「――――顔を上げてくれ、咲」
やさしさに、満ち溢れた声であった。
互いに、涙にぬれた自分自身を相手の目に映し出した、ゆっくりと眼の中の二人が視線を合わせて、だんだんとその像が大きくなる。
心の距離を埋めるように、どちらとも無く互いの顔に近づいていく。
しかし一定の距離になった後、はたしてそれ以上近づかなくなった、二人の唇が触れたのである。
時をかなたに置き去りにし、やがてそれがまた自分たちに追いつき、肩をたたいた事を二人が知覚した後に、名残惜しそうに唇は別たれた。
二人とも、まず深呼吸をする。やがて、最初に言葉をつむいだのは京太郎であった。
「咲、俺もお前が好きだ。和よりも、優希よりも、誰よりも、何よりも……俺の命よりも、大切な……」
「ふふ……っ、私なんかで……いいの?」
彼が言い切らないうちにイジワルそうな笑顔を彼に向けた、無論先ほどの仕返しだ。
京太郎は眉間にしわを寄せながら何か抗議をしたいような面持ちになったが、すぐに自分のしたことを思い出したのか笑顔になり、一言
「こいつめ」
と言い捨てた。
二人は、再びあふれんばかりの笑顔になった。咲の目にも光が戻っている、その考えを肯定するかのように咲は高らかに言い放った。
「ありがとう、もう大丈夫。何も私が恐れる事はなくなった、……見ていて! 私きっと部長や原村さん、そして京ちゃんに勝利を取ってくる!」
再び京は目頭が熱くなり、眼をそらす。
「もう、本当に涙もろいんだから。いい? 勝利をささげたら、その……私と……」
「?」
語尾が小さすぎて聞き取れない、耳を彼女の口に近づける。
「私と……デートしてほしいの」
思わず噴き出す京太郎だが、咲の表情は真剣そのもの。
すねると思った彼は、すぐにその意に従うといった返事をし、ようやく二つは一つに、離れていた心は完全なる円に結ばれたのである。
ちょうど、アナウンスが流れた。集合時間が迫っていると聞いて、二人は急いで元の場所に向かう。扉の前まで来て、咲が振り向いた。
「――――そろそろ、いくね」
「ああ、もうひと暴れして来い!」
「うん、京ちゃん大好き!」
ばっかやろう、と眼で話しかける。彼もまた、控え室に戻っていったのであった。

戻れば、咲の目の色が再び生気を取り戻している。
衣は心中で、思考をめぐらした。衣の心の中で大きい位置を占めていたのが喜びと困惑であった、とりわけ困惑は咲以外の二人からも少々感じられるとあって、いよいよ衣はわけがわからなくなった。
……今まで、屈せぬ事を許したものなどいない。骨があると思った輩は多々あるが、いずれも最後には心砕かれた。
ところが、ここに来て過去に無かった反応が、三人同時に起こったのだから、動揺をしないわけは無い。
――――拉ぎ折った筈の心が、何かに繋ぎ止められている。
少し後に、衣はこの結論にたどり着く。しかしそのときはまだ、その何かが何なのかは分かっていなかった。
その正体を知ろうとする衣の隙を突き、咲はやがて大物手を上げた。
――――負けたくない、負けない。
咲が望むそれは誰のためであろうか、天江衣は確かに龍紋渕のメンバーのためもあるだろうが、自分が負けるとは思っていないのだから、自分が獲物をいたぶるためであるという事が一番しっくり来る。
しかし、咲は前半で一度叩きのめされた。一度は仲間の期待の重みに精神が負けてしまったが、彼の言葉で再び生気を取り戻す。
姉に会いたいのは事実だが、それを全ての理由にはしない、勝利は自分のためではなく、仲間のために、愛する人のために。
一人であった衣と、何よりも強い結びつきを得て一人ではなくなった咲。
はじめは点数の差で余裕の合った衣だったが、それが徐々に狭まるに連れて、咲の安定した精神に逆に乱され始めた。
能力は精神によるところが大きい、と咲は。そして衣ですらもそう思っていた。
――――でなければ今衣と同等に戦えている咲が、先ほどまでいたぶられていた理由が見つからなくなってしまう。
そして、この二人の差はやがて明確に現れ始める、衣が棄てた牌――――月を模したイーピンを自らの牌の糧とし、嶺上から花を模したウーピンを引き出す。
それは、二人の力関係が逆転した事を暗に示したものであったかもしれない。
――――ついに咲は衣の支配下から抜け出し、勝利を収めたのである。
初めて味わう敗北の苦渋に顔をゆがませ、涙を流し始めてもなお、衣の心から一筋の清々しい気持ちが消える事はなかった。
それだけ、喜びのほうが大きかったという事になる。
咲も、この強敵に対し感謝を述べたい気持ちに襲われた、だがそれよりもまず彼に話しかけたい。
勝利を伝える言葉はどのようなものがよいか、咲は考えながら対戦部屋を出ようとした。勿論、既に部長たちはそこに駆けつけている。
――――だが、意外にもそこに京太郎は居なかった。
部長に聞くと、買出しに行かせたとのことだ、さすがに咲も苦い顔を隠さなかったが、部長は笑顔のままだ。何を考えているのか?
――――せっかく勝ったのに、何もこのときに買出しにいかせなくてもいいじゃない。部長だって、今年しかもうチャンスは無いはずでしょ?
何でそんなイジワルを……。
咲の不満は至極当然である、あの告白の後の京太郎が素直に聞いたはずが無いのだ。
無理やりいかせたに違いない――――と咲は考えたが、よくよく考えてみればおかしい事に気がつき始めた。
部長だけ、ほかの三人とは異質な笑いをしているのだ。しかも彼女はしきりに目配せをし、ウィンクをこちらに向ける。
咲のほうに視線を向けている三人は、気がつかない。
そこで、はっと気がつく。京太郎は買出しなどにいったのではなく、どこか別の場所で待機をしているのではないだろうか?
部長のアイコンタクトは、「適当な理由をつけて早く言ってあげなさい」との親心か? 買出しという先ほどの理由と並行して考えると、後者のほうがしっくり来る。
「わ……私、トイレ行ってきます!」
それでいい、というかのように部長はくすっと笑いを漏らした。ほかの仲間は仲間あきれたような顔をしているので、部長の笑いがそれに近いものだと誰も疑わない。
嘘をついてしまったわけではあるが、咲の心に罪悪感は無かった。それよりも自分がいたからこそ、今勝利を収める事ができたのだと、本来内気な自分がそう思えた事のほうが彼女にとっては衝撃だったのだ。

