「ふう……」

酒に強い方とはいえ、かなりの量を飲んだ頭にはだいぶアルコールが回ってきた。カウンターに肘をつき、額に手を当てる。

「神戸さん、どうして連絡くれなかったんですかぁ」

隣にいるのは、今夜の独り酒の原因である。
“忘れるはず”だった人に、よりによって現場で遭遇する羽目になるとは、自分もよくよくついてない男だ、と神戸は胸の内で天を仰いだ。
話を聞いてみると大学の同窓会の帰りとかで、立派に“空気酔い”している。
店に入ってきた折に呑んでいる所を発見されて小一時間、ここ一ヶ月の不実を店内の迷惑にならないボリュームの声量で責められ続けている。アルコールを実際に摂取していないにもかかわらずそのテンションはまるで酔いが回っているようだ。器用な女性だと思う。

「ここ一ヶ月、連絡をしなかったのは貴女も同じじゃないですか」
「神戸さんのお仕事は不規則ですから、連絡がしづらいんですよぉ」

確かに一理あった。
神戸はまたグラスのワインを呷って、細い溜め息をつく。ふう。

「お客さん、もうそれ以上はいけませんよ」
「そうですよー、呑み過ぎですよっ」

神戸の呑むペースを見咎めた店の主人は、静かに客を咎めた。
すかさずそれに便乗して、隣からよろけた声にも咎められる。

「あと、一杯だけお願いします」

やれやれ、と主人は肩を竦めて、彼のボトルからグラスに酒を注いだ。
それでも丁寧な手つきで、カウンター越しに神戸の手元に置く。

「駄目ですってば!」

声を荒らげた招かざる客の手によって、神戸が手を伸ばした先にあったグラスが奪われる。
ごくん、とアルコールが喉を通った音が神戸の耳に響いた。

「あ」

つい、声が出た。
酔うことが目的だったので、もちろん、いつぞやに彼女へ薦めた酒よりうんと度数が強いものである。
空になったグラスを握る女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「ちょ、何やってるんですかっ」
「だって、かんべさんが……」

弁解のようなものを口にしているうちから、身体がふらついていくのがありありと見て取れる。
慌てて脇の下へ腕を差し入れて肩を抱えると、ぐにゃりと柔らかい重さがかかった。

「ああ、もう。マスター、ご迷惑おかけしました。ほら、行きますよ」
「ううー」
「今度は、ちゃんとお酒を楽しみに来てくださいね」

おそらく自分の呑む目的を、入店時からお見通しだったであろう主人からの苦言に、すみませんとつぶやいて、
神戸はドアベルを鳴らして外へ出た。
 
予期せぬ供を肩に抱えながら、ネオンに照らされた夜道を歩む。冷えた風が首を撫でていき、つい肩をすくめた。
 かんべさん、かんべさん。
呂律の廻らない声で肩から彼を責めていた声が、ふと止んだ。
どうしたのかと隣を見ると、供の赤かった顔色がすっかり青くなっていた。
 
「ふみ子さん?」
「……き、もちわる、い」
「考え無しに一気呑みなんかするからです」
 
その原因を拱いた自分のことはとりあえず棚に上げ、神戸は出来の悪い生徒を叱る教師のような声を上げた。
 
「う」
 
吐き気を覚えたのか、彼女が口元に手をあてる。
慌ててその上からさらに手を宛がったが、堪えきれなかった温い胃液が指の合間から滴ってきた。
急いで周囲を見渡したが、身体を休めることができそうな場所はなかった。
ご休憩、とネオンで彩られた看板を掲げている店の他には。
 
「……っ」
 
不可抗力だ、と心の中で叫んで、奇妙に狭い入口を足早に潜った。
 
 
滴り落ちた胃液で汚れてしまったスーツは脱いでしまった。
シャツの袖を捲り上げて、部屋に備え付けられている洗面台でばしゃばしゃと手を洗う。
こんな所のベッドの隣に備わっている洗面台なんて、用途の程が知れるというものだ。
ここ数刻の看護からくる怠さのなかで、くだらないことを考える。

「かんべさぁん」
「はいはい、何ですか」
 
備え付けのタオルで濡れた腕を拭きながら、声の主が転がっているベッドの端に腰掛ける。
用済みのタオルを投げ出して、携帯端末から、所用の為に明日は遅く出勤するという旨の簡単なメールを上司に送信した。
自分もだいぶ呑んでしまい、まだ酔いが抜けていないし、この不本意な同行者の看護は恐らくまだ続けなければいけないだろうと踏んでのことだ。

