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それからの私の日常は大きな変化を迎えました。
朝、事情を話して泊まってくれているゆーきを起こし、朝ごはんの準備を。
寝ぼけ眼な彼女をの世話をしながら、学校の準備をした頃には須賀君が迎えに来てくれます。
そのまま三人で登校をする際には色々とからかわれますが、既に夫婦扱いにも慣れ始めていたので特に気にはなりません。

―― それからは須賀君とはまた別々ですけれど…。

しかし、授業が終わり、部活も終わった後はまた一緒に下校するのです。
その際、スーパーへと立ち寄って買い物をするのも忘れません。
ゆーきが傍に居てくれているとは言え、あまり頻繁に外へ出たくはありませんし、須賀君が居てくれる間に色々と済ませておきたいのです。

―― だって…例の視線は今も続いているのですから。

いえ、ここ最近は寧ろより激しくなっていると言っても良いくらいでしょう。
何せ、それは私だけではなく傍にいるゆーきや須賀君にもはっきりと感じられるものなのですから。
勿論、それだけではなく、ここ最近は例の脅迫状も頻繁に投函されるようになっていました。

「またか」
「えぇ…またみたいです」
「凝りない奴だじぇ」

三者三様にそう言いながら、私たちはその手紙を厳重に保管していました。
けれど、そこに書いてあるのは大抵、須賀君への悪意が込められたものです。
最近では警告めいたものでさえなくなり、須賀君への罵詈雑言や殺意が滲み出るような文章に変わっていました。
ここまで来ると脅迫罪になるのではと思いましたが、やっぱり警察はまだ動いてはくれません。
お陰でゆーきは今も尚、私の家へと泊まる生活を繰り返し、須賀君もまた私の家へと送り届けるのが続いているのです。

―― いえ…より正確に言うならば、送り届けるだけでは済んでいません。

「んじゃ…これは何処に置けば良い?」
「いつも通りリビングに運んでおいて下さい」
「あいよ」

ここ最近、須賀君は少しずつ家に気兼ねなくあがってくれるようになりました。
最初は荷物を玄関に置くだけでしたが、私とゆーきが根気よくお茶へと誘ったからでしょう。
最近は抵抗心が薄れたのか、或いは諦めたのか、誘わなくても普通にあがってくれるようになったのです。
そんな彼の変化に自分が順調に須賀くんと仲良くなれている気がして、嬉しく思っているのは私だけの秘密でした。

「それよりのどちゃん、お腹空いたじぇ!」
「もう…さっきタコス食べたばかりじゃないですか」
「タコスは別腹!」
「もう。ゆーきったら」

そんなゆーきの姿にクスリと笑いながら、私はリビングへと足を進めます。
そのままエプロンをそっと着込んだ私は二人に出すお茶の準備を始めました。
電子ケトルにスイッチを入れ、玉露の用意をするそれは自分でも最近、手馴れてきたとおもいます。

「しかし…相変わらず、和のエプロン姿は似合うな」
「も、もう…いきなり何を言うんですか…」

私の前でスーパーの袋から荷物を出しながら、須賀君は冗談めかしてそう言います。
それに顔を赤く染めてしまうのは自分でも恥ずかしいからか嬉しいからか分かりませんでした。
将来の夢が好きな人のお嫁さんである私にとって、エプロン姿を褒められるのは間違いなく嬉しいものです。
しかし、それがゆーきではなく、異性である須賀君に言われたと思うと妙にこそばゆくムズムズとしてしまうのでした。

「おっと、のどちゃんは私の嫁だから手出しは厳禁だじぇ」
「じゃあ、俺、間男で良いや」
「うわ、コイツ最低だ…」
「そこで素に戻るなよ!」
「ふふ…♪」

そんな私のむず痒さもゆーきと須賀君のやり取りを見ていると収まります。
まるでコントか何かのように打てば響くそのやり取りはとても面白いものだったのですから。
思わず赤くなっていた頬を緩ませて、笑みを零してしまうほどに。

―― こうやって三人で過ごすのにも…最近は随分と慣れて来ました。

二人が会話をしてると一人が阻害されるという奇数での関係。
けれど、それが嫌ではないのは二人があまり口が上手ではない私の事を気遣ってくれるからでしょう。
須賀君と会ったばかりの頃とは違い、仲間ハズレにされたようにも嫉妬も感じません。
寧ろ、そうやって掛け合いを繰り返す二人を微笑ましそうに見つめる事が出来るのです。

―― 本当…今は楽しくて…。

両親が殆ど家にいない私にとって、こうして賑やかな家というのは珍しいものでした。
勿論、まったくなかった訳ではありませんが、両親ともに賑やかなタイプではないので、あまり記憶には残っていないのです。
だからこそ、私にとってこうして賑やかな家の中は新鮮で、だからこそ… ――

―― これがずっと続けば良い…なんて思っちゃダメですよね。

私にだってこれがあくまでも緊急避難の一種である事は理解しているのです。
二人が私のことを心配してくれているからこそ、こうして家にいてくれているのは分かっているのでした。
しかし、それでも…こうして楽しい雰囲気がずっと続けば良いと思うのはどうしても否定出来ません。
今まで一人で不安に震えていた反動か、今の私はとても人恋しい状態に陥っていたのです。

「ほら、二人共。お茶が出来ましたよ」
「わーい」
「何時も悪いな」

そんな自分を誤魔化すように湯気立ちのぼるお茶を二人へと出します。
すると、二人は喧嘩のようなやり取りをピタリと止めて、仲良くテーブルへと座りました。
ついさっきのコントのようなやり取りからは想像も出来ないそれは多分、二人が『須賀京太郎』と『片岡優希』であるが故の距離感なのでしょう。
それを微かに羨ましく思いながら、私もまた席へと着きました。

「うん…和のお茶は何時も最高だな」
「そんな…あんまりおだてないで下さい」
「いや、のどちゃんのお茶は本当、美味しいじぇ。京太郎には勿体無いくらいだ」
「サルサソースで舌が麻痺してる奴に言われたくねぇよ」
「何だと!?タコスを馬鹿にするのか!?」
「いえ、ゆーき。怒るところはそっちじゃないと思いますよ」

そんな会話をしながら流れていく穏やかな時間。
買ってきたお茶菓子を適当に摘みながらのそれはとても賑やかでした。
時折、私も混ざりながらのそれはまだ知り合って一ヶ月も経っていない三人組だとは思えません。
三人でいるという関係を長い間掛けて確立した…まるで幼馴染のような掛け合い。
だからこそ…私はそれを手放したくなくなってしまうのです。

「須賀君、今日もご飯、食べて行きませんか?」
「あー…でもなぁ…」

お茶菓子もなくなった頃、私がそう切り出したのは須賀君を帰さない為です。
勿論、ゆーきと二人っきりになっても気まずくも寂しくもありません。
三人でいる事に慣れたと言っても、ゆーきとの仲が悪くなった訳ではないのですから。
寧ろ、二人で同じ部屋に寝るようになって関係そのものは良くなったように思えるのです。
それでも、こうして須賀君を引きとめようとしていたのは、もうちょっとこの関係を楽しんでいたかったのでした。

「こう毎回、夕飯の世話になってると流石に大丈夫かって気もするんだが…」
「須賀君が送り届けてくれてるお陰で、こうして私たちは普通に生活出来ているんですから、夕飯くらい幾らでもご馳走しますよ」

その言葉に嘘はありません。
実際、須賀君が毎日、私たちの送迎をやってくれているからこそ、私たちは安心出来ているのですから。
その御礼として一人分ほど多く食事を作ったところで特に苦ではありません。
寧ろ、二人分より三人分の方がレシピの都合上、作りやすいくらいなのですから。

「のどちゃんがそう言ってるんだし、甘えれば良いじぇ」
「ん…分かった。それじゃ…ちょっと親にメール打つからさ」

ゆーきの言葉に自分の中での折り合いがついたのでしょう。
逡巡を浮かべながらも、携帯をズボンから取り出す須賀君に私は心の中でガッツポーズを取りました。
これで夕飯が終わるまで三人で一緒に居られるのです。
恐らく須賀君の夕飯を用意していた彼のお母さんには悪い気もしますが、私の嬉しさは揺らぐ事はありませんでした。

「それ終わったら一緒に宿題やろうじぇ」
「お前…それが目的かよ」
「だってーのどちゃん写させてくれないんだもん…」
「ゆーきの為になりませんから」

勿論、私だってそれがゆーきの為になるのであれば、幾らでも宿題を写させてあげます。
しかし、彼女はお世辞にも成績が良いとは言えず、麻雀も感覚頼りの打ち方をするのでした。
そんなゆーきに宿題を写させてあげても、まったく彼女の為にはなりません。
アドバイス程度は幾らでもしますが、答えを教えるような真似はこれまで一度もしませんでした。

「須賀君もあんまりゆーきの事を甘やかしちゃダメですよ」

けれど、須賀君はゆーきに対して何だかんだ言って甘い部分があるのです。
時折、喧嘩腰にも近いやり取りをするとは言っても、二人はとても仲良しなのですから。
そして根が優しくて困ってる人を放っておけない彼は、ついついゆーきに乞われるまま答えを教えたりしている姿を良く見せていました。

「はは。今の言葉、まるでお母さんみたいだな」
「おかっ!?」

そんな須賀君の冗談めかした言葉に私は変な声をあげてしまいました。
頬に朱を混じらせてのそれに合わせて羞恥心が胸の中から湧き上がり、困惑が心の中で根を張ります。
誰だっていきなりお母さん呼ばわりされたら、恥ずかしくってどうすれば良いか分からなくなってしまうでしょう。
ましてや…同い年の男の子から同い年の女の子のお母さんと呼ばれたのですから尚更です。

「んで、俺が和の夫…」
「そ、そそそそんなオカルトあり得ません!!」

瞬間、須賀君の言葉に私は強い語気を篭った声を返してしまいました。
声を張り上げるようなそれは、しかし、須賀君の冗談っぽい表情を歪ませるのには足りません。
恐らく私がこうやって反応する事を彼は見越していたのでしょう。
そう思うとちょっと悔しくもありますが、それ以上に胸の中が恥ずかしさで一杯になっていました。

―― わ、私が…す、須賀君と結婚するなんて…。

勿論、私は須賀君がとても優しくて正義感が強く、また人のために動く事を苦に思わない人であると分かっています。
今だって、そんな彼にとても助けられているが故に、こうして普段と変わらない日常生活を送れているのですから。
で、でも、だからと言って、結婚なんてあまりにも飛躍しすぎです。
そ、そういうのはもうちょっと順序を踏まないといけません。
ま、まずは告白からしてくれないと…でも…そ、それっぽいのは既に言われていて…でも…私… ――

「いや、京太郎は私の家庭教師枠が精々だろ」
「おま…夢が壊れるような事言うなよ…」

そうやって私が思考停止をしている間にゆーきがツッコミを入れていました。
それにそっと肩を落とす須賀君は全身で残念そうなものをアピールしています。
しかし、そんな風に感情をアピールするからこそ、それが嘘っぽく思えました。
きっと彼にとって、それはあくまで冗談の一種であり、本気でなんてなかったのでしょう。

