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「っと、次はあの家か」

 五月。湿度を多分に含んだ早朝の空気は冷たい。
 自転車のペダルに力を込め、郵便受けへと新聞を突っ込む。

「おはよう。きょうたろー」

 照さんの家に居候するに当たって照さんのお母さんから出た条件は三つだった。
 家賃を払う。食費などの生活費を入れる。家事をする。
 定員で寮に入れなかった俺からすれば、その条件は地獄で垂らされた糸のようなものであり、飛びつくしかなかった。

(受かったの記念受験した白糸台だけだったしな……)

 地元の清澄は受験日にトラブルがあり、受験すらできなかったわけであるし。
 そして、実家からある程度の仕送りを貰ってはいるがそれでは家賃や生活費には足りないので高校生でもできるバイトをいくつかやっていた。
 新聞配達はその一つだ。

「よお、淡。おはようさん」

 寝巻を着た金髪の少女が一軒家の前に突っ立っている。
 大星淡。クラスメイトで照さんの部活の後輩だ。
 同じ一年生なのだが既に麻雀部ではレギュラーらしい。
 麻雀についてはよく知らないのでどの程度すごいのかはわからないが、魔物と呼ばれるすごい強い人種の一人らしい。

「きょうたろー。立ち話もなんだし寄って行きなよ」
「バーカ、仕事中だっての」

 親指でくぃくぃと示された自宅へと誘われるが、自転車の籠から取り出した新聞で頭部を軽く叩く。
 額を抑え、身を縮める淡。

「むぅ~。じゃあ、帰りに寄ってきなよ」
「遠回りだし、俺は朝食を作らないとだからな」

 誘ってくれてサンキュな、と気持ちだけ返し、手を振る。
 自転車のペダルに力を入れる。
 ぐん、と足に力を込め次の家を目指す。
 配達場所のチェックされた地図を片手に今日も風を切る。


 俺こと須賀京太郎は白糸台高校に通うピチピチの高校一年生だ。
 故郷長野を離れて東京に来た事にはいろいろと経緯があるものの、特に複雑な理由はない。
 今は宮永母娘の厚意で屋根を貸して貰っている、と言ったところだ。

「よし、できた」

 二人分のホットサンドを作り終え、皿に並べ、冷めるのを待つ。
 ホットサンドの具材はスクランブルエッグや、ポテトサラダ、ベーコン、チーズなどだ。サラダも軽く作っておき小さめの弁当箱に小袋型のドレッシングと一緒に詰めておく。
 その間に洗濯機から洗濯を終えた衣服を出していく。今日はバイトはないし、雨が降る様子もない。帰ってきたときにちょうど取り込めばいいだろう。

(今日も照さんの服混ざってる。最初に下着は自分たちで洗濯って決めたのにな・・・)

 現におばさんも自分の衣類は自分で洗濯などしているし。
 信頼かただのうっかりかはわからないが、諦めた溜息が出る。
 もう今更だ。女物の下着とはいえ、ドキドキするような気分でもない。機械的に素早くベランダに干してしまう。

「きょうちゃん。おはよう」

 そうこうする内に照さんが起きてくる。未だ寝間着だ。
 ちょうど冷めかけたホットサンドをラップで包み、弁当箱に詰める。その後は腐らないように保冷剤と一緒に保冷弁当袋に入れていく。

「おはようございます、照さん。先にシャワー浴びますか? 顔を洗うだけにしておきます?」

 リビングの椅子でぽやん、としてる照さんはしゃわー、と呟くがまだ意識がはっきりしてないらしい。
 時計を見れば余裕は少ない。仕方なく膝を曲げ、彼女の腰に手を当てると首に手を回される。
 そのまま脱衣所にまで運んでいく。

「制服と下着はここに置いて起きますから」
「うん」

 ぼーっとしたままの照さんを見ながら頭をガシガシとかく。

(しゃーないか)
「ほら、腕上げてください」
「うん」

 寝巻のボタンを外し、脱がす。下着をつけて寝る派だからだろう。下に着けていたブラジャーのホックを外し、洗濯籠に入れておく。
 視界に桃色の何かが見えたが気にせずに下も脱がし、風呂場に照さんを連れて行く。
 シャワーのコックを回し、お湯がちょうど良い温度になったことを確かめると軽く彼女にかけてから手に持たせた。

「制服は外に置いて置きますから」
「うん」

 まだボケーっとしているが徐々に意識がはっきりしてきたのだろう。
 うっすらと頬を赤くしている。一応の羞恥心はあるらしい。

「また見られた・・・」
「見られたくないなら次から一人でやってくださいね」

 直後に何か怒ったような言葉を言われた気もするが返事は聞かずに台所へと戻る。
 次は朝食だ。固形のコンソメスープをお湯で溶かす。それにさっきのホットサンドの残りの食パンとポテトサラダを食卓に並べる。
 ハムエッグを作る為にフライパンを火に掛けながら思う。
 照さんに対して情欲を持っていないわけではない。
 現に最初の頃はあの無防備な姿を見て誘われてるのかとも勘違いしかけた。

(だけど。違うんだよなぁ……)

 そんな俺を戸惑わせたのは照さんの目だ。
 無感情と無感動を合わせたような。他人に対して何も感情を持ち合わせていない目。
 きっと彼女は俺に襲われても何も思わないだろう。
 形ばかりの抵抗すらないだろうし、俺を訴え、追い出すこともないだろう。
 しかしきっとこの気安い関係も終わるに違いなかった。
 信頼の花は一度手折れば二度と咲くことはないし、人に慣れかけた子猫に手を挙げればその後は怯えられるだけだ。
 だから今俺の胸を満たしているのは情欲よりも哀れみに近い。
 彼女が歳近い男に肌を見られてもさほど抵抗を示さない。
 そういう人離れした部分に少しの哀れみを感じている。



