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              序章
 伊月兵護はすでに作戦会議に遅刻していた。正確な時間で表せば、7分ほどの遅刻だ。呼び出しされていることに気づいたのはつい先ほどのことで、携帯電話の着信履歴には勤務先からの19件のメッセージが録音されていた。

 それでもいまだに自室を出られていないのは、招集命令があまりに急であったことと、自分が疲労に負けて昼寝の途中だったからに他ならない。

 そもそも休暇中にいきなり呼び出しを受けても即応できるわけがないのだ、と簡単な言い訳じみた愚痴を頭の中に放ってみたはいいが、寝返りで乱れたベッドの枕元に飲み干したバドワイザー缶が5個ほど転がっているとあっては、自堕落が原因としか言いようがないのが現状だった。

 頭の痛い話だった。ついつい勢い任せに酒をあおってこのざまだ。二日酔いの頭痛も酒気も抜けきらない体は寝起きのせいもあってだるいままで、感覚がまだ鈍い。
 兵護はとりあえずベッドから目をそむけ、仕事に必要なモノを手当たり次第にアサルトバッグに詰め込むことにした。

 まず黒い戦闘服だ。次いで手足のプロテクターに、タクティカルベストやハーネス、ホルスターを押し込む。小物類はポーチの中に片っ端から突っ込んで、あとで開封すればいいだろう。

 自室はそれ程広くない。ベッドとデスクが壁際に並び、あとは本棚とクローゼットでスペースが埋まっている。クローゼットの中から必要なモノを引きずりだしてバッグに放り投げ、閉じることすらせずにデスクの上から身分証をひっつかんでポケットへと押し込んだ。

 問題は商売道具だったが、こればかりはしょうがない。クローゼット最下段で布に包まれた商売道具を取り出し、繊細なパーツが破損したりずれたりすることがないよう、緩衝剤を詰めたケースでくるむ。雑な梱包だ。もしずれていたらあとで調節しなおさなければならないが、時間がないから手間は覚悟する以外にないだろう。

 荷物をすべてまとめ、両手に担いで部屋を出る。玄関まで続く細長い通路を急ぎ、玄関に脱ぎ捨てられたブーツに足を通して――そこでようやく、車のキーを忘れたことに気づいた。

 思わず舌打ちを漏らし、バッグとケースを玄関口に置いて、リビングへと向かった。
 リビングには安物ソファと古いブラウン管テレビが置いてあるだけだ。キッチンにはフライパンと最小限の調理器具、冷蔵庫しかない。そしてそのキッチンと一体化した棚には、書類をまとめる個所と一緒に鍵の類を収めた小さな箱が置いてあった。

 大股で箱に近寄り、ロックを外す。中には自転車の鍵やバイク鍵、家のロッカーの鍵、あとその他多くのよくわからない鍵が雑多に同居していた。

 車の鍵、車の鍵。ベンツのキーホルダーをつけた車の鍵だ。自転車の鍵やどこに使うんだか見当もつかないような鍵を除けて、指先で漁る。古びたおもちゃの鍵が存在するようなケースの中から車の鍵を見つけ出すころには、ただでさえ遅れている時間を3分も浪費していた。

「ああくそ……ついてねぇ」

 独り言が漏れた。これで10分以上の遅刻だ。減俸か、何らかのペナルティか、どちらかが科せられるのは間違いないだろう。ため息をつき、車のキーを片手に玄関口へと足を向けた。

 玄関でブーツを履くとき、靴棚の上のスペースにかけた鏡に映った自分の顔が見えた。
 ひでぇ顔だ、まるで温めなおした死人じゃないか。そんな感慨が胸を過り、鏡の中の幽鬼のような面貌の男がこちらを睨めつけてくる。

 二日酔いと連日勤務の寝不足で青白くなった顔は紛れもない自分のもののはずだが、いまはどこか別人のもののように見える。目元には大きなくまが出来上がり、腫れぼったくなっていた。

 なんて情けない姿だろう。2年交際した女に振られたぐらいで酒に逃げて、おかげで遅刻とは。仕事に打ち込み続けて相手をおろそかにしたのが原因でこうなったのに、いざ振られてみれば今度は仕事がおろそかになるとは、なんと中途半端なことか。

 これじゃ振られて当たり前だと内心吐き捨てつつも、昨晩の別れ話の最中に平手打ちを食らった頬がじくじくと痛み出した気がして、鏡から目を逸らした。

 すでに遅刻は12分を越えていたが、それでも開き直るのはよくない。重い気持ちを振り切るようにドアを開け、陽光降りしきる中へと兵護は家を飛び出した。








 Aigis Military Service社は、僕にとってはただの民間軍事企業(PMC)ではない。
 AMSの文字とイージスの盾が刺繍されたワッペンは僕の誇りだし、AMS特殊作戦業務部所属であることを示す鷲の襟章はいくつかある宝物の一つだった。そんなものに価値をおぼえるのは、一時期は20代の若造の特権だと思っていたが、最近は案外悪くないものだと思い直しつつある。

