池田勝正
レベル
60:7体
職業
侍
配置
本陣四天王
戦闘開始時セリフ
○○○○?
甘く見て後悔するのは
わしのほうか。いくぞ!
構成
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 特殊技能 |
---|---|---|---|---|
池田勝正 | 槍侍 | 60 | ▲ | 蘇生・壱、n連撃・改 |
池田知正 | 僧 | 55 | 結界 | 蘇生・壱、後光 |
水破の精鋭 | 忍者 | 55 | 蘇生・壱、奪命n連、神力両断・改、各種遁 | |
足利上級陰陽 | 陰陽師 | 55 | 結界 | |
八坂巫女精鋭 | 懐剣巫女 | 55 | 反射 | 詠唱の韻・極 |
京鍛冶衆 | 鉄砲鍛冶屋 | 55 | ||
鞍馬山伏 | 薬師 | 55 | 再生 | 蘇生・壱 |
ドロップアイテム
特徴
- ▲ の消えた1の三連改で冥護なし薬師に2400程度
- 3の奪命三連で神職に1500〜
- 2の気合撃で後衛に1000〜
- 3が暴れなければ割と楽。試験用か。
列伝
池田長正の嫡男とされる(養子説あり)。筑後守。生年は不明だが1530年ごろと考えられている。
池田家は古くは景行天皇の後裔が池田村に在してから池田を名乗ったとされている。紀元が始まってからそう遠くない西暦3桁の時代である。
ただし、景行天皇は在位140年間(紀元前13年〜紀元130年)の天皇であり、神話の世界の人物。実在は非常に疑問視されており、現在の学説では架空とされている。かのヤマトタケルの父親である。
この天皇家説は信頼できず(紀元前の出などもともと信頼できるものではないが)、古代豪族であると考えられている。
平安期に入るとこの地は摂関家の領地となるが、池田氏は美濃にうつり、この地の名前が池田となる。
さらに源氏が台頭すると婚姻によりこの一門となり、源氏から養子をもらって跡目を継がせた。さらに室町初期には楠木正成の遺児が跡目を継いだために橘氏に入る。
つまり、古代豪族(出自はもちろん不明。逆に出自の源流となる家である)から清和源氏、その後橘氏になったりなど、血縁がめまぐるしく変わる。しかし血脈はかなりはっきりしているほうで、大和政権初期より出る名家であると考えられる。
なお、織田家にある池田恒興とはまた別の家系であると考えられている(根本が同じという可能性はある)
ちなみに、数度にわたり養子を取り血縁が入れ替わっているため、この勝正も養子ではないかという説がある。
池田家は室町時代初期には一国人のままであったが、守護大名に匹敵するほどの経済基盤を発達させており、応仁の乱にも参加、その経済基盤を生かして激動の機内を生き延びて戦国に至る。名目上は細川家についていたが、実質的には独立勢力である。
父の代に三好長慶が台頭、その後は三好家と動きを共にするとともに自らの家の拡大も行う。1562年には松永久秀とともに三好救出に赴いた記録がある。父長正の代である。なお、このときもあくまで三好家の家臣というよりは盟友的なものであったと推測される。
翌年に父が没すると勝正は家督を継ぐ。
1564年に長慶が没すると三好三人衆と松永勢との抗争が始まり、勝正は三人衆側につき松永勢と戦を開始する。
しかし1568年、畿内に織田信長が上洛、状況は一変する。ほとんどの国人はあっという間に信長に降るが、勝正は居城である池田城に籠り、ある程度の抵抗を示す。しかし後に降伏し、所領を安堵されただけではなく加増され、和田惟政、伊丹親興とともに摂津の守護を任される。その後は信長の下で各地を転戦する。
しかし1570年、池田家で内紛が発生する。弟の池田知正が主導したとされているが、理由がいまひとつ不明の内紛である。このときの原因は三好三人衆の動向が影響したという説が強く、その後の動向からしてもこの理由は合点がいく。しかし、確定説ではないし、第一これまでの勝正の治世で問題点は浮かばない。しかしこの内乱には荒木村重、中川清秀といった池田家重臣も知正方についたとされており、かなりの家臣が弟についたようであるが・・・なぜこうなったかが不明である。この内紛により彼は追放、家督は一時期子である直正が継いだが、すぐに追放、弟の知正が継いだとされる。
その後どういった経緯で逃げ延びたかは不明であるが、1571年、三好三人衆との戦いの折、信長勢として摂津に戻り原田城に入る。
しかし1573年、信長は荒木村重に摂津守を送り摂津守護を任せる。このとき勝正は以前よりついていた信長側から離れて将軍家側について信長と敵対するが、荒木村重に攻められて居城は落城、高野山に追放され、1578年に没したといわれている。ただしこの最期に関しては諸説ある。
ひとつは荒木との戦で討ち死に。
もうひとつは細川藤孝、ついで有馬則頼に仕えたと言う説。
さらには70年の内紛の際に村重に殺されたという説まである(これはその後の彼の足跡があるため信憑性は薄い)。
さらに突拍した説としては伝を頼って逃げて九州にたどり着いたとまでいわれており、最期は定かではない。彼の場合は資料の散逸というよりも、資料を残すものがいなかったための混乱と考えられる。
池田勝正の治世中、摂津は三好三人衆の畿内側における拠点でもあり、また勢力の興亡が激しい土地であった。
そこを長らく収めることができた勝正の手腕はある程度評価できるが、内紛を起こしてしまった。原因が不明のため彼のせいかは不明だが、もしかしたら伝わっていない面で彼の治世に問題があったのかもしれない。
ただ、彼の動向は最期を除いて織田家に追従しており、それを嫌った三好三人衆が仕掛けたものかもしれない。ただし、こうなると荒木も信長に近く、そうなれば三好方の弟につく理由がなくなるし、第1追放しなければならないほど勝正の治世がまずかったという資料はない。
どちらにしても理由不明なのは確かで、新たな資料がでるのを待つしかないだろう。