―――背はわたしに似ず、性格はそう君に似ませんように。
わたしを抱いたひとが、そんなことを言う。
そこには、とてもやさしい、親愛のこもった微笑の表情が浮かんでいた。
「――……?」
ベッドのうえで息を漏らす。
わたしをのぞき込んでいた女性の顔から、白い天井へと、いつ、視界が変わったのか。
もう一度、目を閉じてみても。夢に、立ち戻るなんてことはなく。
白だか青だか緑だか、なんともいえない色の粒子がまざる、暗い世界が広がるだけ。
母親の夢をみていたのか、と。自分を振り返った。
夢に出てきたのは、わたしに似ているひと。
おかあさん、やっぱり若いひとだなあ。おとうさんには、苦労させられたんだなあ。
と、ニヤニヤするいっぽうで、珍しいなとも思った。
さっきまでみていた、夢の内容。それを、目を開けたあとでも、鮮明に覚えている。
「……まあ、あれだよね。あの父(おや)にしてこの娘あり」
夢の内容を反芻して。自分と父を、省みてみる。
わたしの将来を想い、しあわせそうに微笑むおかあさん。
だけれど、現実に、おとうさんが施した情操教育の結果。できあがったわたしはこんなんで……。
よくよく考えてみると、おかあさんへの良心が、痛まないでも、ないような。しないような……?
苦笑いとともに、ふう。と息をついた。
……線香あげておこうか。
ベッドから足を降ろしながら、わたしはひとりごちた。
リビングにて朝食。
おかあさんは、どんな娘が欲しかったんだろう。そんなことを、考えてみる。
はむはむとトーストをかじる対面のゆーちゃんに目を移しつつ。
もしも、わたしがゆーちゃんのようであったなら。そんな、ifがあったなら。
病弱は、わたしにとっては萌え要素だけれど。現実に、母の立場から見た病弱の子、なんてのは。
そんなふうに茶化していいものではないだろうと察することは容易いもので。
だから、おかあさんの理想にしっくりくる娘像が、なかなか、できあがらない。
それはゆーちゃんであっても。
――――わたしで、あっても。
「……うん、家系かな」
ひとことで言い表せる、性格・外見のことだけではなく、おかあさんと一緒に、大過なく日々を送れそうな娘像。
彼女が望んだ、娘像は。残念ながら、泉家の血縁からできあがる可能性は低いようだ。
ゆーちゃんが、わたしの視線に気づく。なんでもない、と食の進みを再開する。
テレビの天気予報が、今日は雨だと告げていた。
窓から見える空は、いまは、快晴のかたちをしているのに。
「人格改造セミナーに行こうと思うんだけど、どう思う?」
かがみとつかさと合流した通学の道中。そんな言葉を放り投げる。
「なんだそれ」
「いきなりどうしたの? 昨日そんなテレビやってたっけ?」
それぞれに、ふたりが言葉を返してくる。
「わたしもそろそろ丸くならなきゃなって、突然思ったんだ」
「不良を止めようとするヤンキーか」
「いやさ、今日の朝、ふいに胸に衝動がね?」
肩をすくめてみるわたしに、またばかばかしいことを、と。
今日もかがみは、ジト目かわいい。
「でも、ほんとに簡単に変われたら、いいよね」
険しい視線を向けるかがみに対して。つかさの、和やかな表情。
そのなにげないひとことが、胸をついた。
すくなくとも今日のわたしは、つかさのことばをそう受け取るきぶん。
むう、とうなって。わたしはそれに、すぐには言葉を返さない。
変わりたい。それはつまり、現在の自分を否定してるってことで。
いつもより、すこし口数が少なくて。
でも、黙り込む気まずさがあるというほどでもない、穏やかな登校の途。
快晴の空の地平に、ぶ厚い雲が見える。
雨の予兆が、なんだか、いちいち、気に障る。
今日の自分は、どこか集中力散漫で。
ちょっと、神経質になってるかもしれないと、感じた。
たまたま見た、おかあさんの夢が。意外と長く、わたしの心を占め続ける。
―――なんだか、今日はそんな日。
みっつ、授業を終えて。みっつめの、休み時間。
昼休みまで、あとひとつ。朝と比べて、空が暗くなっている。
朝にはずっと向こうにあった雲が、いつしかこちらにやってきて。
わたしたちの上で、空を鎖じている。
「こんな天気の日はテンション下がるねえ」
休み時間の雑談。みゆきさんに話しを振る。そうしたら、
「……そうですね。でも」
「でも?」
「でも、今日はとくに、元気がないみたいですね?」
みゆきさんはわたしをみつめて、そう問いかけた。
口もとには、微笑みの色が浮かんでいる。
わたしを深刻に心配しているというのではなく、たまにはこんな気分になる日もあるよねと、共感を示す色。
きっとかがみだったら、いつものアンタの脳天気はどうしたんだと意外に思うのだろうに。
みゆきさんは、わたしのそんなテンションの上下を、当然のように受け止めてくれて。
「そう? そんなことは――あるかな」
だからわたしも、当然のようにうなずいてしまった。
