その屋敷を見た時、意外とこじんまりとしている、というのが俺の最初の印象だった。
元々、俺は長野で龍門渕さんにもお世話になっていたのである。
勿論、目の前にそびえ立つその屋敷は一般的な家庭では到底、太刀打ち出来ないほど大きいが、驚くほどじゃない。
寧ろ、この程度で良いのか?と言う風に思うくらいだ。

京太郎「(まぁ…良く考えれば、あっちが本宅なんだもんな)」

山の上にズンと構えられた不釣り合いなほど大きなお屋敷の方が今、俺が廊下を歩いているこの屋敷より数段、大きいだろう。
だが、あちらの方が神事の中心であり、神代家にとっても中心地なのである。
それに対してこちらは神代の当主 ―― つまり小蒔の親父さんが住む屋敷に過ぎない。
勿論、重要度で引けをとる訳ではないが、大きさを誇る必要などないのだろう。

京太郎「(あー…緊張で心臓が喉から出てしまいそうだ…)」

そして、その奥には今、俺を待っている小蒔の親父さんがいるのだ。
一体、どんな人なのか、風貌すら知らないその人に一体、どんな風に挨拶をすれば良いのかまだ頭の中でしっかりと纏まってさえいない。
しかし、俺たちを運んでくれた巫女さんはスルスルと先を行き、邂逅の時間は刻一刻と迫ってくる。
その緊張に俺は思わずため息を吐いたが、身体に満ちる落ち着かなさは一切、消えてはくれなかった。

小蒔「それにしても…久しぶりですね」
初美「ですねー。こっちに来るのは数年ぶりくらいでしょうかー」
巴「普段は本宅の方で暮らしているものね」
春「設備はこっちの方が良い。…理不尽」
霞「仕方ないでしょ。あっちはあんまり人を容易く招いて良い場所じゃないんだから」

そんな俺の前で永水の皆は楽しそうに会話を続ける。
頻繁に小蒔の親父さんに会っているらしい石戸さんを除けば、全員が数年ぶりなのだから興奮するのも仕方のない事だろう。
けれど、そこに微かな陰りがあるのは…恐らくあまり良い思い出が皆の中に無い所為だ。
特に小蒔にとっては…ここはかつて自分が追い出された場所でもあるのだから、複雑な心境なのだろう。

京太郎「…」ギュッ
小蒔「あっ…」

それを俺はどうやって受け止めてやれば良いのか分からない。
小蒔の心情を無理に聞き出せるような状況でもないし、そもそも俺にだってあまり余裕はないのだから。
しかし、そうやって空元気を見せる彼女をそのままになんてしておけない。
そう思った俺は無言で小蒔の手を握りしめ、自分が傍にいる事を伝えた。

初美「まったく…いちゃつくのも大概にして欲しいのですよー」
巴「目に毒って感じよね」
京太郎「あ、あはは」
小蒔「えへへ…♥」

それに声をあげる小蒔の様子に気づいたのだろう。
薄墨さんと狩宿さんは呆れたように肩を落とし、そう言った。
それにぎこちない笑みを見せながらも、俺はその手を離すつもりはない。
それは小蒔も同じなのか応えるように指を絡ませてくれた。


春「京太郎…不安?」
京太郎「う…まぁ…その…」

その嬉しさに顔を綻ばせてしまったのがいけなかったのだろう。
俺の左隣を歩く春が首を傾げながら、顔を覗きこんでくる。
そのまま疑問を口にする彼女に俺はなんと答えれば良いのか分からない。
勿論、不安だし落ち着かないのは事実だ。
しかし、小蒔の前でそれを口にすると、陰りを見せる小蒔に下手な心配をさせかねない。
それを思うと素直には頷けず、俺は言葉を濁すしかなかった。

初美「まぁ、京太郎君はケダモノですからねー」
巴「出会ってすぐさま殴られるんじゃないかしら」
京太郎「こ、怖い事言わないで下さいよ…」

とは言うものの、その程度で済めば御の字という思考が俺の中にもあった。
俺がどれだけ最低な事をやっているかを考えれば、殺されないだけマシだろう。
そう思いながらも足を進ませ続けるのは、それも覚悟してこの屋敷に赴いているからだ。
どれだけ侮辱されても出来るだけギリギリまで食らいついて…俺と小蒔の仲を認めて欲しい。
それが出来ないなら…彼女がプロを目指すのを許して欲しいと…そう訴える為に俺はここに来ているのだ。

霞「大丈夫よ。ご当主様はそういう人じゃないから」

その言葉はきっと俺を励ます為のものなのだろう。
石戸さんの言葉は暖かく、そして優しいものだった。
しかし、それだけではないと思うのは…その言葉の中に複雑なものが混じっている所為か。
恐らく…この中で誰よりも『ご当主様』と接してきた石戸さんは小蒔の親父さんにあまり良い印象を抱いていないのだろう。

霞「今日はあくまで顔見せという話だったし…あんまり緊張しないでね」
京太郎「む、難しいですよ…」

クスリと笑った霞さんの言葉に、俺はそうぎこちなく返した。
どれだけ覚悟していると言っても、親御さんにご挨拶というのは緊張するものである。
ましてや、後ろ暗い事なんて山ほどあるのだから尚の事だ。
俗にいう大人物と呼ばれる人々はここで開き直れるのかもしれないが、俺は変な能力こそ持っているものの一般人。
これから先にどんなものが待ち受けているのかと思うと胃がキリキリと痛む。

小蒔「大丈夫ですよ。いつもの京太郎様なら…きっとお父様も認めてくれます!」

そんな俺を励ますように小蒔が力強く言ってくれる。
繋いだ手とは逆の指をぐっと固めてガッツポーズをとるその仕草に緊張を浮かべる俺の顔が綻んでいった。
勿論、小蒔の言葉には何の根拠もない事くらい俺にだって分かっている。
しかし、それでも可愛らしい彼女の言葉に励まされないはずがなく、俺の心もまた緊張を和らげていった。

小蒔「それに…いざって時は私も隣に…」
霞「それが…ダメなのよ」
小蒔「えっ」

瞬間、石戸さんから告げられる言葉に小蒔が驚きの表情を見せる。
いや、小蒔だけではなく、その場に狩宿さんや薄墨さんまでも同じように驚いていた。
何せ、今回は俺と小蒔の親父さんの初顔合わせなのである。
婚約して初めてのその席に、当事者である小蒔を同席させないとは一体、どういう事なのか。
そう思うのはごく当然のものだろう。

霞「今日は彼の人となりを見たいから二人っきりで会うらしくて…」
小蒔「そう…ですか…」

しかし、誰よりもそう思っているであろう小蒔はそれを口にしない。
それどころかシュンと肩を落とし、気落ちしている姿を見せた。
その小動物のような姿に胸が疼くが…俺にはなんと言えば良いか分からない。
久々に父親に会える事を内心、楽しみにしていて…けれど、それを裏切られた小蒔をどうやって励ませば良いのか…分からなかったのだ。

京太郎「大丈夫だって。俺一人でも…何とかしてみせるからさ」
小蒔「京太郎様…」

結局、俺に出来るのは強がって見せる事だけだった。
せめて小蒔の不安だけでも消し飛ばしてやろうと、さっきの彼女と同じように握り拳を作って見せる。
それに小蒔は嬉しそうに俺の名前を呼びながらも、しかし、その表情を完全に晴らす事はなかった。
幾分、気持ちが楽になったのは事実だろうが、決してその暗い感情から解放された訳ではないのだろう。
それに無力さを感じた瞬間、先導するように歩いていた巫女さんの足がふっと止まった。

