北条綱成
レベル
55:7体
職業
侍
合戦陣配置
北条家・中翼後詰主将
戦闘開始時台詞
構成
名前 | 職種 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
北条綱成 | 二刀侍 | 55 | 地黄八幡の護? | |
早雲寺高僧 | 僧 | 50 | ||
乱波中忍 | 忍者 | 50 | ||
伊豆衆精鋭 | 陰陽 | 50 | ||
箱根山神官 | 神主 | 50 | ||
相模鍛冶 | 鉄砲鍛 | 50 | ||
箱根山山伏 | 薬師 | 50 |
特徴・詳細
部隊アイテム
ドロップアイテム
武将列伝
1515年生。福島正成の子。孫九郎。左衛門佐、左衛門太夫、上総介。
1536年に父・福島正成が今川義元の策略により武田勢に討たれると北条家に身を寄せる。
しかし、この時期には異説があり、1521年に福島正成が原友胤に討たれ戦死し、そのときに堀内氏の助けで北条家に身を寄せたという説である。
この二説の時期には実に15年もの開きがある。なぜこのような資料の食い違いが生じたのであろうか?
これは考えられることはいくつかあるが、ひとつは福島正成が二人いるという可能性である。当時の名前の習慣として名前は忌名としており、普通は使わないで通名と呼ばれるものを使う。。
有名な例を挙げると織田信長である。彼は姓を織田、名を信長、通名を上総介としている。つまり署名するときは織田上総介と書くことも多く、郎党が名乗る場合も「織田の上総の〜」といった具合である。
つまり、福島正成の場合は通名を左衛門太夫、つまり福島左衛門太夫と署名することが多く、福島正成と署名することは少ないのである。また、一族で同じ通名を使用している場合が多分に多く(これは多くに見られる風習である)、綱成も同じ通名を名乗っている。こう考えていくと、さて彼の父親はどちらなのであろうか?
まず21年説であるが、討たれたのは福島某と表記されており、正成とは特定されていない。このためこちらの説は否定的な意見が多い。
次に36年説であるが、これをとると北条家へ逃れた後の動向に不可解な点が現れる。なぜならば、彼は後述するように当時の北条家当主の子である北条為昌の後見人となっており、仕え始めてからわずか数年の人物に(さらには今川氏にとって謀反人の子であることも忘れてはならない)、自身の第三子の後見人など勤めさせ、さらには養子にまでするだろうか?
しかしこれが仕えたのが子供のころならば話が通る。
こう考えると、綱成が北条家に身を寄せたのは、幼少のころ、つまり、現在否定的である21年説をとったほうが自然ではないだろうか?
さて、考証はこのくらいで彼の列伝に移ろう。
21年説によると幼少に北条家に逃れた彼は、氏綱に教育を受け、成長した後は氏綱の信頼を得、ついには北条為昌の後見人となるとともに氏綱は彼に娘を娶らす。ここからは両説ともに一致している。
1543年に北条為昌が23歳で病死すると、その後をついで玉縄城主となる。このころに姓を福島から北条に改める。
彼の名を高めたのは川越夜戦であろう。当時川越城に守将として滞在していた彼はわずか数千の兵で7万とも言われた敵の包囲から城を守ったことである。
また、北条家の多くの戦に参戦し、その武勇を誇っている。
氏康の死後、彼は子北条氏繁に家督を譲り出家し道感と名乗る。
しかし氏繁は彼に先立ち早世してしまい、家督はその子に譲られることとなる。
綱成はその約10年後、1587年、73歳でこの世を去った。
八幡大菩薩を深く信仰し毎月15日には身を清め、戦のときは五色備えの黄を率い朽葉色に染めた四半の練絹に「八幡」と墨で書いた旗を掲げ、勝った勝ったと叫んで切り込んだ。その姿は「地黄八幡」と呼ばれ敵からは恐れられ、味方の士気を高めた。
まさに後北条の家臣団の中で最高の武勇の誉れであろう。