「ま、和お母さんの言う通り、ゆーきは甘やかさないからさ。その代わり美味しいご飯頼むぜ」
「し、知りません!」

そう思うと何故か悔しくて、私はそんな可愛げのない言葉を返してしまいます。
そんな自分に内心で、自嘲を向けますが、かと言って面白くない気持ちは変わりません。
怒りほどではなくても…拗ねるような、そんな訳の分からない感情が胸を埋め尽くし、私の身体を振り回していたのです。

―― 私…何をしているんでしょうか…。

そもそもそれが冗談であった事くらい私にだって分かっていた事なのです。
それが的中したくらいでこんなに怒るだなんて大人気がなさ過ぎます。
寧ろ、そういった事に対して免疫がない私は『冗談で良かった』と思うべきなのでしょう。
しかし、私は今、からかわれていた事よりも、完全に意識されていないような彼の反応が気に触って… ――

―― …ま、まさか。そんなはずありません。

その瞬間、ふと浮かんだ自分の思考を私は頭を振るようにして振り払いました。
それこそオカルトめいた考えであり、そんなのあり得るはずないのです。
しかし、言葉にする事さえも馬鹿らしいその考えは私の心に確実に根を張り、消える事はありませんでした。

―― と、とにかく…美味しい料理を作りましょう。

そんな自分から目を背けるように私はそう思考を切り替えました。
丁度、須賀君が美味しいごはんをリクエストしてくれたのもありますし、まずはそちらに全力を尽くすべきです。
その程度でさっきの可愛げのない言葉の償いになるとは思いませんし、そもそも、須賀君は気にしていないでしょう。
しかし、それでも今の私がうちこめるものと言えば、料理しかなかったのです。

―― まぁ…レシピ通りに作るだけなんですけれど。

もう長年、作ってきたが故に頭に染み付いたレシピ。
それを引き出しながら、私の身体は自然と動いていくのです。
家事に長年、携わってきたからこそのそれはどうしても私に思考の余地をもたらすものでした。
結果、私はもう少しのところでお鍋を焦がしてしまいそうになってしまいます。
それに落ち込む私を二人はフォローしながら夕飯を褒めてくれ…そうしてその日も平穏に、一日が過ぎていったのでした。

―― そんな風に楽しい日々はずっと続く訳ではありません。

どれだけ楽しくて和やかでも、それは本来のものとは違う歪なものなのです。
勿論、数日程度であれば問題はなくとも、一週間も経てば歪みも生まれ始めるのでした。
そして、それは当事者である私の身にではなく、協力者であるゆーきの身に真っ先に起こったのです。

「…ごめん…」
「いえ…ゆーきは何も悪くありませんよ」

そう謝罪するゆーきに私が返す言葉は本心からのものでした。
そもそも年頃の娘が幾ら理由があると言っても一週間も外泊して親が心配しないはずがないのです。
ゆーきのご両親とは私も面識がありますし、多少の融通もきかせてもらったとは言え、やっぱり心配になるのが当然でしょう。
特に今回はストーカー被害という解決策の見えない事件に協力してもらっているのですから尚更です。

「すぐに親を説得して戻ってくるじぇ。でも…今日は…」
「一人…ですね…」

俯くゆーきにそう返した瞬間、私の胸が薄暗い寒気を湧きあがらせました。
ここ一週間、夜もゆーきが傍に居てくれていたのであまり意識していませんでしたが…やっぱり私は恐れているのでしょう。
顔も名前も知らない相手が、何時、自分に牙を剥くかと思うと怯えが身体に走るのが分かりました。

「…あの…須賀君は…?」
「いや、俺が和の家に泊まるのは流石にまずいだろ」
「ぅ…そう…ですよね…」

私の言葉に今日も荷物運びをしてくれていた須賀君はきっぱりと断りました。
須賀君が私に対して何かをするとは思ってはいませんが、それは彼にとって超えちゃいけないラインなのでしょう。
実際、私もそれは流石に色々とまずい気がして、その提案をすぐさま引っ込めました。

「でも…のどちゃん一人で眠れるか?」
「い、一日くらいなら大丈夫ですよ」

それでもゆーきに対してそう強がってしまうのは、彼女を必要以上に心配させない為です。
ただでさえ、親の要請で家に帰らなければいけなくなったゆーきは自分を責めているのですから。
ここ最近、ゆーきには情けないところを見せっぱなしなのもあって、このままでは彼女が安心して帰れません。
勿論、私の強がり一つでゆーきが心から安心してくれるとは思いませんが、それでも彼女を不安にさせる要素は作りたくありませんでした。

「ぅー…でも…今までが今までだし…心配だ」
「わ、私は大丈夫ですよ!」
「そうじゃなくて…ストーカーの方」

私の言葉に訂正の言葉をくれるゆーきの目はリビングに座る私達ではなく、その後ろの窓に向いていました。
恐らく今の彼女が考えているのは私たちの事ではなく、遮光カーテンの向こうにいるかもしれない『誰か』の事なのでしょう。
今日もまた懲りずに手紙を投函してきた悪意の主は、一週間経って尚、ストーカーを続けているのでした。

「今までのどちゃんの傍に誰かが居たから手出し出来なかったかもしれないとすれば…」
「…ゆーきがいない今日の間に強行手段に出るかもしれないって?」
「うん…」

ゆーきの言葉を補足する須賀君の言葉に私は何も言えませんでした。
そんな事まったく考えていませんでしたが、確かにあり得ない話ではありません。
実際、ここ最近の手紙のエスカレートっぷりを見れば、その可能性は高いとさえ思えるのです。

「…あの…須賀君…」
「分かってる。俺も…確かにそれは心配だ」

その恐ろしい可能性に再び私が須賀君を呼んだ瞬間、彼は力強く頷いてくれました。
瞬間、その顔を思案気に俯かせて、思考に耽るのが分かります。
何とか今の状況を打破する為に色々と考え事をしてくれているのでしょう。
その姿に微かな安堵を感じた瞬間、須賀君はそっとその唇を開きました。

「中学の頃の後輩とかはどうなんだ?一日くらい何とか都合つけて貰えないか?」
「あ…その手があったか!」

確かに中学の頃の後輩たちであれば、何とかなるかもしれません。
勿論、急な話であるので難しいかもしれませんが、ゆーきよりも可能性はあるでしょう。
追い詰められていた所為か、まったく思いつかなかったそのアイデアにゆーきは一つ手を打ちました。
それに私も小さく頷いて、制服から携帯を取り出し、メールを打ち始めます。

「あの…事件の事は…?」
「和さえ良ければ、伝えておいた方が良いかもな。情報があるのとないのとでは本気度も違ってくるし」

尋ねる私の言葉に須賀君は気遣うようにそう言ってくれました。
それは私の世間体などの色々な事を心配しての事なのでしょう。
ストーカー被害を受けているだなんて、人に伝えるのは勇気がいる事なのですから。
しかし、ここまでゆーきや須賀君が手助けしてくれているのに、私だけ日和る訳にはいきません。
恥ずかしいし情けない事ですが、後輩二人にそれを伝える覚悟はもう私の中で固まっていました。

「何より、これからも協力して貰う事になるかもしれないからな」
「ごめん…」
「優希は悪くないって」
「そうですよ。仕方のない事なんですから」

明るく振舞っているとは言え、やっぱりゆーきは自分の事をかなり責めているのでしょう。
須賀君の言葉に再びうつむきながら、謝罪の言葉を放ちました。
普段、快活な彼女からは想像も出来ないその姿に名も顔も知らない誰かに対する憤りが沸き上がってきます。
しかし、それでも私達に今の状況を打開する術はなく、対処療法的なものを繰り返すしかありませんでした。

「とりあえず…具体的なアレコレを決めるのはメールが帰ってきてからだ。その後、方針を決めたら俺は優希を送ってくよ」
「でも…私はターゲットになってないからきっと大丈夫だじぇ」
「良いから甘えとけ。どの道、俺は一回は帰らなきゃいけないんだからそのついでだ」

須賀君がそう言ってゆーきの頭をポンと優しく叩いた瞬間、私は後輩へと送るメールを作り終えます。
それをすぐさま送信してから、私は大きく息を吐きました。
最初は他人を巻き込みたくないと言いながら…ドンドンと人を巻き込みつつある自分に微かな自己嫌悪を感じるのです。

「それより和、お茶のおかわり貰えるか?」
「図々しい奴め…」
「仕方ないだろ。和のお茶は美味しいんだから」

けれど、そんな後ろ暗い感情も目の前で繰り広げられるいつも通りのやり取りにかき消されてしまいます。
恐らく、二人は私の自己嫌悪を読み取ったからこそ、意図してそんな会話をしてくれているのでしょう。
それを思うとほんのすこしだけ申し訳なくなりますが、それ以上に笑みが零れて仕方ありません。

「仕方ないですね。でも、あんまり飲み過ぎてご飯の分が入らないなんて事にならないように気をつけて下さいね」
「大丈夫。和の料理なら幾らでも食えるからさ」
「も、もう…あんまり煽てても何も出ませんよ?」

キリッと顔を引き締める須賀君の言葉に私の頬は熱くなってしまいます。
手料理を美味しいと須賀君に褒められたのは何度もありますが、そうやって言われるのは初めての経験でした。
それだけであっさりと免疫が働かなくなってしまう私は嬉しさとも気恥ずかしさとも言えない感情で胸を埋めてしまうのです。

「調子の良い奴め…」
「ふふふ…どこぞのタコス娘が和の料理が食べられないからと悔しがっておるわ」
「ぬぐぐ…!」

その感情に髪を落ち着かなく弄る私の前で、須賀君が勝ち誇り、ゆーきが悔しそうに頬を膨らませます。
多少、誇張して表現しているのでしょうが、そんな会話をするくらい美味しく思ってくれるのは嬉しいものでした。
かと言って、二人のストッパーである私がそれを止めない訳にもいかず、私は未だウズウズとした感情が収まらぬまま口を開くのです。

「喧嘩すると今日のご飯は抜きですよ」
「ほら…ゆーきの所為で和お母さんに怒られただろ」
「京太郎兄ちゃんが人のこと挑発するからだ」
「ふーたーりーとーもー?」
「「はい。すみませんでした!!」」

言い寄るような私の言葉に二人は声を合わせて謝罪の言葉を紡ぎます。
異口同音に同じ言葉を返すそれはまるで本当に兄妹のようでとてもほほえましいものでした。
それに思わず頬を緩ませながら、私は須賀君の分のお茶を淹れ始めるのです。

―― って…私がお母さんですか…。

確かに二人のストッパーやツッコミ役になる事が多い私は『お母さん』らしい立ち位置にいるのかもしれません。
しかし、二人の兄妹という関係に対して、それはほんの少し疎外感を感じるものでした。
何より年齢だって同い年なのですから、『お母さん』というのはあまりに失礼です。
それよりは… ――