「こちらです」
初美「はふー。ようやく荷物を下ろせるですよー」
巴「結構、重かったものね」

そのまま開かれる障子戸に、薄墨さんは明るい声をあげながら飛び込んでいく。
さっきまでの暗い雰囲気を払拭しようとするそれに狩宿さんも続いた。
そんな二人に微かに笑みを見せながら俺達も足を進め、その部屋の中へと入っていく。

京太郎「(…まるで旅館みたいだ…)」

瞬間、俺を迎えてくれたのは、和風の部屋だった。
つい最近、改装されたのか天井や壁は目新しく、清潔感がある。
特にい草を編んで作った畳はスベスベで、このまま寝転がっても眠れてしまえそうだ。
縦長の机や座椅子などの家具もまた上等で、ただの学生である俺に高級感を伝えてくる。
まるで高級旅館さながらのその光景に俺は今更ながらに神代家の大きさを感じ取りながら、ゆっくりと肩から荷物を降ろした。

春「お茶菓子もある…お茶淹れる?」
霞「そうね。ちょっと疲れちゃったし」
初美「賛成ですよー」

その頃にはもう春が机の上のお茶菓子に目をつけていた。
そのまま脇のポットに手を伸ばし、お茶を作ろうとする彼女に石戸さんたちが手を貸す。
それを見ながら、俺は全員分の荷物を壁際へと纏めた。
この部屋は決して狭い訳でもないが、六人が詰めかけて広々と使えるほどではない。
スペースを有効に活用する為にも荷物は出来るだけ一箇所に集めておくべきだろう。

「あの…」
京太郎「ん?」

そんな俺の後ろから聞きなれない声が届く。
それに腰をあげながら振り向けば、申し訳無さそうな顔をする巫女さんの姿が目に入った。
しかし、本来であれば彼女の役割はもう終わったはずである。
後はこのまま小蒔の親父さんと会えるようになる時間まで俺達の事は放っておいて良いはずなのだが… ――


「申し訳ないのですが…須賀様はすぐお呼びするようにとご当主様が仰せになっていまして…
京太郎「あー…」

しかし、どうやら小蒔の親父さんは思った以上にせっかちだったらしい。
或いは、よっぽど俺に会いたかったのか。
どちらにせよ、こうして俺たちを迎え、案内してくれた人にそうやって伝えられるのはあまり良い気分ではない。
高速移動手段をこれでもかと利用したとは言え、移動疲れと言うのは身体の中に溜まっているのだから。

春「幾ら何でも…急すぎ…」
初美「そうですよー。移動疲れってものもあるんですし…」
「すみません…」

そんな俺を気遣ってくれたのだろう。
春と薄墨さんは拗ねるようにそう言った。
けれど、それに謝罪しながらも、巫女さんは言葉を撤回しない。
それは恐らくこの神代家の中で『ご当主様』の言葉は絶対だからだろう。
申し訳なさそうに言葉を紡いだ彼女が、その命令に何とも思っていないはずがない。
だが、彼がすぐに呼べと言っているのであれば、その通りにしなければいけないのが…この神代家なのだろう。

京太郎「いや、良いよ。ちょっと行ってくる」
小蒔「京太郎様…」

ここで神代家の対応に文句を言ったところで、困るのは矢面に立たされている巫女さんだけだ。
それに素直に呼び出しに応じなければ、ただでさえ悪いであろう俺の印象が悪化しかねない。
それを思えばここで問答している時間すら惜しく、俺はそっと歩き出す。
そんな俺に小蒔が不安そうな目を向けるが…しかし、あまり構ってはやれない。


小蒔「気をつけて下さい。何か…嫌な予感を感じるんです」
京太郎「予感…か」

新年にバイトとして駆り出される巫女さんたちなどではなく、小蒔は正真正銘の巫女だ。
その不思議な力を今まで何度も目の当たりにした俺にとって、その言葉は決してただの錯覚だと一蹴できないものである。
小蒔がそう言うのであれば…何かやばい事が待ち受けているのかもしれない。
しかし、そうは思っても、ここで帰るような選択肢などはなく…俺には進む道しか残されてはいなかった。

京太郎「分かった。俺も気をつける。…だから、小蒔もちゃんと良い子にしとけよ」
小蒔「…はい」

そう頷きながら、俺は小蒔の不安を少しでも消せるようにと頭を撫でた。
それに小蒔は小さく頷きながらもその表情は結局、晴れる事はなかった。
まるで行かないで欲しいと言うようなそれに…正直、後ろ髪引かれるような感覚を覚える。
しかし、ここで小蒔に構い続けていると…それだけ小蒔の親父さんが不機嫌になりかねないのだ。
それを思うとどうしても放っておくしかなく…俺はそっと入ってきた入り口の方へと足を向ける。

京太郎「すみません。お待たせしました」
「いえ…では、こちらへ」

そう短く言葉を交わしながら、俺達はさらに屋敷の奥へと入っていく。
どうやら、小蒔の親父さんが待っているのはかなり深部にあるらしい。
その間、俺達の間に会話はなく、ただ沈黙だけが流れる。
お互いに顔見知りであるとは言え、こうした場で親しげに会話出来るほど親しい訳でもないのだ。
何より俺にとって決戦とも言うべき時間が近づいているともなれば、世間話が出来る気分にもなれない。

京太郎「(しかし…何かさっきから違和感があるんだよなぁ…)」

そう思うのは俺の胸に落ち着かなさとはまた別の感覚が去来しているからなのだろう。
さっきからどうにも心の隅に何かが引っかかり、気になってしまう。
だが、ソワソワとして落ち着かない今の俺は冷静にそれを分析する事は出来ない。
結果、俺は内心で首を傾げながらも、答えを出せず、導かれるままに大きな襖戸の前に立った。

「この先にご当主様が待っておいでです」
京太郎「は…はい…」

そう促す巫女さんの言葉に俺は震える声を返しながら、じっとその襖戸を見つめた。
白い和紙に山の風景を描いたその奥からは重苦しい空気が伝わってくるようである。
それに気圧されるのを感じながらも、俺は大きく口を開いて深呼吸をした。
酸素が脳に回ったお陰か、或いは、自分の中で一区切りついたのか。
少しだけ緊張が和らいだのを感じながら、俺はゆっくりと襖戸に手を掛け、開いていく。

京太郎「失礼します」

そう言って俺が足を踏み入れたのは思ったより広い空間だった。
まるで時代劇か何かの一室のように畳が敷き詰められた空間が奥へと続いている。
目算で40畳はあろうかと思うほどのそれはスペースの無駄遣いもいい所だろう。
だが、それ故に神代家が重ねてきた歴史の重みを感じるようで、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。

京太郎「(その奥にいるのが…小蒔の親父さん…)」

その空間の最奥、一段、高くなった場所に、正座する男性がいた。
その顔つきは精悍で、未だ老いらしいものを感じられない。
抜き身の刀のような鋭さを宿すその静かな姿は、下手に話しかけるのを躊躇うくらいだ。
しかし、ここで逃げ帰るなんて選択肢は元からない。
折角、相手から接触してきてくれたのだから、少しでも良い印象を与えて… ――

