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 今日(7月30日)の勉強会でやった道徳の教材について、出席者がぜひ、授業案を作ってほしいと思いますが、「観点」を書いておきます。
 まず内容は、「のりづけされた詩」という6年生用の教材です。

 読書の秋にむけて学級文集をつくろうと学級会できまり、和枝さんは光子さんと一緒に「詩」を書くことにしました。家族旅行のこと、「波の音で目を覚ましたことや浜辺で見た日の出のことなど、まず心にうかんだことを、ありのままに書いてみました。」しかし、出だしの一、二行がなかなかうまくいかず、あせっているときに、『五年生の詩集』という本にあった詩の内容の出だしが自分の書きたいことにぴったりだったので、悩んだ末、「地平線」という題と一緒に自分の詩につけてしまいます。編集係の明子さんもそれに感心したと言います。和枝さんは、「そのことばにむねがしめつけられる思いでした。」
 ずっと後悔しているのですが、土曜日に文集の表紙付けの手伝いがあり、そこにもいかなかった和枝さんは、その後学校に行って、先生に打ち明けます。
 和枝さんの言葉を聞いた先生は、「そうか、わかった。さて、どうするかな。」と言います。そして、「わたしは、そのことばを待っていたかのように、ゆれ動く心のなかで思いついたあることを、やりはじめました。」
 そして、月曜日に配布された文集には、「地平線」という詩はなく、そのかわりに、えんぴつで書かれた別の詩が、一枚一枚のりづけされていたというわけです。

 さて、これが大体の内容です。みなさんは、これでどういう道徳の授業をするでしょうか。今日の勉強会では、道徳の授業ではなく、「先生として、この教材をどう扱うか」という、先生の立場に焦点をあてて討論したので、模擬授業というのではなかったのですが、みんな、想像上の授業をやってみてください。

 この教材の「考えましょう」というところでは、土曜日の午後、家に帰ってからの和枝は、どんな気持ちだったでしょう、と、あなたは、まよいながらも、じぶんや他人に対して正直に行動してよかったな、と思ったことがありますか、という観点が提示されているので、間違ったことをしてしまった和枝は後悔していた、正直に話すべきか、迷っていたということと、それを勇気をもって、正直に話してよかった、正直に話すべきだ、ということを引き出そうとしているように思えます。
 しかし、この話はそんなに単純なものではないと思うので、以下授業を考える際、ぜひ考えてほしいことを整理しておきます。

1 和枝さんの能力です。和枝さんは、詩が得意であると、自分でも思っているし、また周りもそれを認めていると考えてよいでしょう。編集係の明子さんが、「いい詩ね。さすが和枝さん」と述べていることでわかります。だからこそ、和枝さは、「誇り」をもっていたと思います。その誇りが、書けない出だしのことで悩ませ、ついに、剽窃をしてしまうわけです。また、能力があるからこそ、詩の本を読んでいるわけだし、また、そのなかの詩を読んで、自分の求めていたものだ、と直感することもできたと言えます。
 教師は、こうした和枝さんの詩の能力を、きちんと意識、配慮する必要があります。ただ、剽窃したというマイナスの行為だけをとりあげるべきではなく、そこにあるプラスの要素もきちんととりあげて、すべてを否定する必要がないことを、十分にわからせる必要があります。

2 和枝さんが、他人の詩の部分を剽窃したことが、どのように問題なのかという問題です。著作権の問題であり、また、創作者の倫理の問題であり、また、能力の形成上の問題でもあります。それぞれ重なっているとしても、結論としては必ずしも同じではないでしょう。一番単純なのは、創作者の倫理の問題といってよいかと思います。他人のものを使うことは、モラルとしてよくありません。学問の世界では、「引用」ということが認められているので、他人のものを借りても、出典を示せば問題ないのですが、創作である以上、自分で創作したことが最も重要なことであり、他人をものを使用する場合には、やはり、特定の条件が必要でしょう。クラシック音楽の場合、他人の作曲したメロディーを織り込むことが時々ありますが、誰でもわかるし、一種のユーモアと考えられていて、あまり問題になりません。
 これは著作権の問題でもあるのですが、一部を多少変えて使用するとき、「パロディー」といいますが、この線引きが問題ですが、大体は認められています。こうしたパロディーとして利用したわけではなく、この場合は、自分の創作に不十分性があって、他人のものを利用したわけですから、正式な形では著作権の侵害になっているというべきでしょう。そういうことはきちんと説明しておく必要があるかと思います。
 詩の創作能力の形成という点では、必ずしもマイナスに考える必要はないし、むしろ、積極的に考えるように指導すべきではないでしょうか。というのは、まずなんといっても、子どもが学ぶときに、他人のまねをすることは、必要な段階なのです。よくいうのは、「学ぶ」は「まねぶ」から来ているということ。どんな天才だって、まずは他人のまねをして、自分の独創性を少しずつ形成していくのです。まったくそのまま剽窃してしまうのはよくないけど、少し変えてみようか、ということで、和枝さんの詩を推考するのが、この場合必要な指導でしょう。

3 文集の変更の問題です。
 ここは、みんなで討論したところですが、こうした文集を読んだとき、生徒たちの反応がどうなるのかということは、ちゃんと考えおく必要があるでしょう。このままだと、なぜ、和枝さんの詩が変更になっているのか、和枝さは、とてもいい詩を書いたことを、明子さんなどが知っているわけですから、この変更に異常な点を感じるはずです。和枝さんが、またつらい思いをして告白する必要がでてくる可能性があります。前に見たように、そんなに和枝さんのしたことが、非難に値するわけではないのですから、そういう状況に追い込まずに済む、別のやり方も考える必要があるのではないでしょうか。(わけい)