「お姉ちゃんが良いなぁ…」
「え…?」
「い、いや!何でもないですよ!!」

瞬間、私の口から漏れた言葉に、二人の視線がこちらへと向きました。
まるで信じられないものを見るようなそれに私は顔を赤く染めながら、そう答えます。
それに二人が首を傾げながらも、心配そうな目を向けてくれました。
そうやって心配してくれる二人の姿は嬉しいですが、しかし、さっきの思考をそのまま口にするのはあまりにも恥ずかしすぎるのです。

―― ブルルルルル

「あ、め、メールみたいですね!!」

そんな私にとって救いであったのはその瞬間、机に置いたままであった携帯が震えたからです。
それを手に取って画面を見れば、そこにはメールの着信を伝える文字が浮かんでいました。
わざとらしくそれを伝えながら、私はメールの画面を開き、新着メールを開きます。

「あ…」

そこには私を案ずる言葉と、そして親の許可が降りなかった事に対する謝罪が並び立てられていました。
親に対する怒りさえも滲ませるそのメールに私の胸は申し訳なさで一杯になります。
元々、無用な心配をさせた上に、無茶を言い出したのは私の方なのですから。
その感情をそのままメールの返信へと変えた瞬間、今度はもう一人の子からもメールが帰って来ました。

「何だって?」
「二人共無理みたいです…」

そもそもストーカー被害にあっている家に泊まりに行かせるだなんて、親としては中々、決断出来る事ではありません。
ご両親と多少の付き合いがあるゆーきの家が一週間も外泊許可をくれた事自体が異例の事なのですから。
そう言った家族ぐるみの付き合いをしていない後輩たちに、許可が降りなくても仕方がありません。
ましてや、当日にそんな事を言い出せば、親からすれば怪しく思えてもおかしくはないでしょう。

「って事は…」
「泊まれるのは京太郎しかいないじぇ…」
「そう…ですね」

改めてそう口にされると私の頬が朱を浮かべます。
さっきの気恥ずかしさとはまた違った羞恥の色に私はまた落ち着かなくなってしまいました。
流石にその指で髪の毛をいじり始める程ではありませんが、須賀君の顔が見れなくてついつい視線を背けてしまいます。
まるで彼から逃げ回っていた頃に戻ってしまったかのような自分の反応に私は小さく深呼吸しながら、ゆっくりと口を開きました。

「あ、あの…須賀君…が良ければですけど…一緒に居て…くれませんか?」

勿論、そんな事言うのは恥ずかしくて堪りません。
しかし、そうやって私から意思表示をしなければ、須賀君の方でも覚悟を決める事は出来ないでしょう。
今回は私が完全に助けてもらっている側なのもあって、どれだけ恥ずかしくても私からアプローチしなければいけません。
ですが、それでもやっぱり気恥ずかしいのは否定出来ず、私の顔はゆっくりと俯き、その声はどんどんと尻すぼみになっていくのです。

「俺としてはすげー役得なんだけど…和の方は良いのか?」
「も、勿論です!」

そんな私の視界の端で頬を掻きながら、須賀君はそう確認の言葉をくれました。
それに反射的に頷く私の言葉は思ったより大きなものになってしまいます。
須賀君が変に遠慮しないように力強く答えるつもりだったのですが、どうやら力が入りすぎたようでした。
そんな加減すら出来なくなりつつある自分にさらなる恥ずかしさを感じて、私はあたふたとしてしまいます。

「あ、も、勿論と言っても、別に須賀君がどうというとかじゃなくてですね!
 す、須賀君がそういう事しない人だって信頼してると言うか、実は私もちょっぴり楽しみと言うか!」
「の、のどちゃん?」
「はっ」

そこまで言ってから私はようやく自分が言わなくても良い事まで言っていた事に気づきました。
けれど、その具体的な内容までは自分でさえも思い返す事が出来ず、何を言っていたのか分からないのです。
恐らくさっきの私はパニックにも近い状態にあったのでしょう。
そんな自分の失態にさらに顔が赤くなるのを感じた瞬間、私は思考を半ば羞恥心に奪われてしまいました。

「はぅぅ…」
「ま、まぁ…ともあれ、嫌がられていないみたいで安心したよ」

そのまま何も言えず俯く私の前で須賀君はフォローするようにそう言ってくれます。
さっきの私の失態を+へと受け止めてくれるそれは正直、かなり有難いものでした。
けれど、今の私にはそんな須賀君に感謝の言葉すら言えません。
そんな事よりも頭の中が気恥ずかしさで一杯でどうにかなってしまいそうだったのです。

「と、とにかく…これからどうするかは決まったし、まずは優希を送って…んで、それから泊まりの準備して戻ってくるわ」
「お、お願いします…」

それでも何とかそれだけは言う私の前で須賀君はぐいっとお茶を呷ります。
まだ淹れたてで湯気が立ち上るそれを一気に嚥下するようなそれに須賀君の顔も引き締まりました。
さっきの冗談めいたものとは違う覚悟を決めるようなそれは少し…ほんのすこしだけ私の目に格好良く映ります。

「あ、そうそう。和、扉を開けるのはちゃんと相手を確認してからじゃないとダメだからな」
「え…?」

そのまま立ち上がった須賀君は私に念押しするようにそう言いました。
それに私が驚きの声をあげるのは、それが当然の事だったからです。
扉の前に立っているのがストーカーかもしれないのに、軽々しく扉を開けたりはしません。
そんなものは念押しされなくても分かっているが故に、何かの隠語か暗号かと思ったのです。

「強引に押し入ってきたら不法侵入になるし、携帯は常に握りしめてすぐに110番出来るようにな」
「え、えぇ」
「後、俺らが行ったらちゃんとチェーンまで掛けて…念のため全部の戸締りをもう一回チェック…」
「ほらほら、心配なのは分かるけど…そろそろ行かないと帰りが遅くなるじぇ」

それが単に私のことを心配してくれているからだと気づいた頃には須賀君はその腕をゆーきに引っ張られていきました。
小柄なゆーきに大柄な須賀君が引っ張られていくその様は、また兄妹のように見えて微笑ましく思えるのです。
しかし、それだけではないのは、二人が心から私の事を心配し、動いてくれているからなのでしょう。
そうやってコントのようなやり取り一つにも私の事を励まそう、元気づけようとする意図が伝わってくるのですから。

「とにかく…出来るだけ早く帰ってくるからさ。だから、料理でもして待っててくれ」
「えぇ。分かりました」

最後にそう言いながら玄関から出て行く二人を見送りながら、私はそっと玄関にチェーンを掛けました。
ここから先は一人の時間が少し続きますが、こうして厳重に鍵を掛けておけば問題ありません。
幾ら一人であっても、窓が割れる音がすれば気づきますし、すぐさま逃げて警察に連絡するには十分な時間があるのですから。
そもそも、まだ日が落ちきっていない事を考えれば、相手としても強引な手段には出にくいでしょう。

―― でも…この家はこんなに静かだったでしょうか…。

ゆーきと須賀君がいなくなった我が家は家電のブゥンと言う音がなるだけで他に何の音もしないものでした。
無味乾燥と言っても良いそれは私にとって馴染みの深いものであったはずです。
両親が多忙な時期には常にこの沈黙は私の傍にあったのですから。
しかし…この一週間、それをまったく意識する事がなかった所為か、その沈黙がとても重く、また寂しいものに思えるのです。

―― そして…何より…怖いです…。

あの日…須賀君に手を差し伸べられた日、私の心は完全に折れてしまったのでしょう。
大丈夫だと分かっているのに一人でいるということに身体がびくついて、妙に落ち着きません。
二人が残した湯のみを洗っている最中も、どうしても後ろが気になって、チラチラと後ろを振り返ってしまうのです。

―― 落ち着いて…大丈夫…大丈夫だから…。

まだ二人が出て行って十分も経っていないのに、私はもう自分にそう言い聞かせなければいけないようになっていました。
そんな自分に自嘲すら感じるものの、しかし、一度、恐怖を知った心はどうにもなりません。
まだ傍に誰か居てくれる時は平静になれるのに、一人になった途端、どうしようもなくなってしまうのです。

―― 須賀君…早く…早く帰って来て下さい…。

そして、二十分もした頃には私は彼の帰りを心待ちにしていました。
勿論、その間も二人分の夕食を準備し、料理も進めています。
ですが、今の私は料理に集中する事は出来ず、手元もおぼつかない状態でした。
それでも身体に染み込んだ習慣が私に怪我をさせる事はありませんでしたが、味見してもろくに味が分かりません。

―― こんなんじゃ…美味しくなんて出来ません…。

今もこうして骨を折ってくれている須賀君に報いる第一の方法は彼が好きだと言ってくれた私の手料理を振る舞う事です。
しかし、それすらも一人では満足に出来ない自分に、私は強い失望を感じました。
ついほんの一ヶ月前には簡単に出来たはずのそれが…出来ない情けない自分。
それに目尻が潤み、じわりと涙が零れそうになるほど…私は追い詰められていたのです。

―― ピンポーン

「っ!」

瞬間、リビングに鳴り響くインターホンの音。
それに私は弾かれたように足に力を込め、そのまま廊下へと飛び出します。
パンパンとスリッパが音を鳴らすのも構わず乱暴に走り抜け、
そのまま玄関の鍵に手をかけようとした瞬間、私は須賀君の忠告を思い出しました。

「す、須賀君…ですか?」
「あぁ。和の愛しい須賀京太郎ですよ」

冗談めかしたその言葉を…私は怒るか呆れるべきだったのでしょう。
しかし、極限状態にも近かった私にとって、彼の帰りは本当に待ち遠しいものでした。
名も知れぬ悪意の主ではなく、須賀君が扉の外にいると思ったらもう我慢出来ません。
嬉しさのままにチェーンを外し、鍵を開いた私は、内側から乱暴に扉を開いてしまうのです。

「うわっ!」

それに驚きの顔を見せる須賀君は大きめのスポーツバックを肩から下げていました。
恐らく着替えなどが入っているであろうそれを揺らしながら引く彼に微かな申し訳なさを感じます。
しかし、それに謝罪を紡ぐよりも先に人恋しさで胸が一杯になった私は、彼の前で涙を浮かべてしまいそうになるのでした。

「和?」
「あ…な、何でもないんです」

けれど、それはそのまま口にするにはあまりにも恥ずかしい事でした。
たった一時間ちょっとの時間でさえ、怖くて堪らなかったなんて小さな子どもみたいなのですから。
勿論、そこまで追い詰められるに足る理由があったとは言え、中々、それを人に話す事など出来ません。
結果、私は心配そうに尋ねてくれる須賀君の前で強がってしまうのでした。

