羊の憂鬱

鞄に手を入れた瞬間、指先に鋭い痛みを感じて、反射的に腕を引っ込める。
人差し指の先がすっぱりと切れて、そこからはたらりと血が流れていた。
今度は注意しながら、鞄の中を覗いてみる。
ご丁寧にも目立たないよう、黒く塗られた剃刀が、きらりと底で光っていた。

くすくすと笑う声が聞こえる。侮蔑と嘲笑が入り混じった笑い。
誰なのかは分からなかったし、知る必要も無かったから振り返る事はない。
だけど、それが私に向けられたものだってことだけは確かだった。

ポケットから絆創膏を取り出して、指先に貼り付けた。
もう残り少なくなったから、そろそろ新しいのを買わなくちゃ。
そんなことを、ぼんやりと考えながら眺める手には、三枚の絆創膏が貼られている。


『お前の人生に意味は無い』

声がした。もう聞き慣れた、私だけに聞こえる声、兄さんの声が。


授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
もうすぐ入学から一年近くとあって、生徒ももう慣れたものだ。
教科書を取り出して、予め今日使う予定の頁を開いている。
その中で、私だけは別の頁を開いている。
生徒によっては入学前に使えるようになっててもおかしくない、初歩中の初歩。
ただちょっとした音を鳴らすだけの、基本的な魔法───私はそれも、満足に使う事は出来なかった。

授業が始まって、先生がやってくる。そして皆に課題を与えていく。水を氷に変える魔法。
中でも優秀な生徒は開始早々に先生に自分の魔法を見せて、合格を貰っていく。
そしたら後は自由時間だ。大抵の場合、次の授業の予習をしたり、授業とは関係なく使いたい魔法の練習をしている。
中には授業時間中に完了しない生徒もいる。氷の混ざった水だったり、冷えた水だったり。
そんな彼らも授業後に復習したり、先生の助言を受けると大抵は上手くいく。
内包する魔力の属性によって向き・不向きはあるらしいけど、一年生が学ぶ魔法はその程度の代物だ。

私は出来ない。今日も私の掌から放たれた魔力は、何の音もしないまま、すぐに空に霧散していく。

『───魔力の量に異常はない。恐らく、変換効率の問題だろう』

最初の授業から一か月頃。明らかに他に置いて行かれる私のことを見かねた魔法学の先生はそう言った。
曰く、他の魔法使いなら強力な火の玉を放つほどのマナを消費して、私はやっと火花を一瞬散らせる程度だそうだ。

『訓練次第で効率は良くなるし、まだ一年生だ。あまり気にしない方がいい』

先生はそう言ったけど、どれだけ繰り返してもその効率とやらが良くなる気配は少しも無くて。
やがて他の生徒たちも私の能力に気づいてくると、私の立ち位置は概ね決まった。

一冊目の教科書がずたずたに切り裂かれてゴミ箱から見つかったのは、入学から半年経った辺りだ。

「間違えて焼却炉に落としちゃいました」

正直、無理のある言い訳だと自分でも思った。
実際、先生も少し不審そうな表情だったけど、どうにか新しい教科書を手に入れることは出来た。
それ以来、大事なものは自室の箱にカギをつけて入れておくか、肌身離さず持ち歩くようにしている。
今日は油断して少し離れてしまったけど……幸い、剃刀を鞄に入れられるだけで済んだらしい。


『お前の人生に意味は無い』

そんなこと、わかってるよ。




一日の授業が終われば、出来るだけ目立たないよう、素早く寮に戻る。
実のところ、私にちょっかいをかけてくる生徒はそんな多い訳でもない。
わざわざ魔法を学びに来るだけあって向上心の塊みたいな生徒が多いらしく、
劣等生に構ってる暇はないというのが実情なんだろうけれど、それでも私には有難いことだ。

「よう、マナ無し。随分急いでどこ行くんだよ」

───当然、皆が皆、そういう訳では無い。
“一部の生徒”の一人に見つかると、人目が無いエリアに連れてこられた。
逃げようとすれば、その日はもっと酷いことになる。
経験則からそれを学んだから、こうなったら少しでも相手の機嫌がいいことを祈るしかなかった。