「てるー。きょうたろー。おはよー」

 照さんと学校に行く途中で淡に会う。

「おはよう。淡」

 淡に挨拶しつつ、文庫本片手に歩く照さんが車道に逸れかけたので肩を掴んで寄せる。

「おっす。淡」
「前見て歩かないと危ないよ。てる」
「うん」

 言いながらもふらふらしている照さんの肩を軽く掴みながら歩く。
 手を握るとページがめくれないため恨みがましい視線が飛ぶからだ。

「俺がいない時はやめてくださいよ」
「うん。京ちゃんがいない時はしてない」
「きょうたろーが来てから駄目人間振りに拍車が掛かったってすみれが言ってたよ。でも頼られてるんだねぇ。きょうたろーは」
「照さんみたいな美人に頼られるなら悪くはねーな」

 人は全自動洗濯機や食器洗い機に情欲を持つだろうか。言いながら湧いてくる虚しさを心の奥に押し込める。

「それよりきょうたろー。今週土日は暇?」
「あー、日曜はチラシ配りのバイトがあるから、土曜ならいいぜ」
「やった! じゃ、渋谷に映画見に行こう。ついでにショッピング」
「いいぜ。じゃ、十時頃に駅前集合な」

 ああ、そうそうと淡は話の延長線上の態度で。

「ついでに付き合ってよ。恋人になろう的な意味で」
「友達的な意味で付き合ってるからいいじゃねぇか。お前俺のこと好きなわけ?」

 ううん、全然。と淡は言い切る。
 そんなことだろうと思いながら、ふらつく照さんの腕に腕を絡める。

「うわー。きょうたろー大胆!」
「肩掴むのだるいわ。腕疲れた」

 照さんは相変わらず文庫本に目を落とし、淡は私も私もと片方の腕にしがみついてくる。

「後ろ。自転車に気をつけろよ。んで、なんで俺と付き合いたいんだお前」
「え、イケメンで主夫力高い彼氏とかポイント高いじゃん。大丈夫、私的にてるなら愛人として認めてあげるよ」
「そーかい・・・」

 疲れた気分で淡を抱き寄せる。淡がいた地点を自転車に乗った男子生徒が通っていく。

「ドキッ、とした。今のは淡ちゃん的にポイント高いよ!」
「そりゃよかった。でも通行の邪魔だから離れてろよ」
「やだもーん。こうすればいいじゃん」

 挑戦的な顔付きで俺を見上げる淡。むにむにと身体を寄せてくるが照れや羞恥は見られない。

「てか別に今好きとか決めなくても付き合ってから決めればいーじゃん。むしろ私的には付き合ってから幻滅するよりグッドだと思うわけです」
「そうかそうか」


 真面目に聞けよー、と煩い淡に生返事を返しながら考える。

(一理はあるが・・・)

 時折奇妙な、まるでままならない世界に怒りを向けるような顔付きを見せる淡は、果たして言うほど俺に興味を持っているのだろうか?

「つか、俺って麻雀できないから。付き合ってもつまらないと思うぜ?」

 は?という顔をする淡は冷えた顔付きで俺を見る。

「きょうたろーが麻雀しないから誘ってるってなんでわからないかな。ねー。照」

 何? という顔で俺達を見る照さん。話を聞いていなかったようだった。俺の身体に更に身体を寄せ、照さんに近づこうとする淡。

「だーかーら、きょうたろーが麻雀しないからイケてるって話だってば」
「何の話かわからないけど。そうだね」

 京ちゃんは麻雀をしない方がいい、と照さんは言った。

「なんで、ですかね」

 特に麻雀に思い入れはないが。仲間外れにされた気分で問う。

「きょうたろーが麻雀やったら私。きょうたろーが強くても弱くてもひえらるきーって言うの?
 それ決めちゃうよ。上とか下とか明確に決まってるのって男女の恋愛的にどうかと思うなぁ。
 それともきょうたろーは――

 ――永遠に私の下にいたいわけ?」

 眼差しの強さに思わず顔を背ければ照さんが眩しいものを見るように俺を見上げていた。

「別に嗜む程度の麻雀は否定しないけど京ちゃんには麻雀に入れ込まないで欲しい」
「どういう意味ですかそれ」

 どういう意味も何も、と照さんは常の無感動な目をして。

「京ちゃんがたくさん持っている素晴らしいものを削ぎ落とさないといけないから」

 だから、そんなつまらないことをしないでと彼女は告げる。
 才能がない、とは二人とも言わない。
 淡は対等な関係でなくなるから。
 照さんは、彼女は、麻雀を呪われたものであるかのように言う。

「照さん。貴女は麻雀が嫌いなんですか?」
「私にとって麻雀は好きとか嫌いじゃなくて――」

 そこで遠くから予鈴が聞こえ、言葉が止まる。

「急ごう。遅刻しちゃう」

 続きを聞く空気ではなくなり、俺達は遠目に見えている白糸台高校の門へと小走りで向かうのだった。

 ――好きとか嫌いとか関係ない。私には麻雀しかない。

 だから、手を引かれながら彼女が小さく呟いたそれが俺の耳に届くことはなく。

「照さん。何か言いましたか?」
「京ちゃん、おぶって」
「あ、私も私もー!」
「あんたら自分で走れよ!」

 そんな慌ただしい朝を迎えながら、ふと思う。

(咲ならなんて言っただろうか)

 長野にいた幼なじみを思い出す。
 彼女が麻雀をできるとは思わないけれど。
 あのぽやぽやとした文学少女ならきっとこの二人とは違うこと言ってくれただろうと。
 そう夢想するのだ。
 それで何が変わるわけではないけれど……。


 カン