―― その日の染谷まこは最初から落ち着かなかった。

普段の彼女は比較的飄々としているタイプだ。
達観しているという訳ではないが、多少の事で動じるタイプではない。
しかし、初めてのデート ―― 異性と二人っきりで出かける ―― に幾ら彼女でも緊張を禁じ得なかったのだろう。
結局、昨夜は眠れず、その目の下に微かなクマを浮かべていた。

まこ「(これも全部、京太郎の所為じゃ)」

そう思いながらため息を吐くのは既に十数回目となっていた。
勿論、まことて京太郎に非がない事くらい分かっている。
彼はあくまでも善意で自分を誘ってくれているのだ。
だからこそ、何だかんだと言いながら今日まではっきりと断る事ができず、こうしてデートが実現してしまったのである。

まこ「(わしみとぉな女誘って何が楽しいんじゃろ…)」

それでも何処か自嘲気味にそう思うのはまこが自分に向ける評価が圧倒的に低いからだ。
彼女の周りにいるのは生徒からの信頼厚い生徒議会長やアイドル雀士並みの扱いをされているインターミドルチャンプ、そして快活なタコス娘なのだから。
そのどれと比べても地味な印象を拭えない自分にまこが自信を持てるはずがない。
それならばまだ彼と昔からの知り合いである咲を誘ったほうがいくらかマシではないか。
どうしてもそう思ってしまうのである。

まこ「(あー…いかんな。どうしてこうなるんじゃろ)」

自分の思考がどうにも悪い方向へと向きそうになっているのをまこは自覚した。
それは決して寝不足だけが原因という訳ではない。
和と優希が入部してからずっと内心にあったものだった。
それが今、自分の中で吹き出す不快感にまこはもう一度、ため息を吐いた。

まこ「(つーか…どう見ても場違いじゃろ…わし…)」

京太郎との待ち合わせ場所に指定されたのは昼下がりの広場だった。
駅前にあるその小さな広場に行き交うのは殆どがカップルである。
そんな場所で一人 ―― しかも、自分のような地味なタイプが ―― でいることに妙な疎外感を覚えてしまう。
しかし、根が真面目な彼女は待ち合わせ場所から動く事が出来ず、噴水の前で立ち尽くした。

まこ「(もうちぃと遅くでよかった…)」

待ち合わせの時間はまだ30分近く後だ。
それなのに早々に来てしまった自分にまこは自嘲混じりの吐息を漏らす。
とは言え、デートなんて今までした事がない彼女に、ぴったりの時間など分かるはずがない。
結果、眠れないのもあって、まこは一時間ほど前から一人広場に佇んでいた。

京太郎「あれ…?染谷先輩?」
まこ「あ…」

そんなまこの耳に届いた声に、彼女はそっとそちらに目を向ける。
そこに居たのは見慣れない服に身を包んだ、見慣れた顔の男だった。
普通よりも幾分、整った顔立ちを不思議そうに傾けるその男は彼女の待ち人である須賀京太郎である。
しかし、そんな彼がまこに与える印象は普段とは違うものだった。

まこ「(…なんか新鮮じゃなぁ…)」

もう夏に片足を突っ込んでいる時期である事もあって、彼の私服はジーパンとシャツという大分、ラフなものだ。
まったく気取ったところを感じさせないそれは京太郎らしいと思えるものである。
しかし、それだけではないのは、彼女の知る京太郎が制服しか身につけていないからだろう。
普段は制服という事で抑えられている独特の軽さがにじみ出るようなその格好にまこは妙な新鮮さを感じていた。

まこ「(それに対してわしは…)」

普段着そのままで出てきたような京太郎。
そんな彼とは違い、まこの格好はかなり気合の入ったものだった。
お気に入りのワンピースに袖を通したその格好は普段よりも数割増しで華やかなものである。
その上、軽く化粧までしてメガネもコンタクトに変えているのだから、かなりの重装備だ。
普段であれば決してしないそれはそれだけまこがデートという言葉に期待を寄せていた証である。


京太郎「随分と綺麗だったんで最初、気づきませんでしたよ」

京太郎がそう言うのも無理は無い事だろう。
勿論、普段のまこもまた美少女に類するのではあるが、どうにもその魅力を押さえ込んでいるのだ。
敢えて自分を控えめに見せているような彼女は、どうしても地味という印象を拭えない。
しかし、今のまこは華やかで決して見るものに地味さの欠片も感じさせないものだった。
まこ自身は知らなかったものの見慣れぬ美少女に声をかけようとした男は何人もいたのである。

まこ「そ、それは嫌味か…?」

しかし、そんな事も知らないまこはそれを素直に受け止める事が出来ない。
彼女にとって自分は地味な女で、こうしてお洒落をしても滑稽な印象を拭えなかったのだ。
それなのにこうして褒められてもひねくれた受け止め方しか出来ない。
勿論、京太郎がそういう事を進んで言うタイプではないと分かっていても、可愛げのない言葉を返してしまうのだ。

京太郎「まさか。本心ですよ。マジで可愛いです」
まこ「う…」

勿論、京太郎はそんなまこの感情など分からない。
彼にとって染谷まこという先輩は誰よりも頼りがいがあり信頼出来る先輩なのだから。
まさか本気で拗ねているとは欠片も思わず、そうストレートに可愛いと称す。
それにまこが言葉を失うのはそう言って褒められる事にまったく慣れていないからだ。
常連の冗談交じりのものとは違う本心からの賛辞に彼女の頬は赤くなり、その顔が小さくうつむく。

まこ「あ、あんまり先輩をからかうもんじゃない」
京太郎「本気なのになぁ…」

そのままぷいっと顔を背けるまこの反応が、京太郎にとっては新鮮だった。
何時だって彼は頼る側でこんなまこの姿なんて見た事がなかったのである。
とは言え、あんまりこの話題を引きずってもまこが拗ねるだけだろう。
長年、気難しい幼馴染に鍛えられた京太郎はそう判断し、ニンマリとした笑みを浮かべる。

京太郎「でも、そんな風に気合入れてるなんてもしかしてちょっと期待してくれてました?」
まこ「ばっ!馬鹿な事ゆうんじゃない!!」

勿論、それがからかっているだけだと言う事くらいまこにも分かっていた。
京太郎の表情はひと目で分かるくらいにニヤニヤとしているのだから。
しかし、それでもそうやってわかりやすい反応を返してしまうのは、それが一切なかったとは言えないからだろう。
初めて異性と二人っきりで出かけると言うシチュエーションにまこはただ緊張していただけではないのだ。

まこ「わ、わしはただお前に恥をかかさんようにと…」

その格好一つ選ぶのだって、まこは必死になって女性誌を読み込んで考えたのだ。
普段はしない化粧に手を出したのも、メガネをコンタクトに変えたのも全ては一緒に歩く京太郎に恥をかかさない為である。
もし、自分のような地味な女と歩いて、誤解されてしまったらどうしよう。
後輩想いの彼女はそんな予想を振り払う事が出来ず、自分にできる精一杯のコーディネートでやって来たのだ。

京太郎「そんなの気にしなくても良いですよ」
まこ「でも…」
京太郎「普段の染谷先輩で十分、魅力的ですし」

その言葉は決して嘘ではない。
確かに京太郎もまこに対して地味な印象を抱いているものの、彼女の顔立ちが整っている事は認めているのだ。
何より、随所に気配り出来る彼女の優しさは間違いなく魅力の一つであろう。
そんな優しさに数えきれないほど助けられている京太郎にとって、染谷まこという少女はとても魅力的な相手であったのだ。

まこ「…は?」

しかし、それをまこが信じられる訳がない。
女性としての自己評価がほぼ最低にも近い彼女にとって、それは寝耳に水もいいところなのだから。
まさか異性から魅力的だという言葉が飛び出すとは思わなかったまこはその顔を唖然とさせてしまう。

京太郎「あ、もう一度、言った方が良いですか?」
まこ「だ、誰もそんな事言っとらんわ!!」

そんなまこにクスリと笑いながらの言葉にまこは顔を真っ赤に染めた。
その紅潮を頬まで広げるその顔はとても可愛らしい。
しかし、それを言ってしまったら、まこはさらに拗ねてしまう事だろう。
故に京太郎はその言葉を胸中にしまいながら、そっと口を開いた。

京太郎「ま、片意地張らないで気軽に楽しみましょうよ。せっかくの休日なんですし」
まこ「む…ぅ…」

手慣れた京太郎の言葉にまこは小さく唸りながらも頷いた。
確かにこうして拗ねていては折角のお出かけが台無しである。
自分をからかっていた京太郎に言われたくはないが、ここは話題を逸らす為にも頷いておくべきだろう。
勿論、京太郎はからかってなどおらず本心から言っていただけなのだが、そんな事を知らないまこはそう判断したのである。

京太郎「それじゃまずは…」
まこ「とりあえずお前の教本じゃろ」

こうして二人で出かける大きな理由は京太郎用の麻雀用教本を買う事だった。
勿論、麻雀部にも幾つか置いてあるものの、未だ初心者である彼には少しハードルが高いものである。
故にもう少し易しい初心者向けのものを探そうとまこの方から提案したのだ。
結果、それは彼にも受け入れられ、こうしてデートの主目的の一つになったのである。

まこ「こういうのは時間が掛かるもんじゃし、早い方がええ」
京太郎「じゃあ、悪いんですけれど、俺の方を先にお願いします」
まこ「うん。構わん構わん」

そう言って歩き出した二人はそのまま駅ビルの中へと入っていく。
そのペースはしっかりと噛み合ったものであり、横に並んだ二人が離れる事はない。
それは勿論、部活だけではなくアルバイトでも一緒に過ごしているという事が無関係ではないのだろう。
知らず知らずのうちに相手の歩幅を感じ取った二人は意識せずにそれに合わせる事が出来るようになっていたのだ。

京太郎「しっかし、大分、熱くなって来ましたねー…」
まこ「もう夏じゃからなぁ…」
京太郎「インターハイも近いですね…」
まこ「ん…」

そう会話をしながら歩く二人はそっとエスカレーターに乗った。
そのままスルスルと上がっていく身体とは裏腹にまこは微かなプレッシャーを感じる。
それは勿論、インターハイという言葉が自分には遥か重いものだからだ。
ただ、経験が人並みより多いだけの自分が一体、どれだけ全国区の打ち手に対抗出来るのか。
それを不安に思う気持ちはどうしてもまこの中でなくならなかった。

京太郎「どうかしました?」
まこ「いや…なんでもない」

しかし、それを後輩の前で漏らす訳にはいかない。
そう思うのはまこが決して面子を大事にするタイプだからという訳ではなかった。
寧ろ、自己評価が他者のそれよりも著しく低い彼女にとって、面子などは殆どない。
それでもこうして不安を表に出せないのは、一番、不安なのが自分ではないと分かっているからだ。

まこ「(わしはまだ一年ある。じゃけん…久の奴は…)」

もう後がないという状況で奇跡的に手にした全国行きの切符。
それに誰よりも喜び、そして誰よりもプレッシャーを感じているのは親友である竹井久なのだ。
それを部員の誰よりも知るまこは自身の不安を京太郎に漏らす事が出来ない。
一番、辛いであろう彼女が漏らさないのだから、自分もまた我慢しなければ、と遠慮してしまうのだ。

京太郎「(さて…どうするべきかなぁ…)」

そこで京太郎が逡巡を覚えるのはまこの不安を京太郎も感じ取っているからだ。
自分と特訓している時にも時折顔を出すその感情をそのままにはしておけない。
京太郎がまこの事をこうしてデートに誘ったのもそういった感情があったからだ。
しかし、それを垣間見せた今、突っ込むべきなのか、彼には分からない。
未だ自分がまこから信頼を勝ち取れては居ないのは分かっている以上、ここで突っ込んでも藪蛇になってしまうかもしれないとそう尻込みしてしまうのだ。

京太郎「…きっと何とかなりますよ。だって、うちはあの龍門渕すら破ったんですから」

結果、京太郎に選べるのはそんな何の保証もない言葉だった。
勿論、そんな事を言われてもまこの不安を晴らせる訳じゃない事くらい彼にだって分かっている。
そもそも京太郎はついこの間まで麻雀の事を殆ど知らなかった初心者なのだから。
そんな彼がハイエンドの集まりであるインターハイのことに言及したところで、何の気晴らしにもならない。

まこ「ふふ…そうじゃな」

しかし、そんな京太郎の心遣いがまこには嬉しい。
その言葉が何の根拠もない慰めに過ぎないと理解していても、後輩の優しさはまこにしっかりと届いていたのだ。
それに微かに笑みを漏らしながら、まこは少しだけ胸の中が楽になったのを感じる。
こんなにも自分たちの事を信頼してくれる後輩がいるならきっと大丈夫。
なんとなくそう思う事が出来たまこはそっと目的の階へと踏み出した。

まこ「えっと…本屋は…」
京太郎「あ、こっちですよ先輩」

そう言いながら京太郎が歩いていく横にまこは再び並んだ。
そんな彼女を先導する京太郎はこっちの歩幅と曲がるタイミングを完全に把握している。
まるで小さな子どもに対するようなそれはこそばゆいものの、悪い気分ではない。
そう思うのはそれが京太郎なりの気遣いであるとまこが分かっているからだろう。

まこ「慣れとるんじゃなぁ」
京太郎「まぁ、咲のお守りで良く来ますしね」

まこの言葉を駅ビルの案内の事だと勘違いした京太郎はそう返す。
勿論、それも含めての事なのだが、ほんのすこしだけピントがズレているのだ。
とは言え、それを一々、訂正するのは無粋な気がする。
何よりもう既に二人の前に大きな書店が見え始めているのだから、あまり無駄な話をしている暇はなかった。

まこ「えーっと…麻雀の教本は…っと」

そうして入り込んだ本屋の中で二人は数分ほど内部を回る。
そうやって訪れた麻雀のコーナーには多種多様な本が並んでいた。
中にはプロが書いた事を売りにしている本もあるが、それを読むには京太郎はまだまだ実力不足である。
そう思いながらまこはそっと教本を手に取り、ペラペラとめくっていった。

まこ「(うーん…これくらいのレベルなら…いや、ちょっと難し過ぎるか…)」

今日、選びに来たのは自分たちが自分の事で忙しい分、京太郎が頼る事になる教本なのだ。
自然、構ってやれない不甲斐ない先輩としてその中身を吟味する目も厳しくなる。
京太郎の成長に合わせて中身をレベルアップさせていくようなものがあれば良いのに。
そう思いながら本を流し読みする彼女の目は真剣そのものだった。

京太郎「んー…」

そんな彼女に対して京太郎はあまり深く考えてはいなかった。
何せ、彼の手元には数人の諭吉がスクラムを組んで立っているのだから。
気になった本を数冊纏めて買ってもまだまだお釣りは出るだろう。
そんな彼が選んだのはまこがレベルが高いと言って真っ先に切り捨てたプロ監修のものだった。