「お前が、須賀京太郎か」
京太郎「は、はい…!」

そう思った瞬間、聞こえてきたその声はとても低く抑えられているものだった。
まるで今にも爆発しそうな感情を抑えているようなそれに思わず身体が竦みそうになってしまう。
決して怒鳴られた訳でも、睨めつけられた訳でもないのに、一体、自分は何を怖がっているのか。
そう思うものの、竦み上がった肩は中々に元には戻らず、身体に緊張を浮かべてしまう。

「…ふん…」

そんな俺をじっと見つめる視線もまた鋭いものだった。
まるで一瞬でも動けば切ると訴えかけているようなそれに竦んだ身体が固まってしまう。
だが、こうやって十何メートルも離れたままではろくに話も出来ない。
そう思った俺は震えそうになる足をゆっくりと浮かせ、前へと踏み出した。

「来なくて良い」
京太郎「…え?」

瞬間、聞こえてきたその声に俺は思わず、問い返してしまう。
そっちから呼びつけておいて、近寄らなくて良いとは一体、どういう事なのか。
そう微かな怒りを湧き上がらせながらも、俺はピタリと足を止めてしまう。
そのままじっと親父さんの方を見返せば、彼の視線はもう俺には注がれてはいなかった。

「…そこにアタッシュケースがあるだろう?」
京太郎「え…えぇ」

そう言って指差される場所には銀色のケースがドンと置かれてあった。
純和風な内装からはまったくそぐわないそれには異様な存在感が伝わってくる。
だが、それ以上に嫌な予感を感じるのは、それは映画やドラマなんかでは大金の取引に使われるからだろう。

「500万入っている。それで小蒔と縁を切れ」
京太郎「…はい?」

その中に何が入っているのかは分からないものの…決して好意的なものじゃない。
それを親父さんの態度から感じ取った俺の耳に、冷たくも無情な言葉が届いた。
それに思わず聞き返すものの、彼の表情は変わらない。
相変わらず抜き身の刀めいた静かで鋭い顔つきのままだ。

「聞こえなかったのか?それで神代の家と関わるのを止めろと言ったんだ」

上から目線にもほどがあるその言葉に、俺の中に宿った微かな怒りが一気に燃え上がる。
勿論、俺はそう言われてもおかしくはない事をしているのは自覚しているし、縁を切れと言われるのも予想して来た。
だが、まさかろくに話し合いもなしに金を渡して手を切れと言われるなんて欠片も予想していなかったのである。
まるで俺が金目当てで小蒔に近づいたのだろうと、そう言うような態度に俺は強い苛立ちを覚えていた。

京太郎「…理由を聞かせてもらえますか?」

その怒りをぐっと握り拳に込めながら、俺はそっと口を開いた。
そこにはもうさっきまでの緊張はなく、静かな反発心に満ちている。
遠く離れた男から放たれるプレッシャーは未だ恐ろしいが、けれど、それに怯むような気持ちはもう俺にはない。
確かに俺はどう控えめに言ってもクズだが、小蒔に対する気持ちは本物のつもりなのである。
少なくとも、金を渡されてはいそうですかと引き下がれるほど、俺は彼女のことを軽く思ってはいない。

「理由?そんなの君自身が一番、良く知っている事だろう?」
京太郎「いいえ。分かっていません」

その言葉は逃げだと言ってやりたかった。
ろくに説明もせず相手を萎縮させる為の言葉であると言い放ってやりたかったのである。
だが、そうやって敵意に敵意を返していれば、溝は深まる一方だ。
小蒔の事を考えれば、どれだけ腹立たしくても機嫌を損ねすぎる訳にはいかない。
もう手遅れかもしれないが、それでも出来るだけ手を尽くさなければいけないだろう。


「…君は小蒔の他に交際している女性が二人いるらしいな」
京太郎「…はい」
「そんな奴に子どもを任せられると思うか?」

ストレートなその言葉に、身体がピクンと跳ねた。
確かにそんな相手に大事な娘を任せられるかと言えば答えは否だろう。
俺だって逆の立場であれば、一発ぶん殴って別れろと言うはずだ。
だからこそ、俺はその言葉に否定する事は出来ず…そっと口を開いた。

京太郎「思いません」
「だったら」
京太郎「だけど…貴方の理由がそれだけとも思えないんです」

そう。
確かに彼の口にした言葉は正当過ぎるほど正当な理由だ。
正直、それを言われると俺には何も言えなくなってしまうくらいに。
だが、それはあくまでも…普通の相手の場合だ。
ごく普通の…一緒に暮らしていた家庭の場合なのである。

京太郎「もし、そうならどうして長野行きを許可したんですか?」
「あの子の力を知ってるか?」
京太郎「知っています。だから、貴方はこんなところで一人暮らしているんですよね?」

その言葉は意図せず刺があるものになってしまっていた。
どうやら俺は親としての責任を果たさず、石戸さんたちに小蒔の世話を押し付けたこの人に怒っていたらしい。
実際、この人は小蒔の授業参観などにもろくに来ず、親と言っても一年に数回しか会わないそうだ。
その僅かな邂逅の間にも、ろくに会話もしない親と聞いて良いイメージが抱けるはずがない。

京太郎「(…小蒔は…泣くほど寂しがっていたんだぞ…)」

小蒔は頑張り屋ではあるが、その分、寂しがり屋であり、甘えん坊だ。
そんな彼女が親から疎遠になっている今の状況をどう思うかなんて、想像に難くない。
実際、俺の親父と仲良くなった際、「本当のお父さんみたい」と言葉を漏らし、泣きそうになっていたくらいなのだ。
それほどまでに寂しがらせ、親の責務も誰かに押し付けているこの人に俺は本当はそう言い放ってやりたい。
だが、それを胸の奥底に沈める為に再び深呼吸しながら、俺は彼へと向き直る。

京太郎「確かに小蒔の力は凄いものです。でも、今の時代ではそれだけで暴走するほどじゃありません」

実際、漫さんは携帯やメールで連絡を取り、我慢してくれているのだから。
俺だけが長野に帰ったところで小蒔がすぐさま暴走するような事はないだろう。
しかし、この人は小蒔の我儘を叶えさせるような形で長野への編入をねじ込んだ。
だが、それも良く考えればおかしい話なのである。

京太郎「それに…どうして長野行きを許可したのは小蒔だけだったんですか?」

勿論、俺が知らないだけで一人ねじ込むのと五人ねじ込むのとでは大きな差があるのかもしれない。
清澄の受け入れ体制の問題もあって、小蒔一人だけが先に編入した…と言われれば正直、納得は出来る。
だが、それなら清澄で受け入れ体制が整うまで小蒔もまたこちらで待たせておけば良いだけの話だったのだ。
それなのに…小蒔だけの編入を許し、石戸さんたちを後回しにするのは正直、普通じゃない。
もし、長野で小蒔が暴走を起こしたら、止められる人が傍にいない大惨事になりかねないのだから。

京太郎「もし、俺が相応しくないと思うのであれば、そこまでしてやる必要はないでしょう」

少なくとも、それはあまりにもギャンブル過ぎる。
下手をすれば殺人じゃ済まないレベルの事件が起こっていたかもしれないのだ。
幾ら他県の学校へこの時期の編入を許させる権力を持っているとしても、それをもみ消すのは一苦労だろう。
それなのにわざわざ小蒔だけ長野に行かせたのは… ――