「と、とにかく入って下さい」
「そうだな。お邪魔します」

そう言って招き入れる私に須賀君は一つ断りながら家へと足を踏み入れました。
そのまま後手に鍵を締め、チェーンを掛ける仕草はもう手馴れています。
周囲を警戒する為か、何時も最後に家へと入る彼にとって、それはもう慣れたものなのでしょう。
普段は何とも思わないそれが、しかし、二人っきりの今は妙に気恥ずかしくて、私はまた妙に落ち着かない気分になってしまうのです。

「え、えっと…おかえりなさいませ?」
「はは。ただいま」

そんな私が選んだ言葉に、須賀君は笑いながら、靴を脱ぎ、廊下へと踏み出しました。
数日前とは違い、も来客用のスリッパを履くその様はもう遠慮なんてありません。
まるで仕事から慣れ親しんだ家へと帰ってきたかのようにリラックスしているのです。
恐らくその肩からスポーツバックを下げているのもそうした印象を加速させているのでしょう。
そう冷静に判断しながらも、そんな彼の姿が妙にむず痒く見えてしまい、私はそっと視線を背けてしまうのでした。

「に、荷物はお持ちしますよ」
「いや、そんなに重くないし構わないって」
「いえ…それくらいやらせてください」

そんなむず痒さから逃げる為に私は半ば強引に須賀くんからスポーツバッグを奪います。
その中身は須賀君の言った通りに軽く、私の腕でも軽々と持つ事が出来ました。
恐らく中身は着替えや明日の準備で埋め尽くされているのでしょう。

「やっぱり和は良いお嫁さんになるな」
「えっ…」

瞬間、私の鼓膜を打った言葉に私は思わずそう聞き返してしまいました。
そのまま振り返るように彼の顔を見れば、そこには微笑ましそうな彼の表情があるのです。
何処か冗談めかしたものを混じらせるその表情に、私の思考は疑問を浮かべました。
しかし、それよりも唐突に告げられたその言葉の真意に理解が追いつかず、私は首を傾げたのです。

「こうして荷物を持ってくれるなんて奥さんっぽくて…ちょっとドキッとした」
「~~~っ!」

そんな私からほんの少し視線を逸らす須賀君の頬は明らかに紅潮していました。
恐らく彼としてもそういう事を言うのは恥ずかしさを感じるのでしょう。
しかし、それでも告げられるその言葉に私の胸はむず痒さを強め、どうして良いか分からなくなってしまいました。

―― そ、そんなつもりじゃなかったのに…。

私が強引に須賀君から荷物を奪ったのは至極、自分勝手な理由からなのです。
妙にむず痒い落ち着かなさから逃げる為に、私はそれを奪ったのですから。
それは決して奥さんらしいとは言えず、また褒められるものでもないでしょう。
しかし、私の真意を知らない彼はそれをポジティブに捉え、私の事を褒めてくれるのでした。

「そ、そんな…褒めないで下さい」
「はは。まぁ…ちょっと馴れ馴れしすぎるセリフだったな。悪い」

私はそんな風に褒められるような人じゃない。
そう伝えようとした私の言葉を、須賀君は照れ隠しの一種だと受け取ったようでした。
軽くそう謝罪しながら、その顔から気恥ずかしさを引っ込めます。
そんな彼に何かを言おうとしますが、私の口からは言葉は出てきません。
未ださっきのむず痒さが残る私は、須賀君に何を言うべきなのか分からないのです。

「そういや今日の夕飯は何なんだ?」
「えっと…里芋の煮物とお魚、後、ほうれん草の胡麻和えと大根のお味噌汁です」

そうこうしている内に私たちはリビングへと足を踏み入れました。
それと同時に何気ない会話をくれる須賀君に答えている内にさっきのむず痒さは少しずつ消えていきます。
さざ波を起こすような心が少しずつ落ち着いていくのを感じながら、私はそっと肩を落としました。

「でも…ごめんなさい。まだ出来てなくって…」
「だったら俺も手伝うよ。何すれば良い?」

もう七時も回って日が落ちているので、育ち盛りな彼としてはお腹がペコペコでしょう。
しかし、一時間以上もあってろくに料理が出来ていない私を須賀君は咎めません。
寧ろ、積極的に私の事を手伝うと言いながら、その腕を捲ります。
まるで今から大仕事でもするようなオーバーなリアクション。
それに私は思わず笑みを浮かべながら、そっと口を開きました。

「では…味見をしてもらって良いですか?」
「それくらいだったら幾らでもするぞ。なんだったら全部食べても良いくらいだ」
「もう…あくまで味見なんですからね」

勿論、須賀君がいる以上、私が不安に襲われる事はありません。
恐らく今の私であれば味付けに失敗する事はないでしょう。
しかし、それでも須賀君に味見をお願いしたのはどうせなら彼に合わせた味付けをしたかったからです。
今までも美味しいと言ってくれていましたが、どうせですし彼好みの味付けも覚えるのも悪くはないでしょう。

―― これからも…お世話になる事ですしね。

言い訳のように胸中でそんな言葉を浮かべながら、私は須賀君と共に料理の仕上げを始めます。
けれど、私はよっぽど慌てていたのか、途中まで出来上がった料理の味付けはそれはもう酷いものでした。
薄かったり濃かったりと無茶苦茶なそれは不味いと言われても仕方のないものでしょう。
けれど、須賀君はそんな料理に文句ひとつ言わず、味見を繰り返し、ちゃんとした味付けへと近づけてくれます。
そうやって一緒に作業するのはとても楽しく…また私にとってとても有意義な時間でした。
 
―― そうやって二人で作った食事を一緒に食べるのは楽しい事でした。

普段、一緒に居てくれるゆーきがいないので、話題の数が足りるのか心配ではありましたが、杞憂だったようです。
須賀君が持つ話題の引き出しは多く、私たちの間に気まずい沈黙が降りる事はありませんでした。
それが全て須賀君のお陰であり、私からまったく話題を捻出出来ていないのが少しだけ情けないです。
けれど、それ以上に今の私は楽しくて仕方がなくて、笑みを零しながら須賀君の話に耳を傾けていました。

―― でも…ずっとこのままじゃまずいですよね…。

確かに須賀君の話題に相槌を打ち、適当に返事を返すそれは楽でした。
ですが、そうやって受け身なままで居ては、彼に負担を掛けてしまう事になるのです。
幾ら須賀君の話題が豊富とは言っても、無尽蔵という訳ではありません。
それを思えば、彼の話題が尽きないように、こちらからも話題を振るべきでしょう。

―― な、何より…今日は須賀君も泊まる訳ですし…。

この先、須賀君がどうするのかはまだ決まってはいません。
泊まるという事だけを先に決めただけであり、寝る場所すら考えていないのですから。
勿論、急いでそれを決める必要なんて何処にもありませんが、話題の一つにはなるでしょう。
そう考えた私は須賀君の話が途切れた隙を伺って、口を開くのです。

「そ、そう言えば…須賀君?」
「ん?」
「これから先って…ど、どうしますか?」
「どうって…」

けれど、そうやって私が紡いだ言葉に須賀君は首を傾げました。
焦りすぎた所為か、主語があんまりにも曖昧で、その意味が広く取れすぎるのです。
彼がそうやって不思議そうにするのも無理はなく、私の頬は羞恥で赤くなりました。
勿論、普段はこんな風にわかりにくい言い方なんてしませんが…どうやら今の私はかなりテンパっているようです。

「あ、あの…寝る場所とか決めないと…い、いけないじゃないですか」
「あぁ。そういう事か。すまん」
「い、いえ!私の言い方が悪かったんです!」

私の補足に須賀君は小さく頷きながら、謝罪してくれました。
けれど、さっきのそれは彼が分かりにくかったというよりは私の伝え方が悪かったのです。
それを思えば須賀君を責める気には到底、なれず、寧ろ謝罪してくれた事に申し訳なさを覚えました。

「まぁ、俺は掛け布団さえ貸してくれれば、このリビングで寝るよ」
「でも…」

そんな私の前であっけらかんと言う須賀君に私はそう返しました。
確かにここはソファもあり、人一人程度であれば眠れるようになっています。
でも、ソファはもともと人が座ることを想定したものであり、眠る事などまったく考えられては居ないのです。
その身体を休める事には使えるでしょうが、ベッドよりも遥かに疲れが残る事は目に見えていました。

―― でも、うちには来客用のお部屋なんてなくって…。

転勤を伴う引越しの多い仕事をしている両親にとって、この長野もまた腰掛けに過ぎないのです。
自然、私が住んでいるこの家も借家の一種であり、来客用の部屋もありません。
二階にあるのは父と母の書斎と寝室、そして私の部屋だけなのですから。
ごく普通で一般的なその間取りを考えれば、須賀君の言う通り、ここで寝てもらうのが一番なのかもしれません。

―― でも…それじゃ…あんまりにも悪いです。

勿論、来客用の布団は何組かありますし、それを使ってもらえれば
でも、わざわざ泊まりに来てくれた彼をリビングに一つポツンと残すのは気が引けました。
このリビングは一人で寝るのはあまりにも広すぎて…一人でいるだけで妙な寂しさを覚えるくらいなのですから。

「あの…私の部屋で…」
「流石にそれは却下な」
「あぅ…」

そう思って告げた言葉が最後に届く前に、須賀君はそれを一刀両断にしました。
まったく取り付く島すらないその言葉に、私の肩がそっと落ちるのは分かります。
そんな私の姿を彼はクスリと笑いながら、その唇を開きました。

「俺は男なんだから、優希と同じ感覚でいちゃまずいって」
「それは…そうかもしれませんけど…」

でも、須賀君が私に何か邪な気持ちを抱いてる人とは到底、思えません。
本当に彼が私に邪な気持ちを向けているのだとすれば、その機会は今までに何度もあったのですから。
けれど、彼はその機会を活かすどころか、何度も私を護ってくれる人でした。
そんな彼が同室で寝たからと言って、何かされる事はない。
そう思ったからこそ私は彼を自室に招こうとしたのです。

「ま、寂しいなら夜中までメールでも何でも付き合うからさ」
「べ、別にそんな事はないです!」

からかうように言う須賀君の言葉に私は反射的にそう返しました。
けれど…そう言いながらも、私の心はそれが事実であるという事を半ば認めていたのです。
ついさっき一人っきりになった時に感じた寂しさを私は未だ覚えているのでしょう。
意識せずとも私の背筋を撫でるようなその焦燥感に、突き動かされたのは否定出来ないものでした。

「和はもうちょっと警戒心持ったほうが良いと思うぞ」
「も、持ってます!」

それでもクスリと笑いながら告げる須賀君の言葉には納得がいきませんでした。
そもそも私は見知らぬ誰かにストーカーされてるからこそ、こうして警戒して須賀君に泊まってもらっているのです。
今だって戸締りは完璧で、普通の手段では入る事なんて出来ません。
それに何より…私は須賀君と初めてであった時、警戒心全開だったのです。
それこそ今思い返せば恥ずかしくなるような身構えっぷりを浮かべて警戒心がないとは到底言えないでしょう。