京太郎「(…ダメだ。さっぱり分からん)」

そこに書いてあるのは基本、京太郎が教わったものと変わりがないものだった。
しかし、鳴いた牌が光るだの天和を連発するだのと訳が分からない単語が並んでいるのである。
勿論、その言葉の意味は分かるものの、一体、この小鍛治健夜という人は何を言っているのか。
そう諦めながら肩を落とした瞬間、彼の視線はまこの横顔に向けられた。

京太郎「(やっぱ可愛いよなぁ…先輩)」

真剣な表情は普段よりも引き締まり、凛々しいと言っても良いものになっている。
しかし、それでも可愛いという印象からは外れないのは彼女の顔立ちが人に親しみを与える柔和なものだからだろう。
美しいという言葉は似合う和とはまた違ったそれは京太郎にとって魅力的に映るものだった。

京太郎「(その上、優しいし、会話だって面白いし、料理だって出来るし…良い人だと思うんだけどなぁ…)」

ちゃんとその魅力に気づく人が居れば、引っ張りだこでもおかしくはない逸材。
しかし、実際の彼女の自己評価は悲しくなるくらい低いものだった。
もう少し自信を持てば、きっと自分と一緒に出かける暇がないくらい忙しい人になるだろうに。
そう思いながらも、京太郎自身、彼女に性的な関心を向ける事はなかった。

京太郎「(なんつーか…俺にとっては先輩…なんだよなぁ)」

彼女の魅力を知っているとは言え、先輩を慕う後輩の域を出ない自分の感情。
それは勿論、まこが何か悪い訳ではない。
ただ、そういったものを意識するよりも先に、京太郎にとってまこは『頼れる先輩』としてインプットされてしまったのである。
結果、その魅力を知った今でも京太郎にとって彼女は真っ先に『先輩』という立ち位置に収まってしまうのだ。

まこ「よし」

まさかそんな事を思われているとは知らないまこは京太郎の前で小さく声をあげた。
そんな彼女が選んだのは初心者用と銘打たれた2つの教本である。
勿論、麻雀に接してきた時間で言えば清澄の誰よりも飛び抜けているまこが選んだのだから、それはただの初心者用ではない。
中盤からはかなり実践的なテクニックにまで踏み込むそれは中級者向けと言っても過言ではなかった。

京太郎「あ、決まりました?」
まこ「ん。これなら大丈夫じゃ」

まさか自分にとってまだまだレベルが高いものを選ばれたと思っては居ない彼は素直にそれを受け取った。
そのままレジに進もうとする彼にまこはそっと首を傾げる。
自分が本を探している間は結構、時間があったはずなのに一冊も気になるものがなかったのか。
まさかその時間の殆どを見つめられていたとは欠片も思わないまこはそっと口を開いた。

まこ「そっちはええんか?」
京太郎「えぇ。先輩が選んでくれたのならきっとそれが一番でしょうし」

聞く人によれば思考放棄にも受け取られかねないそれは京太郎の本心だ。
自分よりも遥かに上手く、そして強い先輩が選んでくれた本が間違っている訳がない。
きっと自分がフィーリングで選ぶよりも遥かに良い本だろう。
そう信頼している彼にとって、まこが選んでくれた二冊だけで十分だったのだ。

まこ「そ、そんな風にゆうても…京太郎に合うかは分からんぞ?」
京太郎「はは。その時は俺の努力が足りなかったって事ですよ」

それに擽ったいものを感じたまこの言葉を京太郎は軽く笑い飛ばす。
まこが言うのであればそのハードルを自分が乗り越えられないはずがない。
京太郎にとってまこへの信頼というのはそれほどまでに厚いものだった。

店員「二点で5900円になります」
京太郎「(高っ!!)」

しかし、その信頼の値段は決して安いものではない。
中級者にも向けられたその本の厚みはかなりのもので、また値段も相応に高かったのだ。
そんなものを2つもレジに通せば、軽く6000円を超えてもおかしくはない。
しかし、中身に対する信頼だけで値段をまったくチェックしていなかった彼にとってそれは驚きを与えるものだった。

京太郎「(ま…数年は確実に使えるものだと思ったら安い買い物かな)」

勿論、京太郎とて一生麻雀をやっているかは分からない。
しかし、高校三年間くらいは麻雀を続ける覚悟を固めているのだ。
それが咲を強引に麻雀部へと連れてきた自分なりの責任のとり方だろう。
そう思った彼はそっと財布から諭吉を取り出し、支払いを済ませる。

まこ「あ、領収書つかぁさい」
店員「はい。分かりました」
京太郎「…え?」

そんな京太郎の脇から顔を出したまこの言葉に、彼は驚きの声をあげる。
しかし、そうしている間にも店員の女性はさらさらと手慣れた様子で領収書へと書き込んでいく。
それを見ても尚、まこの意図を察する事が出来ない彼の前で店員とまこのやりとりが進んでいった。

店員「お名前はどうなさいますか?」
まこ「清澄高校麻雀部でお願いします」
京太郎「あっ」

そこでようやくまこの意図に気づいた京太郎が小さく声をあげた。
しかし、その頃にはもう遅く、領収書には大きく彼らの部活が書かれている。
それを受け取るまこに京太郎が何を言えば良いのか分からない。
そんな彼にクスリと笑いながら、まこはその領収書を京太郎へと手渡した。

まこ「これくらい部費で何とかするもんじゃ」
京太郎「いや…でも…」

勿論、これが他の皆も使えるものであれば、京太郎はここまでの躊躇いを覚えなかっただろう。
しかし、その本を今、必要としているのは部内唯一の初心者である京太郎なのだ。
そんな本の為に数少ない部費を使ってしまっていいのだろうか。
そう逡巡を覚える京太郎の背中をまこはそっと叩いた。

まこ「冷静に考えてみぃ。来年はまた一年生が入ってくるんじゃぞ」

「その中にはきっと初心者もおるはずじゃ」と言葉を繋げるまこに京太郎はどう言えば良いのか分からない。
確かにインターハイ出場を決めた清澄は来年の新入生が見込めるだろう。
しかし、インターハイ出場を見て入ってくるのは殆どが経験者なのだ。
そんな彼ら ―― 或いは彼女たちが自分の買った本を必要とするかは微妙なところだろう。

まこ「それにたまにゃあ久の奴にも仕返ししてやらにゃあな」
京太郎「はは。そうですね」

冗談めかしたまこの言葉に京太郎はつい頷いてしまう。
京太郎は普段、麻雀部部長である竹井久に細かい買い出しや雑用として使われているのだ。
勿論、それに関して、彼が不満を覚えている訳ではない。
寧ろ、練習相手にもなれない自分が役に立てて嬉しいくらいだ。
しかし、そうやって働いているのだから、少しくらいは仕返ししても良いのではないか。
そんなまこの言葉についつい頷きながら、京太郎は小さく笑った。

まこ「(まぁ、それに既に話は通してあるし…)」

京太郎から麻雀の教本が欲しいと言われた際、まこは真っ先に久へと連絡をした。
それくらい部活の経費として落としてやるのが何も構ってやれていない先輩としての責任だと彼女は思ったのである。
それに久も同意し、既に二人の間でその本を経費で落とす密約が交わされていた。
それを京太郎に言わなかったのは最初に彼に言ってしまえば絶対に遠慮すると分かっていたからである。

まこ「(まったく遠慮しいもほどほどにせんと…可愛げがなくなるぞ)」

そう思いながらも、まこにとって京太郎は可愛い後輩だった。
その見た目や口調こそ軽そうなものの、彼が真面目で麻雀に対しても真摯なのは知っているのだから。
自分が誘ったアルバイトでも一生懸命、戦力になろうと頑張っている彼が、まこにとっては可愛くて仕方がない。
他の一年生たちが手のかからなかったり、ちょっぴり生意気だったり、自分よりも強かったりで余計にそう思える。

まこ「(まぁ、恋愛対象には絶対にならんじゃろうが)」

可愛いとは言ってもそれはあくまでも後輩に対するものだ。
勿論、恋愛対象としては悪い相手ではないと分かっているものの、そう見る事は出来ない。
それは既にまこにとって京太郎の位置が後輩にカテゴライズされてしまったからだ。
まるで手のかかる弟のような相手に恋愛感情を抱くほど自分は夢見がちなタイプではない。
京太郎が自分に対して似たような事を思っているとはつゆ知らないまこはそう思いながら肩を落とした。

京太郎「じゃ、次は染谷先輩の買い物っすね」
まこ「う…」

そんな彼女の耳に届いた京太郎の声にまこは小さくうめき声をあげる。
正直、まことしてはこのまま家に帰るルートが一番、気が楽ではあったのだ。
麻雀の道具であればまだこっちも先輩風を吹かす事が出来るが、京太郎のそれは善意で言ってくれているものなのだから。
異性からのプレゼントなんて殆ど貰ったことがないまこにとってそれはむず痒さを覚えるものだったのである。

まこ「…本当に買うのか?わしはそういうの…」
京太郎「まぁ、良いじゃないですか」
まこ「む…ぅぅ」

それを何とか伝えようとしたものの、京太郎が聞き入れる様子はまったくなかった。
元々、京太郎にとってこの買物は自分の教本探しではなかったのである。
まこの言葉に乗っかって、じゃあ、お礼の一つでもしようと誘ったのが最初の目的だ。
そんな彼の教本探しを真剣に手伝ってくれたのだから、やっぱりどうしてもお礼はしたい。
そう気持ちを固める京太郎は、譲るつもりがまったくなかった。

京太郎「それに日頃、迷惑を掛けてる訳ですしね」
まこ「…わしは迷惑だなんて思っとりゃせんぞ」

まこはそう言うものの、京太郎はまこに対して負い目を拭い去る事が出来なかった。
バイトでも部活でも特訓でも自分はまこにおんぶ抱っこで殆ど手伝いが出来ていない。
実際はまこ自身、京太郎に手伝ってもらえてかなり楽になっているのではあるが、それ以前を知らない彼がまこの心に気づく事はない。
彼女の言葉もまた気遣いの結果なのだとそう判断しながら、そっと口を開く。

京太郎「まぁ、後輩がしたいって言ってる訳ですし…たまには甘えてくださいよ先輩」
まこ「…はぁ」

冗談めかしながらも譲る気配を見せない京太郎にまこはそっとため息を吐いた。
外見そのものは軽そうに見えるものの、彼が意外と頑固な性格であるのをまこは知っているのである。
こうと決めたら曲げずに一直線へと突き進むその生真面目な性格は今も発揮されているらしい。
それに一つ肩を落としながら、まこは諦めたように手を振った。

まこ「分かった分かった。…その代わり、高いもんはなしじゃ」
京太郎「えー…」
まこ「えーじゃない…まったく…」

不満そうな京太郎の言葉に、まこは呆れたようにそう返す。
勿論、京太郎のそれが冗談である事くらいまこにだって分かっていた。
しかし、だからと言って、不満そうなその態度はあまりにも気に入らない。
その外見の軽さもあって、まるで女をたぶらかすのに失敗したチャラ男のように見えるのだ。

まこ「そういう風に女をたぶらかしたいんじゃったら咲にやったれ」
京太郎「あー…それも良いですね」

ジト目を向けるまこの気持ちに気づかない京太郎はそっと首を傾げながらそう返す。
京太郎の幼馴染である彼女は、日頃から誰かの世話がないと生きていけないタイプである。
幼い頃から彼女の世話係を任命されていた彼にとって、彼女は改めて感謝するような相手ではなかった。
しかし、京太郎の誘いに乗るような形で、咲は嫌いだと言っていた麻雀部に入ったのである。
その事に関して、自分はまだお礼らしいお礼をしていない事を思い出した京太郎は後の予定にそれを差し込んだ。

まこ「ほんっと…お前はお人好しじゃな…」
京太郎「そうですか?」

そんな京太郎に向ける視線をさらに呆れさせるのは京太郎のそれが気遣いというレベルを遥かに超えているからだ。
勿論、初めてのバイト代という事もあって、金銭感覚が幾らか麻痺しているのもあるのだろう。
しかし、だからと言って、そうポンポン人にお礼をしていたら、自分の手元にお金が残らない。
それすらも理解できていない後輩の様子にそっとため息を漏らしながら、まこは口を開いた。

まこ「お前も若い訳だし、何か欲しいもんの一つでもあるじゃろうに」
京太郎「まぁ、あると言えばありますけれど…」

京太郎とて年頃の男の子だ。
物欲は人並み程度にはあるし、欲しいものは幾つも脳裏に浮かんでくる。
しかし、それらは決して危急という訳でもなく、また絶対に必要という訳でもない。
何より、今の彼にとって一番楽しいのは麻雀であり、あまり物欲そのものを満たす必要がなかったのだ。

京太郎「でも、そういうのは今時、ネットで拾えますし」
まこ「ばっ!!」

とは言え、それを口にしたところでまこに変な気遣いをさせるだけだ。
そう思った京太郎は努めて下衆な笑みを浮かべながら、そう漏らした。
それにまこが驚いた声をあげるのは、青少年特有のオカズが真っ先に脳裏に浮かんだからである。
飄々としているように見えて根が乙女なまこは一瞬で顔を真赤にし、きっと京太郎を睨んだ。

まこ「な、何を言っとるんじゃ!こ、こんな場所で…」
京太郎「んー俺はネットショッピング的な意味で言ったんですけど、先輩は何を想像したんですかねー?」
まこ「ぐっ…」

それが後輩の罠だと気づいた時にはもう遅い。
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるその表情にまこは悔しさ混じりに歯噛みするしかなかった。
そんなまこの姿が新鮮ではあるが、あんまり虐めすぎると後が怖い。
そう思った京太郎はその表情を引き締まらせながら、口を開いた。

京太郎「まぁ、そんな訳なんであんまり遠慮とかなしな方向で」
まこ「…先輩として一言忠告しておいてやるが…気遣いの仕方を間違えてるぞ」

先輩に対して遠慮無く弄ってくる京太郎の姿にまこは肩を落としながらそう返す。
確かに今ので遠慮する気が大分、失せたのは確かだが、何もからかうようなやり方ではなくても良いだろう。
ともすれば失礼にもなりかねないそれは決して肯定的にはなれない。
勿論、それはその程度で自分たちの信頼が崩れないという認識があるからこそだと思えども、やっぱりまことしては悔しい。
それが善意である以上、怒ってやる事が出来ないのもまた、彼女の悔しさに拍車を掛けていた。

まこ「まぁ、遠慮しないで良いというのであればわしの新しいパソコンでも勝って貰おうか」
京太郎「さ、流石にそれは…」
まこ「じゃあ、携帯とかどうじゃ?わしもそろそろ流行に乗って最新機種のスマートフォンに変えたいんじゃが…」
京太郎「そ、それもちょっと辛いかなって」