京太郎「小蒔が暴走しないと…そう知っていたんじゃないですか?」

いや、そうでないと説明がつかないのだ。
一人別宅で暮らすほど小蒔の能力を恐れているこの人が、彼女を一人長野に行かせられる理由なんてそれだけしか考えられない。
勿論、それは状況から適当に推察しただけのもので、事実に即したものとは言い切れないのは俺も自覚している。
だが、そういう『確証』がなければ、『神代の巫女』という象徴的な位置にいる小蒔を手放したりはしないと俺は思うのだ。

「それは全て君の推測だ」
京太郎「では、俺のあげた疑問一つ一つに納得の行く理由を頂けますか?」

そんな俺に返された男性の言葉は相変わらず抑揚のないものだった。
動揺をまるで感じさせないそれに俺の胸が微かな不安を覚える。
何せ、俺が言ったのは全て状況からの推察にすぎないのだから。
もしかしたら、まったく的はずれな事を言っていたのかもしれない。
そう不安に思いながらも、俺はそこから逃げ出す訳にはいかなかった。


「納得…納得か」

そう言いながら顔を俯かせるその顔には微かな笑みが浮かんでいた。
口元を歪ませるそれに俺はふと嫌な予感を感じる。
まるで地雷を踏んでしまったようなそれに肩がピクンと跳ねた。
しかし、それでも視線を反らすと負けな気がして、俺はじっと彼の姿を見つめ続ける。

「社会を舐めるなよ、小僧」

瞬間、ゆらりと立ち上がるその姿はまるで幽鬼か何かのようだった。
自然体でも溢れるようだったプレッシャーが今、牙を向いてこちらへと向けられているのだから。
普通の生活をしているだけでは決して身につかないそれに、しかし、俺はぐっと食いしばる。

「納得させるのはお前の方だ、須賀京太郎。この場で『はい』と頷いて逃げ去るか、それとも…ここで死ぬか」

そう言って彼が手にとったのは脇に置いてあった刀だった。
その鞘をすっと抜けば、その下からは白銀に煌めく刀身が現れ、ギラギラと粘着くように光る。
俺は本物の刀なんて見たことはないが…恐らくそれは本物なのだろう。
俺を殺すという明確な殺意が…その輝き一つからでも伝わり、足が竦みそうになるのだから。

京太郎「俺は…どちらも選びません」
「では、何を選ぶ?」

煌めく刀を持ちながら、ゆらりとこちらに近寄ってくる姿に、心が怯えを浮ばせる。
正直、今の俺の状況はあまりにも異常なのだから、それも仕方がない事だろう。
誰だって婚約者の家に挨拶に言ったら、殺人未遂やら脅迫罪やらの被害者になるとは思うまい。
しかし、それを後で警察に言ったところでもみ消されるのは目に見えてるし、例えそうでなくても小蒔自身にも塁が及ぶ。
それを思えば、今ここで逃げ帰って再チャレンジ…と言う選択肢はどうあっても取れなかった。

京太郎「話し合いを。お互いに意見をすり合わせて妥協点を探りたいと思っています」

そう言った瞬間、俺の首筋にすっと刃が立てられる。
触れる肌から冷たくも熱い感触が伝わってくるのは、軽く肌が切れてしまっているからなのだろう。
恐らくもうほんの少し腕に力を入れられれば、俺は死んでしまうだろう。

「コレ以上、口を開けば死ぬと言ってもか?」
京太郎「その場合は500年前のように小蒔もまた失うだけですよ」

だが、彼は俺を殺せない。
そうなった場合、小蒔は確実に暴走するのだから。
その時にどうなるのかは正直、俺なんかではまったく想像がつかない。
目の前で暴走する小蒔は見ているが、火山を噴火させるほどの力があるとは思えないのだから。
しかし、それでもそれは小蒔を恐れて別宅で暮らしている彼に対して、俺の命を保証させる最低限のブラフにはなる。

「…ふん。最低のラインくらいは理解しているようだな」
京太郎「だからこそ、話し合いがしたいと言っているんです」

そんな俺から刀を離しながら、彼はそっと息を吐いた。
何処か残念そうなそれは本気で俺を殺したいと思っていた事を伝える。
どうやら感情的にはどうであれ、ブラフはちゃんと聞いているらしい。
文字通り首の皮一つ繋がったのを感じながら、俺は内心、安堵の溜息を漏らした。

京太郎「(でも…ここからが本番なんだ)」

今のこれはあくまでも話し合いの土台が整っただけに過ぎない。
まだ彼は俺を認めるだなんて領域にはあらず、強烈なまでの敵意を向けている。
そんな人に最低限でも現状維持を認めさせないといけないのは骨が折れる作業だろう。
しかし、それでもそれをやってのけなければ、小蒔との未来は完全に閉ざされてしまうのだ。
それを思えば、面倒くさいだなどと言っている暇はなく、何とか妥協点を見出してもらわなければいけない。

京太郎「今の俺と小蒔を引き離す事は出来ません」
「何を根拠に?」
京太郎「小蒔が俺の能力の影響下にあるからです」

その言葉に俺はズキリと胸の奥が痛むのを感じる。
一時は憎んでいたはずの自分の能力を、こうして相手に最低ラインを理解してもらう為に使っているのだから。
その所為で三人が苦しんでいるのを知っていながらの言葉に我が事ながら反吐が出そうになる。
だが、ただの高校生である俺にはそれくらいしか強く打ち出せるものがないのだ。

「お前の能力は石戸霞から聞いている。だが…そんなものは他に男をあてがえば良いだけの話だろう?」
京太郎「(最低の発想だな…)」

けれど、相手は俺以上にゲスな性根をしているらしい。
小蒔の欲求を抑える為に別の男をあてがうだなんて、完全に彼女をモノとしか捉えていないが故の発想だ。
それに吐き気を覚えながらも、それを最低と言う訳にはいかない。
ここで論じるべきは、俺の感想ではなく、抑止力になりうる言葉なのだから。

京太郎「貴方にこう言う事を言っても理解して貰えないかもしれませんが…小蒔は俺の虜です。他に男性を宛てがったところで拒絶しますし下手をすれば暴走するだけですよ」
「……」

その言葉についての根拠は正直、殆どない。
俺は小蒔が暴走する原理についても良く分かっていないし、理解も及んでいないのだから。
これが間近で暴走した小蒔に接してきた石戸さんたちなら違うのかもしれないが、悲しいかな俺はただの一般人である。
だが…それでも、それが抑止力として使えるのは、彼がそのデメリットを強く恐れているからなのだろう。

「…本当にお前は厄介な男だ」
京太郎「自分でもそう思いますよ」

何せ、俺の能力は相手を発情させるだけではなく、俺への依存性を強めるものなのだから。
発情する身体と俺を求める心を理解する為の言葉として、俺への愛や恋などを持ち出すのはそう珍しい事じゃない。
実際、和なんかは能力が発動する前後では、その対応が大きく変わっているのだ。
漫さんも和ほど顕著ではないが、俺のことを好きだと言ってくれたのは能力が発動してしまった後である。
例外は能力が発動する前から俺の事が好きだったと言ってくれた小蒔くらいなものだろう。