元気がないことを肯定したわたしに、彼女は言う。
「その理由を、教えてください」
え、と思って、みゆきさんをまじまじとみる。
理由を聞いてもいいですか? と、彼女らしい、謙虚な会話に繋がると思っていた。
きっと、わたしが同じ立場でも、そうやってワンクッション置くと思う。
そうではなくて、教えてほしいと断定する返事が来るとは、思っていなかった。
他人の心に、そうやって強く踏み込んでくる彼女が、ちょっと意外で。
声をつぐんでしまったわたしに、みゆきさんは、まっすぐ視線を向ける。
――――そこには、とてもやさしい、親愛のこもった微笑の表情が浮かんでいた。
「みゆきさんになりたいから」
口走ったその言葉が彼女に浸透するまでに、少しの間が空く。
口走ったその言葉が、わたしに、浸透するまでに、少しの間が空く。
わたしの顔面に、赤い熱が昇って。
背中に、イヤな冷たい汗が浮かぶ。
「い、いやいや、そのね」
こんなわけのわからないことを口走るわたしの精神状態を大げさにとられたくなくて。
そもそもなんでこんなことを言い出したのかも自分では不可解で。
だから、びっくりしたように目を見開いて、そんな疑問の表情を浮かべたあなたに、わたしが言えることはわたしの中にはなくて。
授業のチャイムが鳴った。瞬間で、沈静されるよう。みゆきさんだけに固定された視界が広がるよう。
「あー……」
大きく、息をついて、わたしはみゆきさんからきびすを返した。「あとで、話すかも」。
そう言い置いて、彼女のそばから去る。ああ、ゴングに、救われたな。
昼休みにはつかさたちが来るから。ふたりで真剣に話し合うなんてことは出来なくて。
というかべつにシリアスな空気なんてものは、いつもあるわけがなくて。
たまたま気持ちがアガっていかないだけの日常のひとつが、私のローテンションなどおかまいなしに過ぎていく。
ヘンなことを口走ったことも。たかが休み時間の談笑の中のひとつまみにもならないできごとでしか、なくなっていく。
そう、思うようにしながら。
玄関に立つ。グラウンドを雨が叩く放課後。
運動部のひとたちが、廊下や空き教室でそれぞれなにかのトレーニングをはじめようとするざわめきが、いつもより放課後の校舎を満たしている。
けれど、うるさいはずのそれは、雨の雰囲気のせいか、それほどおおきなかたまりだとも思えなくて。
生徒たちのにぎやかさは、背中越しに遠く。私は立ちほうけている。
傘を持っていない、ということはなかった。鞄に入れっぱなしなだけの折りたたみ傘。
それでも、雨が降る外に足を踏み出すのが、なんでか、おっくうで。
いっしょに帰るはずのつかさとかがみには、なんとなく嘘をついた。先生に呼ばれているから、雨宿りがてらわざと遅れて帰ると。
身体の弱いゆーちゃんの身内として、学校側から簡単な確認事項があるんだってさー。なんて。
「泉さん」
私をみつけたみゆきさんが、笑いかける。待ち合わせの約束なんて、していないけれど。
みゆきさんも、きっと、嘘をついた。別のクラスの委員のひとたちと、ちょっと集まって話すことが今日、あるんです。なんて。
ああ、帰りたくないのは。
もうすこしだけ、あなたとふたりで居たかったからか。
特に部活や委員の用事が無くったって。放課後にだらだらおしゃべりを続けるグループなんて珍しくもない。
だからてくてくと、ふたりで話せるてきとーな場処を探して歩いたって、べつにうしろめたくもなんともなくて。
校舎の隅っこ。壁を背に腰をおろす。階段の踊り場のひとつにたむろして、ふたりきり。
「なんで今日、わたしに元気がないのかは、わからないんだ」
ええ。と隣で頷いてくれる声。
ただ、話を聞いてくれようとする、やさしい声。
「死んだお母さんの夢を見たんだけどね」
わたしが放つには、なかなかシリアスなパワーワード。
ちょっとだけ、隣の彼女はびっくりしただろうか。
「でも、そもそもお母さんを恋しいだなんて言う気持ちを抱いたことはないんだよね」
物心つく前からお父さんしかいなかったわけだし。
「――それでも母親の夢というやつは、そんなわたしすらも浮かなくさせる何かがあるんだろーねー」
そんなふうに呆れて。天井を仰いで、笑ってみると。
みゆきさんはわたしに視線を向けて。
「――それはお母さんを想う、泉さんのやさしさですね」
「ええ……? そういうリアクションなの?」
微笑みかけてくるみゆきさんの視線が面映ゆい。
というかなにがどうなってそんな感想に行き着いたのか。
「家族を失う、だなんていうことに、軽々しく言及できないですけれど」
「いやいやわたしだって失ってない失ってない」
深刻に考えてくれるなと、ぱたぱたと手を振って。
そんなふうに考えて欲しくなかったから、話したくなかったのに。
それでもどうして、わたしはみゆきさんに話を聞いてもらいたかったんだろう?