代わりに意気揚々と高いものを強請るまこに京太郎は冷や汗を浮かべた。
勿論、まこの言葉が冗談であると分かっているものの、それらは諭吉が数人単位で吹っ飛んでいくものなのである。
ともすれば、彼の予算を遥かにオーバーしかねないそれに決して頷く事が出来ない。
とは言え、遠慮しないで良いと言った反面、断るのはあまりにも格好悪く、その背筋に嫌な汗が流れていくのだ。

まこ「なんじゃ。案外、解消のない奴じゃな」
京太郎「ぬぐぐ…」

そんな京太郎に笑いながら、まこはそっと歩き出す。
その後ろから悔しそうに歯噛みするような声が聞こえてくるのに、彼女は少しだけ溜飲を下げた。
まぁ、これくらい仕返ししてやれば、当分は先輩の威厳も十分保たれるだろう。

まこ「ま…甲斐性のない後輩に免じて適当な小物で勘弁してやる」
京太郎「むむむ…い、言い返せない…!」
まこ「何がむむむじゃ。まったく…」

そう言葉を交わしながら、二人は二階へと降り立った。
レディースの様々な服が並ぶそのエリアの一角に二人は足を踏み入れる。
そのまま適当に歩く彼女の視界にファンシーなキャラクターショップが飛び込んできた。

まこ「とりあえずここから見ていくか」
京太郎「うっす」

そう言いながら店へと入る二人に店員からの声が掛かる。
それを聞き流しながら商品を軽く見て回るまこの胸はあまり高鳴る事はなかった。
そもそも、まこはこういった小物類をあまり好まないタイプの人間である。
部屋の中もクローゼットの中身を除けば、常に整理整頓されている方なのだから。
余計なものを置く事のない彼女の部屋は、ぬいぐるみが並ぶ和のそれよりも遥かに殺風景と言えるだろう。

まこ「(とは言え…何か欲しいものがある訳じゃないしなぁ…)」

京太郎にはああ言ったものの、まこが選べる範囲としては1000~2000円が限度だった。
それ以上となると流石に後輩に払ってもらうのは心苦しくなってしまう。
しかし、その値段の領域でまこが欲しいモノと言うのは中々、思いつかない。
そんなおもしろみのない自分に一つため息を漏らした瞬間、まこの耳に京太郎の声が届いた。


京太郎「うぉ…これ良いなー。可愛い」
まこ「…何をやっとるんじゃ」

楽しそうなその声に振り向いたまこが呆れた声を漏らすのは京太郎がガラスのマグカップを嬉しそうに持っていたからだ。
某ご当地キャラを象ったそれには一切の機能性がない。
寧ろ、飲みにくいと言っても過言ではないそれを京太郎は大事そうに抱えてはしゃいだ声をあげている。
ある意味では自分以上に楽しんでいる彼の姿に微かな羨望を覚えるまこの前で、京太郎は嬉しそうに口を開く。

京太郎「いや、ほら、ひこに○ん型ですよ!ひこにゃん!!」
まこ「それは分かっとるが…」

ニコニコと誇らしそうにも見える表情で彦根城のキャラクターグッズを魅せつける京太郎。
それに言葉を濁らせるのはまこ自身、それをどう京太郎に伝えていいか分からなかったからだ。
キャラ物で囲まれているのにはしゃぐのがみっともないと言えば、彼を傷つけるだろう。
また、せっかく、嬉しそうな京太郎に水をさしてしまうのはまことしても本意ではない。
そもそも最初に声を掛けたキッカケが女の子らしい空間に喜べない自分からの嫉妬めいたものだった彼女はどう言えば良いのか分からないのだ。

京太郎「いや、だってこの無駄な再現率のお陰でまったくコップとしての役割を果たしていない当たりが可愛いじゃないですか!」
まこ「まるで意味が分からんぞ!」

そんな彼女の逡巡を京太郎が感じ取った訳ではない。
だが、テンションの上がった彼はついつい口ごもる彼女に先んじて、酷評しながらの微妙な賛辞を放ってしまう。
それについツッコミを入れるまこの内心は、ほっとしていた。
これで少なくとも迷ったりしなくても良いと彼女は安堵していたのである。

京太郎「染谷先輩は何か好きなご当地キャラとかいないんですか?」
まこ「ぅ…」

しかし、そのマグカップを棚に戻りながらの京太郎の言葉にまこは言葉を詰まらせてしまう。
勿論、彼女とてご当地キャラの幾つか位は知っている。
とは言え、誰か特定のキャラに愛着を持てるほど、情報を得ている訳じゃない。
それは彼女の実家が雀荘で、まこが経費削減と人手の為にバイトしているという事も無関係ではなかった。

まこ「わしはあんまテレビとか見んしなぁ…」
京太郎「あー…」

ポツリと呟かれるまこの言葉に京太郎は言葉を詰まらせる。
まこの実家でアルバイト初めて分かったが、彼女の一日は決して楽なものではない。
部活がある時はまだましではあるが、実家の手伝いをしている時は夕食を食べる暇がないくらいなのだから。
終わるのも夜中と言っても良い時間で、それからは宿題や明日の準備もあるだろう。
最近はそれに加えて麻雀の特訓までやっているのだからテレビを見ている暇などあろうはずがなかった。

京太郎「んじゃ…別のところ行きますか」
まこ「え…?」

それを感じ取った京太郎はあくまで軽い調子でそう言った。
それにまこが驚きの声を返すものの、彼は軽い笑みを崩さない。
勿論、その内心はまったく配慮が足りていなかった自分への自嘲の感情がふつふつと沸き上がってきている。
しかし、そんなものを表に出したら余計、まこの居心地が悪くなってしまうのは目に見えているのだ。

京太郎「知らないキャラもの買っても置き場所に困るだけでしょうしね。それより先輩に欲しいもの買いましょうよ」
まこ「あー…」

軽い調子で、けれど、その言葉には真摯な意味を込めて。
そう告げる京太郎にまこは何と言えば良いのか分からなかった。
感謝を告げるのも少しズレている気がするし、謝るのはきっと京太郎が望まないだろう。
しかし、何か言わなければと思う彼女の前で京太郎がそっとショップから出て行く。
そんな彼の後ろ姿を追いかけながら、まこは必死に何を言うべきか考え続けていた。

京太郎「(さって…どうするべきかなぁ…)」

勿論、後ろのまこが何を悩んでいるのか京太郎には分からない。
だが、自分の『先輩への恩返しをしたい』という我儘で困らせている事くらい彼にも分かっていた。
しかし、今更、『やっぱりなしで』と言い出したりしたら、余計、まこを追い詰める事になるだろう。
つまり、彼が穏便にこの場を切り抜けるには、何とかまこがそれなりに喜んでくれるようなものを探すしかないのである。

京太郎「(咲相手なら…本安定なんだけどなぁ…)」

そんな彼の脳裏に浮かぶのは付き合いの長い幼馴染の姿だった。
大人しく、地味で、本を読むのが好きという彼女は、とりあえず本を送っておけば間違いはない。
よっぽどおかしなものでなけれな、本の虫である咲は喜んでそれを読み耽るだろう。
しかし、そうやって気心のしれた咲とは違い、自分はまこの趣味も何も知らない。
今更ながらにそれを思い知った京太郎は、まずはそこから切り込んでいこうと口を開いた。

京太郎「そう言えば…先輩って趣味とかないんですか?」
まこ「ぅっ…」

悩み事をしている最中に唐突に告げられた彼の声。
それに言葉を詰まらせるのは、まこのそれが決して人には言いがたいものだからだ。
幼い頃から雀荘の手伝いをし、テレビや雑誌を見る暇もなかった彼女にとって趣味と言えるものは麻雀を除けば、メイド服集めくらいなものである。
しかし、久ならばともかく、それを口に出せるほどまだまこは京太郎に対して心を許している訳ではなかった。

まこ「…ま、麻雀くらいかなぁ…」
京太郎「そうですかぁ…」

その返事が少しだけ遅れていた事に京太郎は勿論、気づいていた。
きっと麻雀以外にも何か言いづらい趣味が先輩にある事もまた。
しかし、それを言って貰えないのであれば、下手に突っ込むべきじゃない。
まだプライベートに踏み込めるまで親しく慣れていない自分が悪いのだと、そう胸の痛みをごまかしながら、京太郎は思考を切り替える。

京太郎「それじゃ何か麻雀関係で欲しいものあります?」
まこ「今のところは特に…じゃなぁ…」

そもそも麻雀はあまり金がかからない趣味だ。
賭け事に使わない分には、初期投資としてシートと牌を買うくらいだろう。
それらも昔であれば高級品であったかもしれないが、現代は廉価品が安く売っている。
他の必要なものとなれば京太郎が買ったような教本くらいであるが、まこは既にそんなものを必要とするレベルを遥かに超えていた。

京太郎「まぁ…ですよねー…」

勿論、それくらい京太郎にだって分かっている。
そもそもまこの実家は雀荘で必要なものは殆どそこから手に入るのだから。
わざわざ自分が贈らなくても余るほどあるだろうし、ましてや、まこが思いつかないはずがない。

京太郎「っと…」

そんな彼の目に入ってきたのは大きな垂れ幕だった。
数階上から下げられ、吹き抜けに大きく広がるそこには『全米が絶賛!』という文字が踊っている。
最早、手垢がついたという表現では物足りないそれに京太郎の視線が惹きつけられた。
それはその垂れ幕に麻雀越しに向き合う男女が描いてあったからである。

京太郎「じゃあ、映画とかどうですか?」
まこ「映画…?」
京太郎「ほら、あそこにある奴ですよ」

そう言って京太郎が指差したそれにまこもまた興味を惹かれた。
実家が雀荘ということもあって忙しい日々を送る彼女はそれが一体、どういう映画なのかまったく知らない。
しかし、そこには麻雀が関係している事を示唆するようなキーワードが幾つも踊っているのだ。
デザイナーの意図した通り、興味をソソられる自分を単純だと思いながらも、彼女はその映画が気になりだしている。

まこ「(それにまぁ…あまり高い買い物にはならんし…)」

休日の殆どを実家の手伝いで潰すまこは殆ど映画館で映画を見た事がない。
しかし、それでもその値段がさっき思い浮かべた限度額を超えないものである事くらい知っているのだ。
それに何よりまこはインターハイに向けて、一局でも多くの闘牌を観察しなければいけない。
そこまで思い浮かべた頃には反対する理由はなく、まこの首は自然と首肯を示していた。

まこ「うん。ええんじゃないか」
京太郎「じゃ、行きましょうか。上映時間だけでもチェックしたいですし」

そう言いながら歩き出した二人は再びエスカレーターへと乗った。
そのままスイスイと上がっていく感覚に二人は会話を続ける。
これからチケットを取るであろう映画の予想をお互いに口にしながらのそれはとてもほほえましいものだった。
いっそ本当のデートにも見えるであろうその仲の良さを二人は意識しないまま、共に最上階の映画館へと足を踏み入れる。

京太郎「お…これは…」
まこ「はは。中々に幸先がええみたいじゃな」

そのままチケット発券機へと足を進めた京太郎とまこの目に、一つの時刻が飛び込んでくる。
二人が話題にしていたその映画の開始時刻を示すそれは丁度、十分後を示していた。
しかも、その席はまだ空いているようで簡単に二人分を発見する事が出来た。
思いの外、順調なそれに二人は笑みを浮かべながら、ゲートへと近づいていく。

京太郎「あ、先輩。ポップコーンとかどうします?」
まこ「あー…」

その途中、足を止めた後輩の言葉に、まこは逡巡を覚える。
こうして映画館にやってくる事なんて数年ぶりの彼女にとって、それは正直、心惹かれる提案だった。
映画館で食べるポップコーンの味なんてまこはとうに忘れてしまったのだから。
時間はもうあまりないとは言え、それを買うくらいの時間はあるだろう。
そう思った彼女は京太郎に首肯を返しながら、そっと売店の方へと近づいていった。

まこ「(なん…じゃと…)」

しかし、彼女はそのカウンターに立った瞬間、カルチャーショックを感じた。
それはそこに並んでいたメニューがポップコーンだけではなかったからだろう。
片手で食べられる唐翌揚げやハンバーガーなどのメニューが並び、彼女の常識を覆したのだ。
勿論、ポップコーンもあるものの、それは塩だけではなく、キャラメルやバニラなど彼女の知らないものが並んでいる。
一気に氾濫する情報に彼女はついていく事が出来ず、ついついその場で固まってしまう。

京太郎「…俺が塩にするんで染谷先輩はキャラメルでどうですか?」
まこ「あ…うん。じゃあ、それで…」
京太郎「後、昼飯ついでにハンバーガーも買っちゃいましょう。これ、オススメなんですが、どうですか?」
まこ「う…うん…」

そんなまこに助け舟を出す京太郎に彼女は何度も頷いた。
それに合わせてサクサクと進んでいく状況に、彼女はまたもついていく事が出来ない。
結果、自分の分だけでも出そうと思って取り出していた財布の出番はなく、彼女の分まで京太郎に支払われてしまう。
それに彼女が気づいたのは二人でゲートを通り、指定された座席へと足を踏み入れた瞬間だった。

まこ「(…わしは何をやっとるんじゃ…)」

そこで大きく落ち込むのは完全に自分がされっぱなしの側であったからだ。
自分の知っていた映画館の頃とはまったく違っていたとは言え、あまりにも無様が過ぎる失態。
それに彼女は思わず顔を両手で覆い隠したくなってしまう。
しかし、そうやって落ち込んでいては、また京太郎が変に気遣いをしかねない。
そう思った彼女は自嘲気味に肩を落としながら、後輩に奢ってもらったポップコーンに手をつけ始める。

京太郎「(先輩も苦手なものってのはあるもんなんだなぁ…)」

その落ち込んだ姿を横目に見ながら、京太郎は気付かれないようにクスリと笑った。
彼の知る染谷まこという少女は何事も人並み以上にこなしてみせる人だったのである。
少なくとも、アルバイトではハキハキと指示を飛ばし、こちらのフォローをしてくれる。
麻雀だって打ちながら解説をしてくれているその姿は頼れる先輩という言葉がよく似合う。
そんなまこの戸惑った姿を可愛らしいと思いながら、京太郎は本編の始まったスクリーンに目を向けた。

―― その内容そのものはあまり飛び抜けたものではなかった。

あるところにプロを目指す青年が居て、それを支える少女がいた。
しかし、ある時、青年はその少女の才能に気づいてしまう。
最初はそれを祝福し、後押ししていたものの、自分とは違う栄光の道を歩いていく少女に気後れを覚えていた。
結果、二人は少しずつ疎遠になり、少女にも青年にも新しい出会いが訪れる。
しかし、二人はどうしてもお互いの事を忘れられず、紆余曲折や友人の助けもあって、再会。
最後に一つ勝負をしてエンディング…というのがおおまかな流れであった。