京太郎「ですから、小蒔を俺から引き剥がせない。それを前提として尋ねますが…」

そう言葉を区切りながら、俺はそっと息を吐いた。
正直、それを前提として受け止めてもらえるかどうかは相手次第なのである。
さっきから俺が口にしているのは推論や推察ばかりで、決して何か証拠がある訳ではないのだから。
しかし、そこで言葉を区切る俺に彼は何の反論もしない。
どうやらそれを前提にする事に異論はないらしいその姿に内心、安堵しながら、俺はゆっくりと口を開いた。

京太郎「貴方は一体、彼女に何をさせたいんですか?」

勿論、こうして俺を引き離そうとしている辺り、それは俺が居たら不都合がある事なのだろう。
だが、それでもこうやって踏み込まなければ、相手との意見のすり合わせは出来ない。
お互いに妥協する場面を探る為にも、まずは彼の意図を知らなければ文字通りの意味で話にならないのだ。

「小蒔は『神代の巫女』だ。どこの馬の骨とも分からん奴には相応しくない」
京太郎「それならば最初から俺なんかを迎え入れなければよかったんですよ」

その言葉が真実ではないとは思わない。
だが、それならば最初から俺を小蒔へと近づけさせなければよかっただけの話だ。
一度、小蒔や石戸さんたちを長野に転校させてからそんな事を言っても、何の説得力もない。
正直、親の愛情と言われた方がまだ理解出来るくらいだ。

「…お前は自分のルーツを知っているか?」
京太郎「ルーツ…ですか?」

そう思う俺の耳に届いた言葉に俺は首を傾げた。
どうしてこのタイミングで尋ねられるのかがまったく分からないが、祖父母くらいは会った事くらいである。
それ以上ともなると皆目検討もつかず、また想像もつかない。
親父の方に家系図は残っているらしいのでそれなりな家なのかもしれないが、それだって虫食いばかりでろくに判別出来ないそうだ。

「…なら、須賀神社や祇園信仰くらいなら理解出来るか?」
京太郎「ま、まぁ…それくらいなら…」

呆れたように口にする彼に微かな苛立ちを感じながらも、俺は小さく頷く。
祇園信仰とは牛頭天王や須佐之男を同一視し、これらを祀る信仰の事である。
また、須賀神社はその信仰を軸にする神社の事であり、全国的に広く分布しているのだ。
有名どころだと祇園祭で有名な八坂神社辺りだろう。

京太郎「(有難う、小学校の頃の先生…!)」

自分の名前の意味を調べて来いという宿題がなければ、俺は恐らくそれすら分からなかっただろう。
そうなっていたらきっとまたこの人に馬鹿にされていた事は確実だ。
そう思うと心の底から感謝の念が湧き上がってくる。
もう名前くらいしか思い出せないが、今年は面倒臭がらず、年賀状でも出してみようと思う。

「では…この鹿児島にその須賀神社がない理由は分かるか?」
京太郎「…分かりません」
「ふん…」
京太郎「(分っかる訳ねえだろおおおおお!?)」

俺はそもそも神道に詳しい訳でも、鹿児島を地元としている訳でもないのだ。
一応、小蒔と付き合うようになってからは神道系の知識を仕入れるようにしているけれど、それだって完璧じゃない。
そんな人間がバリバリ専門知識必要そうな問いに答えられるはずがないだろう。
それなのにそうやって人を小馬鹿にした様子を見せるこの人の性格は絶対に悪い。
こんな人の遺伝子がほんの少しでも小蒔に入っているだなんて信じられないくらいだ。

「ここは天孫様の降り立った地…つまり、スサノオの家系が追いやられ、駆逐された場所だからだ」

そう思う俺の前でポツリと語り出すその言葉に、俺は天孫降臨の話を思い出す
当時、この国を治めていた須佐之男の息子 ―― 大国主は、国を譲る事に同意したが、その子たちが許さなかった。
結果、高天原から降りてきた戦神がその子らを追い詰め、強引に同意させた訳である。
まるでヤのつく自営業な人々が好みそうな手段だが、まぁ、何はともあれ、こうしてこの地は平定され、この鹿児島に天孫様が降り立った。
そんな神話の世界の話をどう解釈するかによるが、ある意味では侵略者である神様の降り立った地に、旧支配者を祀る神社は建てづらいだろう。

「しかし…かつてはほんの小さなものだが…この地にも須賀神社と呼ばれるものは存在した」
京太郎「えっ…?」

だが、そんな俺の考えを裏切るような言葉が彼の口から漏れる。
それに驚きながら意識をそちらへと向ければ、さっきと同じ鋼のような硬い表情だけがそこにあった。
いや…そこに微かには確かにはっきりと、だが、何処か遠い敵意が浮かんでいる辺り、同じとは言えないかもしれない。
まるで目の前の俺ではなく渦中の神社へと敵意を向けるようなそれに俺は小さな違和感を覚えた。

「とは言え…それを今で言う須賀神社に含めて良いか疑問ではあるのだがな。そこは他の須賀神社とはまったく違うものを祀っていたのだから」
京太郎「違うもの?」
「…そこには大国主の遺体があったのだ」

その違和感も、次の言葉によって俺の胸に湧き出た驚きによってかき消される。
なにせ、それは神話の中の物語がまるで現実にあったようなものなのだから。
現実に小蒔が神様を降ろしているのを見ているとは言え…正直、信じられない。
遺体が残るという…まるで人間のような生々しさに俺は思わず息を呑んだ。

京太郎「でも…おかしいでしょう?大国主が祀られているのが出雲大社のはずじゃ…」

大国主は国譲りの際、天津神に一つ条件を出した。
それは天に座す天照の御子と並ぶほどの豪華な宮殿を建てろと言うものである。
それを承知した天津神によって、大国主は出雲大社の祭神となった…というのが俺の習った大まかな国譲りの流れである。
それなのにどうして遺体があり…しかも、出雲からは離れたこの地に祀られていたのか。
あまりにも疑問が多すぎて、自分の中で消化しきる事が出来ない。

「祀られているのはな。だが、大国主が没したのは間違いなくこの地だ」

そう断言するこの男には迷いはない。
どうやら彼の中にはそう信じるに足る何かがあるらしい。
だが、そういう知識が乏しい俺にはまったく理解が及ばない。

「新しい支配者になった者がまず最初に何をするか…分かるか?」
京太郎「自分たちの権力の誇示…ですか?」
「そうだ。そして、その為に尤も効果的なのは…目に見える形での旧支配者の排除と否定だ」

そんな俺に冷たく言い放つその言葉に俺はぞっとした。
確かにそれは歴史を紐解けば世界中に幾らでも転がっている話である。
それが神話の中でだけ例外だとは…確かに思えない。
特に大国主はその名前の通り、讃えられるほどの名君だったと神話に残っている。
そんな神が存命のままでいるのは新体制を作ろうとしている側からすれば都合が悪いだろう。