「いや…なんつーか…ある程度、親しくなった相手への警戒心って言うかな」
「え…?」

そんな私にポツリと呟く彼の言葉に私はそう疑問の声を返しました。
それは勿論、須賀君が何を言っているかが分からなかったからではなく、その意味を理解出来なかったからです。
勿論、親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、親しい相手にも分別のある付き合い方をしなければいけないのは私にも分かっています。
でも、それと警戒心というのはどうしても繋がらず、今度は私の方が首を傾げる事になるのでした。

「心のハードル下がり過ぎ。俺以外の男にあんな事言ったら期待させるぞ」
「ぅ…」

須賀君の言葉は、私に言い聞かせるような暖かなものでした。
その指摘は彼が真摯に私のことを思ってくれているが故のものなのが伝わって来ます。
ですが、その言葉そのものはまるで独占欲を滲ませるようなもので…私の頬がそっと朱を指すのでした。
嬉しさと気恥ずかしさが半分半分で混ざるようなその感情に私の顔は俯き、視線を彼の顔から逸らしてしまいます。

「俺だってこんな状況なのにドキッとしたくらいなんだからさ」
「ドキドキ…したんですか?」
「当たり前だろ。和みたいに可愛い子に言われたら、男だったら誰だってそうなるって」

何時も通りの軽くて冗談めかしたその言葉は、お世辞混じりのものなのでしょう。
私はあまり可愛げのある女ではなく、そう言った言葉はゆーきの方が相応しいのですから。
けれど、須賀君にそう言われるだけで私の胸は熱くなり、心臓がドクドクとなり始めるのです。
冗談だと分かっているのに、可愛いという言葉そのものに反応してしまうような自分に私は… ―― 

「…和?」
「え…?」
「箸が止まってるけど…体調でも悪いのか?」

そんな事を考えている間に、私の身体は完全に止まっていたのでしょう。
適当に解した焼き魚にも、一緒に味付けしなおした煮物にも箸がついていない状況に、彼は心配そうな表情を見せました。
須賀君の器に入った料理を見れば、それらはもう完食されて、残っていません。
焼き魚のモツが残った苦い部分までしっかりと食べきるそれは、私が呆けている時間がかなりのものであった事を感じさせました。

「だ、だだ…大丈夫です!」
「そうか?でも…無理はすんなよ」

焦り混じりの私の言葉に須賀君は素直に頷きながら、一人席を立ちました。
そのままお皿を流し台へと運んだ彼は、自分の分だけでも水につけてくれているのでしょう。
後で洗いやすいようにというその気遣いを感じながら、私は自分の指を動かし、食事を進めました。
しかし、妙な気恥ずかしさと、嬉しさが私の胸へと張り付いて離れず、その速度は何時もよりも若干、遅いものになっていたのです。

「…」
「…な、何ですか?」

そんな私の姿を正面に座り直した須賀君がじっと見つめます。
何処か微笑ましそうな視線はくすぐったく、落ち着きません。
居心地が悪いというほどではないのですが、なんとなく胸の中がムズムズとしてしまうのです。
その感情に押されるがままに須賀君へと尋ねた私に、彼が綻ぶような笑顔を向けました。

「いや、今までもずっと思ってたけど…和の食べ方は上品だなって思ってさ」
「こ、これくらい普通です」

元々、うちの両親も育ちの良い人であり、食事の躾も厳しいものでした。
流石にマナーがどうのこうのでガチガチに硬かった訳ではありませんが、何度も咎められたのを覚えています。
そうやって形成された自分の食べ方をこうして上品と言われるのは今までにも何度かありました。
でも、そうやって食べ方を褒められるのは妙な壁を感じるものであり、あまり好きではなかったのです。

「優希の奴も和くらい落ち着いて食べたら、食品も報われると思うんだけどなぁ…」
「…クスッ」

けれど、それに壁を感じるよりも先に、ポソリと告げられた須賀君の言葉。
その妙なおかしさに私はつい笑みを浮かべてしまいました。
勿論、そうやって食べ物になったものに対する気持ちを忘れないのは美徳でしょう。
でも、それが全体的に軽い雰囲気を纏う須賀くんから放たれたとは到底、思えず、おかしさを感じてしまうのでした。

「な、なんだよ」
「いえ…ごめんなさい」

そんな私に唇を尖らせる須賀君の反応は当然でしょう。
誰だっていきなり笑われたら、あまりイイ気はしないのですから。
しかし、そうと分かっていても、さっきの須賀君の姿は面白く…そして可愛らしいものだったのです。

―― もしかしたら…須賀君も結構、躾の厳しい家だったのかもしれませんね。

さっき魚をほぼ骨しか残していない食べ方をしていた事からもそれを伺う事が出来るでしょう。
勿論、好き嫌いもあるので一概には言い切れませんが、さっきの言葉を聞いた後だとなんとなくその可能性が高い気がしました。
それに…なんとなく共感を覚えてしまうのは、思い込みもいい所なのでしょう。
しかし、それでも私の勝手な共感は消える事はなく…ついついそれを確かめたくなってしまうのでした。

「そういえば…須賀君のお家って厳しい方なんですか?」
「もし、そうだったら俺は幾ら何でもここには居れないと思うぞ」
「あ…」

そんな私の言葉にクスリと笑いながら告げられる言葉は、まさにその通りでした。
あまりにも自然に須賀君がここに居てくれたので忘れてしまっていましたが、彼は今、ご両親の許可を得手ここに来てくれているのです。
一体、須賀君がどれだけの事情を説明してるかは分かりませんが、
それでも躾の厳しい家が高校生で外泊を認めるケースというのは少ないでしょう。
それを彼の言葉で理解した私は自分勝手な思い込みに羞恥心を感じて、再びその頬を赤く染めてしまいました。

「まぁ、食事のことについてなら結構、色々言われたけどな」
「そ…そうですか」

そんな私にフォローするように言う須賀君の言葉に、心が慰撫されるのを感じます。
自分の思い込みがそれほど的外れでもなかったのだというそれに少しだけ心が落ち着きました。
けれど、それで完全に平静に戻れるような切り替えの速さを私が持っているはずがありません。
未だ妙な落ち着きの無さを残す私は逃げるように食事へと没頭し、口に食べ物を突っ込んでいくのです。

「今度うちに挨拶しに来るか?」
「んぐっっ!?」

それは冗談にすぎないという事くらい私にも分かっていました。
けれど、羞恥心がなくなった訳ではない私にとって、それをいなすほどの余裕はなかったのです。
自然、嚥下している最中の食べ物が驚きによって止まり、強い閉塞感を感じました。
息苦しささえ伴うそれを反射的に飲み込んだお茶で流しこんでから、私はその元凶にジト目を向けるのです。

「す、須賀君…っ!」
「はは。悪い。ちょっとからかい過ぎたな」

じっとりと睨めつけるような視線に須賀君はまったく動揺する事はありませんでした。
その口から笑い声すら漏らしながら、飄々とした態度を崩さないのです。
しかし、それでも悪いとは思ってくれているのか、その口からは謝罪の言葉が飛び出しました。
それに拗ねるような気持ちがほんの少しだけ緩んでいくのを感じる私の前で、彼はそっと椅子から立ち上がります。

「んじゃ、俺はあっちで宿題でもしてるからさ。寂しくなったら呼べよ」
「呼びません!」

最後の最後までからかいながら、去っていく須賀君の背中に私は大きくため息を吐きました。
まるで仕方ないなと言うようなそれに…けれど、私の頬は緩んでいたのです。
何だかんだ言って、こうやって須賀君とするやりとりを私は決して嫌なものとしては受け取っていないのでした。

―― 何より…須賀君が私のことを気遣ってくれるのが伝わってくるのですから。

その言葉は冗談めかしたものでありましたが、多分…須賀君はもう気づいているのです。
私がさっきから寂しくて…何とか彼に傍にいてもらおうとしている事を。
元々、彼は人付き合いが上手いだけあって、そういった心の機微には敏感です。
須賀君が帰ってきてくれた時から様子が変だった私の変調を、なんとなくではあれど察してくれているのでしょう。

―― まぁ…だからと言ってからかわれるのは納得がいきませんが。

基本的に私も負けず嫌いな方なのです。
それなのにやられっぱなしなのは、私のことを思ってくれているが故でも受け入れがたいものでした。
けれど、それ以上に嬉しいのは…私が須賀君に心を許し始めているからなのでしょう。
流石にその距離はゆーきほど近くはありませんが、でも、今の私にとって父以外で一番身近な異性は彼以外にはありえません。

―― 男友達って言うのは…こういうものなのでしょうか。

ふと思い浮かんだその言葉に、食事を進める私の頬が緩むのを感じます。
友達へと至るまでのハードルが高いとゆーきに何度も言われた私にとって、それは今までにない感覚でした。
仕事の都合で転校も多く、男性とろくに仲良くなる機会なんてなかったのですから当然でしょう。
ですが、それでも心の中に浮かんだその言葉は決して違和感があるものではなくて、すっきりと受け入れる事が出来るのでした。

―― ま、まぁ…ここまで手伝ってもらっているのに部活仲間…というのも味気ないですし。

一体、誰に言い訳しているのか、胸中でそんな言葉を浮かべた瞬間、私は食事を食べ終わりました。
須賀君の分よりもかなり少なかったはずなのに、ようやく食べ終わった自分に私は一つため息を吐きます。
まるで一息吐くようなその後、残ったお茶を口へと流し込めば、須賀君がソファから私へと振り返っているのが見えました。

「ん…終わったのか?」
「えぇ…ご馳走様でした」

そう手を合わせて感謝の言葉を告げながら、私は須賀君と同じように食器を流し台へと持っていきます。
そのまま須賀君の分まで洗おうとした瞬間、彼がそっと私の横に立ちました。
二人揃って並び立つようなそれに、しかし、私はその理由が分かりません。
使ったフライパンなんかはその都度、須賀君が洗ってくれたので、洗わなければいけないのは実質、二人分の食器だけ。
その程度ならば、誰かの手を借りる事はありませんし、何より何時もは私がやっている事なのです。

「俺が洗い物やるよ」
「え…でも…」
「その代わり、お風呂沸かしてきてくれないか?」

交換条件として須賀君が口にするそれは、確かに私でなければ出来ない事でしょう。
脱衣所と隣接するそこにはあまり見られたくないものもあるのですから。
ゆーきが出しっぱなしで放置している下着なんかがないかをチェックするのは私にしか出来ない事なのです。

「須賀君は宿題をしていてください」

でも、それはあくまで私と須賀君が対等な立場である場合の事。
今の私は須賀君にお願いして、わざわざ泊まりに来てもらっている立場なのです。
それなのにそういった雑事に手をわずらわせたりさせたくありません。
折角、宿題を始めたのですから、まずはそっちに集中してほしいと思うのです。

「ダーメ。作ったのは和なんだから、片付けるのは俺でないとな」
「ぅ…」

けれど、須賀君は冗談めかして言いながらもその言葉を曲げるつもりはないようです。
それに小さく声をあげるのは、私に選択肢が殆どないからでしょう。
そうやって彼に任せるのは心苦しいですが、かと言って意固地になるようなものでもないのです。
須賀君がそう言ってくれている以上、ここは彼に任せるのが一番。
感情は納得していなくても理性はそう理解しているのでした。

「…じゃあ、申し訳ないですけど、お願いしますね」
「あいよ。それじゃ和にいい所見せますか」

そう言って腕まくりする須賀君に私はクスリと笑いながら脱衣所へと向かいます。
その後ろで鼻歌を歌いながら食器を洗い始める須賀君の上機嫌さが移ったのか、その足取りは妙に軽いものでした。
意外と影響されやすい自分に一つ笑みを浮かべながら、私はスポンジを手にとって、お風呂掃除を始めるのです。

―― とにかく…念入りにしないといけません…っ!

