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北条家

成田長泰 (ナリタナガヤス)

レベル

50-7

合戦配置

敵陣左翼後詰

構成

名前 種類 レベル 初期付与 使用技
成田長泰 陰陽 50 全体麻痺
北条豪勇侍 45 一所懸命、N連撃改、蘇生・壱
相模鍛冶 鉄砲鍛冶 45
箱根山山伏 薬師 45 完全回復蘇生・壱
箱根山神官 神主 45 結界 詠唱の韻・極
乱破中忍 忍者 45 N連撃、瞬殺閃
早雲寺番僧 45 仁王立ち

特徴詳細

ドロップアイテム

列伝

下総守。成田親泰の子。生年は不明だが有力なものに1508年の説と1493年の説があり、大きな開きがあるが、没年も同様に非常に開きがある。

成田氏は藤原道長の子孫である藤原任隆が武蔵国幡羅郡に移り、その子である助広が成田太郎を称したという説があるが、藤原行成の次男である、忠基が武蔵守となり下向、武蔵国騎西に土着したのち、成田と名乗ったという説もある。
武蔵七党の横山資孝の子孫が成田を名乗ったという説もあり、どうもこの説が最有力である(成田系図という資料による)。しかしそれでも相違点があり、実際には不明とするしかない。ただし家自体は鎌倉時代後期にはすでに出現している。
武蔵国北部の名跡であり、上城を本拠地としていた。山内、扇谷両上杉家と古河公方足利氏の抗争の場であった当地にあって、鎌倉以前の名跡である忍氏や、武蔵に勢力を持っていた児玉氏を滅ぼし、忍氏の居城であった忍城を奪い取って改修後に本拠地にした。親泰の代のことである。

1522年、家督を譲られ成田当主となる(一説には1524年。ただしこちらよりも前者が有力ではある)。
その後関東では北条氏が台頭する。長泰は父の代には山内上杉方として対北条にも参加したが、川越夜戦ではすでに北条方についていた。ただしこのときはあくまで同盟に近く、臣従ではない。

その後も両者は良好な関係を維持していたようであるが1560年、山内上杉家に上杉姓を譲られた上杉謙信が関東に出兵、北武蔵にあった領主はかなりの数が上杉に流れるが、長泰も同様に上杉に流れた。
このとき氏康は「長年の恩を忘れ、血判の誓いを無視し、反逆を企てるとは何事か」という旨の感想をもらし、怒りをあらわにしている。この際の小田原城包囲にも長泰は従軍しており、明らかに上杉方として動いている。

しかし上杉が小田原より撤退すると即座に謙信から離反、再び北条家に戻る。
これの理由は不明であるが一説によると

上杉謙信が関東出兵のさい、鎌倉にある八幡宮に参拝した。いわゆる関東管領就任式であるが、そのさい他の武将が下馬していたにもかかわらず、長泰はひとり下馬しなかったために、無礼である、と謙信の怒りを買い、顔を打ち付けられ、烏帽子を落とされた、という話である。

武家とは家系、そして面子を非常に重んじる。もしこの逸話が本当であれば、長泰の怒りは尋常なものではなかったであろうことは想像に難くない。実際に即座に兵を引き上げ、居城に帰還している。
なお、このときなぜ下馬しなかったかというと、先述したように成田家は藤原氏の支流である(本当かどうかはここではおく)。かの有名な源義家(八幡太郎義家)に対しても下馬せずに挨拶をしても許されたという名門であったという。
つまりあの義家に対しても下馬しなかった成田家が、謙信ごときに、という意思があったのであろう。
ただし、これは同等の格式(もしくはそれ以上の格式)をもつ他家でも行ってはおらず、長泰本人が図々しい性格であったため、とする人も多い。

この一件のせいで長泰は上杉と敵対、領地を攻められた上、居城の目の前に砦を築かれるなどつらい立場に立たされたが、何とかしのぎきっている。
その後、家督相続で子の氏長と対立、一時期は城から追放されるも、北条家の介入を嫌ったため自身が隠居、出家し、氏長に家督を継がせるという妥協をしている。

その後成田家は長く上杉よりの姿勢をとるが、相越同盟締結後は北条氏に属することになる。

長泰は1573年に没したとされているが定かではない。1586年まで生きたという説、1571年没という説など、非常にあいまいである

成田長泰は他国衆に列せられ相模中郡大島郷83貫800文を知行していた。しかし彼の本当の力は忍城を中心とした本拠地であり、その知行量は(最盛期には)60000貫(石高に無理やり直すと3万石程度)。貫高制のため半独立の長秦とはそもそも比べられないのであるが、北条家の家臣で最高の知行量は北条幻庵の5000貫であり、長泰が北条家中においていかに異色の存在であったかは、その経歴からもわかるであろう。

その他情報

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