「大国主と呼ばれた神もその例には漏れない。奴もまた天孫様の降り立ったこの地で…処刑されたのだ」

それが一体、どういう流れなのかは分からない。
騙し討ちのような真似であったのか、或いは納得の上での事だったのか。
どちらにせよ…彼の言葉が正しければ、大国主が生きていては都合が悪い神々によって、国を譲った大国主は殺された。
それに何かモヤモヤとしたものを感じるのは…俺が前者の可能性が大きいと思うからか。
ただ自分たちの権力を誇示したいだけならば、本拠地であった出雲でやった方が遥かに効果的なのだから。
それをこうして霧島で処刑したという事は、未だ大国主を慕う者が多かったであろう出雲では出来ない理由があったからなのだろう。
そこに後ろ暗い理由を感じ取るのは、決しておかしな事ではないはずだ。

「国譲りの際、大国主が根の国…つまり冥界を治める話が後々付け加えられたのも奴が存命ではなく、また根の国に住まうのは死者でなければ出来ないからな」

だが、この男は俺のようにもやもやとしたものを抱いたりしないらしい。
そう続ける言葉にはうっすらとではあるが、嬉々としたものが混じっているように感じられる。
それはきっとこの男が天孫様の側に立つ人間だからだろう。
新しい支配者を信奉するものにとって、この話は英雄譚にも聞こえるのかもしれない。

「だが、神とは言え、没すれば死体は残る。それを不憫に思った一部のものがこの地に大国主を祀る社を建てたのだ。…天孫様のものよりも先に…な」

だが、そんな機嫌の良さも次の瞬間には消え去った。
それはきっとこの男にとってそれがとても面白くはない事だからだろう。
勿論、現在の霧島が天孫様の土地であり、その信仰をほぼ独占している。
その歴史は古く、霧島神宮は日本の中でも有数の神社だ。
だが、それが出来る以前から旧支配者を祀るものがあったというのは理解出来ても、納得出来ないものがあるのだろう。

「そして、その社は死んだ大国主を鎮める為に奴が住んでいた出雲に須佐之男が向けた言葉から名付けられた。つまりこの地にあったそれは…日本最古の須賀の名前を冠する事になった神社だった訳だ」

それが事実であれば、観光客だけでなく、多くの学者たちもまた狂喜しそうな情報である。
いや、大国主という神の遺骸を祀っていたというのであれば、科学者たちもまたそれを欲するかもしれない。
そんな重要な情報を知れた事に興奮しない訳ではないが、現在にはその社は影も形も残っていないのだ。
少なくとも、彼の言葉を裏打ちするものは何もない以上、それはあくまでもロマンの域を出ないだろう。

京太郎「でも…それが俺のルーツに何の関係があるんですか?」

それに何より、それが俺に一体、何の関係があるのか分からない。
確かに俺は須賀と名乗っているが、神社なんかとはまったく関係のない家系なのだ。
住んでいる土地だって鹿児島から遠く離れた長野だし、親父もそこそこ良い企業勤めとは言え、ただのサラリーマンである。
精々、名前が一緒なくらいで、さっきまで話していた俺のルーツに関係しているとは到底、思えないのだ。


「…忌々しいことに奴らにも私達と同じように大国主から不思議な力を授かっていた」
京太郎「不思議な…力?」

だが、そんな俺の言葉を無視するように彼がそう言葉を口にする。
それが微かに苛立つものの、不思議な力というフレーズに惹かれないかと言えば嘘になる。
男の子というのは中学二年生から幾らか成長しても、その心を捨てられない生き物なのだ。
鹿児島の地から消えてしまった彼らに一体、どんな力があったのか。
小蒔の力を目の当たりにし、この世に科学では説明の付かない力がある事を知った俺にとって、それは関心を惹くには十分過ぎるものだった。

「一体、どのようなものなのかは人によっては違うようだ。必ず力が遺伝するという訳ではなかったし…」
「記録にも具体的なものは残っていない。いや、残せなかったというのが正しいのだろうが」

そう思って聞き返した俺の期待に、この人は応えてはくれなかった。
ただ謎の力というだけが残る消えた一族…と言えばロマンも感じない訳じゃないが、結局、具体的な証拠もないのだから。
九面様を降ろすという派手な霧島神宮のパフォーマンスに対して、トリックの類で誤魔化していた可能性も否定出来ない。
少なくとも俺の中の関心は一気に冷め、眉唾ものとしてその言葉を受け止めた。

「確かなのは…奴らは500年前の噴火で祀るべき大国主の身体を失い、神社を再建する事も出来ずに、各地を転々とした事だけだ」

何処か冷たく言うその声は、恐らく彼らの事を見下しての事なのだろう。
さっきも思った通り、この人はかなりその須賀神社の事をかなり意識しているらしい。
だが、その歴史で多少、負けていたとしても、どうしてそれほどまでに意識する必要があるのか俺には分からない。
こんな立派な屋敷に住み、周囲の信仰を集めている霧島神宮のトップがどうしてこれほどまでに意識するのか。
焼け出され、既に鹿児島にもいない一族なんて、周辺の信仰を独占している身からすれば、路傍の石同然だろう。
少なくとも既に過去のものであり、縁が切れた人々である事は間違いない。

「そして、最後に奴らは長野の諏訪大社を頼った。そうやって長野に言った奴らの末裔が…お前だ」
京太郎「…はい?」

それに違和感とも疑問とも言えないものを胸中に浮かべた瞬間、彼から信じられない言葉が飛び出す。
一体、どうしてそこから俺へと繋がるのかがまるで理解出来ないのだ。
いや、寧ろ、一体、誰がその言葉を信じられると言うのか。
実は自分が昔、不思議な力を持ちながらも、滅びた神社の末裔だなんて言われているのだから。
今時、安っぽい和風ファンタジーものでも、こんな展開で書けばダメ出しされるだろう。

京太郎「…冗談でしょう?」
「冗談なものか。須賀という名前は数あれど…あの家系の者だけはすぐに分かる。何より…ちゃんとこちらでも調査したからな」

だが、そうやって尋ねる俺に、彼は冷たい言葉しか返さない。
一体、どれだけの金と時間を掛けたのかは分からないが、どうやら彼の中でその事実は確定らしい。
しかし、正直、そんな姿を見ても、からかわれているのではないかという気持ちが俺の中では強かった。
何せ、俺には小蒔のようにオカルトめいた力なんてまったく… ――

京太郎「あ…」
「…気づいたか?」
京太郎「いやいやいやいや!おかしいでしょう!?」

確かに俺の力は明らかにオカルトを超えてファンタジーの領域に片足を突っ込んでいる。
カンすると有効牌がツモって来たり、一向聴から一向に進めなくなると言った卓上の能力だけではなく、その後にも尾を引くものなのだから。
巫女としての力を応用して、麻雀に使っていると言う小蒔の能力の方に近いかもしれないとは…確かに薄々、思ってはいた事だった。
しかし、その源が同じ本当に小蒔と同じく本当の意味でオカルトめいたものだなんて考慮していなかったのである。


「大国主は多数の女神と婚姻を結んだが、毎晩、彼女らを満足させ、従順にさせるほど絶倫だったそうだ」
京太郎「い、いや、まぁ、確かに自分でも性欲旺盛だとは思いますけれど!」

確かに俺は自分の人並み外れた性欲に疑問を持った事はある。
ぶっちゃけ一晩中、セックスしても萎える気配がないくらいのそれは明らかに異常なのだから。。
しかし、それが500年以上前の先祖が、大国主の遺体を祀っていたからだなんて誰が想像出来るだろうか。
あまりにも予想外過ぎる方向からの答えに、正直、困惑を通り越して混乱するくらいだ。