「なんでれんらく、くれなかったんですかぁ」
「……またそれですか」
「わたしが、なにか、したんですかぁ」
 
吐いて、水を飲んで、横になって、気分が落ち着いたらしい。
振り返ると、スーツを汚した犯人の顔色は、青から薄い赤にまた色を変えていた。
酔っているわけではなさそうだが、まだ興奮しているらしい。
 
「何も、してませんよ」
 
また彼女に背を向け直して、不自然なことは、と心の中で続ける。
妙齢の女性に“いいひと”がいないと決めてかかる方がおかしかったのだ。
パーティ会場で見た、彼女と男の映像が瞼の裏で再生される。今日何十回目とも知れぬ溜め息がふぅ、と漏れた。
 
「じゃあさぁ、なんでさぁ、さけるん、ですかぁ」
 
どす、と背中に重みがかかる。耳元に湿った温もりを感じ、視界がぐらんと揺れた。
揺れる視界に浮かぶ、会場でみた彼女の笑顔。男と笑う彼女。
また、零れる溜め息。
 
「何でもないですってば」
「まえまで、あんなに、おさそいして、くれたじゃないですかぁ」

答になっていない神戸の台詞に気付いてか気付いてないのか、麻木は神戸を呂律の廻らない口で責めつづける。
文節ごとに、ゆらゆらと神戸の視界が揺れた。肩を捕まれて、がくんがくんと遠慮無く揺さぶられる。
 
「その時はその時、ですよ」
 
いなすように言葉を繋げながら、神戸の胸の底に言い知れぬ苛立ちが沸き上がっていった。
誰の為に連絡をとらなくなったと思ってるんだろう。身を引いたと思っているんだろう。
またこぼれそうになった溜め息を噛み締める。忘れるために、呑んでいたのに、この人はどうして。
 
「かんべさんが、さそってくれるの」
 
ふいに言葉を耳元で呟かれて、皮膚が湿る。
残留していた酔いに、会場でみた彼女の笑顔の映像と苛立ちが流れ込んで息苦しさが急激に増していき、
 
「うれしかったぁ、ん、ですよ、ぅ」
 
そして、爆ぜた。
神戸は背中にかかっていた柔い重さを跳ね退け、ベッドに押し付ける。
そのままその上にのしかかると、ぎすん、とスプリングが声を上げた。
突然のことに頭が追いつかず、男の力にされるがまま仰向けに転がった麻木の顔のすぐ側にばんと手を付く。
中途半端に糊のかかったシーツが、その掌に纏わり付いた。
 
「いい加減にするんだ」
 
頭上から振りかかる力任せの声に本能的な恐怖を感じ、神戸を見上げる女の眉はひくりと寄った。
 
「あんたは無防備すぎる、いいか、そういうことはあの男に言うんだ、俺じゃなくて。
 ちゃんと懇意にしてる男がいるなら俺にこんな真似をするな、ふざけるのもいい加減にしろっ」
 
酔いが増幅させた苛立ちを、年甲斐もなく矢継ぎ早に怒鳴りつける。
乱暴な言葉に怯えた腕の下で組み敷かれている女はすっかり肩を竦めてしまった。垂れた目尻には涙さえ浮かんでいる。
これでいい、と神戸は脳の裏で思った。これで自分を諦めて離れてくれるだろう。あの男と遠くで仲良くするだろう。
これ以上巻き込まれるのも、掻き乱されるのもごめんだと、なまじ惹かれているだけ性質の悪い躊躇に背筋へまとわりつかれていた神戸の捨て身の威嚇だった。

涙を浮かべて神戸を見上げていた彼女が震える声で始めに口にした言葉は、

「男、って、誰ですか」
 
だった。

「は」

苛立ちに困惑が足されて、神戸の顔が歪んだ。

「私が懇意にしている男性、が他にもいる、とおっしゃいますが、私には心あたりがないです。どなたのことですか」
 
涙目で奮え声ながらも、普段の理知的な喋り口に戻った麻木に、
いよいよもって困惑の割合が強くなった神戸は、
 
「……この間の、集米社の記念セレモニーで貴女とずっと一緒にいた男性です」
 
なんとなく毒気を抜かれてしまい、つい、こちらもいつもの調子で素直に疑惑を口にした。
 
「あの人は、集米社さんの編集者をなさっているひとです。今、主に私を担当してくださっています」
「え、」
「いつも式典の類に出ない私を気遣って、部外者も大勢いるから姿もバレないと説得してくれました。
 それでも一人では不安だった私がお願いして、一緒にいてもらっていたんです」
「彼には大変お世話になっていますし、外見もお若く見える方ですが、
 私より一回り以上年は上で、奥さんもいらっしゃいますし、お子さんも2人いらっしゃいます」