勿論、ゆーきが泊まってくれていた今までも掃除に手抜きをしていた訳ではありません。
しかし、こうして事件が起こる前から何度も家に泊まってくれた彼女には良くも悪くも身構えるものがないのです。
いつも通りの私の姿を知ってくれているゆーきに今更、無理をする必要はありません。

―― で、でも…す、須賀君はそういう訳にはいかないですし…。

だ、だって、彼は今日、初めてこの家にお泊りしてくれるのですから。
幻滅されない程度にはしっかりとしたところを見せたいというのが偽りのない本音でした。
だからこそ、私は普段よりも念入りに浴槽を擦り、そして水垢一つない壁をさらに磨いていくのです。
それは中々に重労働ではありましたが、けれど、それほど苦ではありませんでした。

―― こ、ここに…須賀君が入るんですよね…?

初めて家に泊まる異性の友人。
そんな彼がここに身体を預けたり、触れたりするかと思うと妙な恥ずかしさが胸を埋め尽くすのです。
それから逃避するように掃除を続けるのは、それほど難しい作業ではありません。
結果、数十分後にはいつも以上にお風呂を綺麗にし終えた私は、微かに額に浮かんだ汗をそっと拭うのでした。

―― 大丈夫?…うん。大丈夫。

自分で尋ねる言葉に小さく胸中で小さく頷くのは、私の目の前に汚れ一つなかったからです。
ほんの小さな水垢一つさえも許さないそれに達成感すら感じるくらいでした。
それに足取りをさらに軽くしながら、私は浴槽に栓をし、給湯器のボタンを操作して、給水を始めます。
後、数十分もした頃にはお風呂も湧き上がり、リビングに軽快な音がなる事でしょう。

「よし…っと…」

それを確認してから、私は脱衣所へと戻り、床に敷いたマットで足の水気を拭き取ります。
しっかりと洗った所為で制服にも飛び散った水気もまたハンドタオルで拭い去りながら、私はスリッパを履き直しました。
そのままパタパタという音を鳴らしながらリビングへと戻れば、そこにはソファに座りながら携帯を弄る須賀君の姿があったのです。

「あれ…?もう宿題は終わったんですか?」
「あぁ。今日はそれほど数が多い訳じゃなかったしな」

確かに言われてみれば今日は一つ二つ程度で、それほど宿題があった訳ではありません。
集中してやればきっと誰でも一時間もかからないようなものでしょう。
だからこそ、私は須賀君の言葉に納得しながら、けれど、言わなければいけない一言を口にするのでした。

「英語の予習は終わったんですか?」
「ぅ…」

須賀君がそう唸り声をあげるのは彼が英語という教科が人並み以上に苦手だからです。
この一ヶ月近くクラスメイトである彼のことをそれなりに見て来ましたが、英語だけはまるでからっきしでした。
他の教科は人並み程度にはこなすのに、誤訳も発音もおぼつかない須賀君。
そんな彼がこの短期間で英語の予習まで終えられたとは到底、思えないのです。

「あ、後で和に教えてもらおうかなって…」
「まったく…そんなんじゃゆーきの事笑えませんよ」
「ち、ちゃんと他の教科はやってるし…」

拗ねるように口にする須賀君の中ではゆーきと自分では大差あるものなのかもしれません。
でも、苦手分野を人に頼ろうとしてしまうのは、それほどゆーきと変わらないでしょう。
ただ違うのは須賀君が勉強そのものを不得手としていないのに対して、ゆーきがそうであるというだけ。
勿論、その差は決して少ないものではありませんが、二人に頼られている私からすればそう大差ないように思えるのでした。

―― まぁ…頼られて悪い気はしませんけれど。

何だかんだ言いながらも、私はそうやって人に頼られるのが好きなのでしょう。
ましてや、相手は私が基本的におんぶ抱っこになっているゆーきや須賀君なのです。
普段の恩義を少しでも返す為にも、教えるのも吝かではありません。
特に今日は無理を言って、泊まってもらっているので、今日くらいは…という気持ちがない訳ではありませんでした。

「…まったく。仕方ないですね。…それで何処が分からないんです?」
「全部!」
「…本当、英語に関してはゆーきを笑えませんよ、須賀君」
「い、言うなよ…」

自信満々に全てと応える須賀君にジト目を向けながらも、内心、それは予想していたものでした。
他の教科は基礎からしっかり出来ている彼が、英語だけはからっきしなのですから。
きっと根本の部分から懇切丁寧に教えなければいけないのは目に見えていました。
それでも彼に言葉を向けるのは、さっきからかわれた事を忘れていなからです。
確かに嬉しかったのは嬉しかったですが、それでもやっぱり悔しいのは否定出来ません。
そんな私に訪れた数少ない仕返しの機会を活用しようと思うのはごく普通の事でしょう。

「まぁ、あんまり手を煩わせたりしないように和先生の授業で頑張って理解するよ」
「そっ、そう言うんなら普段の授業でちゃんと理解してください」

瞬間、微かに声が上ずったのはまさかそんな風に言われるとは思っていなかったからです。
小さい頃の夢に先生という項目があった私にとって、その呼び方は一種の憧れでもあったのですから。
それを同年代の男性に言われるというのはむず痒く、そして妙に嬉しいものだったのです。
そんな単純な自分に一つ苦笑めいたものを向けながら、私たちは英語のレッスンを始めました。

「ぐはぁ…」

けれど、その結果は悲しいかな散々なものでした。
自分が理解している事を分かりやすく人に教えるというのはやっぱり難しい事なのでしょう。
中学時代、後輩に教えた経験を出来るだけ活かすようにしたつもりですが、その進みは順調とは言えません。
結果、1ページの訳を作るのに一時間近く掛かった須賀君はそう声をあげながら、ソファに持たれかかるのです。

「ごめんなさい…私がもっと分かりやすく教えられれば…」
「いや、和の所為じゃねぇよ。俺の英語力がダメ過ぎるんだって」

謝罪する私の言葉に須賀君は自嘲混じりにそう答えました。
実際、思った以上に基礎の基礎から教え直さなければいけなかった彼の英語力は高いとは言えません。
ですが、こんなに時間が掛かってしまったのは私の教え方があまり良くなかった所為でしょう。
きっと中学時代の先輩 ―― 花田さんならこんな事にはならなかったはずです。
それを思うと申し訳なさが胸を突き、小さくため息を吐いてしまいました。

「これでも昔は幼馴染が教えてくれてたから今よりはマシだったんだけどな…」
「幼馴染…ですか?」

そんな私の前でポツリと呟く須賀君の言葉に、私はついついそう問い返してしまいました。
独り言にも近いそれに突っ込むのは野暮なのだと…頭の何処かでは理解していたのです。
ですが、それでも…内心、ずっと気になっていた相手の情報だからでしょうか。
止めたほうが良いと理解しながらも、私はそう聞いてしまったのです。

「あぁ。宮永咲って言って…何処でもすぐ迷子になるのが特技みたいな奴なんだけどさ。
  でも、普段、洋書とか読んでる所為か、国語力と英語力だけは抜群でな」
「…そうですか」

それに律儀に応える須賀君の声には微かに自慢気なものが混じっていました。
きっと彼にとってその幼馴染 ―― 宮永咲という少女はとても大事な人なのでしょう。
たった一言で思い知らされるその感情に、私は自分でも思った以上のショックを受けていました。
そんな自分に驚きを隠せないながら、返した言葉はとても冷たく乾燥したものになっていたのです。
自分の方から尋ねたというのに、あんまりにもあんまりなその態度に自己嫌悪が湧き上がって来ました。

「でも…昔って事は…?」
「あー…まぁ、中学とかだとさ、仲の良い男女をはやし立てる奴とかいるだろ?」

その自己嫌悪を振り払いながら口にした言葉に、須賀君は自嘲混じりにそう答えました。
その言葉の響きに、私は以前、感じた自分の感想が決して間違いではなかった事に気づいたのです。
以前…私が周囲の反応を恥ずかしいと口にした時…彼が口にした「振り回されて生き方を変える方が窮屈だ」という言葉。
それに実感がこもっていたのはやっぱり… ――

「夫婦とか何だとか言われて…まぁ…気まずくなってちょっと疎遠になってる」

気まずそうにそう視線をそらす須賀君は、やっぱり私の感じたものと同じものを抱いていたのでしょう。
そして、その所為で大事な人と疎遠になっているが故に…彼の言葉には実感がこもっていたのです。
そう思った瞬間…私の胸に強い鈍痛がのしかかるのを感じました。
けれど、それが須賀君へと共感した所為か、或いは、再び滲み出る宮永咲という彼女への大事さなのかは私にも分かりません。
ただただ重苦しい感情が私の胸を支配し、どすれば良いのか分からなくなっていたのです。


「はは。悪いな。重い話しちまって」
「そんな事…ないです」

それでも明るく振る舞うのがはっきりと分かる須賀君の言葉を否定したのは本心からです。
確かに今の渡しは決して本調子とは言えないほどにショックを受けているのは事実でした。
ですが、それを知らないままで居たかったとはこの鈍痛の中でも思えません。
寧ろ、そうやって須賀君の心にまた一歩近づけたのが嬉しく思う気持ちは私の中にもあったのです。

「…有難うな、和」
「お礼を言うのは…私の方です」

だって、そんな状況でも、須賀君は私に手を貸してくれているのですから。
本当ならもっと早く仲直りがしたいでしょうに、私を護ってくれているのです。
そんな彼にお礼を言わなければいけないのは間違いなく私の方でしょう。

―― いえ…本来なら御礼の言葉では全然、足りないんです。

それどころか食事や勉強でさえ、彼の優しさに報いる事にはなりません。
私が彼に報いる為には疎遠になっている幼馴染との橋渡しにならなければいけないでしょう。
しかし、須賀君とは仲良くなって居ても、宮永咲さんの姿も何も分からない私には何も出来ません。
それに…何より…私自身があまりそうしたいとは… ―― 

「っと、もうこんな時間か」
「そ、そうですね!」

瞬間、浮かんだ言葉を否定するように、私はそう上ずった声で答えました。
それに須賀君は心配そうな視線を向けますが、私はそれに応える事は出来ません。
何せ、さっきの感情は自分自身でも中々、説明がつかない事だったのです。
いえ、より正確に言えば…それは説明をつけてはいけない言葉であり、永遠に胸の底に沈めておくべきものだったのでした。