京太郎「(まぁ…奇をてらった訳じゃない王道展開は嫌いじゃないけれど…)」
まこ「(…なんでここで麻雀が関係してくるんじゃ…?)」

二人の予想とは違い、王道的ラブストーリーをひた走る展開。
だが、それを何処か明後日の方向へと飛ばしているのは青年が目指していたのがプロ雀士だったという事だろう。
勿論、二人とも麻雀そのものが、世界的に大人気な競技である事くらいは知っている。
しかし、このシチュエーションならばもっと他になにか最適なものがあったのではないか。
王道的ストーリーからは想像もつかないくらい奇をてらったその基本設定に二人はどうしてもそう思ってしまうのである。

京太郎「(しかも、なんであんなにラブシーンが濃厚なんだよおおおお!)」
まこ「(あ、あんな激しいキスして…き、気持ちええんじゃろうか…)」

何度も挫折しかける青年を励ます為に、自らの身体を捧げる少女。
その献身を表現する為だろうか、その濡れ場はとても激しいものだった。
それこそそのシーンだけで十数分は尺をとっている構成は正直、欠陥だと言わざるを得ない。
少なくとも、恋人でもなんでもない先輩後輩で見に来るような映画ではない事を京太郎は冒頭で悟っていた。

京太郎「(もっと深く考えるべきだった…周りがカップルだらけだという事を…!)」

最初に席へと座った時には急いでいた事もあって、気にならなかった男女比。
それが今、ようやく頭の中で繋がる感覚に、彼は思わず顔を抱えたくなった。
こんな映画カップルや夫婦以外で見に来るものじゃない。
完全に自分たちが場違いなのを感じた京太郎は今すぐその場から逃げ出したい衝動にかられていた。


「はぅ…ぅ♪」
「ちゅ…えへ…♥」
京太郎「(しかも、こんなところで発情してんじゃねぇよおおおおお!!!)」

そんな彼をさらに追い詰めるように後ろの席から妙な音が聞こえる。
何か柔らかなもの同士がちゅっちゅと吸い付くような音やはぁはぁと漏れる吐息。
時折、くぐもった声が漏れるその空間に、京太郎は胸中で大きく叫んだ。
しかし、その一片たりとも声にはならず、彼は一人悶々とする事しか出来ない。

京太郎「(先輩は…あぁ…まぁ、こうなるよな)」
まこ「う…ぅぅ…」

そんな気持ちから逃げるようにそっと視線を向けた先でまこは顔を真赤に染めていた。
そのさっぱりとした態度からはあまり想像つかないが、まこが乙女である事を京太郎は知っているのである。
そんな彼女が時折、挟まる濃厚な濡れ場や、周囲のいちゃつきに対して平静でいられるはずがない。
コンタクトをつけて露出した目は緊張で強張り、どうして良いか分からなくなっていた。

京太郎「(それを可愛い…って思うのはあまりにも失礼なんだろうなぁ…)」

しかし、普段の自分がまこに対して頼りっきりであると思うからだろうか。
今にも目を回して倒れてしまいそうな彼女に妙に庇護欲を擽られてしまう。
普段は決して思わないそれに引きずられているのか、今の京太郎はまこの事が可愛くて仕方がない。
しかし、ここでまこに対して何かしらのアクションを起こしてしまうと彼女の事をさらに追い詰める結果に繋がりかねないのだ。
結果、そんなまこを時折、見ながらも、京太郎は最後まで傍観する事しか出来ない。

「シェバ…」
「キョウ…」

最後には世界のトッププロに上り詰めた少女を、青年が打ち破り、二人は抱き合う。
そのまま濃厚なキスを始める二人を背景にスタッフロ―ルが流れ始めた。
それを確認した瞬間、京太郎の肩からどっと力が抜け、背もたれに倒れこむ。
たった二時間ちょっとの映画ではあったが、その疲労感は八時間ぶっ通しでバイトし続けた時と並び立つほどに激しい。

京太郎「…染谷先輩?」
まこ「うあ…ぁ…」

それにため息を漏らしそうになるのを堪えながら、京太郎はそっと隣のまこへと呼びかける。
しかし、帰ってきたのは何とも頼りない声ばかりで、その視線は未だにスクリーンに釘付けになっていた。
良く見れば、そのポップコーンもコーラも殆ど減ってはいない。
恐らく最初の濡れ場からずっとまこは固まっていたのだろう。

京太郎「(出来ればもうちょっとそっとしておいてあげたいけれど…)」

飄々としているように見えて実はかなり初心なまこ。
そんな彼女にとって先の映画はかなり刺激が強いものだったのだろう。
出来ればそれから復帰するまでは待っていてやりたいが、次の開場時間が迫っているのだ。
このままここに居てもトラブルになるだけだと思い、京太郎はまこの意識を引き戻そうとそっとその身体に手を伸ばす。


まこ「ひゃぅ!?」
京太郎「うぉ!」

しかし、そうやって不用意に触れたのがいけなかったのだろう。
まこの口から驚いたような声が漏れ出し、その体がビクンと震えた。
そのままじっと京太郎を見つめるその目には微かな怯えが浮かんでいる。
それを今更ながらに後悔しながら、京太郎は宥めるようにゆっくりと口を開いた。

京太郎「えっと…大丈夫ですか?」
まこ「な、なな…なんの事じゃ?」

尋ねる京太郎の言葉にまこは視線を明後日へと向けた。
あくまでも後輩に弱いところは見せまいとするその姿に、京太郎はそっと胸をなでおろす。
とりあえず強がる事が出来るくらいには復帰してくれているらしい。
それに安堵を覚えながら、京太郎はそっと彼女の分のトレイを持ち上げた。

京太郎「とりあえずもう入れ替えの時間ですし、先に外に出ましょうか」
まこ「あ…」

そのまま歩いていく京太郎にまこは小さく項垂れた。
ショッキングな内容の映画だったとは言え、こうまで後輩にリードして貰うのはやっぱり恥ずかしい。
とは言え、ヘタにトレイを奪ってしまうと大惨事になる予感しかせず、まこは大人しくその後ろについていくしかなかった。

京太郎「っし」

そんなまこと共にゲートを通った京太郎は自分の分のゴミをゴミ箱へと流しこむ。
そのまま、まこの分のトレイを両手に持ち替えた京太郎が振り返れば、落ち込んだ様子のまこが目に入った。
それがあまりにも後輩に格好わるいところを見せてしまった所為なのだろう。
さっきの声は強がりめいたものではあれど、既に映画のショックからは殆ど立ち直っていたのだから。

京太郎「(つっても…考えすぎだと思うんだけれどなぁ…)」

先輩と言っても、所詮は一年多く経験を積んでいるに過ぎない。
勿論、だからと言ってまったく敬意を持っていない訳ではないが、さりとて何もかもを完璧にこなせるはずがないのだ。
結局、自分たちはまだ子どもで社会というものを本格的に知らないひよっこである。
それなのに実家の手伝いや部活を両立させているだけまこが凄いと言えるだろう。

京太郎「(まぁ…んな事俺に言われても…って感じだろうけど…)」

そう思う京太郎の脳裏にさっきの怯えたまこの表情が浮かび上がる。
男女の濡れ場に無意味なくらい力を入れていた映画の後にするにはあまりにも迂闊すぎた自分の仕草。
しかし、それを差し引いても、彼女の表情には自分に対する不信感が感じられた。
勿論、まだ会って数ヶ月なのだから、そこまで信頼されていないのは当然である。
だが、部活やバイトなどで誰よりも接している先輩が見せたその反応に少なからず傷ついているのは事実だった。


まこ「(ぅ…わ、わしは…わしはなんて事を…)」

そして、そんな自分の反応にまこは後悔を抱いていた。
完全に思考を停止させていた自分を呼び起こす為に京太郎が触れてくれたのはまこにだって分かっているのである。
しかし、あの瞬間の彼女にはそんな状況判断が出来るはずもなく、突然触れた男の手に驚愕していた。
自分とは大きさも硬さも違うそれにまこの脳裏に映画の内容がフラッシュバックし、ついつい拒絶するような反応を示してしまったのである。

まこ「(そう…男の…男の…手…)」

まこにとって京太郎はあくまでも後輩であった。
男として意識した事は殆どなく、精々が弟程度のイメージでしかない。
しかし、あの一瞬の自分は明確に目の前の彼の事を男として認識し、受け止めていた。
それに恋に盛ったケダモノのようだと自嘲を浮かばせながら、まこはそっと肩を落とす。

京太郎「あー…とりあえず…さっきの映画のグッズでも見ます?」
まこ「ぅ…」

そんな彼女を現実へと引き戻したのは、京太郎の冗談めかした言葉だった。
勿論、それにまこがうなずけるかと言えば、決してそうではない。
そもそも最初の濡れ場で思考が半ばショートしていた彼女は、シナリオの殆どを覚えていないのだ。
全体的なストーリーが比較的王道ではある事くらい分かっているものの、細かい内容までは覚えていない。
彼女の中で最も鮮烈に残っているのは汗を浮かばせた男女が絡みあい、睦み合う濡れ場であったのだ。

まこ「い…要らん…!」
京太郎「そうですか?全体としてはそこそこ面白かったと思いますけれど」

にやつきながらの京太郎の言葉は、勿論、まこをからかう為のものである。
しかし、それが完全に嘘だと言う訳ではなかった。
それほど画面に集中出来ていた訳ではないが、役者の演技力は確かで、麻雀の描写も迫力のあるものだった事は覚えている。
すれ違う二人の姿も王道ではあるが感情移入を呼び覚ます良い脚本であった。
少なくとも全米で絶賛と書かれた宣伝文句は決して誇張し過ぎなものではない。
そう思える程度には京太郎は映画の事を楽しめていた。

京太郎「(まぁ、二度とごめんだけれどな)」

熱烈なラブシーンに周囲のカップルが合わせる喘ぎ声などもう聞きたくはない。
正直、それだけで一体、どれほど気まずさを覚えたか分からないくらいなのだから。
次からはどれだけ面白そうでもちゃんと前情報を仕入れてから映画を見る事にしよう。
そう固く心に近いながら、京太郎はそっと備え付けられた黒皮の椅子へと腰を下ろした。

京太郎「じゃ…とりあえず休憩しましょうか。染谷先輩の分もまだある訳ですし」
まこ「ぬぅぅ…」

何処か手慣れたその様子にまこは自分がからかわれている事を悟った。
それに小さく唸り声をあげながらも、今の彼女には逆らう余地はない。
折角、京太郎に買ってもらった食べ物はまだ残っているのは事実だし、気疲れに心が疲労を訴えているのだから。
ましてや、彼が冗談を言ってくれたお陰で、幾らか気分も楽になっているのだから、本気で仕返しをしようと思えるはずがなかった。


まこ「はぁ…お前は将来、タラシになれるぞ」
京太郎「はは。光栄です」
まこ「褒めとらんわ…まったく」

それでも悔しさ紛れにそう言いながら、まこはそっと京太郎の隣へと座った。
そのままポップコーンを口に運べば、甘いキャラメルの味が広がる。
何処か優しいその味は、ポップコーンのふわりとした食感と良く絡んでいた。
なるほど、こういう売店で売るだけの事はあると、まこは小さな関心を覚える。

まこ「ん…」
京太郎「どうですか?」
まこ「いや…悪くはない。悪くはないんじゃが…口の中が乾くな」

しかし、それを全肯定する気にはなれないのは、それがあまりにも甘すぎるからだろう。
甘ったるいと言っても過言ではないその感覚は数回食べただけで舌が水分を求めるくらいだ。
普通のポップコーンよりも数段強いその感覚に、まこはそっとコーラを口にする。
瞬間、気の抜けた炭酸が口の中に広がるのを感じながら、まこは小さく肩を落とした。

まこ「それにうちじゃちょっとこれは扱えそうにないなぁ…」

ポップコーンの味そのものは悪くはない。
しかし、まこの家は雀荘で頻繁に客が牌を握る環境なのだ。
そんな状況ですぐに指が汚れてしまうような軽食を出す訳にはいかない。
今更ながらその難しさに肩を落としながら、まこは再びポップコーンに手を伸ばす。


京太郎「…なんていうか…先輩って真面目ですよね」
まこ「いきなり何を言い出すんじゃ」

そんなまこにクスリと笑いながらの京太郎の言葉に、彼女は不思議そうにそう返す。
勿論、まこ自身、自分が不誠実だったり軽いタイプの人間ではないと自負していた。
しかし、いきなりしみじみと言われるほどに真面目なつもりもまたないのである。
そんな彼女にとって、京太郎の事はとても脈絡がなく、不思議なものであった。

京太郎「いや、普通、映画見に来てまで実家の事考えないですよ」
まこ「あー…」

しかし、続く京太郎の言葉に、まこは小さく自分の頬を掻いた。
確かに遊びに来ているのに、実家の事を口にするのは真面目であると映ってもおかしくはない。
しかし、彼女にとってそれは極自然で当たり前の事であった。
それ以外の定規を持ち出す事が難しいくらいに、染谷まこは雀荘『Rooftop』の一人娘が染み付いているのである。

まこ「すまん。あまり人気のない雀荘の一人娘をしてるとどうしても…な」

それに謝罪の言葉を繋げるのは、まこがそれを悪癖であると受け止めているからだ。
遊びに出ている時に実家の事ばかり考えられてはあまり面白くはないだろう。
勿論、まこと深い付き合いをしている友人達はそれを肯定的に捉えてくれているが、誰しもが決してそういう訳ではない。
寧ろ、遊びに来ている時くらいそういうしがらみは忘れろと思う人の方が多数である事くらいまこにだって分かっているのだ。

京太郎「どうして謝るんですか?」
まこ「いや…だって面白くないじゃろ」

首を傾げる京太郎にそう告げながら、まこは小さく自嘲を浮かべる。
そもそも自分が面白味のあるタイプかと言えば、決してそうではないのだ。
雀荘の一人娘として働く彼女はテレビも見れず、話題の引き出しは決して多くはない。
さっきの映画の感想だって、彼女は京太郎と話し合い、共有する事も出来ないのだ。
その上、容姿までも地味だとくれば呆れられてもおかしくはない。

京太郎「いや、俺は染谷先輩といると楽しいですよ」
まこ「ふぇ…?」

そんな予想を裏切るようにして京太郎は軽くそう言った。
努めて重い意味にならないようにと心づかったその言葉に、まこは子どものように問い返した。
瞬間、ぼっと顔が赤く染まるのは自分の失態を、遅れながらに自覚したからだろう。
そんなまこにクスリと笑いながら、京太郎はゆっくりと口を開いた。