「そして先の神社の家系にもそういった性的な能力が良く顕れ…時の権力者に取り入る事で小さいながらもその存在を維持してきた訳だ」
京太郎「記録に残せないってそういう理由ですか…」

それに脱力感めいたものを感じるのは、その真実があまりにも情けないものだったからだ。
その時々の権力者に、しかも、性的な能力を使って取り入るだなんて恥ずかしくて仕方がないのだから。
正直に言えば、そんなご先祖様(仮)の話なんて聞きたくはなかったし、信じたくはない。
だが、それなら門外不出であり、権力者の怒りを買いかねないその能力が具体的に記録されていないのも理解出来る。

京太郎「でも…もし、そうだとしたら…俺を招き入れたのはどうしてですか?ある意味では商売敵でしょうに」

それでもそうやって口にしたのは、尚更、彼の真意が分からなくなったからだ。
何せ、彼が俺のご先祖様(仮)を良く思っていないのは、さっきからひしひしと伝わってくるのだから。
今も尚、敵意にも近い感情を向ける家系の末裔だなんて、本来ならば顔も見たくはないだろう。
しかし、それなのにこの人は俺を小蒔へと近づけ、色々と後押しをしてくれていた。
勿論、今でこそ俺たちを引き離そうとしているが、その二つがどうしても俺の中で繋がらない。

「だからこそ、だ。お前たちの間に子どもが出来れば、大国主を降ろす事も不可能ではないと思った」
京太郎「…え?」

ポツリと口にする彼の言葉に、俺は理解が追いつかない。
元々、混乱が収まっていない上に、俺にはオカルトの知識なんてまったくないのだから。
ついさっき自分が小蒔とそう変わらぬ立場にあった事を知ったばかりの俺にその言葉が理解出来るはずがない。
そもそも『加護』という言葉が指すのが一体、何なのかさえ分からないのだから。

「小蒔は『神代の巫女』としてほぼ完成された器だ。アレほどの力を持つ巫女は神代の歴史の中でもいない。ならば、その先を目指すのが当然だろう?」
京太郎「…っ!ふざけんな!!」

しかし、それでも彼が小蒔をモノのように考えているのははっきりと分かった。
娘としてではなく、神様を降ろす器程度にしか思っていないそれに思わず声を荒立ててしまう。
恐らくこの人は…いや、コイツはろくに愛情も注いでいないどころか、小蒔を商品程度にしか思っていない。
だからこそ…そんな風に品種改良するかのようなその言い方が出来るんだろう。

京太郎「小蒔を…小蒔をなんだと思ってるんだ!!」

小蒔は…それでも期待しているのだ。
コイツに父親らしく接して貰う事を…内心、望んでいるのである。
だが、コイツはそんな小蒔を遠ざけるどころか…道具程度にしか思っていない。
そう思ったら…頭の中でブツリと何かが切れて我慢出来なくなってしまう。
俺の事をなんと言われても構わないが、小蒔を蔑ろにするような言葉は看過出来なかったのだ。

「九面様だけではなく、大国主まで降りてくるようになれば奴の支配下にある百八十の神や根の国の者たちも神代に従うだろう
「そうなれば神代は盤石になり、どんな時代になろうとも権威を失う事はない。それを目指すのは当主としていけない事か?」
京太郎「その為に娘を道具みたいに扱って良い訳ないだろ!」

確かにコイツの言っている事はある意味では間違いではないのかもしれない。
いや、多分、後の未来のことまで見通したその言葉は、神代家にとっては間違いなく『正義』なのだろう。
だが、それは倫理や感情と言ったものを無視した独り善がりな『正義』なのだ。
少なくとも…その為に小蒔を犠牲にするものを、俺は決して『正しい』とは認めない。

「そのお陰で小蒔に近づけたお前が言える言葉か?」
京太郎「言えるさ。だって、俺と小蒔が心通わせたのはアンタのお陰じゃないんだからな」

勿論、お膳立てをしてもらったのは確かだし、その恩恵を享受しているのも俺だ。
しかし、それはあくまで環境を整えて貰っただけに過ぎず、小蒔と心通わせたのはコイツのお陰でもなんでもない。
もしかしたら石戸さんや春の方に惹かれていた可能性だってあるのだから。
何より…恩恵を受けているからと言って、間違っていると思うものを、間違っていると言っちゃいけないなんて道理はない。
いや、寧ろ、本来はそうやって恩恵を受けている人々こそが間違っていると声をあげなければいけないのだ。

「威勢だけは良いな。まぁ、慣れない敬語を必死に使おうとする滑稽さよりはマシだが」
京太郎「そりゃどうも」

嫌味混じりの言葉にそう答えながらも、俺の頭の中から怒りの二文字が消える事はなかった。
最早、俺にとってコイツは一種の敵であり、敵意以外の感情を向ける余地がないのだから。
しかし、現状、どれだけ言っても、コイツが意思を曲げる事はありえない。
その言葉が完全に間違っているならともかく…それは決して『悪』ではないのだ。
彼の視点からは『正義』である事が分かるだけに、ここで何を言っても水掛け論にしかならない。
腹立たしくて仕方がないが…ここで足踏みしていては彼の真意には近づけないのだ。

京太郎「それで…そうやって招き入れた俺を引き離そうとする理由は何なんですか?」

そう自分の苛立ちを抑えながら、俺はわざわざ敬語を使ってそう尋ねてやる。
勿論、今までのやり取りでコイツが大まかに何を考えていたのかは分かった。
しかし、このタイミングでどうして「別れろ」と言い出したのかは、まったく見えてこないままである。
須賀の血を取り込みたいのであれば、まだ子どもも出来ていない今の状況で言い出すのはおかしいのだから。

「石戸霞から報告は聞いている。小蒔は自分の意思で九面様を降ろしたそうだな」
京太郎「えぇ。小蒔はトラウマを克服して…」
「それがいけない」
京太郎「…え?」

その言葉を最初から理解できる人が一体、どれだけどれだけいるだろうか。
だって…それはこれまでの小蒔の歩みを全て否定する言葉だったのだから。
彼女の苦しみも、そして苦しみながら手にした成果も、なにもかも無に帰すようなそれを俺は正直、信じる事が出来ない。
だが、呆然と見つめても彼から訂正の言葉が漏れる事はなく、ただ冷たい表情だけがそこに浮かんでいる。

「あくまで尊重されるのは九面様の方であって、『神代の巫女』はその受け皿であり続けなければならない」
「だが、今、小蒔はそのラインを踏み越え、権威を持とうとしている」
京太郎「っ…!」

勿論…これまでのやりとりでコイツに親としての情がないことくらいは理解していた。
だが、それでも…彼女の成長を喜んでくれると、俺はそう思い込んでいたのである。
しかし…どうやら現実は俺が思っていた以上に無情で…そして冷酷であったらしい。
淡々と並べ立てるその言葉に、俺は怒りを超えて憎しみさえも抱こうとしていた

京太郎「つまり…このままだと小蒔自身が権力を持ってしまいそうで怖いから…ですか?」
「端的に言えばそうなる」

それをぐっと噛み殺しながらの言葉に、彼は言い訳一つしようとしなかった。
多分、この恐ろしいほど利己的で、そして冷静な人は自己分析くらい済ませているのだろう。
そして、それを理解した上で…コイツは…いや、今まで『神代の巫女』を良いように扱ってきた連中は彼女を恐れ、その力を弱めようとしている。
その自分勝手さに自分の事を棚に上げて思わず、怒鳴りたくなった。

