……寂しい。
……寂しかった。
寂しいくせに、“大切なもの”を遠ざけた。
自宅のベッドで、物暗い音楽をヘッドホンで聴きながら、薄暗い天井を見つめている私。
服もまともに着ず、薄手のシャツにブラジャー、それからパンツが一枚だけ。
近頃、こんなふうにして無為な一日を過ごすことが多くなっている。
大学は一か月ほど前から、全く行かなくなった。
このワンルームは、母みきのお金で借りたもの。
都内で家賃5万円、ロフトも付いていて、防音もまずまず、近隣の住人も静かと、
法学部の落ちこぼれである私には身に余るほどの良物件だ。
「私達の時間、ねえ、あれは幻だったの」
音楽が歌う。
そういえば、今日は何月何日だろう。
ちらと壁にかけたカレンダーを見ると、7月の日付が並んでいた。
……確か、誕生日の曜日を確認するのにめくったのが最後だ。
あれから、多分、また一月くらいの時間が流れたはずだ。
「恋人でいた間、とてもとても長く感じた時間、あなたは優しくて」
歌が耳に入る。
一か月なんて時間は、一日に等しい。
高校にいた頃は、一か月という時間は刺激が余るほどだったのに。
高校にいた頃。
四人でお弁当、なんて当たり前だった。
四人で遊ぶのだって当たり前だった。
そんな環境にいるのを、一度たりとも疑いはしなかったし、嫌でも続くものだと思っていた。
そうではなかった。
大学に入って、突然空気が乾き始めたのだ。
友人と疎遠になる。
大学の人間は総じて友好的でなく、クラスメートはただの他人。
そんな雰囲気にいるうち、乾燥肌のように、私の心はカサカサした感触に変わり始めていた。
こなたやつかさとは、はじめのうちはよく遊んでいた。
しかし、私が些細なことで癇癪を起こし、携帯電話も捨て、一方的に連絡を断ち切ってしまった。
その癇癪も、やはり心の乾燥肌が引き起こした災害だったのだろう。
乾燥肌の進行は加速していく。
しだいに、むずむず、不快な痒みが現れ始めた。
痒みというのは、神経の状態の一種であることはわかっていながら、
その正体は未だ判明していないらしい。
私の心の痒みも、理由はわからなかった。
それを突き止めようと、必死に掻き毟った。
心を掻いても血は流れない。
流れてくるのは、腐ったゴミのような毒の塊だった。
実に汚れた、人間の醜い本性なのだろう。
私は毎日、心を掻き毟り続けた。
そうして少しずつ、自分自身を毒していった。
ある日の朝、大学に向かうため街路に繰り出たとき、私は周囲の人通りを見て、思わずたじろいだ。
街行く人が皆悪人に見えるのだ。
信じられない感覚だった。
スーツを着たサラリーマンも、自転車をこぐ若者も、横断歩道を手を挙げて渡る幼稚園児さえも。
皆真っ黒なことを考えているように見えたのだ。
その日の大学は、途轍もなく息苦しかった。
そして、それ以来、大学に行くことはおろか、外に出ることすら疎遠になってしまったのだ。
「騙したあなたは醜い、だけど私も醜い」
曲がラストのサビに入る。
はっきり、私は自己嫌悪に苦悩していた。
醜い。
他人を勝手に悪人とレッテル貼りするなんて。
自分を否定し、否定し続けた。
こんなはずではないのだ。
私がこんな人間であるはずが。
「ねえ、私の“大切なもの”……」
曲が終わった。
私は背伸びしながら、上体を起こす。
そういえば、最近体を洗っていない。
私は久しぶりに湯を浴びようと、風呂場へと立った。
洗面所を通りかかる。
すると横の壁にかかった鏡に自分が映った。
私は何気なく首を回し、自分の顔と対面した。
驚愕した。
なんて醜い顔なんだ。
手入れの放棄された眉は、眉間の領域を食い荒らしている。
皮膚はガサガサに崩れ、艶を完全に失っている。
そして何より、目は細くなり、瞳孔は澱みきってもはや輝きを持っていない。
私は体の力を失った。膝が床についた。
体のバランスが崩れ、ふらりと前に傾いた。
床のタイルが勢いよく視界に迫る。
私は目をつぶると同時に、反射的に目の前の空間へ手を伸ばした。
手は何にも触れない。
私はそのままうつ伏せに転倒した。
額が風呂場の入口の段差に激突し、血が出た。
「痛た……」
出血した箇所を手で押さえながら、ゆらりと上体の姿勢を戻す。
少し苛立つ。
なぜこんなくだらない怪我をしなければならなかったのか……
もし今、支えとなる物が目の前にあって、そこに手をつけたならば、私は怪我をしなかった。
支えが無かったから、私は怪我をした……
そのとき、気付いた。
私には、心の拠り所となる、支えがなかったのではないか。
私がこうして堕落してしまったのは、きっとそのせいだ。
人は何かを大切にすることで、自分を支える。
言いかえれば、支えのない人間というのは、大切にしているものがないのだ。
そして自分は、その大切にするものを持っていなかった。
私には、そんな存在がいなかった。
いや、いたのに、自ら手放してしまったのだ。
それがあの親友、こなただった。
よく考えれば、あいつほど、自分を支えていた存在は無い。
多くの人間が、距離を置いて自分と接してくる中で、あいつだけは心を開き、自分を歓迎してくれていたのだ。
こんな存在を失うなんて。
今更、連絡なんて取れはしない。
自業自得だ。
もはや自己嫌悪すらできなかった。
私は洗面所を出る。
洗面所を出てすぐのところに、台所がある。
そこを見たとき、一つの物が目に留まった。
一ヶ月くらい前まで自炊をするのに使っていた。
そのよく研がれた刃先は、十分な鋭利さがある。
私はその柄を握り、持ちあげた。
そして踏みとどまることなく、一気に首の深い所を切りつけた。
夏の炎天下、式場には多くの人が参列する。
その中に、かつての親友はいた。
青く長い髪は、一か月前、最後に会ったときのそれと変わらなかった。
そいつは、誰にも顔を向けず、口も開かず、ただ祈る格好をしている。
頬を見ると、一筋、透明な滴が流れているように見えた。
私はその友人の肩を叩こうと、手を伸ばした。
その瞬間、それが肩をすり抜けた。
私は驚いた。
手が届いているのに、触れられない。
そのとき初めて、私は自分が取り返しのつかないことをしたことに気付いた。
親友はいまだ涙を流している。
ねえ、と私は何度も、その腕にしがみつこうとする。
しかし、その手は二度と、“大切なもの”に触れることを許されなかった。
終
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- かわいそうに -- 名無しさん (2017-05-21 20:54:41)
- なぜ、化けてでたんだ?GJ -- 名無しさん (2009-08-22 20:12:13)
- かがみとこなたが再会してhappy endかと思いきや・・・ でも大切なものというのはいつ途切れてしまうか分からない、そんな何かを知った気がします。長文失礼しました。GJ -- CHESS D7 (2009-08-16 18:45:57)
- 悲しいお話でした。 -- 名無しさん (2009-08-16 08:47:42)
- これは、かなりのものですね
-- 名無しさん (2009-08-14 21:40:13)
最終更新:2017年05月21日 20:54