いつものように、しかし強い混乱故に今までになく矢継ぎ早に喋る麻木の声はなんとなく可笑しくて、
毒気どころかここ一ヶ月あたりの神戸の緊張を骨抜きにしてしまった。
本当に身に覚えがなかったのだろう、今だ彼女の瞳は混乱に揺れていた。
 
「お子さんがいらっしゃるとはいえ夫婦仲はとても円満で結婚7年目にして今でも奥さんを人前でも下のお名前で呼んでいらっしゃいますし、……」
「……もういいです、丁寧なご説明ありがとうございます」
 
本日最重量級の溜め息と共に、長い説明を続けていた彼女を諌めた。
それなりに長い交際から把握している彼女の性格上、このような状況で嘘を吐けるはずもなく、証言の信憑性は高い。
一ヶ月分の緊張の糸が切れた今、身体を起こす力も無かった。
 
「はー……、なんか、すみません」
「いえ、その……こちらこそ」

組み敷き、組み敷かれたまま奇妙な謝罪が交わされた。
そのまま、暫く沈黙が流れる。
 
「……」
「……」
「ああ、すみません。今退きますから」
 
やっと緊張が途切れた反動から回復した神戸が姿勢を起こすと、身体の下にいた女性は、いつの間にか手の甲で顔を隠していた。
 
「ふみ子さん?」
 
体調がまた悪化したのか、とも思ったのだが、どうやらそうではないようだった。
 
「あの……その、話題を掘り返すようですが」
「はい」
 
彼女の意図がわからないまま相槌を打つ。
手の下でそっぽを向いていた顔は、妙に赤かった。
 
「神戸さんだから、こんな真似してたんですよ、私」
 
神戸の内側の、今度は先ほどとは違う糸が切れた。身体が動かなくなり、頭脳が空吹かしをはじめる。
浮かんだものは、彼女の先ほどの『私が懇意にしている男性が“他にもいる”とおっしゃいますが、』という発言、そして今の状況。
今は酔いとは違うもので赤く染まった顔を手で隠しながら、のろのろと身体を起こした彼女が呟く。

「その……、私じゃ、だめですか」
 
眼前の手の隙間から漏れた、うう、とうめいたような言葉にならない声を耳が拾って、神戸は目の前の身体を抱きしめた。
 
「駄目な訳ないです。……全く、感情にかられて見込み捜査に、証言の見落とし。警察失格ですね、俺」
 
今日最後の溜め息を吐く。
腕の中に納まっている柔らかい身体が、怖ず怖ずと自分の背中に手を回したのを感じて、嬉しさともいえぬこそばゆさが背筋を駆ける。
 
「俺も貴女も、はじめから素直に……、まぁいいや、過ぎた事だ」
 
改めて、彼女をシーツの上に倒す。今度はゆっくりと、丁寧に。
自分を見上げてくる潤んだ瞳と視線が合って、どちらかともなく微笑んだ。
 
「……そうですね、今度からは率直に伺いましょう。お互いに」
 


翌日の特命係。
昨晩未明にあった連絡通り、右京の部下は午後近くになってから出勤してきた。
 
「おはようございます、杉下さん」
「おはようございます。もう午後に入りますが」
 
ティーポット片手に挨拶をする。
ここ数週間少し陰欝だった部下の表情が嘘のように晴れていることは、右京の洞察力をもってするには及ばないほど明白だった。
 
「何か、好いことがあったんですかねぇ」
「え、何かおっしゃいましたか、杉下さん」
 
彼の呟きを聞き逃した神戸が寄って来るが、右京には個人のプライベートを詮索する興味は無い為、そのまま紅茶を煎れる作業に戻る。
 
「いえ、何も。……しかし、君も存外わかりやすい性質ですね」
「は? あの」
「よー、暇か? ああ、神戸はまた午後出勤か」
 
神戸が上司の台詞を追求しようとしたとき、課長がいつものように顔を覗かせた。
 
「おはようございます」
「おはようございます。またって何ですか、そんなに多くないですよ」
「しっかし、また昨日までとは打って変わって晴々とした顔してんねぇ。何、ゆうべなんかイイ事あったの?」
「……な、何ですか急に」
 
唐突な質問に、明らかにうろたえた部下を横目で眺め、その表情に自分と寸分違わぬ感想を抱いた仕事仲間と右京は目配せしあう。
『皆さん、こんにちは。本日の特集では、ベストセラー作家・雁屋裕さんの素顔を調査します。
 メディアに一切顔を出さないことで有名なあの人を、専門家の先生をお呼びして……』
昼のワイドショーに映る女性アナウンサーの笑顔が、特命係を見下ろしていた。
最終更新:2012年02月29日 18:09