京太郎「だからって…俺から引き離しても、無駄ですよ」

それを何とか抑えつけながらの言葉に、コイツは何の動揺も見せはしなかった。
だが、小蒔はもう巫女としての力を受け入れ、トラウマを克服したのである。
そんな彼女から俺を引き離したところで、また不安定な状態にはならないだろう。
普段、おっとりしている姿からは想像もつかないが、アレで小蒔は中々に芯の強い子なのだから。
暴走くらいはするかもしれないが、それで再び自分の能力を嫌うようになるとは到底、思えない。

「そんなもの百も承知だ」
京太郎「っ!?」

その言葉は途中で俺の耳には届かなくなった。
瞬間、ズドンと言う大きな音と共に激しく屋敷が揺れたのだから。
それこそ巨人がぶつかったかのようなその衝撃に、俺の胸に嫌な予感が触れた。
まるで死者の手が背筋を撫でるようなその感覚に…俺の中の本能が警鐘を鳴らしはじめる。
以前も一度、味わった事のあるこの感覚は…間違いなく… ――

「だから…君には小蒔の手で死んでもらおうと思ってな」
京太郎「アンタって人は…!!」

断続的にズシンと揺れる屋敷の様子にもコイツはまったく狼狽を見せる事はない。
それはやはりコイツにとって計画の内という事なのだろう。
一体、どういう手段を使ったかは分からないが、恐らく、小蒔は意図的に暴走させられ、この屋敷の中で暴れまわっている。
背筋を這いまわるような嫌な予感もそれを肯定するのを感じながら、俺はキッと彼を睨めつけた。

「勘違いするなよ。私はただお前が仲睦まじくホテルに入っていく写真を小蒔に見せるよう命じただけに過ぎない」
京太郎「だからって…!ここには沢山、人が…石戸さんたちだって傍にいるんだろう!!」

勿論、その原因になったのは俺だろう。
俺がコイツにつけこまれるような隙を作らなければ、こんな事態にはならなかったのだ。
だが、それでもコイツのやった事を肯定出来るはずがない。
ここには少なくない人々が働いていて、そして今、その全てが命の危機に晒されているのだから。
娘にトラウマを負わせる為だけに、誰か死んでもおかしくないような危険を呼び込むだなんて初期の沙汰じゃない。

「所詮、六女仙など『神代の巫女』に何かあった時の予備血統に過ぎん。全滅したところで小蒔が居れば巫女の家系は続く」
京太郎「アンタだって死ぬかも知れないんだぞ!」
「その時はその時だ。私の命など巫女ほどの価値もない。それに後任者は既に決めてある」

その言葉に…俺はようやくさっきまでの態度が殆どブラフであった事を悟った。
コイツは小蒔の力なんてまったく恐れてはいなかったのだろう。
そんな風に振舞っていたのは全て、俺をここに足止めする為。
そして…小蒔の心に再びトラウマを植え付け、一部の人間が権威を握り続ける為だったのだ。

京太郎「(どおりで一本道だと思った…!)」

今から思い返せば、ここに通される時に感じた違和感はそれだったのだろう。
窓もなく脇道さえもなかった後ろの廊下には逃げ場なんて欠片もないのだ。
自然、ここから逃げ出そうとすれば、今も暴れているであろう小蒔の近くを通らなければいけないだろう。
いや…今も激しい物音がこちらへと近づいている辺り、もう近くどころでは済まないのかもしれない。

「ちなみに悪神を降ろした時の行動は、最後に感じた感情に大きく左右されるそうだ。今回はどうなるかな?」
京太郎「っ…!」

試すようなその言葉に俺は強い怒りを覚えた。
この期に及んでまったく恐れていないその態度と信念は、正直、尊敬に値すると言っても良い。
だが、まるでこの状況を楽しむような言葉に、同意など出来るはずもない。
今、小蒔が、そして石戸さんたちが危機に晒されていると思えば、一発ぶん殴ってやりたくなる。

京太郎「(ともかく…このままじゃいられない…!)」

だが、今の俺がするべき事はそうやってコイツを殴る事じゃない。
そんな事をしてもスッキリするのは一瞬だけなのだから。
それよりも…この状況を何とかする為に頭と身体を動かさなければいけない。
少しでも誰かが傷つかないようにする為にも、今は何より行動が必要なのだ。

「逃げるのか?」
京太郎「迎えに行くんですよ」

そんな俺の後ろに問いかけられる言葉に、苛立ちながらもそう返して俺はそっと襖戸を開いた。
そのままグッと足に力を込めて駆け出せば、何かが暴れているような音が一気に近くなる。
まるでブルドーザーが屋敷の壁を壊しているようなそれに背筋がゾッと寒くなった。
この向こうに一体、どんな惨状が待っているのかと思ったら、それだけで足が竦みそうになるくらいである。

京太郎「(でも…逃げてられるか…!!)」

だって、その向こうに起こっている騒動の原因は俺なのだから。
勿論、直接的に何か関わった訳ではないし、手を下した訳でもない。
しかし、そうやって付け入る隙を作ってしまった以上、口が裂けても無関係とは言えないだろう。
だからこそ、俺はその責任を少しでも取る為にも怯える足に気合を入れて、騒動の中心を目指した。

京太郎「あ…ぁ…」

そうやって一分ほど走った瞬間、切り裂かれた壁が俺の視界に広がった。
いや、より正確に言えば…それはきっと砕かれたのあろう。
だが、そこにはまるで巨人が引っ掻いたような裂傷が幾つも残り、その向こう側を露出させていた。
到底、人間業ではあり得ないそれは…まず間違いなく暴走した小蒔がその細腕で成し遂げたのだろう。
何せ、巫女服に身を包んだ小蒔はそんな滅茶苦茶な空間の中で…一人、ポツンと立っているのだから。

京太郎「(そして…その周りには沢山の人が倒れている…)」

恐らく暴走した小蒔に巻き込まれたのだろう。
その足元には気絶しているのか、まったく動かない人々が倒れていた。
まるで中心の小蒔にひれ伏すようなその中には石戸さんたちの姿もある。
パッと見る限り、血が流れている訳でもなく、また時折、その身体が動いている辺り、死んでいる訳ではないのだろう。

京太郎「(…心配だけれど…今は構っていられない…)」

勿論、本音を言えば、今すぐ彼女たちの元へと駆け出したい。
だが、その為には小蒔の脇を通り抜けなければいけないのだ。
それを頭をふらふらと揺らす今の異常な小蒔が許してくれるかどうか。
こうして多くの人が倒れ伏しているのを見る限り、今の小蒔はきっと無差別に人を襲っているのだろうし…無事に通り抜けられるとはあまり思えなかった。

京太郎「(正直…俺に何か出来るとは思えないけれど…)」

以前だって、俺が出来たのは精々、時間稼ぎで祓う事そのものは石戸さんたちがやってくれたのだ。
だが、そうやって俺を助けてくれた彼女たちは皆、一様に倒れ伏し、意識が戻る気配もない。
そんな状態でただの高校生である俺が出来る事なんてたかが知れているだろう。
しかし、それでも逃げる気にはなれず、俺はゆっくりと彼女の元へと近づいていった。