大道寺政繁
レベル
60:7体
職業
神主
合戦陣配置
北条家・小荷駄隊守将
戦闘開始時台詞
構成
名前 | 職種 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
大道寺政繁 | 弓神主 | 60 | ▲ | |
北条豪勇侍 | 侍 | 55 | ||
乱波精鋭 | 忍者 | 55 | ||
大道寺直次 | 陰陽 | 55 | ||
大道寺直繁 | 薬師 | 55 | ||
相模鍛冶 | 鉄砲鍛冶屋 | 55 | ||
早雲寺番僧 | 僧 | 55 |
特徴・詳細
部隊アイテム
ドロップアイテム
武将列伝
大道寺資親の子と思われるが、大道寺周勝の子という説もある。大道寺盛昌の子という説もあるがこれは誤りか。孫九郎、駿河守。政重。1533年生まれの説があるがはっきりとはしない。
大道寺家は伊勢宗瑞の従兄弟とされる大道寺発専(太郎)を祖とする説と、藤原信西を祖として子孫が山城国大道寺に住み着いたのを発祥とする説、山城国宇治田原郷の出自という説があるが、一つめが最有力のようである。
大道寺発専は宗瑞とともに出世を目指し、伊豆進攻以前(1493年以前)の信憑性の高い記録でのこっている家臣で最も古いのはほかに宗瑞の弟・弥次郎のみであり、北条家最古参の家臣である。(ほかにも駿河下向に従ったという家は多いものの、その出所は軍記類であり、信憑性にやや欠ける)
なお、家系は盛昌−周勝−資親−政繁と続くのが正しいのかと思われる。盛昌−周勝−政繁という説もある。
政繁が大道寺盛昌の子となると、時間的なずれが起こる。前述したように盛昌の父・発専は宗瑞とともに出世を目指したというのが正しければ、宗瑞とほぼ同年齢と思われ、宗瑞は1432年生まれと言われているため、発専の子である盛昌は、1533年にはかなりの高齢であっても不思議ではない。なお、信長の野望では盛昌を1493年生まれとしているが、まったく確証はない上に疑問が残る。
盛昌は北条氏綱の子である為昌(1519年頃生まれ)の烏帽子親となっていることからも、この説が疑問視される(烏帽子親にはそれなりの年長者が付くはずであるので信長の野望の生年をとってしまうと少々おかしい)。
さらには、後述する鎌倉代官引継ぎの時期を考えると、この説はなお怪しい。そのためここでは父は周勝または資親であると考えるのが自然ではないだろうか?
政繁は父の後を受けて1570年に鎌倉代官に就任し、寺社の管理などを行った。また1573年には並列して武蔵川越城代ともなり城下の差配を行っている。
その後、松井田城主に任ぜられる。松井田城は上野と信濃の国境にある要衝であり、ここの城主に任ぜられていることからも政繁の北条家での地位が高かったことが伺われる。
政繁の代において大道寺家の知行高は約1212貫であり、北条家屈指の大禄である。
政治的な働き以外にも、合戦でも功をあげており、北条家の主要な合戦にはほとんど参加している。1582年には本能寺の変の混乱に乗じて北条家が落とした小諸城の城代に任命されている。このときは徳川との和睦が成立したこともあり、小諸城を退城している。
1590年の小田原征討では松井田城に籠城するものちに開城、豊臣方の北国勢に加わり、北条家の忍城攻撃の先方を務めるも、そのあまりに早い鞍替えが災いして、北条家滅亡後の同年7月、秀吉に不忠を責められて切腹を命じられる。
大道寺家は北条家の重臣のなかの重臣であるが、系譜などがいまひとつはっきりとしない。滅亡時の資料の散逸、混乱が原因であると思われる。