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 好きなものはたくさんある。

 たとえば、わざわざ取り寄せてまで吸いたくなる煙草、スモーキンジョーのフルフレーバーとか。あるいは3$で購入可能な安いウィスキー、バーボン、テキーラやウォッカ。夏の夜、虫が飛び回る音と蒸れた草木の匂いとか。

 好きなものはたくさんある。

 銃の引き金を絞るときの、シアーの落ちるクリック感とか。暗闇を引き裂いて飛翔する曳光弾の煌めきとか。廃莢口や銃口から噴き出す硝煙の香りとか。そういえば、僕はココアが大好きだ。仕事が終わった後、自室でくつろぎながらバンホーテンのココアを啜っている時間は、何にも代えがたい至福の時間だ。

 僕が好きなものはたくさんある。むろん、同等以上に嫌いなものもあるのだろう。そうでなけりゃ僕は今頃仕事なんかやめて、田舎に引きこもっているに違いない。いや、あるいは引き籠ると嫌なことが見えてくるから、僕は仕事に身をやつしているのかもしれない。

 好きなもの、嫌いなもの。そりゃだれだって嫌いなものは減らしていきたいだろうけど、そんなことができるのは一部の権力者だけだ。小市民たる僕らにできるのはせいぜい嫌いな食べ物を除けて、辛い現実から目を逸らすぐらい。

 それを越えてしまうと、そいつはただの狂人になるのだろう。むかし誰かが言っていた。

『世に従えば窮し、世に逆らえば狂ぜるに似たり』

 全くその通りだ。


 『――へと進駐したロシア軍と、現地武装勢力との武力衝突はいまだに継続しており、死者は推定でも――』
『最新の報告によると犠牲者の中には子供が多く含まれているとのことで、人権団体などがロシア政府に対し、人道上無視すべからざる事態であると――』
『――ではかねてより民兵組織による麻薬の密売や人身売買などが問題とされてきましたが、民兵組織の現リーダーでもあるロブコフ元ロシア陸軍大尉が、先週末何者かに暗殺されていたことが明らかになりました』

 アメリカ合衆国ノースカロライナ州のフォートブラッグにある僕――ユーリ・マクドゥガルの自宅。そのリビングは窓を閉め切っているせいで薄暗く、壁に埋め込んだ大型テレビから流れるCNNキャスターの声に、シャワールームから漏れ出すシャワー音が重なっている。開封されたビール缶がテーブルに転がっていて、ソファとテーブルがならんだだけのありきたりなリビングに、饐えたアルコール臭いを放っていた。

 ぼんやりと輝いていた画面が切り替わり、人の顔が移される。テレビに映し出された鋭い面貌は、先週暗殺されたという民兵組織のリーダーの顔だ。

 そして彼は、僕が暗殺した男でもある。

 僕らは傭兵で、彼は僕らの標的だった。人身売買と麻薬で一代を築いた彼は他の組織からの恨みをあまりに買いすぎ、そして現地で活動する多国籍軍にとっては障害でしかなかったからだ。

 だから彼は殺された。多国籍軍からの依頼を受けた僕が2km先から放った、8.58mmの徹甲弾に頭をもぎ取られて。

 スコープの向こうで脳漿を撒き散らし、自宅のバルコニーに屍を晒したロブコフの姿が思い出される。引き絞ったトリガーの感触と、弧を描いて頭部に吸い込まれた弾丸の軌跡。爆発的な勢いで飛び散ったゲル状の肉片。

 思わずため息をついた。仕事の後に任務行動中のことを思い出すのは悪い癖だ。前にカウンセリングにかかった時、軽度のPTSDの症状だと言われた。もう傭兵をやめて、平和な生活を送れ、とも。

 言われるまでもなく、やめようと思ったことは何度もある。それでも僕が傭兵を続けるのは、この仕事が唯一世の中の道理に逆らえる職種だからだ。

 民間人は戦場には立ち入れない。正規軍人は命令なくして動けない。でも傭兵は違う。戦う戦場も、その理由も自分で選べるからだ。

 それに戦場を渡り歩く分には、政権がどうだの税金がどうだのなんて厄介極まるものに関わらなくて済むし、なにより世の中の雑多すぎる面倒を遠ざけられる。

 大多数の人は、傭兵になることで跳ね上がる生命のリスクを見て割に合わないというかもしれない。しかし僕ら――自己意志で傭兵になり好き好んで続けている連中――に言わせれば、いくつかある制約を守り、その中から自分の取りえる最適な選択を選ぶことは最高の自由なのだ。

 利益を求めつつもリスクを考え、危険を回避する。自分の命すら駒にして歩き回る事以上の自由があるだろうか。
 人々は鳥を見てあれこそ自由だというが、そんなものはまやかしだ。鳥は自由気ままに飛んでいるのではない。人やその他の動物のように歩き回るだけの強靭な足がないから、しょうがなしに飛んでいるのだ。鳥たちは自由などではなく、鳥としての遺伝子に縛り付けられている。

 それは人も同じで、鳥が遺伝子に縛られるように、まっとうな人間でいる間は人の法や常識に縛られなければ、まともに生きていくことなんてできやしない。

 だから、僕ら傭兵は自由だ。主義も思想も自分次第で、金をくれる雇い主も自分で選べる。言い方が悪いが人も殺せるし、不道徳をとがめる隣人は存在しない。イスラムの戦士が嫌いなら多国籍軍に雇われればいいし、密林の奥で麻薬にかかわりたければ麻薬王の護衛になればいい。