「……じゃあ、聞いても、いいですか?」
「う、うん、なんでもどうぞ」
すこしだけ、もじもじとわくわくが入り交じったように。おそるおそると。わたしの内面を知りたがることを、申し訳なさそうに。
そんな表情すらもかわいいこのひとはホントなんなんだろうと、頭の片隅でぼんやり思いながら返事をする。
「――その夢は、どんな夢だったんですか?」
「どんなって」
どんなのって、言われても。
「おかあさんが、赤ちゃんのわたしを抱っこしてて、なんか、話しかけてる感じの夢。
しあわせに笑ってる感じの、いい夢だった、と思う」
「やっぱり、やさしい夢じゃないですか」
手を合わせて、うれしそうに。
ああ、だからそういうリアクション……。
けれどそう思うのは、みゆきさんの方こそが、やさしいひとだからでしかないと思うよ?
そう、わたしなんかとはちがう、やさしくてやわらかくてまっすぐで。
――背はわたしに似ず、性格はそう君に似ないことが――
ああ。
だから、わたしは。
「みゆきさんに、なってみたいなあ」
思わず口走ったのではなく、自分の意思で、つぶやく。
彼女も今度はおどろかないで、ゆっくり、そして深刻すぎずに受け止めてくれるのがわかって、とてもあたたかい気持ちになる。
「――おかあさんの理想は、きっとみゆきさんのようなひとだっただろうから」
おかあさんの理想は、きっとみゆきさんのようなひとだったんじゃないかって。教室に着いた朝から、ずっと考えてた。
べつに、自分のことを嫌いになったとか、こんなふうに育ってしまって、母親に申し訳ないと思っているとか、そういうことじゃない。
ただ、みゆきさんが、おかあさんの娘だったなら。そんな想像が、今日はずっとぽわぽわわいておさまらないだけの話しで。
なんだか今日は、そんな不安定な気分だったんだと、わたしは自嘲する。
そんなわたしに向かって、みゆきさんは。
「わたしは、泉さんになりたいって、いつも思っているのに」
ふしぎな気持ちですね。なんて、彼女は続ける。
「なんでまた、わたしなんか」
「泉さんだって、なんでまた、わたしなんか、ですよ?」
困ったように、首をかしげて。
「わたしも、泉さんに、なりたいです」
けれど彼女は、そう、断言するから始末が悪い。
「明るくて、やさしくて、主体的に行動する意志の強さがあって」
「待って待って待ってほめるのやめて」
恥ずかしいし割と見当違いな過大評価だし。
「だって。泉さんが私になりたいというのは、わたしをうらやんでいるのではなくて、おかあさんを想うやさしさから来ているだけですけれど」
だけ、という言い方は失礼だったでしょうか、と前置きしながらも。そっと自分の胸に手を置いて、瞑目しながら。
「わたしが泉さんになりたい、と思うのは、わたしが泉さんをうらやんで、尊敬しているからです」
顔を上げて、その視線と言葉は、わたしの心の真ん中を、まっすぐに打ち抜いて。
「そんなふうに尊敬される泉さんに育ったことを、お母様が喜ばないはずがないと、わたしは思います」
だなんて。わたしが尊敬するみゆきさんは微笑みかけるものだから。
こみ上げてくる何かに、涙腺を刺激してくる何かに、耐え切れそうになかったから。
おかあさんに甘えるように、みゆきさんの袖をぎゅっとつかんで彼女を引きよせておでこをあずけて。
ちょっとだけ、彼女にわたしの顔を見られないようにしたんだ。
わたしの髪を撫でるてのひらは、夢のなかのおかあさんのように、とってもあたたかった。
「……いやはやお恥ずかしいところを」
「いえいえ、ぜんぜん」
そんなことを言いあいながら、雨上がりの虹のしたを歩く。
べちょべちょした地面なんかどうでもいいくらいに、青空は華やいでいるようにみえて。
それだけ、おかあさんの夢でダウンしていた精神が立ち直って、視界が広がっているのだろう。
晴れた空のしたを、ふたりで歩く。
胸のうちも、すっかり晴れたような気分。帰ったら、何か、家事をしたくなる。
「家族の話をしたせいか、帰ったら、何か、家事をしたくなってきました」
おんなじことを考えていた彼女の言葉に、苦笑が浮かぶ。
「みゆきさんはもうお母さんより料理上手いんだっけ」
「まあ……上手というか、わたしが担当しているというか」
自分の母に向かってヘタと言い切らないあたりの育ちの良さが微笑ましい。
「お母さんも見た目はみゆきさんとそっくりなのに、中身ぜんぜんちがうよねえ」
「はい、――泉さんのところと、同じですね」
母の話をきっかけに、すこしだけ、わたしたちの距離が変わった放課後のひととき。
中身は、ちがうけれど。あなたの姿と父親の性格はしっかり受け継いで、ちゃんと育っているよ。
笑いかける彼女に、わたしも笑う。
――そうだね、おんなじだねえ――
あなたになりたいわたしとわたしになりたいあなたと。
すでにおなじふたりで、母の夢の戻り道を歩いた、ある雨の日のこと。
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最終更新:2018年12月08日 16:08