軍艦島


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歴史 - history       

軍艦島は、過去「はしの島」とも呼ばれていたが、次第に「端島」という呼称が定着してきた。軍艦島の運命を変える石炭の発見は、1810年、その頃、軍艦島周辺は、佐賀藩と幕府領とに分かれていたため、重要な資源の埋まる軍艦島の領有権を求め、たびたび争いになったという。尚、この頃幕府領では、「初島」と呼ばれていた。

初めて採炭されたのは、江戸時代後期。明治になっても小規模の採炭が続けられたが、やがて台風の被害により、業者側が廃業になった。
1890年、端島の所有者、鍋島孫太郎は、三菱に10万円で島を売った。その頃、既に大企業の1つであった三菱は、早速竪坑を建設。1897年には、隣にあった高島の炭鉱も抜き、やがて小学校など、生活施設も建設され、人口は増えていった。

鉄筋コンクリートの住居も建設され、大阪朝日新聞が、島を「軍艦とみまがふさうである」と報道。当時、長崎造船所で建造中の軍艦「土佐」にも似ていたことから、「軍艦島」と呼ばれはじめる。

大正あたりから、日本は世界を相手に戦いはじめる。軍艦島の労働者は、明治に比べて大幅に増加し、領土の拡大によって、朝鮮・中国人労働者も島で働くようになった。当時は、軍艦島の生活は厳しく、騙されて連れてこられた外国人は、過酷な環境で働いていた。当時、端島と高島は、「監獄島」と呼ばれ、監視され、島を出ることも許されなかった。中には、「島抜け」と呼ばれ、泳いで島を脱出する例もあったが、それは、ほんの少ししか成功しなかった。

大戦中には、米軍の潜水艦「ティランテ」が島に停泊していた白寿丸に魚雷をうち、撃沈させた。この事件には、「アメリカ軍が軍艦島を軍艦と見間違えて攻撃した」という話も残るが、当時アメリカと対立していた日本が、アメリカの間抜けさを示すため、わざと広めたエピソード、という意見も強い。

戦後、日本は敗戦し、急成長を辿ることになる。朝鮮人や中国人と入れ替わり、日本人が労働者として入島、映画館、パチンコなどの娯楽施設も整い、「監獄島」の雰囲気はがらりと変わっていった。しかし、まだまだ島での生活は苦労が多かったようだ。埋め立てが進み、建物が増築され、当時の軍艦島は、雨でも傘なしで歩けたそうだ。戦後十数年ほどは、軍艦島の最盛期で、人口密度は、東京特別区(今の23区)の9倍にも達した。しかし、繁栄は長くは続かず、エネルギーの石炭から石油への転換によって、島は衰退していく。そしてついに、1974年、閉山に追い込まれた。最盛期には人口が5,151人であったが、閉山時には、2,000余人であったという。

島は、無人となったが、大規模な解体作業は行われず、コンクリートの建物が半ば倒壊して残るような状態になった。島はその後も、三菱マテリアル、という会社が所有していたが、2001年に、高島町(現・長崎市)に無償で提供された。高島町所有時は、危険な箇所も多く、島への立ち入りは禁止されていたが、2005年には報道者に限り入島許可。2009年には、見学通路に限り、一般観光客にも公開された。2008年には、「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産暫定リストに追加され、世界遺産登録を目指している。

アクセス - access     

現在、やまさ海運が定期的に上陸ツアーを行っている。ただし、長崎市が指定した基準を満たしていないと端島のドルフィン桟橋には接岸できず、その場合は、周辺を周遊するツアーで変更され、乗船料金の一部が返済される。軍艦島までは片道1時間程かかるが、その間には、長崎港内、女神大橋、三菱長崎造船所、高島などの絶景を見ることができる。このほかに、軍艦島周遊コース、長崎港めぐりなどのツアーも行っている。



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