 死ぬも生きるも自分次第。それが最高の自由人たる傭兵の流儀なのだ。

 だから僕は傭兵をやっている。傭兵という職業の自由さが好きだったし、なによりも僕には傭兵でなくては成し遂げられない、何としても完遂したい任務と約束が僕にはあったからで――――

 長い内省の時間を終わりにしたのは、カーテンが開かれる音と共に差し込んできた陽光だった。暗さに慣れた目に、朝日が飛び込んでくる。

 反射的に目を閉じて手で遮った僕は、まばゆい光を背にした相棒のバスタオル姿を窓際に見つけた。シャワールームから出てきたのだ。

「大尉、もう8時ですよ?」

 静かな女性の声だ。僕はようやく光に慣れ始めた目を細め、バスタオル越しのほっそりした体躯に目を留めた。まだ湿った金髪にタオルがまかれ、はみ出た部分が陽光を浴びて輝いている。

「わかってるからまずカーテンを……」
「ダメです。朝はまずお日様を浴びて、それから一日が始まるんですから」

 彼女は呆れたように言って、窓を開放した。途端に新鮮な冷たい空気が流れ込んできて、滞留していたアルコールの匂いを吹き散らし、酒浸りの僕の頭を覚醒させてゆく。

「朝ごはんを用意しますから、大尉はシャワーを浴びてください。目を覚ましていただかないとどうしようもありません。温めなおした死人みたいな顔でうろつかれても、私が困ります」

 そう言いつつ部屋の電気をつけて、彼女はキッチンへ向かう。温めなおした死人ってどんな顔だよ、とボヤキながら僕はその後ろ姿を見送り、すこしぼんやりした後、よろよろとシャワーを浴びに向かった。
 バスタオルと着替えをクローゼットから引きずり出してバスルームに入ると、シャンプーの匂いが漂っていた。バスタオルを手摺に引っ掛け、着替えを籠に放り込んで鏡の前に立つ。 

 なるほど、今日の僕はひどい顔をしている。温めなおした死人とは言いえて妙だ。

 いささか血の気の失せた顔は確かに死人のそれで、肌が青白いせいで目元の大きなくまが目立つ。少し寝不足気味なだけだとは思うが、酒を流し込んだだけでここまで悪化するものだろうか。
 とりあえず血流を良くして顔色を取り戻そう。一日はそれからだ。




 シャワーを終えると、リビングのテーブルには軽い朝食が並んでいた。オムレツ、トースト、ベーコン、コーヒー、そしてキャベツだ。簡素だけど、味が良ければ問題はない。

「昨晩の内に、口座への報酬振込みは確認しておきました」

 朝食のオムレツを口に運びながら、僕の相棒――シルヴィア・フロスト・オーレリウスが報告する。僕はトーストを齧りながら頷き、テーブルの対面に座る彼女を見遣った。

 よく言えばクールで、悪く言えば冷たい印象を受ける理知的な雰囲気が、彼女の特徴だ。生真面目そうに結ばれた口元と落ち着き払った穏やかさを湛える青い瞳が、彼女の内面をあらわしている。

 階級は中尉。本人の自称ではあるけど、僕の副官の立場に収まっている。情報収集やクラッキングなどの電子戦に長けた、僕の優秀なサポーターだ。僕は彼女をシルヴィと呼び、彼女は僕のことを大尉、あるいはユーリさんと呼んでいる。

「振込額に間違いはない?」
「はい、しっかり25万ドルが振り込まれていました」
「ならいい。とりあえず、また仕事があれば回してくれるようにメールをしておいてくれ」
「言われずとも、もう済ませてあります」

 入れたてのコーヒーカップを持ち上げ、口をつける。砂糖もミルクも一切入れていないが、それが僕の好みだ。ココアは好きだけど、コーヒーは苦いものに限る。

 もう一口トーストを齧り、朝のさえないバラエティ番組を垂れ流すテレビに目を向けた僕は、リモコンを手に取ってチャンネルを変えた。

 いくつかのチャンネルを経て、僕はテレビの電源を切った。9時を過ぎると暇な主婦層や子供対象の番組以外に見るものがない。そして僕はそういった番組を見る習慣はなかった。

「今日の予定は……そういえば大尉、お手紙が届いていました」

 トーストにバターを塗りながらシルヴィが言った。今どき手紙を送ってくる知り合いはそう居ない。たいていは電子メールで済ますからだ。

「手紙とはまた珍しい」僕はオムレツとケチャップをトーストに乗せて咀嚼し、「差出人は?」
「ええと、ちょっと待ってくださいね」

 シルヴィは席を立ち、リビングの一角に設けられた書類ボックスへと向かう。そこには仕事に関する書類や、保険証や経歴書などのコピーが突っ込まれていて、ポストに投函される手紙やチラシもボックスへ入れておくことになっていた。

「あった、これです」

 戻ってきたシルヴィの手には封筒が握られていた。それを受け取って差出人を見る。英語で記された宛先の横にはsakigamiの文字が綴ってあった。
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