京太郎「普段はしっかりしてるのにプライベートでは意外と抜けてるところも見れましたし」
まこ「うぐっ…」

冗談めかしたその言葉にまこがそう唸るのは、そこに反論する余地がないからだ。
実際、今日の彼女は緊張の所為か或いは男女で歩くのが不慣れな所為か、普段はしない失敗ばかりを繰り返しているのである。
それを反射的に取り繕いたくなるが、そうしたところで自分の失態がなくなる訳ではない。
寧ろ、それを取り繕おうとすると余計に格好悪くなるだけだ。
まだ何処か冷静さを残す自分がそういうのに従って、まこは口をつ噤むしかなかったのである。

京太郎「何より、俺は染谷先輩とは疲れないし、のんびり出来ますから」

「共通の話題も多いですしね」と付け加える彼の言葉は決して嘘ではなかった。
勿論、気心が知れていると言う意味では、彼の幼馴染である宮永咲に及ぶものはいない。
だが、彼女はその半面、色々と手がかかる子であり、文字通りの意味で放っておけないタイプなのだ。
そんな彼女と出かける事は決して少なくはないが、迷子にならないように常に見張っていなければいけない。
そんな彼女と比べて落ち着いた雰囲気で、話を合わせて、冗談にも乗ってくれる染谷まこと言う女性は、京太郎にとって一緒にいて安堵出来る対象であったのだ。

京太郎「だから、そんな風に自分を卑下しないで下さいよ。じゃないと、そっちの方が面白く無いです」
まこ「ぅ…っぅ…」

最後にニコリとそう笑って言葉を結ぶ京太郎にまこの頬が赤く染まった。
今までそう言われた事なんてなかった彼女にとって、それは羞恥心を擽られるものだった。
彼の信頼そのものをぶつける言葉はとても擽ったく、そして恥ずかしい。
周囲のニヤついた視線も相まって、顔を隠してしまいたくなるくらいだ。

まこ「…本当にわしはお前の将来が心配になって来たぞ…」
京太郎「あれー?俺、今、結構良い事言いませんでした?」
まこ「良いすぎなんじゃ…ばーか…」

しかし、そんな事をしたら余計からかわれるだけだと悟ったまこはぷいっと顔を背ける。
その拗ねるような口調は、しかし、少しだけ素直なものだった。
彼女が嬉しく思っている事を悔しさ混じりに伝えるそれに京太郎は微笑ましさを感じる。
日頃、頼りがいのある先輩もまた一人の少女である事を感じながら、京太郎もまたポップコーンに手を伸ばした。

まこ「あ…そうじゃ。ちゃんとこれの代金は返けぇの」
京太郎「え、いや、良いですよ」

そもそも京太郎からすれば、これは日ごろのお礼であるのだ。
そうやってお金を返してもらうなんて本末転倒もいいところである。
それよりもインターハイ前に張り詰めた緊張を少しでも解して欲しい。
そう思う京太郎の前でまこはそっと首を横に振った。

まこ「ダメじゃ。出すのは映画代まで。後は割り勘じゃ」

決して譲るつもりはないその強い言葉は、奇しくも京太郎と同じ感情から放たれたものだった。
まこだってさっきからフォローさせっぱなしの後輩に対して、幾らかお礼がしたくもあるのだから。
しかし、この強情な後輩が、こっちが奢ると言っても、決して譲らない事くらいは目に見えていた。
それでも何とか彼の金銭的負担を軽くしてあげたいまこにとって、それは絶対に譲れないラインである。

まこ「先輩が後輩に全部、奢ってもらうなんて恥ずかしい話。久にしたら一生からかわれるじゃろ」
京太郎「あー…確かに…」

勿論、竹井久は生徒議会長になっただけあって、普段はしっかりしている少女だ。
だが、気の知れた相手は気が済むまでいじり倒すという悪癖があるのである。
一年という間、その犠牲者になり続けたまこにはそれは決して見過ごせるものじゃない。
そして現在、その主な標的になっている彼は思わずそう同意を返してしまうのである。

京太郎「(つっても…一度、出したものを返してもらうのはなぁ…)」

これが恋人同士であるならば、京太郎とて躊躇いながらも受け取る事が出来ただろう。
しかし、相手は部活とバイトの先輩で、なおかつ多大な恩があるのだ。
ついついさっきは同意を返してしまったものの、それらを割り勘にするのはやっぱり抵抗感が強い。
それを何とか出来ないかと悩む彼に一つのアイデアが浮かんだ。

京太郎「あ…じゃあ、代わりに一つお願いしても良いですか?」
まこ「ん?」
京太郎「俺が一人じゃ入るづらい店があるんで、そこに付き合ってくれません?」
まこ「そりゃ構わんが…」

勿論、、まこは彼がどういう店に入りたがっているのかは知らない。
しかし、その程度ならば安いものだと首肯を返す。
だが、その程度でさっきの恩が帳消しにはならない。
そう言おうとしたまこの前で京太郎がそっとトレイごと立ち上がった。

京太郎「よし。じゃ、行きましょうか」
まこ「ち、ちょ!」

そのまま空になった容器をゴミ箱に捨てながら、京太郎は歩き出す。
まるで最後まで言わせるものかと言うようなそれにまこは慌てて後ろについていった。
元々、歩幅を緩めていたのか彼女はすぐに京太郎へと追いつき、その隣へと並ぶ。
瞬間、京太郎の顔がしてやったりと言わんばかりに歪んでいるのに気づいたまこは呆れるように口を開いた。


まこ「…あんまり強引なのは嫌われるぞ」
京太郎「と言っても、ガツガツいかないと草食系だの言われる時代でして」
まこ「お前がガツガツ行く方向は間違っとるんじゃ」

冗談めかした京太郎の切り返しにまこがそっと肩を落とした。
どうやら意地でも割り勘させる気がないらしい後輩にため息の一つでも吐いてやりたい気分である。
しかし、そうやってこれ見よがしにため息を漏らしたところで、この頑固な後輩が決意を曲げる事はないだろう。
そんな後輩にどうやって仕返しをしてやろうかと考えながら、まこはそっと握りこぶしを作った。

まこ「(まぁ…悪い気はせんのは確かじゃが…)」

そうやってちやほやされるのが完全に嫌と言えるほど、まこは女を捨てている訳でも、京太郎に心を許していない訳でもない。
寧ろ、一皮剥いた彼女はとても乙女で、そして京太郎は親を除けば一番親しい異性なのだから。
しかし、それを肯定的に受け止める訳にはいかないのは、先輩という立場が彼女の中で硬いものだからだろう。
今まで彼の面倒を誰よりも見てきただけに、そうやって返される事に違和感めいたものをどうしても感じてしまうのだ。

京太郎「あ、ここですよ」
まこ「…ここ?」

そんなまこが足を踏み入れたのは乳白色の壁にガラスケースが埋め込まれた店だった。
外から中が見えるようになっているそのケースの中には色とりどりのスイーツが並んでいる。
入り口から中を見れば、チョコが吹き出す噴水や、ケーキが並ぶ机の中で女性たちが談笑している。
中には男性一人も存在しないその空間は、所謂、スイーツパラダイスと呼ばえる店だった。

まこ「…ここに入りたいんか?」
京太郎「えぇ。前々から興味があって」

京太郎は意外と甘党だ。
女性向けに味を調整されたレディースランチを幼馴染に乞うくらいに、彼の嗜好はそちらへと傾いている。
とは言え、男一人でこういった店に入れるほど京太郎は男気がある訳ではなく、また幼馴染はこういう華やかな店があまり好きではない。
結果、今まで興味を持ちながらも足を踏み入れる事が出来なかったそこに京太郎の目はキラキラと輝いていた。

まこ「(…まぁ、嘘ではなさそうじゃが…どれだけ子どもなんじゃ)」

そんな京太郎の姿を見ながら、まこは小さく笑った。
傍目には軽いタイプの青少年にしか見えない彼がキラキラと子どものように瞳を輝かせているのだから。
まるでプレゼントを期待する子どものような無垢なその姿は微笑ましくて仕方がない。
それに軽く毒気を抜かれたまこは胸中でそう言葉を漏らしながら、そっと財布を取り出す。

まこ「んじゃ先に入っとれ。わしは二人分の料金を支払っとくから…」
京太郎「いや、良いですよ。誘ったのは俺の方ですし、俺が二人分出します」

まこの言葉に現実へと帰ってきた京太郎は同じように財布を取り出した。
そのまま首を振る京太郎の姿に、まこは微かな苛立ちを覚える。
ここまで来ても、まだ譲ろうとしない後輩に流石のまこも我慢出来なくなってきたのだ。
ぐっと財布を取り出した手に力を込めながら、彼女はにっこりと笑う。


まこ「わりゃぁちぃと頑固過ぎゃぁせんか?」
京太郎「ぅ…」

今までのものとは違う、ドスの効いた広島弁。
それに財布を取り出した手に冷や汗が浮かび、心が折れそうになってしまう。
普段から冗談は言うものの滅多に怒る事はないまこが本当に苛立っているその姿はそれほどまでに恐ろしかったのだ。

京太郎「じ…じゃあせめて割り勘で…」
まこ「ダメじゃ。こういうとこくらい先輩の顔を立てぇ」

それでも何とか譲歩して貰えないだろうか。
そう思って京太郎が声を出した時には、まこはもう店の中へと進んでいた。
そのまま会計を済ませる彼女の背中を見つめながら、京太郎は何とも言えない居心地の悪さを感じる。

京太郎「(なるほど…さっきの先輩もこういう気持ちだったのか…)」

今更ながら一方的に奢られる申し訳なさを知った京太郎は強引であった自分を恥じた。
確かにこれがずっと続けば、まこが怒るのも無理は無いとそう思う。
それを内心で反省する京太郎の前で説明が終わり、二人は本格的に店内へと足を踏み入れた。

まこ「さ。もう払ってしもうたんじゃし、好きなだけ食え」
京太郎「…うっす」

そう笑うまこに京太郎は謝罪したい気持ちで一杯だった。
しかし、ここで謝罪したところで、まこに変な気遣いをさせてしまうだけなのは目に見えている。
謝罪するのはまた後にして、今はさっきの経験を次に活かせるように心に留めておくだけにしよう。
そう思った京太郎はスタスタとテーブルへと近づき、皿に色取りどりのケーキを並べていく。

京太郎「おぉ…おぉぉぉ…おぉぉぉぉ…」

一つ一つを皿に並べる度に京太郎の口から感嘆の声が漏れる。
何せ、そこに並んでいるのは一口サイズの小さなものとはいえ、色とりどりのケーキなのだ。
基本のショートケーキを始め、季節のフルーツを使ったパイも並ぶその光景は甘党の彼にとって天国もいいところである。
自然、そのテンションはうなぎのぼりになり、ウキウキとそれらを取っていった。

まこ(おーぉー…また嬉しそうにしちゃって…)」

そんな京太郎の様子を近くの席から見つめながら、まこはクスリと笑った。
勿論、彼女とてスイーツそのものには興味があるが、ついさっきハンバーガーやポップコーンを食べたばかりでは色々と厳しい。
それに一口サイズとは言え、ケーキのカロリーそのものは決して馬鹿にならないのだ。
決して食べない訳ではないにせよ、もうちょっと時間が経ってからにしよう。
そう思う彼女の元へ京太郎が戻ってきた時にはその皿には色とりどりのケーキが並んでいた。

まこ「…本当にそれだけ喰えるんか?」
京太郎「いけますよ!スイーツは別腹です!!」

まこの疑問にその顔を緩ませながら、京太郎はそれらを口へと運んでいく。
その度に嬉しそうに顔を綻ばせる後輩の姿に、まこもまたついつい笑みを浮かべてしまう。
何とも幸せそうなその顔は見ているだけで、まこの気分を上向かせる不思議なものだった。

まこ「(たまに思うんじゃが…京太郎は生まれる性別間違っとらんかなぁ…)」

勿論、唯一の男手ということでまこもまた彼のことを便利に使わせて貰っている。
しかし、彼の嗜好はどちらかと言えば女性のものに近く、またその顔立ちも可愛らしいものだ。
時に自分よりも女性的に見える彼に、嫉妬めいたものを感じた事は少なからずある。
勿論、ゴツゴツとした手や高い身長など男の子をしている部分はしているのは分かっているものの、たまにそう思わせる雰囲気が京太郎にはあった。

京太郎「って染谷先輩は食べないんですか?」
まこ「わしはまだ休憩じゃ。後でお前のオススメを貰う事にする」
京太郎「了解っす!それじゃもっかい行ってきますね!」
まこ「…もう食ったんか…」

その疑問に応える事もなく、京太郎はウキウキとバイキングへと戻っていく。
その後姿を見つめながら、まこはそっと小さく胸が疼くのを感じる。
それは楽しそうにはしゃぐ京太郎の姿が、自分よりも遥かにスイーツパラダイスをエンジョイしてるからだろう。
何の面白味のない自分とは違い、華やかなその姿に彼女の胸が何とも言えない暗い感情を沸き上がらせた。

まこ「(ああいうタイプじゃったら…きっとモテるんじゃろうな…)」

それは京太郎にとってあまりにも失礼な思考だとまこにも分かっていた。
彼の嗜好はノーマルで ―― もっと言えば和のように女性的なタイプが好みなのだから。
ついつい彼女の姿を目で追っている京太郎を見れば、彼が和に恋している事くらいすぐに分かる。
しかし、こうしてはしゃいでいる姿は自分よりも華やかで、そして楽しそうなのだ。
見ている方も楽しくなってしまうようなタイプの方が一緒に居て喜ばれるだろう。

まこ「(あー…わしは何を考えとるんじゃろうな)」

男相手にさえもそういった劣等感を抱いてしまう自分。
それに自嘲を沸き上がらせながら、まこは背もたれにその身体を預ける。
勿論、彼女とてモテたい訳ではなく、また恋人というものを作りたい訳ではない。
そういったものに幻想がない訳ではないが、彼女の日常はとても忙しいのだから。
しかし、そうやって部活と実家の手伝いに明け暮れ、面白味のない自分を変えたいと思っていないと言えば、嘘になる。

まこ「…はぁ」

とは言え、後輩相手にまで敗北感を抱いてしまうのは自分がかなり疲れている証拠なのだろう。
今更ながらにそれに気づいたまこはそっとため息を漏らし、目頭を押さえる。
コンタクトがずれないようにと留意したそれにじゅっと疲労が溶け、瞼が痺れるのを感じた。