「お前みたいな奴がいると、学園の品格が落ちるんだ」

その日はそんな言葉と共に、地面に突き飛ばされて始まった。

「辞めろよ。どうせ、これからだって魔法の一つも覚えられやしないんだから」

周りでは他に五人の生徒が、にたにた笑いながら男子生徒の言葉に頷いていた。

「それに、もしも万一にも。妙な魔法を覚えやがったら───」

髪を掴まれて、無理矢理立ち上がらせられた。

「───何人殺すか分かったもんじゃねえもんな? 穢れた血を継いだ奴は」

そのまま、お腹を膝で蹴り上げられた。こほっ、と肺から空気が漏れて、一瞬呼吸が止まる。
再び地面に倒れこんだら、後はいつも通りだ。
他の生徒も加わって、しばらくの間、ボールみたいに蹴られ続けた。



そっと寮の扉を開く。誰もいませんように、と願いながら。
……幸いなことに、声は奥の談話室から聞こえた。
ゲームか何かで盛り上がっているのか、蝶番が立てた小さな音は誰にも気づかれなかったらしい。

ノーブルソードの先輩たちは、私の事情を知っても気にすることなく接してくれてる。
同級生たちも遊びや勉強に誘ってくれてるし、教師に相談しよう、なんてアドバイスもしてくれた。

───それが、私には苦しかった。

「なんでもないよ、怪我も転んだだけだし。私、ドジだからさ」

必死で表情を作りながら、なんでもない、なんでもないと繰り返すのが惨めで。
優しいから、唯一の居場所だから、それが壊れるのが怖かった。

こっそり部屋に戻ると、明かりはつけずに自分のベッドに倒れこむ。
窓の外からは、トゥーン・ドッジの練習をする生徒たちの掛け声が聞こえてくる。
公式試合が近いらしいから、ベンチ入りしている同室の先輩たちは、多分遅くまで帰ってこないだろう。

耳を塞いで、目を閉じた。

何も聞こえない。何も見えない。───少しの間だけ、私は一人きりになれた。



『お前の人生に意味は無い』

だけどその声が、私を微睡みから強引に引き戻していく。


『おまえののぞみに、ひつようなものはなんだ?』
組み分けの儀式で、アト・ランダムが私に問いかけた言葉を思い出す。
あの時、私は考えて、考えて。ようやく答えを導き出した。

「──意味が、欲しい」

アトは何も言わずに、にやにや笑いを崩さずに頷いた。

『なら、おまえはノーブルソードだ。そのけつい、わすれるな』

心を映す魔法の鏡。それが本当なら、或いはあれもただの嘲笑で、ただの皮肉だったのかもしれない。


『お前の人生に意味は無い』


ずきん、ずきんと頭が痛む。脳の奥、記憶の底から聞こえる兄の声。
そこから逃げたくて、私はあの時に言えなかったこと、本当の願いを口に出す。
鏡の幻想種は、それに気づいてたんだろうか?

「───こんな世界、無くなってしまえばいい」

絶対に叶わない呪詛、絶対にそうはならない願い。
吐き出せばもっと惨めで、もっと苦しくて。アト・ランダムのにやにや笑いを忘れたくて、私は布団に包まった。

その間だけは、こんな世界にいなくてもいいように。

この瞬間だけは、本当に一人でいられるように。




『お前の人生に意味は無い』

それが兄の口癖だった。

『お前だけじゃない。父さんにも母さんにも、俺自身にも。誰の人生にも意味はない。ただそこにあるだけだ』

兄さんは私の頬に手を当てると、微笑みながら私を見つめていた。

『だから、自分で見つけるんだ。一生をかけることのできる目的を。俺は意味を見つけたと胸を張って言う為に、為すべきことを見つけるんだ』

そう言って、魔法使いとしての道に進んだ兄さん。
多くの違法使いを捕縛・討伐して、一族の誇りだった兄さん。

だからこの問いだけは、何度繰り返したって答えは見つからなかった。

「どうして、兄さんは王国を裏切ったの?」



マナ無し、無能使い、なまくらの剣。
───そして、違法使いの妹。

エリアス・プレッツェルが、鬼気迫る表情で魔法理論に打ち込み始める、一年前の冬の日の話。

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最終更新:2018年12月26日 21:31