「あー…それで…言いそびれてたんだが…悪い。忘れ物したみたいだ」
「え…?」

そんな私の前で後頭部を掻くようにして言葉を紡ぐ須賀君に私は驚きの声を返しました。
けれど、彼は私に構う事はなく、そのまま椅子から立ち上がり、出かける準備を始めます。
そんな姿を呆然と見つめながら、でも、私は何と言って良いのか分かりませんでした。
だって、それは私がまたこの誰もいない家で一人ぼっちになってしまうという事だったのです。
正直に言えば…引き止めたいのが本音でした。

「ちょっと取ってくるから先に宿題か風呂でも入っててくれ」
「そ、それは構いませんけれど…」

ですが、理性はそんな事は出来ないという事を理解していました。
忘れ物が何なのかは分かりませんが、こうして言う以上、大事なものなのでしょう。
夜も更け始め、人通りが激減した時間帯に取りにいかなければいけないものをこの家にあるもので代替出来るとは思えません。
結果、私はどれだけ寂しくても須賀君を見送るしかなかったのです。

「何度でも言うけど…相手が俺だって確認出来るまで開けちゃダメだからな」
「もう…子どもじゃないんですから」

準備を終え、玄関で再びそう念押しする須賀君に私は頬をふくらませるようにしてそう返しました。
そう言いながらも…私は内心、子どもでありたいという気持ちを否定する事が出来ません。
だって、もし、私が自分に素直になれるような子どもであれば、彼を引き止める事が出来るのですから。
ですが、現実の私は須賀くんと同い年で…最低限の分別や体面というものを気にする程度には大人なのでした。

「でも、和は変なところで抜けてるからなぁ」
「う…そ、それは…」

靴を履きながらクスリと笑う須賀君の言葉に私は明確な反論をする事が出来ません。
出会った頃ならいざしらず、彼にはもう恥ずかしいところを沢山見られてしまっているのです。
ついさっきだって失敗した料理の味付けに付きあわせた私が「そんな事ない」と言っても説得力はないでしょう。
それに一つ肩を落とした瞬間、私の目の前で須賀君がそっと振り返りました。

「それと…もし、俺が帰ってくるのが遅かったら…」
「え…?」

瞬間、私がそう問い返したのは、彼の顔がとても真剣なものだったからです。
さっきまでの冗談めいたものは欠片もないその引き締まった表情に、私の胸がトクンと跳ねました。
ですが、それ以上に私にとって驚きであったのは、彼の言葉が最悪を想定しているようなものだったからです。
まるでもうこの家には戻ってこれないようなその言葉に私は… ―― 

「いや…良いや。不安になるような事言ってごめんな」
「あ…」

それに思わず胸を抑えた瞬間、須賀君は気まずそうに笑いながら、扉のドアノブに手を掛けました。
その仕草は微かに強張り、全身から緊張めいたものを感じます。
勿論、この辺りは治安も良いので、この時間に外に出る程度でこんなに緊張する必要はありません。
夜も更け始めたと言っても、まだまだ民家から漏れる光は強く、人通りも決してない訳ではないのですから。

「じゃ、行ってくる。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「す、須賀君!」

それでも滲み出る彼の緊張に、私は猛烈に嫌な予感を感じました。
それに背を押されるようにして思わず彼に呼びかけましたが、須賀君は立ち止まる事はありません。
スルリとドアを開いて私の視界から消えていくのです。
そんな彼を見送って数秒、ようやく自分がしなければいけない事を思い出した私は扉の鍵を閉めたのでした。

「…須賀君…」

しかし、それでも嫌な予感が収まる事はありません。
さっきのような寂しさとは違ったその落ち着かなさに、私は数分ほど玄関で立ち尽くしていました。
けれど…そんな私に出来る事なんて哀しいかな何もありません。
今から彼を追いかける訳にもいかない私は言われた通り待つ事しか出来ないのでした。

―― 何も出来ないのが…こんなに悔しいなんて…。

その悔しさを握り締めるようにして拳に力を込めましたが、感情の波はまったく収まる事がありませんでした。
寧ろ、そうやって感情を自分へとぶつけるしか出来ない状況により惨めさを感じてしまうのです。
普段よりも遥かにネガティブな方向へ敏感になった自分の思考に一つため息を吐きながら、私はそっと踵を返し、リビングへと戻りました。

―― ゆーきも…こんな気分だったのでしょうか。

勿論、今の私とつい数時間前のゆーきの状況は細かい部分で違います。
ですが、何かしてあげたいのに、自分ではどうにも出来ない壁に阻まれて何も出来ない無力感という意味では一致するでしょう。
今、私の胸に抱いているそれを彼女にも味合わせてしまったと思うと申し訳なさが胸の底から湧き上がって来ました。
しかし、それよりも私の中では、焦燥感にも似た心配が遥かに強かったのです。

―― 須賀君…大丈夫でしょうか…。

あれほど警告されてきたとは言え、須賀君の周辺に何か変化があったとは聞いていません。
手紙の内容こそ苛烈なものになっているとは言え、手を出す度胸はないのでしょう。
これまでも色々な用事で須賀君を返すのが日が落ちてからになった事は幾度かあるのです。
それでも手を出さなかった犯人が、今日この時だけ手を出すとは考えづらいでしょう。

―― でも…嫌な予感が止まりません…。

それはきっとさっきの須賀君の表情が覚悟を決めたものだったからでしょう。
今までに見たどんな表情よりも真剣で力強いその顔に彼が無茶をするのではないかという心配が止みません。
勿論…そんな事をしないと最初に約束しているのですから私は彼を信じるべきなのでしょう。
ですが…それでもやっぱり去り際の表情が私の胸を埋め尽くし、閉塞感に似た息苦しさを呼び起こすのでした。

―― 早く…早く帰ってきてください…。

そう思う気持ちはつい数時間前とはまったく違うものでした。
勿論、こうして一人でいる状況が寂しいのは変わりません。
ですが、思わず涙を浮かべてしまうそれよりも…私は須賀君の事が心配で仕方がなかったのです。
まるでもう二度と元気な彼に出会えなくなってしまいそうなほどの嫌な予感に私は… ――


―― ブルルルルル
「っ!?」

瞬間、リビングへと響き渡った振動音に私はビクンと身体を跳ねさせました。
そのまま周囲を見渡せば、テーブルの上に置きっぱなしになっていた携帯が震えているのに気づきます。
それに安堵の溜息を漏らしながら、私はそっとそちらに近づいて行きました。
そのまま携帯をパカリと開けば、そこにはメールの着信を知らせる文章があったのです。

―― メール…?ゆーきでしょうか?

普段から元気いっぱいな彼女は、その半面、とても気遣いの出来る子なのです。
一人実家に帰っている今の状況を心苦しく思っていてもおかしくはありません。
そう思いながら携帯を操作すれば、そこには須賀君の名前がありました。

「…良かった…」

思わずそう呟いてしまうのは今この時間、彼が無事であるという事がメールの存在そのものから伝わってきたかったです。
少なくともメールすら打てないような危機的状況ではない。
それに一つ安堵の溜息を吐いてから、私はそっと携帯を操作し、メールを開きました。

―― 手が塞がっていてチャイムが押せない。鍵を開けてくれ。

簡潔で短いその文章に、私の頬は思わず緩んでしまいました。
だって、彼は私の心配をよそに無事に帰ってきてくれたのですから。
あんな思わせぶりな事をしての結果に拗ねるような感情が湧き上がらない訳ではありません。
しかし、それ以上に今の私は嬉しく、そして居ても立ってもいられなくなるのでした。

―― 早く開けてあげないと…!

そうして…私は彼に怒るのです。
忘れ物をした事もそうですし…私をこんなに心配させた事にも一言言わなければいけません。
勿論、それをストレートに伝えるのは恥ずかしいですが、今回ばかりはそんな事を言う余裕はないでしょう。
意地とかそういうものがちっぽけに思えるくらいに、私は彼のことを心配したのですから。
少しはその気持ちを受け止めてくれなくてはフェアじゃないでしょう。

―― そして…おかえりなさいを言ってあげるんです。

帰ってきてくれて有難うって…無事で嬉しいって…そう伝えるんです。
そうすれば彼はきっとはにかみながらも、笑ってくれるでしょう。
申し訳なさと気恥ずかしさを混ぜたその表情は、今の私の心を慰撫してくれるはず。

―― 仕方がありませんし…それでチャラにしてあげます。

私も終わった事をゴチャゴチャと言い続けるような面倒くさいタイプではありません。
それに彼が決してこんな時間に出たくて出た訳ではない事くらい私にだって察する事が出来るのです。
ちゃんと反省の色が見えるんなら…それで終わりにして、お菓子の一つでも作ってあげましょう。
そう思いながら、私は玄関の鍵を開け、勢い良く扉を開けば… ――








「や、やぁ。の、和」









「…えっ?」

扉の前にいたのは須賀君ではありませんでした。
彼の鮮やかな金髪はくすんだ黒毛へと変わり、その身長も10cm近く縮んでいるのですから。
その分、肩幅は広く、また…その…一見して分かるくらいに恰幅の良い体型をしていました。
荒れた肌にはニキビが浮かび、引きつった笑みを浮かべるその唇の間から黄ばんだ歯が見えます。
須賀君とは似ても似つかないその姿に、私は困惑と驚きに身体を固めてしまいました。

「だ、誰ですか…?」

その身体に纏っている制服は、須賀君が着ているものとまったく同じです。
恐らくは目の前の男性も私達と同じ清澄高校に通っている生徒なのでしょう。
しかし、私は彼にまったく見覚えがありませんでした。
少なくとも同じクラスには彼のような人はいなかったはずです。

「ひ、酷いな。の、和の恋人に向かって」
「ひっ…」

そう言ってその男性は私へとずいっと迫って来ました。
汗でベタついた制服のまま近寄るその姿に生理的嫌悪を感じた私は一歩後ろへと後ずさってしまいます。
そして…結果から言えば、それがいけなかったのでしょう。
その隙に…私の恋人を名乗るその男性は、家の中へと踏み込んできたのですから。

「ず、ずっと護ってたんだ。和の事…」
「い…何時から…ですか?」

そんな事はありえません。
だって、私のことを護ってくれていたのは須賀君とゆーきなのですから。
こんな見知らぬ誰かに助けを求めた事はなく、また助けられた記憶もありません。
少なくとも、今、こうしてズケズケと家の中に入り込む彼が私を守ろうとしてくれているとは欠片も思えませんでした。