京太郎「はい。どうぞ」
まこ「あ…」

そんなまこの横から差し出されたのは湯気の立ち上るミルクティーだった。
乳白色のミルクが微かに渦巻くそこからは甘いにおいが立ち上っている。
それにふとまこが顔をあげれば、片手に大皿 ―― 勿論、スイーツ満載の ―― を持つ京太郎の笑顔が目に入る。
微かに気遣うようなそれにまた心配を掛けてしまったのだと理解した彼女は自分に苦笑を浮かばせながら、それを受け取った。

まこ「…京太郎、お前は良い嫁さんになるな」
京太郎「先輩は俺の将来を心配したり嫁さんにしたりどうしたいんですか」

まこの言葉に微かに頬を引き攣らせながら、京太郎は再びスイーツを平らげ始める。
その速度はさっきとは違い、かなり抑えられているものだった。
それは勿論、京太郎の胃袋が早くも限界に達した訳ではない。
寧ろ、彼の身体はさらなるスイーツを求め、時間一杯まで頑張れと唸っていた。

まこ「(ふふ…仕方のない奴じゃな)」

それでもこうして速度を押さえるのは手持ち無沙汰な自分に構う為。
それを感じたまこは小さく申し訳なさを感じながら、彼女は嬉しく思う。
この後輩の何気ない優しさというのは時折、ジィンと胸に来るところがあるのだ。
そういうところをもっとアピールすれば和だって振り向いてくれない訳ではないだろうに。
そうは思いながらもそれを口に出す事が出来ないのは、それをなんとなく面白くない自分がいるからだ。

まこ「(部内でいちゃつかれると流石に…なぁ)」

まことて健全な女子高生なのだ。
恋愛というものには人並みに憧れは持っているし、所謂、恋話というものも好きである。
しかし、それを大会前の部活内で見せつけられるのはあまり面白い事ではない。
その奥に秘めた別の理由に気づかないまま、まこはそう言葉を結んだ。

まこ「さて…それじゃわしもそろそろ取ってくるかな」
京太郎「お、先輩もそろそろ出陣ですか」
まこ「うん。フォンデュとかも気になるしな」

そう言いながら歩き出す京太郎と共にテーブルへと近づいていくまこ。
その内心には勿論、ケーキひとつ当たりのカロリーを警戒するものがあった。
しかし、一つまた一つと食べていく内に、少しずつまこの中でその意識が薄れていく。
備え付けのティーポッドから出てくるミルクティーもまた美味しいのも相まって、いつの間にかまこは自身のペースを忘れ… ――

―― 結局 そのまま満腹になってしまうほどスイーツに手を出してしまったのだった。

―― 二人が帰路についた時、既に周囲は黄昏時となっていた。

夕暮れ時の独特のギラギラとする赤い日差し。
それを受ける二人の手には大きな袋が2つぶら下がっていた。
結局、アレから色々な店を回った彼らは細々としたものを買う事になったのである。
それは勿論、京太郎が期待していた通り、まこへと一方的に奢るようなものではない。
しかし、帰路につく彼の心はそれなりに満足していた。

京太郎「(少なくとも…気晴らしにはなったみたいだ)」

そう思いながらチラリと横目でまこを覗き見れば、そこには何時もと変わらない彼女の表情がある。
しかし、ここ最近の彼女はそこに緊張や、不安というものを滲ませる事が多かったのだ。
それは勿論、日頃から良く接している京太郎や親友である久でなければ気づかないくらいの薄いものである。
けれど、頼り甲斐のある先輩と言った態度を中々崩さないまこに浮かんでくるほどのそれは決して無視出来るものではなかった。

京太郎「(けれど…今はそれがない)」

勿論、まこが最初からひどく緊張している事くらい京太郎も分かっていた。
自分に恥をかかせたりしないように精一杯オシャレしてくれている事もまた理解していたのである。
しかし、今の彼の目の前を歩く彼女にはそれがない。
彼が最初に会ったばかりの、ごく自然体としての染谷まこがそこにいたのである。

まこ「ん?どうしたんじゃ?」
京太郎「いや、先輩はやっぱり可愛いと思いまして」
まこ「はぁ…またそれか」

そんな彼女を可愛いと思う気持ちは嘘ではない。
確かに華やかなものこそないが、まこもまた間違いなく美少女に入る逸材なのだから。
メガネをコンタクトに変えて、精一杯の化粧をしている今は特にそれが顕著に分かる。
自身の持つ美しさを地味というヴェールに遮らせない今の彼女は道行く人の何人かが振り返るくらいだ。

まこ「そういう冗談はやめぇと言うとるじゃろ」

しかし、それが彼女には分からない。
元々、自己評価が著しく低い彼女にとって、それは通行人のそれは奇異の視線であったのだ。
自然、最初は狼狽していた彼の言葉にも、そうやって擦れた反応を返してしまう。
彼女にとってそれはどうしてもたちの悪い冗談にしか聞こえないのだ。

京太郎「随分と擦れちゃって…お父さんは先輩をそんな反応をする子に育てたつもりはありませんよ」
まこ「育てられたつもりもありゃせんわ」

冗談めかしてそう応える京太郎にまこは呆れるようにそっと肩を落とした。
しかし、その表情は和らいだものから変わる事はなく、その唇は笑みを形作っている。
後輩にからかわれているのは悔しいが、さりとて、それに一々、怒るほどまこは狭量なタイプではない。
後輩の中では特に親しいという関係もあって、その程度の冗談は軽く受け止めてやれるのだ。


まこ「と言うか…そもそもお前はそうやって可愛いと言ってわしに何をさせたいんじゃ?」
京太郎「何をって…うーん…」

それでもそう尋ねるのは彼女が、京太郎の意図を察する事が出来ていないからだ。
自身を可愛いという京太郎の言葉を、冗談として受け止められていない彼女にとって、それは気味が悪いものである。
この後輩の事はなんとなく分かるようにはなって来たものの、その意図だけはどうしても読めないのだから。
それに尋ねる言葉に京太郎はそっと首を捻り、思考に耽った。

京太郎「ぶっちゃけ特に意味はないんですよね。思った事をそのまま口に出してる訳ですし」
まこ「またまた…そういうお世辞は良いって」
京太郎「お世辞じゃないんだけどなぁ…」

そう言う京太郎の言葉を、まこは聞き入れる事はなかった。
まこにとって自分は地味でかつ話題も少なく面白味のないタイプなのだから。
それを安心すると言ってくれた言葉は恥ずかしながらも受け入れられるものの、流石に可愛いと言う賛辞は信じられない。
事実はどうであれ、彼女は男である京太郎に敗北感を覚えるくらいに、自身の容姿に自身がなかった。

京太郎「まぁ、それでも強いて目的を言うとしたら…先輩にもうちょっと自信を持って欲しいって事ですかね」
まこ「え?」

しかし、瞬間、聞こえてきた声にまこは驚きの声を返してしまう。
そのまま横の京太郎に視線を向ければ、そこには真剣そうな彼の顔があった。
横を歩く自分をはっきりと見据えるその表情は、決して彼が冗談を言っている訳ではない事をまこに知らせる。
それと同時に自身が冗談で誤魔化す事も出来ない事を悟ったまこの前で、その唇はゆっくりと開いていった。

京太郎「先輩は凄い人ですよ。麻雀も勉強も仕事も、おおよそ何でもしっかりこなせているじゃないですか」
まこ「それは…わしが年季が入っとるだけで…続ければ誰にだって出来るもんじゃ」

そこから放たれる賛辞の言葉に、まこはそっと首を振った。
そうやって後輩が真剣に自分を持ち上げてくれるのは嬉しい。
しかし、それを素直に受け止められないのは彼女が決して才能溢れるタイプではないからだろう。
その麻雀の能力を見ても分かる通り、まこは経験や努力で自身の能力を磨き上げてきたのだから。
同じ条件であれば、自分はきっと他の誰かに劣ると彼女自身分かっているのである。

京太郎「確かに誰でも続ければそうかもしれません。でも、現実、俺は先輩ほど何でも出来る人を知りませんよ」

だが、現実、彼女と同じ事が出来るものは少ない。
それは勿論、彼女の経験や努力が並大抵のものではないからだ。
幼い頃からずっと培われてきたそれは、到底、同年代では追いつく事が出来ない。
そもそも彼女と同じ年頃の少女たちはまだまだ子どもで、まこと同じスタートラインにすらつけていないのである。
そんな青春真っ盛りの少女たちの中で、努力を積み重ねてきた彼女を京太郎は素直に凄いと思う。

まこ「でも…わしは別に…飛び抜けて何かがある訳でも…」
京太郎「そんなのなくても良いじゃないですか」

確かにそう言うものがあれば、自己のアイデンティティにも繋がるだろう。
だが、誰しもがそういうものに繋がるような才能を持っている訳ではないのだ。
そういう人々は本当に一握りで、そしてまこも京太郎もそれらの中には入れてはいない。
しかし、だからと言って、自分に自信を持ってはいけないなんて事はないと京太郎は思うのだ

京太郎「それよりも誰かに優しく出来るとか、後輩を指導出来るとかそういう事の方が俺は大事だと思いますよ」

それが出来ない人がいる以上、それもまた一種の才能だ。
そう思いながらも口に出さないのは下手をすれば部長である竹井久の侮辱になりかねないからである。
確かに彼女は才能に溢れ、自信に満ち、人望もあるが、さりとて、京太郎の指導に積極的かと言えばそうではない。
彼女の目には今、インターハイの事しか映ってはおらず、自分は命じられるまま雑用にひた走っている。
勿論、雑用係を言い出したのは自分であり、また彼女にとって後がない事を理解しているので、後悔も文句もない。
だが、だからこそ、そんな自分にも目をかけてくれるまこの優しさは際立って感じられる。

京太郎「そして俺にとって染谷先輩は尊敬に値する人で…もっと言えばそう言う人間的魅力に溢れた人です」
まこ「ぅ…」

それを伝える京太郎の言葉にまこは言葉を詰まらせる。
まさかそんな風にはっきりと尊敬だの人間的魅力だの言われるだなんて彼女は思っていなかったのだ。
正直、今だってそれが冗談の類ではないかと疑っているくらいである。
しかし、それを口に出せないくらいに京太郎の表情は真剣なものだった。

京太郎「だから、そんな風に自分を卑下しないで下さい。じゃないと…俺も悲しいじゃないですか」
まこ「…」

そう言葉を結ぶ京太郎に何と言えば良いか分からない。
そうやって後輩が持ち上げてくれるのは嬉しいが、さりとて、その全てを受け止める事は出来ないのだから。
今まで自分の事を実像よりもかなり低く見積もっていたまこは彼の言葉は重すぎる。
有難いと思う反面、それに拒絶反応を示す自分さえまこは感じていた。


まこ「(でも…)」

そう。
でも、それは後輩の優しさだ。
そして、同時に本心なのである。
決して嘘や冗談ではなく、彼は本気で自分の事を魅力ある人間だと言ってくれているのだ。
それがどれだけ恥ずかしくても、応えてやらなければいけない。
そう思いながらも、まこの口はもごもごと動くばかりで、言葉を放つ事はなかった。

京太郎「(俺…何言ってるんだろ…)」

そんなまこの前でふと冷静になった京太郎の胸に羞恥心が沸き上がってくる。
勿論、彼が口にした言葉は決して嘘ではなく、心から思っていた事だ。
そして、まこがそうやって自分に自信が持てない事を痛々しく思っているのも何とかしたいと思ったのも事実である。
しかし、こんな説教めいた青臭いセリフを放つつもりがなかったのも事実であった。

京太郎「(あぁぁ…やっぱ先輩困ってるじゃねぇか…)」

そんな彼にとって、口ごもるまこの表情は困っているものにしか見えなかった。
突然言われた説教に、彼女は間違いなく戸惑っている。
そう思った京太郎は胸中で頭を抱えて、何とか場のフォローが出来る言葉を探す。
しかし、さっきとは別の意味で冷静さを失う彼の頭が的確な応えなど出せるはずもなかった。

京太郎「そ、それにですね!先輩がダメなら先輩の完全下位互換の俺はどうなるんですか!それこそゴミ呼ばわりされても文句が言えませんよ」

瞬間、放たれる言葉はさっきとは違って、軽い冗談めいたものであった。
真剣そのものであった雰囲気を自身から崩すそれに京太郎は逃げたのである。
勿論、その自虐も彼の本心ではあったものの、必死に返事をしようとしていたまこの前でそれはあまりにも不的確な言葉であった。

まこ「…」ジトー
京太郎「(…あ、これもしかして俺…やらかした?)」

それを不機嫌になったまこの視線から感じ取った京太郎は冷や汗を浮かべる。
スイーツパラダイスの前で自分へと向けられていたあの怒りにも負けないその不機嫌さに彼の表情筋が強張った。
しかし、まこはそんな彼に何も言わず、ただただ、じっと見つめ続ける。
それに京太郎の心が折れそうになった瞬間、彼女の頭がふいっとそれた。

まこ「はぁ…なんでお前はそう…もうちょっと落ち着けないんか?」
京太郎「す、すみません…」

そのまま呟かれる言葉に、京太郎は謝るしかない。
どれだけまこが困っていたとしても、その言葉が真剣なものである以上、自分は待つべきだったのだ。
少なくとも、さっきのやりとりそのものを冗談へと受け止められかねない言葉はあまりにも不的確だろう。
今更ながらそれを悟った京太郎はシュンと肩を落とした。

まこ「(あぁぁぁ!!わ、わしは何を言っておるんじゃああああ!?)」

申し訳なさを感じる京太郎の前で、まこは自分の態度に頭を抱えた。
確かに冗談めかした京太郎に呆れたのは事実であるが、それをそのまま表に出すよりもやる事は幾らでもある。
本来ならば、感謝の言葉の一つでも真っ先に返してやるべきだったのである。
そもそも有難うと、嬉しいとそう一言でも先に言っておけば、彼がこんな風に道化を演じようとする事はなかっただろう。

まこ「(ぬぐぐ…何とか…何とかしないと…)」

しかし、そうは思いながらも一旦、変わった空気は変わらない。
そもそも呆れるような態度を取ってしまった以上、このまま謝罪や感謝に告げるのは少し無理があり過ぎる。
しかし、それでもその難しいであろうミッションをこなさなければいけない。
それが京太郎に報いる方法だとそう思いながら、まこはそっと口を開いた。

まこ「あ…あ・・・あり…ありが…」

しかし、その言葉はポソポソと小さなもので、また最後まで言葉にはならない。
まるで乙女が告白された時のような自身の反応にまこは焦燥を強める。
結果、彼女の口はさらに空回りを始め、その言葉はどんどんと尻すぼみなものへと変わっていった。


京太郎「あ…」
まこ「え…?」

そんな自分が涙が出るほど情けなくなった頃、当然、まこの前で京太郎が上を見上げた。
それに釣られて彼女もまた天を見上げれば、そこにはいつの間にか分厚い雲が掛かっている。
埃を水で濡らしたような独特の嫌な色を放つそこからはポツポツと大粒の雨がこぼれ落ちていた。
それを肌で感じた瞬間、京太郎はハッと意識を現実へと引き戻す。

