宮部継潤
レベル
55:7体
職業
僧
合戦陣配置
浅井家・中後詰主将
戦闘開始時台詞
構成
浅井精兵 | 一刀侍 | 50 | 一所懸命、霧散霧消、沈黙の霧・壱、全体看破・弐、蘇生・壱 | |
甲賀中忍 | 一刀忍 | 50 | 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、五連撃、土遁の術・極、水遁の術・極 | |
殿原衆精鋭 | 懐剣陰 | 50 | 光芒・華、呪縛・参、結界・参 | |
竹生島神官 | 宝剣神主 | 50 | 神風、神雷、詠唱の韻・極、神の加護・参 | |
国友上級鍛治 | 鉄砲鍛 | 50 | 三段撃ち、陽動 | |
伊吹山山伏 | 懐剣薬 | 50 | 防御呪霧・参、防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 |
特徴・詳細
部隊アイテム
ドロップアイテム
武将列伝
土肥氏、孫八、善祥坊、中務卿法印。
近江浅井郡宮部の出身で、もとは比叡山の僧侶という。近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えた。
武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍したが、元亀2年(1571)10月頃に、横山城の秀吉の誘いにより織田家に降った。 そのまま、対浅井氏の最前線となった宮部に入れ置かれ、浅井氏滅亡後には秀吉の与力となる。秀吉が播磨に入国するとこれに従い、但馬方面の征服戦に従軍。但馬二方郡を領地として豊岡城に置かれる。その後は秀吉の弟である秀長の指揮下に入って山陰方面を担当。天正9年(1581)10月に鳥取城が陥落すると、城主として入城した。
本能寺の変後はしばらく毛利氏の押さえとして鳥取城に在住したが、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では、兵2500を動員した。その後に中務卿法印(中務省長官)に叙任されて、九州征伐の陣立書には「四千 宮部中務法印」と登録されている。天正17年(1589)時点で5万970石であろう。文禄2年(1593)には8万1000石であった。 豊臣政権下では重用されており、晩年は五大老に次ぐという地位にいた。
文禄5年(1596)、高齢を理由に子・長房に家督を譲って隠居した。