「それなのにあんな不良に媚を売って…の、和は悪い子だ」
「っ!…須賀君の事を悪く言わないでください!!」

だからこそ、後退りながら紡いだ言葉に、けれど、男性はろくに返事をしません。
その代わりに彼がよこしたのは須賀君を不良とレッテル張りする酷い言葉でした。
確かにあの髪の毛や軽い態度で彼がそう見えるのは否定しがたい事実です。
しかし、だからと言って何も知らない人にそう言われて怒らないほど、今の私は冷静ではないのでしょう。
内心の怯えを怒りへと変えて、きっと無法な侵入者を睨めつけました。

「…和は…あ、アイツに騙されてるんだ。アイツは悪い奴なんだから。だ、だって、アイツは俺の和に近寄ったじゃないか」
「っ…!」

それでもまだその言葉が理路整然としたものであれば、私はまだ冷静さを取り戻す事が出来たでしょう。
しかし、それは妄想と言う事さえ憚られるような思い込みによるものだったのです。
やっぱり…相手は普通の精神状態ではない。
もう既に分かりきっていたはずのそれを再確認しながら、私は再び後退を始めます。

「何回も警告したよね?なのに…和はアイツとドンドン仲良くなって…そんなに俺を嫉妬させたいんだな?」
「…勝手な思い込みは止めてください」
「…思い込み?」

にやついた笑みに相応しいねっとりとした言葉。
それに怖気混じりの不快感を感じた私は思わず突き放すような言葉を放ってしまいました。
本来であれば冷静に相手との距離を取らなければいけないところでの…挑発的な言葉に、理性が失敗を悟ります。
けれど、激情を抱いた心はそれではまったく収まる事がありません。
怒りのままに色々と言ってやりたい気持ちで一杯だったのです。

「俺は…和の記事は全部集めてるんだ!あんな奴よりもずっとずっと和の事を知ってる!」
「ひっ…!」

けれど、それが再び恐怖へと転落したのは、いきなり男性が大声をあげはじめたからです。
部屋中に響き渡るようなそれに私は小さく悲鳴をあげてしまいました。
本当は逃げなければいけないはずなのに…竦んでしまった足に私はさっきの自分が張り子の虎もいい所であった事を悟ります。
けれど、それを理解したところで全ては遅く、激昂した男性は私に向かって荒々しい勢いで近づいてくるのでした。

「そんな俺が一緒に清澄に入学出来たのは運命だろ!!それなのに思い込み!?思い込みだと!!?」
「きゃ…!」

そんな彼から逃げようと強引に足を動かそうとしたのがいけなかったのでしょう。
その勢いに気圧されるようにして私はバランスを崩し、腰を強く打ち付けてしまいました。
その痛さに思わず声をあげる私の前で憎しみさえ、その瞳に浮かばせる男性。
けれど、その視線が私の一部へと向けられた瞬間、その感情がゆっくりと変わっていきました。

「ゴクッ…」
「っ…!」

男性が見ていたのはスカートから覗いた私のショーツなのでしょう。
そう思った瞬間に私の胸を気持ち悪さと羞恥心が埋め尽くし、両腕でスカートを直し、露出した下着を隠しました。
けれど、それでも男性の瞳に浮かんだ…気持ち悪い感情は消える事はありません。
どす黒い…けれど興奮に満ちたそれは、恐らく… ――

「お、お仕置きだ…悪い和には…お仕置きしないと…」
「い、嫌ぁっ!」

瞬間、その感情 ―― 欲情に我慢出来なくなったように男性が私へと近づいてきます。
その手を私の胸に一直線へと伸ばすその姿は生理的嫌悪を超えて恐怖すら感じるものでした。
それに拒絶の言葉を放っても、男性は止まる事はありません。
寧ろ、その言葉に興奮を覚えるようにして、唇の端を吊り上げ、気持ちの悪い笑みを浮かべるのです。

―― 誰か…っ!誰か助けてください…っ!!

今から自分が何をされるかという事は恐怖で強張る思考でもなんとなく理解する事が出来ました。
しかし、だからこそ…私はそれに強い恐怖を感じて、強張らせてしまうのです。
本当は逃げなければいけないのに、助けを呼ばなければいけないのに、気持ちだけが空回りして何も出来ません。
普段であれば簡単に出来るはずの事さえも出来なくなった私に出来るのは心の中で助けを呼び…
そして、現実から逃避するように目を閉じる事だけでした。








「和から離れろ!クソヤロオオオオオオッ!!!!」








「え…っ」
「がっ!」

瞬間、聞こえてきた強い声に私がそう声をあげて目を見開けば、私の視界に金色の何かが横切りました。
それに今にも私に触れそうだった男性がバランスを崩し、後ろへと倒れていきます。
私と同じように尻餅をついたその男性に、似た服を来た誰かが馬乗りになるのが分かりました。

「あ…あぁぁ…っ」

その瞬間、私はそれが誰であるかをようやく理解しました。
いえ…見間違えるはずなんて最初からなかったのです。
だって、それは自分も辛い状況なのに…私を護ってくれている人なのですから。
私をあんなに心配させて…けれど、今、私のピンチに駆けつけてくれたその人の名前は… ――

「須賀…君…」

その人の名前を呼んだ瞬間、私はもう我慢する事が出来ませんでした。
さっきまでの身の毛がよだつような恐怖を一気に安堵へと変える私の目は潤み…涙をこぼすのです。
ポロポロと際限なく漏れだすそれに私は何度も目尻を拭いました。
けれど、誰よりも心強いその彼の姿に…私の涙は止まらず、その視界が歪んでいくのです。

「和!警察だ!警察を呼べ!」
「離っせええええ!!!」

それでも、馬乗りになった須賀君がぐっと男性を抑えこみ、その下で男性が暴れるのが分かります。
その度に須賀君の身体がガクガクと揺れますが、彼は決して男性を離そうとはしません。
その全身でしがみつくようにしながら、私へと必死に叫ぶのです。
それにようやく自分がしなければいけない事を理解した私がポケットから携帯を取り出しました。
けれど、未だ恐怖が残る指先はしっかりとボタンを押す事が出来ず、110という簡単な番号に掛けるだけでも手間取ってしまうのです。

「誰が離すかよ…!さんざん和を怖がらせやがって…!」
「お前が!お前が居たからだ!全部、お前が悪いんだ!」
「ぐ…っ!確かに俺は悪いよ!でも…元凶のテメェには言われたくねぇ!」

その間に男性がのしかかった須賀君を殴りつけ、蹴りつけていました。
それを受け止める度に須賀君の身体が揺れ、口から苦悶の声が漏れるのです。
しかし、それでも彼は強い意思のこもった言葉で男性に言い返していました。
まるで言い返さなければ気が済まないと言うようなそれは男性に日を注ぐ結果になったのでしょう。
その四肢は滅茶苦茶に暴れ、激しい物音を立てるようになりました。

「何でだよ!何で俺が悪いんだよ!俺は和と愛し合ってるんだぞ!!邪魔なのはお前の方だろ!!」
「そういうのは…誰よりも傍にいて護れるようになってから言えよ!!」
「くそおおおおおお!!!!」

須賀君の言葉にさらに激昂した男性がさらに暴れ始めます。
その四肢が床や壁にぶつかるのもお構いなしに暴れるその姿は人と言うよりはいっそケダモノのようでした。
それに怯えを残す身体がびくついてしまいますが、ようやく私も通報が終わる事が出来たのです。
けれど、まるで大きな駄々っ子のように暴れる男性の近くへと近づく勇気は私にはなく、心の中で須賀君を応援する事しか出来ませんでした。

―― 数分後、付近をパトロールしてくれていた警官が男性を取り押さえ、その手に手錠を掛けてくれました。

それでも尚、暴れようとする男性に、しかし、屈強な警官たちは手慣れた様子で連行していきます。
その頃にはうちの前にパトカーが止まり、周りから野次馬めいた人たちが集まってくるのが分かりました。
まったくこちらの事情も知らない無遠慮なその視線に、けれど、私は怒る気力さえもありませんでした。
それよりも私と須賀君が大事であった事の方が嬉しく…そして涙を漏らしてしまうのです。

「え…?」

けれど、そんな私の視界に映ったのは赤色に染まった金色でした。
床に倒れてぐったりとしたまま動かない彼の顔は…まるで血糊でもかぶってしまったように真っ赤だったのです。
滲んだ視界でもはっきりと分かるその色に私は中々、理解が追いつきません。
私がそれを理解したのは…彼が頭を動かさないように担架に載せられて、運ばれていった後でした。

「あ…あぁぁ…!」

冷静に考えれば…どうして須賀君の携帯が、あの男性の手にあったのか考えれば分かる事だったのです。
途中で彼は襲われ…携帯を奪われてしまったのでしょう。
けれど、須賀君は私の危機を感じて…倒れそうな身体を強引に動かしてくれたのです。
結果、警官が男性を取り押さえた瞬間、彼の緊張の糸が途切れてしまったのでしょう。

「須賀君!須賀君!!」
「落ち着いて!大丈夫!大丈夫だから!」

そんな彼に私が何か出来るとは思えません。
けれど、こうして蹲ったままではいけない事だけが良く分かり、彼へと近づきました。
そんな私を宥めてくれていた婦人警官の人が抑えますが、今の私には邪魔でしかありません。
私が本当に辛い時に何もしてくれなかった警察よりも…私の所為で大怪我をしてしまった彼の方が大事なのは極当然の話でしょう。

「頭からの出血は激しいけれど、命に別状は…」
「そんなの…どうして分かるんですか!!」

勿論、こういった荒事のエキスパートである警察の言葉はきっと正しいのでしょう。
ですが、須賀君のあの傷は明らかに頭部に攻撃を受けたが故のものなのです。
レントゲンには映らないような細かいキズでも脳に残れば、後日、脳梗塞が発症して死んでしまうケースも報告されていました。
そうでなくても後遺症が残るかもしれないのに、この場で大丈夫だなんて言い切る事は出来ないでしょう。

「それより事情聴取に協力してくれた方があの子の為にもなるのよ」
「…っ…!」

言い聞かせるような彼女の言葉に感情は強い反発を覚えていました。
こんな土壇場になるまで協力してくれなかった警察の為に、どうして私の所為で傷ついた須賀君から離されなければいけないのか。
八つ当たりにも近いその感情は私の胸から消える事はなく、強い苛立ちを覚えるのです。

「…はい…」

けれど、その一方で彼女の言葉が正しいと理性は理解していました。
ココで私が須賀くんの傍についていても何の訳にも立てません。
それよりは少しでも事件を立件出来るように警察に協力した方が傷ついた彼も報われるでしょう。
そう言い聞かせながら、私はぐっと歯の根に力を込め、救急車で運ばれていく須賀君を見送りました。

「それじゃ…私達も警察に向かいましょう。ここじゃ少し目立ってしまうから」
「…分かりました」

そう促す婦人警官の後に着いて行く頃には私の涙は収まっていました。
もう感情の波が収まったのか、警察に対する不快感がそれを上回ったのか私自身にさえも分かりません。
けれど、今の私は何処か冷えた気持ちで…詰襟の制服を見つめていました。
一体、それが何なのか自分でも分からないまま、私はパトカーへと乗り込み、警察署へと運ばれていったのです。