京太郎「やっば…!夕立ですよこれ!」
まこ「んな…っ!」

そうやって二人が驚きを顕にするのは、二人が傘の一つも持っていないからだ。
そもそも今日の天気は晴れであり、雨の予報など一つもなかったのである。
しかし、梅雨の天気は崩れやすく、にわか雨も振りやすい。
それが目の前で起こりつつあるのを感じた京太郎は周囲を見渡すが、辺りには雨宿り出来そうな場所など一つもなかった。

京太郎「(くっそ…住宅地だもんな…!)」

周囲に並ぶのは家ばかりで、また軒先を貸して貰えそうなスペースもない。
それに一つ胸中で毒づきながら、京太郎は脳裏でまこの家へのルートを計算する。
しかし、今から走って言っても、彼女の家にたどり着くにはまだまだ時間が掛かるだろう。
途中でコンビニに寄って傘を買うにせよ、それまでの間に二人ともびしょ濡れになってしまうのは目に見えていた。

京太郎「(俺はまだ良い…!でも…先輩は…!)」

京太郎に恥を掻かすまいと普段とは違うオシャレをしてきたまこ。
その身体にまとっているのは、彼女のお気に入りであるワンピースなのだ。
梅雨から夏をメインに考えられたそれは薄手で、雨に濡れてしまうと透けてしまうのは目に見えている。
それだけは何とか防がなければいけないと思った京太郎は、棒立ちになるまこの手をぐっと握った。

京太郎「先輩…!こっちへ!」
まこ「ひゃぅ!?」

そのまま駆け出す京太郎に引かれるようにしてまこの足も動き出す。
その速度はお互いに荷物を持っているとは思えないくらい早いものの、さりとて雨脚は二人を逃がさない。
すぐさま土砂降りへと変わったそれは二人の身体を打ち、その荷物ごと水滴の洗礼を受ける。
結果、二人が住宅地横のバス停留所に逃げ込んだ頃には、服だけではなく、袋から靴までぐっしょりと濡れてしまっていた。

京太郎「あー…」

その不快感に声をあげながら、京太郎はそっと肩を落とした。
自分があんなところで変な話をしなければ、まだ何とか雨に濡れずに済んだかもしれない。
少なくとも濡れていない場所を探すのが馬鹿らしいほどに濡れる事は恐らくなかっただろう。
つくづく間の悪い自分に一つ自嘲を覚えながら、京太郎は一つため息を吐いた。

まこ「あ…あの…き、京太郎…?」
京太郎「なん…あ、す、すみません…!」

そんな彼に呼びかけるまこの声に、京太郎はついつい振り向いてしまいそうになる。
それを途中で中断したのは、まこの服もまた濡れていると分かっていたからだ。
ここで振り返ってしまうと、まこの濡れた姿を見て、結果的に辱めてしまうかもしれない。
これ以上、自分の所為でまこに迷惑を掛けたくなかった彼にとって、それは決して選べるものではなかった。

まこ「や…あの…手…」
京太郎「…手?」

けれど、既のところで振り返るのを堪えた京太郎はその言葉の意味を理解出来ない。
そもそも彼は自責で頭の中が一杯で、思考能力の殆どもそちらに裂いていたのだから。
そんな彼が未だまこを先導するのに握った手がそのままであると気づけるはずがない。
まこの言葉に首を傾げるものの、彼は自分の手に意識を向ける事はなかった。

まこ「手…を…そろそろ離してくれると嬉しいんじゃが…」
京太郎「あ…っ!!」

そんな京太郎に答えを告げるまこに、彼はそっとその手を離した。
そのまま頭をバス停にぶつけたくなるのは、自分の失態がまたひとつ増えたからだろう。
これ以上、まこに迷惑を掛けたくないと言いながら、自分は一体、何をやっているのか。
そう思うと、自己嫌悪が湧き上がり、無性に雨の中を走りたくなる。

京太郎「…すみません。俺…気づけなくて…」

しかし、それをするよりも先にまずは謝らなければいけない。
そう思いながら放つ言葉は、後ろ向きなものであった。
勿論、そうやって先輩に接する事が、とても失礼である事くらい京太郎にも分かっている。
だが、今、まこの方に顔を向ければ、その肌が透ける姿を拝見してしまうかもしれないのだ。
それは最早、失礼などと言うレベルではない以上、京太郎に選ぶ事は出来ない。
結果、彼に出来るのは失礼だと理解しながらも背を向けながら、彼女に謝罪する事だけだった。

まこ「ま、まぁ…焦っていたし仕方がない」

そんな京太郎を許しながら、まこはそっと自身の胸を抑えた。
そこはドクドクと激しく脈打ち、雨で濡れた身体に何とも言えない火照りを与えている。
興奮とも恥辱とも言えないそれにまこは大きく息を吐く。
しかし、それでも彼女の熱が収まる気配を見せないのは、まこの手にいまだ京太郎が握っていた時の感触が残っているからだ。

まこ「(やっぱり…わしの手なんかよりも大きいし…その…温かい…)」

映画館で感じた時は余韻も何もないくらい一瞬の事であった。
しかし、今は数分の間、ぎゅっと握りしめ、その感覚を肌に残しているのである。
可愛い後輩が自分とは違うイキモノである事を否応なく知らせるそれにまこの胸がドキドキを止める事はない。
何とも落ち着かないそれにまこがどれだけ抗おうとしても、そこはずっとざわついたままであった。

京太郎「…」
まこ「…」

そんな二人の間で、会話らしい会話は途切れてしまう。
お互いに気まずさを抱く二人は、自分から会話をするキッカケをつかめなかったのだ。
その意識の殆どは自己の内部に向けられて、反省や驚愕に悶えている。
結果、その沈黙の帳はどんどんと分厚いものとなり、二人の鼓膜に届くのは水滴が鳴らすポツポツという音だけになった。

まこ「あ…あの…」
京太郎「ひ、ひゃい!?」

そんな帳を破ったのはまこの方だった。
気遣うようにおずおずと告げられるそれに京太郎がその声を跳ねさせてしまう。
それにクスリを笑うまこの心から、緊張と鼓動が収まっていった。
自分がドキドキしていた相手もまた緊張している。
そんな当然の事にようやく気づいたまこはそっとその唇を動かし、軽やかに言葉を放った。

まこ「…立ってるのは辛いじゃろ。ええからこっちに座れ
京太郎「いや…でも…」

まこがそう言うのは京太郎の身体が屋根のギリギリに立っているからだ。
出来るだけまこに近づかまいとするその姿は、正直に言えば有難い。
京太郎の予想通り、まこのワンピースは肌に張り付き、その可愛げのない下着を透けさせているのだから。
しかし、それくらいは別に荷物で隠す事が出来ない訳じゃない。
何より、そうやって端にいれば後輩の身体が濡れてしまいかねないのをまこはどうしても気にしてしまうのだ。

京太郎「お、俺は良いですから。染谷先輩だけ座っといて下さい」

京太郎がそれに断るのが万が一という事がありかねないからだ。
確かにその身体ははねた雨粒で微かに濡れているが、しかし、まこの痴態を見るよりはマシだ。
勿論、京太郎にそのつもりはないにせよ、近づけば近づくだけ見てしまう可能性は高まるのだから。
それをどうしても防ぎたい彼にとって、それは到底、従えない誘いであった。

まこ「ええから。先輩命令じゃ」
京太郎「ぅ…」

だが、そんなものはまこにはとっくの昔にお見通しである。
そして何だかんだで序列に厳しい京太郎がその命令に逆らえない事もまた分かっていた。
実際、京太郎の口からは迷うような言葉が漏れ、逡巡を強めるのが背中からでも伝わってくる。
そんな彼の姿に一つ笑いながら、まこはトドメの言葉を放った。

まこ「それともわしの裸はそんな風に後ろを向くくらい見とぉないもんか?」
京太郎「…卑怯っすよ」

さっき褒めちぎったが故に逆らえない先輩の言葉。
それを卑怯だと言いながら、京太郎はそっと肩を落とした。
どうやら自分は逆らえないらしいと諦めた彼は後ろ向きにそっと椅子へと近づく。

まこ「大丈夫じゃ。やばいところは隠しとるし、振り向いても何も見えんぞ」
京太郎「じ…じゃあ…」

とことんまで自分に気を遣って、見ないようにしてくれている後輩。
そんな彼がズルズルと足を引きずるようにして後退る姿を、まこがそのままにしておく事は出来ない。
その口からは振り向きを許可する言葉が放たれ、京太郎を誘う。
それにドキドキしながら振り向いた瞬間、彼の目に艶めいた美女の姿が飛び込んできた。

京太郎「ぅ…」
まこ「どうした?」

言葉を詰まらせる京太郎へそう尋ねるまこの癖っ毛は艷やかに輝いていた。
普段の輝きを数割増しに感じさせるそれは、彼女の印象を華やかなものへと変えている。
しかし、それだけで済まないのは、まこのきめ細やかな肌が、水滴を弾いているからだろう。
その瑞々しさを告げるような張りはついつい手を伸ばして触れたくなってしまう。
その上、ワンピースが肌に張り付く姿は妙な色気を感じさせ、京太郎をドキドキさせた。

京太郎「(な、何を考えてるんだ…!相手は染谷先輩だぞ…!)」

勿論、京太郎は世界で一番、彼女の可愛さを認識している男性である。
しかし、だからと言って、彼がそういう性的な対象としてまこを見た事は一度もなかった。
彼にとっては彼女は尊敬する先輩であり、異性というイメージは殆ど抱いていなかったのである。
だが、それが嘘のように京太郎は今、まこに対して色気と、そして興奮を感じていた。

まこ「ん…?」
京太郎「い、いえ!何でもないです!すみません!!」
まこ「いや…謝らなくてもええんじゃが…」

そんな彼に首を傾げるまこの前で、京太郎がその背筋をビシっと伸ばした。
そのままカクカクとぎこちない仕草で、京太郎はベンチへと腰を下ろす。
その姿を見ながら、まこはどうして彼がそんな風に突然、ぎこちなくなったのかを理解できない。
まさか自分に対して性的興奮を覚えているとは露ほどにも思いつかない彼女に、健全な青少年の衝動が思い至るはずがないのだ。

まこ「雨…あがらんなぁ…」
京太郎「そ…そうですね…」

結果、それを考える事を諦めたまこの言葉に、京太郎はぎこちなさの残った声を返す。
その視線は真正面へと向けられ、頑なに隣のまこを見まいとしていた。
しかし、それでも隣にあの艶めいた美少女がいると思うとその心臓の鼓動は激しくなる。
そんな自分に一つ自嘲混じりのため息を漏らしそうになった瞬間、京太郎はひとつ良いアイデアを思いついた。

京太郎「ちょっと俺コンビニまで雨具買って来ましょうか?」

そうやってコンビニに行けば、少なくともこの妙な興奮からは開放される。
何より、レインコートをまこに着せればそのワンピースが透けたりする事もないのだ。
そうすればきっと自分がまこに対して変な興奮を覚える事もなく、無事に彼女を家へと送り届ける事が出来る。
一石二鳥とも言えるそのアイデアを一も二もなく口に出した京太郎の前で、まこがそっと首を振った。

まこ「夕立なのは分かっとるし、もうちょっとしたら止むかもしれん。もうちょっと待ってもええじゃろ」
京太郎「そう…ですね」

今はまだバス停に避難して十分ちょっとしか経っていないのだ。
これが夕立だとしても止むまでにはまだ時間が掛かるだろう。
そんな状態で京太郎にコンビニへと走らせても、彼が身体を冷やすだけだ。
時間的にはまだ余裕がある訳だし、もうちょっと様子を見てからにしよう。
そんなまこの正論に反論する論拠を持たない京太郎はそっと肩を落とした。

まこ「それに…まぁ、こうして腰据えて話せる機会って言うのは正直、嬉しいし」
京太郎「え…?」

瞬間、聞こえてきた声に、彼はついまこの方へと視線を向けてしまう。
そんな彼の視界に飛び込んできたのは顔を微かに紅潮させた先輩の姿であった。
何処か恥ずかしそうなそれは彼女の仕草に艶っぽさを強め、青少年である京太郎をドキドキとさせる。
再び自分の中で復活するそのときめきに京太郎は目を背けようとするが、彼の視線はまこかた外れる事はなかった。

まこ「その…さっき…褒めてくれてありがとうな。…ちょっと…いや…かなり…嬉しかった」
京太郎「あ…」

それはおずおずと、さっきの感謝を告げるまこの姿があまりにも可愛らしかったからだ。
不器用ながらもしっかりと自分の気持ちを吐露する姿が、妙に庇護欲を擽られたからである。
普段の先輩らしい先輩というイメージからはかけ離れたそれに京太郎の胸がトクンと脈打つ。
さっきの興奮とはまた違ったそれに彼は戸惑いながら、声をあげ、そして小さく頷いた。

まこ「まぁ、自信を持てゆうんはかなり難しい話やけど」
京太郎「ですよねー」

そもそも他人にそう言われてどうにか出来るような問題ならばとっくの昔にどうにかなっているだろう。
それくらいは京太郎にだって分かっているし、深く追求するつもりはない。
それでもああやって説教めいた事を言ったのは、あまりにも自己評価が低い彼女が痛々しかったからだ。
そんな偉そうな自分の姿に不快感を与えなかっただけでも上出来だと京太郎は思う。

まこ「でも…ちぃと頑張ってはみる…よ」
京太郎「え?」

瞬間、聞こえてきたその声に京太郎は驚きの声をあげた。
そのままチラリを見た彼女の顔にはさらに強くなった紅潮が浮かんでいる。
真っ赤と呼んでも差し支えのないその顔をモゴモゴと動かすそ彼女から続きの言葉は中々、出てこない。
しかし、京太郎はそんな彼女をからかう事も口を挟む事はなく、ずっと言葉を待ち続ける。

まこ「ほ、ほら…後輩に言われてそのままゆうんも癪やない」

数十秒ほど経った頃、まこの口から飛び出したのは言い訳めいたものだった。
本心と相反する訳ではないが、決して近い訳でもないそれに彼女は内心、肩を落とす。
本当はまこもそんな建前のような事を言いたかった訳じゃない。
そう言われるのは初めてで、嬉しかったからこそ、自分を見つめなおそうという気も沸き上がってきたのだん。
しかし、それを口にするのはなんとなくこそばゆく、どうしても言葉に出来ない。
そんな情けない自分に呆れながら、まこはぷいっと京太郎から顔を背けた。