 それでも、僕にとってワッペンや襟章より大事なものがある。それは、世界の盾であれという意味を込めてAigisと命名したこの会社がここまで成長し、そして十数年前の非核大戦と呼ばれた三度目の世界大戦において、AMSが名前の由来通りの働きをできたことで――

 そこまで考え、あまりの思考の青臭さに我ながら苦笑していた。咥え煙草から立ち上る紫煙が笑いに吹き散らされて霧散するのを見送り、僕は身を沈めた待機室の椅子の上で身じろぎする。長い時間同じ姿勢でいたせいか、尻が痛かったからだ。

 今日が始まってから幾度目かになる大きなため息をついた。先ほど切り上げた思考も、暇つぶしを兼ねてこの数時間で7回近く繰り返している。いつも持ち歩いている煙草はすでに箱一つ吸い尽くしていたし、暇つぶしに持ち歩いているお気に入りの本、J・G・バラードの『太陽の帝国』は2度ほど読み返していた。

 それでも、僕の待ち人は現れない。最近新調した携帯電話の送受信履歴欄には、メールと電話合わせて19件の送信履歴と、一件の返信メールが詰まっている。そしてそれはすべて同じ宛先で、表記名は伊月兵護中尉。僕の部下の一人だ。

 椅子により深く身を沈め、ロッカーとデスク、自販機が並んだ待機室を見回す。清潔に保たれた待機室は最大30人が使用できるようにできていて、壁には液晶テレビが埋め込まれている。そしてこの待機室では今現在、9人の部下が待機していた。

 9人は全員僕の部下だ。彼らの所属は、民間軍事企業AMS 特殊作戦業務部 特殊戦A分遣隊 第1突入分隊。A分遣隊はいわゆるところの特殊部隊で、直属の上官はユーリ・マクドゥガル大尉。つまりは僕だ。

 黒い戦闘服姿の部下たちは、白さが目立つこの部屋の中では浮き上がって見える。人種はさまざまで、装備も黒色である点以外は個人裁量によってまちまちとなっている。

 本来ならあの9人に加え、伊月兵護中尉を含む合計10名で作戦前ブリーフィングを行っているはずだった。それが、彼の遅刻のせいでいまだに何もせず待機となっている。

 吸い尽くした煙草を、サイドテーブルに置いた灰皿に押し付けた。最初の招集発令から1時間半が経過し、集合時刻を30分超過している。出動命令時刻はまだ先とはいえ、心配にならないわけではない。

 それも、遅刻原因が失恋――女との喧嘩別れだとわかっていればなおさらだった。
 僕は兵護を昔から知っている。それこそ、彼がジュニアハイスクールに上がる前からだ。だから兵護のことはそれなり以上に理解しているはずだし、彼のある意味での真面目さと、それと同居した脆さも熟知していると自負している。

 ゆえに、僕には振られたショックでヤケ酒に走った兵護の様子が絵に描いたように想像できる。そして振られた理由も、おおかた仕事か何かに集中しすぎて彼女をおろそかにしたか何かだろう。あるいは、持ち前の愚鈍さでなにかやらかしたか。

「若いってのは素晴らしいな」

 誰に言うでもなくつぶやいて、新しい煙草の箱を開封した。一本振りだして咥え、デスクに置いたジッポライターで火をつけた。スモーキンジョーの味を堪能しながら、今頃あわてて出勤路を急いでいるだろう部下の姿を想像した。

 アクセルを踏み込みながらハンドルを切る顔色の青い若い男の姿が、脳裏に浮かぶ。なんとか気晴らしに笑おうと努力したものの、結局紡がれた感想は、事故を起こさなければいいが、という保護者の心配じみたそれだった。

 もう考えるのをやめよう。これ以上心配を重ねたくない。自宅を出たというメールはもう届いているし、あと10分もしないうちに到着するだろうから、僕は自分の装備を整えればいい。

 溜息に老婆心やらなんやらを乗せ、僕はデスクの上に乗せていた銃器を手にした。

 コルトM733コマンドという名前の、アサルトライフルだ。銃身の先をXM177E2の円筒形フラッシュハイダーに取り換え、キャリングハンドルの上にはドットサイトがマウントしてある。銃身の横にはフラッシュライトを添えていた。

 まだ弾薬は用意していないが、整備するに越したことはない。簡易分解して主要パーツを入念にチェックしながら、僕の思考はいまだ出動命令の下りない今回の任務へと向かっていた。

 まだ投入される隊員への説明は済んでいないが、非常に重要かつ危険な任務だ。事案分類は都市部対テロ作戦と生化学兵器、仔細状況はいまだ不明で、偵察隊を先に送り込んで情報を集めている最中だ。

 さてどう転がるやら。僕はつぶやき、徐々に重くなっていく気持ちを奮い立たせるために煙草を吹かす。
 嫌な任務内容だと思う。対テロ戦闘であることも、現場が大都市であることも、情報がまともに手に入らないこともそうだ。だがそれ以前に、僕にとって生化学兵器のまつわる仕事はある種のトラウマになっている。

「なんもなければいいがね」

 つぶやいた声は、紫煙と共に部屋に霧散した。





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