さて、ここまでは部長の思惑通りだった――――のだが、彼女は一つだけミスをした。
咲の方向音痴度を計算に入れていなかったことである。
咲と京太郎がようやく邂逅を果たしたのは、彼女がトイレに行くといってから小半時もたった後であり、さすがに京太郎も待ちくたびれていた。
――――が、建物の屋上で待つ彼が迫る高い足音とともに後ろを振り返ってみれば、月明かりに照らされた彼女の顔が白い笑いをこめながらこちらを見ている。
それを見るなり彼もはにかんだ笑顔に変わった。
「京ちゃん!」
「咲」
満面の星の下にて再びの抱擁を交わす二人、大会は終わり帰路につくものが多い中、好んでここに残るもの、そしてわざわざ人の居ないところを探しそこで逢引をするものなどいない
――――考えたのは京太郎か部長か、ともかくその論理を肯定するかのように、周りに人どころか動くものは二人以外に何も無かった。
つまり誰にも邪魔されずにゆっくりと語り合える。京太郎は、部長がそれとなく理由をつけて部員に帰るように言付けている事を聞いている。
部長の事だから、部員全員と共に帰り、自分をここに残して頃合を見計らった後携帯で虚言だった事を言って自らを困らせるかと思ったが、咲の存在でそれが杞憂であった事を知る。
「京ちゃん……私、やったよ!」
「ああ、見ていたさ。ありがとうな!」
京太郎が大の字で寝そべると、咲もそれに習って京太郎の隣に横になる。
咲の頭に京太郎の左腕がクッション代わりにあてがわれるが、逆に咲の右腕になんら役目が与えられる事は無くむなしく空を切って地に落ちた。
一度視線を合わせた二人は、空を見た。先ほどまではあんなに禍々しかった月が、いまや象牙色のまなざしを、やさしくこちらに向けている。
その周りにはこの世界の輝くもの全てを散らしたような星々が月の周りを踊っており、なぜだかそれを見ると、天江の笑顔が蘇ってくる。
「――――咲、今何考えている?」
「え? な、何って、何?」
「勝利の美酒に酔いしれるのもいいけど、俺の事も考えてくれよ」
あたらずとも、遠からず。
勝利に酔ってはいないが、考えているのは対戦相手のあの子だ。
そして俺のことを考えろという台詞も、気障ではあるが他の事を考えているという的はいている。
彼女の顔が、赤みを帯びる。
「……なあ、見ろよ。とてもきれいな空だろ?」
「うん……でも、もったいないな。あと少しすれば七夕で、京ちゃんと一緒に天の川が見られたのに……」
「天の川に邪魔されて会いにいけない織姫と彦星と比べりゃ、それに祝福される俺たちはむしろ奴らより幸せ者だよ。
……そうだな、デートは七夕にするか。近くの夜店でいろんな物買って、お前は浴衣で俺は……」
空を見ながら、そんな夢想を二人でする。
「ねえ、もし私があの星たちの一つに紛れ込んでも、京ちゃんは見つけてくれる?」
不意に、こんな質問が口をついて出た。
自分でも何を言っているのか分からなかったが、彼の答えもわけの分からない物であった。
「何言っているんだお前は、あの星のひとつに紛れ込むって。
俺たちはこの星でもう出会っているんだぞ? お前は俺をおいてどこかに行く気か?」
「もしどこかに行っても、探してくれる?」
「――――いや、どうだろうな」
その答えに咲はしゅんとなる、だが――――。
「そのかわりお前が帰ってくれば、必ずお帰りっていってやるよ」
すぐに満面の笑顔を取り戻す。
自分も、彼のそばから離れるなんて事はないだろう。だが、今は幸せすぎて不安なのだ。
いつか何かふっとした事でこの関係にひびが入ったりしたらどうしようかという不安が、彼女の心を覆っていた。
しかし、その言葉でそれは吹き飛ぶ。彼は、たとえば自分がいなくなっても自分だけを想い、いつまでも待ってくれると言う――――そんな含みを持った事を躊躇いも無く言った。
流れ星が一つ、彼らの前を通り過ぎていく。
「じゃあ、今……言って?」
笑顔と共に、彼の朗々とした声が空に響く。
「お帰り、咲――――」
「ただいま――――」
仲間たちの労いよりも、何よりも貴方のその一言がうれしくて。
私の顔は自然とほころんでしまうのだ――――。

終わり

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