まこ「じゃが、その代わり…お前もじゃ」
京太郎「え?」
まこ「お前もそうやって卑下するのはやめぇ言うとるんじゃ」

そうやってまこが言うのは、京太郎が自分の力不足ばかりを気にしているからだ。
勿論、彼はまだアルバイトも麻雀も初心者で、決して実力者とは言えないだろう。
だが、初心者は初心者なりに頑張っている事がまこには伝わっているのだ。
実際、雀荘での彼の評判は悪くはなく、そして麻雀に関してもメキメキと強くなっている。
経験上、多くのアルバイトや麻雀初心者と接してきたまこから見ても、その成長速度は上出来と言っても良いものだった。

まこ「(それなのに京太郎はお礼だのと言ってわしを連れだして…)」

ここまで来たら京太郎の思惑がただお礼をしたいだけではない事くらいまこにだって分かっていた。
この後輩は切羽詰まった自分の息抜きに、こうして外へと連れだしてくれた事になんとなく気づいていたのである。
だが、それが彼の理由の全てじゃないのもまた彼女には伝わってきていた。
執拗に自分に対して奢ったりしようとしていたのは、京太郎が日頃迷惑をかけていると本心から思っているからだろう。

まこ「お前はよぉやっとる。それはわしが保証するけぇ、もうちぃと自分を信じてやりゃええ」
京太郎「あ…」

まこの言葉に京太郎はなんと返せば良いのか分からなかった。
自分の言った言葉がそのまま返ってくる感覚は、何ともこそばゆく、そして恥ずかしい。
しかも、まこが先にそれを受け入れた以上、反論する事も出来なかった。
先輩が先輩らしいオトナの対応を見せた今、男である自分だけ嫌だなんて言う訳にはいかないのである。

京太郎「参ったな…まさかそう言われるとは思ってませんでした」
まこ「ふん。先輩舐めとるからじゃ」

結果、そうやって返すしかない京太郎の胸には特に悔しさなどはなかった。
確かにしてやられたと思う感覚はあれど、不快ではない。
それはそうやって返されるそれが先輩なりの優しさであると理解しているからだろう。
恥ずかしがりながらも、彼女は後輩である自分の事を考え、こうして言葉を返してくれている。
そんな彼女に見事と思う感心こそあれど、厭うようなものはなかった。

京太郎「んじゃ、競争ですね」
まこ「ん?」
京太郎「どっちが先に自分を変えられるか。勝負しましょうよ」

そんなまこに追い付きたい。
そう思った京太郎の口から出てきたのは『勝負』という二文字だった。
勿論、まこにあらゆる面で及ばない自分が、勝てると本気で思っている訳じゃない。
しかし、だからと言って、最初から何も挑戦しないような情けない男でありつづけるのは嫌だった。
少なくとも、自分に目を掛けてくれているこの先輩の前でだけは、その期待に添えるだけの男でありたかったのである。

まこ「勝負と言うには賞品が必要じゃな」

意地にも似た感情が背を押して放たれた京太郎の言葉。
それにまこが乗ったのは、彼女もまた似たような気持ちであったからだ。
勝てる自信はないものの、さりとて後輩から挑まれた勝負を逃げる訳にはいかない。
自分から頑張ると言った言葉を翻すような情けない真似を、過度な信頼と期待を寄せてくる後輩に見せたくなかったのだ。

まこ「負けた方が何でも言う事を聞くゆうんはどうじゃ?」
京太郎「良いですね、それ」

勿論、その勝負がどれだけ馬鹿らしいかくらいまこにだって分かっている。
そもそも自分を変えられた自覚なんて得られる方が稀なのだから。
きっとこの勝負はノーゲームになり、二人の記憶から忘れ去られる事だろう。
そう思っているからこそ、まこはそうやって無茶とも言える提案をする事が出来たのだ。

京太郎「ふふ…今からでも染谷先輩の泣き顔が楽しみですよ」
まこ「言っておれ。今更、吐いたつば飲み込めんぞ」

そうやって笑いあう二人にはさっきまでの緊張やぎこちなさはなかった。
そこにはもう普段通りの先輩後輩関係に戻った二人の姿があったのである。
恐らく二人にとっては適切なその距離に、彼らは安堵と居心地の良さを感じていた。
出来ればずっとこのままこうして馬鹿な話をしていたい。
そう思った瞬間、雲から晴れ間が覗き、二人の視界が一気に明るくなった。

京太郎「っと…大分、弱くなってきましたね」
まこ「そうじゃな」

勿論、未だに雨脚そのものはなくなってはいない。
しかし、最初の頃のようなどしゃぶりではなくなり、晴れ間も少しずつ広がっていく。
後もう少しすればこの夕立もなくなり、家へと帰れる事だろう。
それに安堵した瞬間、まこの視線が京太郎の肌へと吸い寄せられた。

まこ「(意外と…引き締まっとるんじゃな)」

そう思うのは張り付いたシャツから覗くその身体が存外、引き締まったものだからだ。
筋肉質と呼ばれるほどではないが、人並み以上に逞しさが見えるそれには男らしさを感じる。
一見して誰も文化系だとは思わないだろうその身体つきは、彼が雑用やアルバイトを頑張っている証だ。
時に雀卓やパソコンと言った重い物を運ばされる彼は、成長期という事もあってどんどん逞しくなっている。

まこ「(触れたら…どんな感じなんじゃろ)」

勿論、そんな京太郎の身体はずっとまこの視界の中に入っていた。
それを彼女が意識しなかったのはそんな余裕が欠片もなかったからである。
後輩へと感謝を告げる事で頭が一杯だった彼女にとって、それは思考の外にあるものだった。
しかし、こうして雨脚が弱くなり、落ち着きを取り戻した今、それをどうしても意識してしまうのである。

まこ「(わ、わしは何を考えとるんじゃ…!?)」

そんな自分を首を振るって追い出しながら、まこはそっと胸を押さえた。
勿論、今日一日だけで後輩を男であると意識した事は少なからずある。
だが、それらはあくまでも受動的なもので、決して自分から触れたりしようとは思っていなかった。
まこにだってそんな事ははしたないという意識はあったのだから。
だが、今の彼女はそれを忘れてしまったかのように男の身体へと興味を持ち、触れたいとそんな欲求を沸き上がらせていた。

まこ「(アレは後輩で弟みたいなもんなんじゃぞ…!)」

まるで自分の身体が目の前の後輩を、男だと認めるような感覚。
それにぞっとしないものを感じたまこは自分にそう言い聞かせる。
しかし、押さえた胸から伝わってくる鼓動は弱まる事はなく、トクンと甘く脈打っている。
まるで全身にこそばゆい感覚を広げるようなそれは、まこにとって初めての感覚であった。

京太郎「あの…先輩?」
まこ「うひゃあ!?」

突然、首を振ったかと思うと胸を抑え、だまり始めた先輩。
それに心配を抱いた京太郎は首を傾げながらその顔を覗き込む。
そのまま問いかけるその言葉に、まこは肩をビクンと跳ねさせ、意識を現実へと引き戻した。
しかし、彼女の中で甘い鼓動が止む事はなく、寧ろ、近づいた彼によりその強さを増しているように思える。

まこ「(う…なんか雨で濡れて…艶っぽいと言うか…)」

元々、京太郎は人並み以上に顔立ちが整っている方だ。
手放しに女子からもてはやされるほどではないが、決して悪いものじゃない。
そんな彼の顔は雨で濡れ、何とも言えない艶っぽさや色気のようなものを感じさせる。
元々、男っぽいと言うよりは女性寄りの綺麗な顔立ちをしているが故に、その感覚は素直にまこの心へと受け入れられ、その鼓動を強くした。

まこ「大丈夫じゃ!心配いらん!」
京太郎「そ、そうですか?」

そんな彼に強く言い放ちながら、まこは大きく首を振った。
オーバーなリアクションを返す彼女の姿に、京太郎は違和感を感じる。
しかし、まこと同じく自分の事を過小評価する傾向にある彼がほんの数センチ近づいただけで、意識されているだなんて答えにたどり着けるはずがない。
多分、考え事をしている最中に話しかけてびっくりさせてしまったんだろう。

まこ「(わ、わしはまたなんて事をお…っ!?)」

そんな風に結論付ける京太郎の前でまこはさらにドツボへとはまっていた。
折角、心配してくれた彼に対して、あまりにも強い語気で返してしまった自分に自己嫌悪が湧き上がる。
さりとて、まさか突然、男らしさを感じて意識しちゃいました、だなんて言えるはずもなく、まこの頭は困惑に悶た。
せめて何かしら納得出来る理由をでっちあげて、彼に伝えなければあまりにも可哀想過ぎる。
そう思った彼女の視線が彷徨い、一つのポスターに止まった。

まこ「ほ、ほら!アレの事を考えとったんじゃ!」
京太郎「あれ?」

そう言ってまこが指差した先にあったのは、夏祭りのお知らせであった。
もう開催まで二ヶ月を切ったそのお祭りはこの辺りではそこそこ大規模なものである。
花火も打ち上げられ、道路にまで出店が並ぶそれは付近の住人がこぞって集まるものだった。
京太郎も夏のこの時期になると幼馴染や友達を連れて、毎年参加している。

京太郎「あぁ、そう言えばそろそろでしたっけ」

そう言う自分を京太郎は意外に思った。
娯楽と呼べるものが少ないこの辺りにとって、それは珍しいイベントなのである。
毎年、彼はそれを心待ちにしていたし、軍資金を得る為にコツコツと貯金したりもした。
しかし、今年はそれをすっかり忘れ、こうしてまこに言われるまで気づかなかったのである。
去年までの自分からは想像もつかない自分の姿は、それだけ麻雀の事で頭が一杯だからだろう。
それが誇らしいような驚いたような微妙な気分になりながら、京太郎はふと思いついた。

京太郎「あ、じゃあ、今年は麻雀部の皆で行きません?」

そのお祭りは丁度、インターハイの後に予定されていた。
インターハイ前であればそんな余裕はないだろうが、後ならば余暇も作りやすい。
勿論、どんな結果になってもインターハイ後には打ち上げもするだろうが、リフレッシュにはいい機会になるだろう。
それにもしかしたら和の浴衣姿も見れるかもしれない。
そんな邪な考えを少しだけ抱きながら、京太郎はまこに対してそう提案した。

まこ「そ、そうじゃな。それもええ」

そんな彼の様子に訝しげられていない事を知ったまこは内心、安堵しながらそう返した。
日程的にも機会的にもその提案は決して悪いものではないのだから。
ここで京太郎が口にしなかったとしても、何れ久かまこが思いついたであろうそれに反対する理由はない。
寧ろ、まこは積極的にそれを推し進めたい理由すらあった。

まこ「(夏休みが終わったら久の奴はさらに忙しくなるし…)」

彼女の親友でもあり、現清澄高校麻雀部部長である竹井久。
彼女は清澄の学生議会長でもあり、普段から忙しい日々を送っている。
そんな彼女が最も忙しくなるのは、学園祭での準備が始まる夏休み明けからだ。
そのさらに先には受験という人生の大きな転機がある以上、彼女はもう以前のように麻雀部に顔を出す事が出来ない。
勿論、個人としては会う事はあるだろうが、現在、麻雀部に所属している全員で何かをするという事はまずなくなるだろう。

まこ「(なら…最後にはせめて良い思い出を作らせてやらんとな)」

今はインターハイの事で頭が一杯ではあるが、基本的に竹井久という少女は後輩想いの良い子だ。
そうでなければ学生議会長という面倒な役職にありながら、一般生徒に慕われたりはしない。
彼女は彼女なりに自分を全国に連れて行ってくれた一年生を大事に思っているし、特に進んで雑用をしている京太郎に感謝もしている。
しかし、そんな彼女と後輩たちの接点は、もうちょっとで途切れてしまうかもしれない。
その前に後に思い返せるような良い思い出を作ってやろう。
そう思うまこにとって、その提案は自分から進んでやりたいものだった。

京太郎「やった!じゃあ、浴衣とか期待していますね!」
まこ「まったく…調子のええ奴じゃな」

そう呆れるように言いながらも、、まこはそれほど悪い気分ではなかった。
それは京太郎なりに麻雀部を大切に思ってくれている事がさっきの言葉で伝わってきたからだろう。
雑用ばかりで不満を溜め込んでいるのかと心配していたが、どうやらそんな事はないらしい。
それに一つ安堵しながら、まこはそっと立ち上がり、その視線を空へと向けた。

まこ「雨も上がったみたいじゃな」
京太郎「みたいですね。これでようやく動けそうです」

まこの言葉に京太郎が意識を空へと向ければ、そこはもう大分、明るくなっていた。
雲が散り散りになっているその光景は、最早、晴れ間とは呼べないだろう。
赤く染まった空に微かに雲が残っているものへと変わったそれは何とも晴れやかなものだった。
ついさっきまでどしゃ降りであった事が信じられないほどのそれに京太郎はそっと肩を落としてから立ち上がる。

京太郎「んじゃ、とりあえずコンビニに行きましょうか」
まこ「そうじゃな。このままじゃと風邪を引くじゃろうし」

天気が一気に晴れへと傾いたとは言え、二人の身体はびしょ濡れのままだ。
多少、水気が落ちてきてはいるが、張り付いたそれは二人の体温を奪っている。
勿論、動けるようになった以上、急いで帰るつもりだが、まだまだまこの家には距離があった。
それならば先にコンビニに寄ってタオルの一つでも買いたいというのが二人の本音である。

まこ「(とは言え…それだけじゃなぁ…)」

勿論、まこはそんな応急処置でどうにかなるだろう。
しかし、京太郎の方もまたそれでどうにかなるというのはあまりにも楽観的だ。
ここから京太郎の家までは、彼女の家の二倍近い距離があるのだから。
幾ら応急処置をしたところで、家に帰る前に体温を奪われきって風邪を引きかねない。


まこ「(大事な後輩に風邪を引かせる訳にはいかんし…)」

まこにとって京太郎は大事な後輩であり、実家の大事な労働力であるのだ。
その体調の是非は決して軽視出来るものではない。
ましてや、彼は今日、まこの為に数多くの骨を折ってくれたのである。
その気遣いの方向は決して正しい訳ではなかったが、さりとてそれに助かったのは事実だ。
そう思う彼女にとって、このまま彼を家へと帰す選択というのは決して出来るものじゃない。

まこ「(…よし)」

ならば、どうするかを吟味し続けたまこの中で、数分後、答えが出た。
それは決して容易いものではないが、背に腹は代えられない。
幾ら京太郎が頻繁に家へとあがる客人とは言え、そこは未だ招いた事のないものだったのだから。
しかし、どれだけ考えてもそれ以上の答えはない。
そう思ったまこがゆっくりとその口を開いて… ――

まこ「京太郎。うちに入ったら、まず風呂に入れ」
京太郎「…はい?」




………



……