣そのものだったからだろう。
冗談の余地など欠片も許さないその鋭い声に和の表情が微かに引きつる。
とは言え、彼としてもそれは決して譲れないラインだ。
娘のことを信頼しているとは言え、相手の男を見極めるのは親の義務なのだから。
もし、自分の思い違いで信頼出来ない男だと思えば、すぐさま追い返してやろう。
そう心に決めながら、彼はそっと冷蔵庫を開き、中から牛乳を取り出した。

和「あの…」
「ん?」
和「…有難うございます」
「…別に…感謝されるような事じゃない」

それをコップに淹れる父に和はそう感謝の言葉を放った。
しかし、彼がそれを素直に受け取れないのは、娘に窮屈を強いているからだろう。
両親ともに法関係の仕事をしている都合上、和は家に一人でいる事が多いのだから。
それだけならまだしも幼い頃から優秀な和に家事まで任せっきりになっている。
生きていく為にそれも仕方がないとは言え、申し訳ないと思う気持ちは彼の中にはあったのだ。

―― ボーン

和「あっ」

瞬間、リビングに鳴り響いたその音は夕方の4時を告げるものだった。
それに和が声をあげるのはそろそろ京太郎と約束していた時間だからである。
まだ献立もしっかり決まっている訳ではないが、道中でスーパーに寄る都合上、そろそろ出かけなければいけない。

和「あの…お父さん、今日は…」
「出かけるのか?」
和「…はい。帰りも遅くなると思います」

そう思った和の言葉はほんの少しだけ嘘が混じっていた。
そもそも両親が仕事だと聞いていた彼女は、最初から須賀邸へ泊まるつもりだったのである。
しかし、この話の流れで泊まると言えば、折角、寛容な反応を見せた父を怒らせるかもしれない。
歩み寄ってくれた父に嘘を吐くのは心苦しいが、そうなるとまた喧嘩になり、遅刻するのは必至だ。
それだけは避けなければいけないと思った和は反射的に嘘を吐いてしまったのである。

「…そうか」

それを感じ取りながらも、父は何も言わなかった。
代わりにコップに入った牛乳を一気に口の中へと流し込む。
冷えた液体は身体の中をそっと通り抜け、娘に嘘を吐かせた男に対する小さな苛立ちを和らげてくれた。

「気をつけて行って来なさい」
和「はい」

そのまま娘から視線を外す父に和は小さく頷いてから歩き出す。
そのウキウキとした後ろ姿は久しく彼が見ていないものだった。
何処か子どもっぽくも見えるそれは目下、青春を謳歌している年頃としては当然のものだ。
しかし、彼が記憶を掘り返してもそうやって浮かれる和は十年以上前にしか出てこなかった。

「(いや…和もまだ子どもなんだな…)」

彼にとって和はとても物分かりの良い子であった。
最近は落ち着いてはいるものの、転勤ばかりでろくに友達が作れない事に文句を言われた事はない。
だが、それは決して彼女が何も感じていない事を意味してはいなかったのである。
きっと不満はあっただろうし、苦しませていた。
それを理解しながらも…成長する娘の姿と仕事を理由に意識の奥底へと追いやっていたのは事実である。

「(結局…私はちゃんと娘の事を理解できていなかったのか)」

東京の進学校を勧めたのも、それが娘の為になると思ったからだ。
しかし、それは決して学歴というステータスを得る為だけではない。
寮制がしっかりしているそこならばいざ転勤となっても和を連れて行かなくて良いと思ったからである。
そこでならきっと和は友達を作って、普通の子どものように過ごす事が出来る。
そう思ったからこそ、多少、強引ではあれど、彼は和をそこに入れようとしていた。
しかし、それが親のエゴでしかない事を彼が今、ようやく心から理解したのである。

「(和にはもう本当の意味で親など必要ないかもしれないな)」

親よりももっと大事で、そして護ってくれる人が和の周りにはいる。
自分たちにはもう見せなくなったその姿から、それを悟った彼は一人になったリビングで小さくため息を吐いた。
庇護下から巣立とうとしている娘の姿に彼は寂しさを覚えるものの、それを引き止める術は、親にはない。
あったとしても、大人の都合に和を巻き込み続けた自分にそんな資格がない事を彼は良く理解していた。

「(…アイツが帰ってきたら…久しぶりに外食にでも行ってみようか)」

その寂しさを共有出来るたった一人の伴侶。
その姿を脳裏に浮かばせながら、彼はそっと懐から携帯を取り出した。
そのままメールを打つ手は普段と違って、とても鈍い。
まるで久方ぶりにデートを誘うようなそれに、敏腕弁護士と謳われる判断力を発揮出来ないのだ。
結果、たった一つのメールを作るのに数十分ほど悪戦苦闘を繰り返し… ――



―― その間に飛び出していた娘を見送る事も出来なかったのだった。






………



……