§3章 ホテル街の悪夢
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中区栄は、昼間であればオアシス21やテレビ塔で賑わう名古屋の繁華街だ。
そこから西へ進んだ地区、錦三丁目は転じて夜の繁華街である。
ビルというビルの至る所に居酒屋やキャバクラの看板が掲げられ、怪しいネオンと激しく点滅する白熱灯が深夜を煌々と照らしていた。
午前二時を過ぎたというのにもかかわらず、飲み歩く人々でごった返し、それをタクシーが除雪車のように掻き分けて広い道路を目指す。
決して歩行者天国ではないのだ。
客引きが調子良いリップサービスを巧みに使って人を呼び止める。
中にはノロノロと進むタクシーの客席にまでアプローチをかける猛者までいた。
そんな有象無象の混雑の最中に、二人の少女が紛れていた。
大樹と葵だ。
「話には聞いたことあるけど、すごいわね」
大樹はやや気後れしながら呟いた。
こんな時間に町を歩くことなどなかったのだから、夜の姿は初めてだ。
「うー、すごい人だよぉ。怖いよぉ」
葵も人の多さと異常な熱気に圧されたのだろう。
はぐれないように、大樹のポニーテールをしっかり握っていた。
「あんたが来るって言ったんでしょ」
「だって、お昼も人が多かったけど、こんな風じゃなかったんだもん」
警察署での騒動の後、とにかく、宿を探そうということになった。
しかし敵に寝首をかかれてはかなわないぞと危惧すると、
『こんなこともあろうかと、泊まる所を下見しておきましたー!』
っと葵がここぞとばかりに大見得を切ったのだ。
「確かにこの人混みなら隠れるのは簡単だろうけどさ」
「でしょー?
あ。大樹ちゃん、花屋さんがまだ開いてるよ」
「ホントだ。なんでだろ?」
「ねえねえ、お花買おうよ」
「それ買ってどうするんだお前……。
それよりいいかげんホテルはどこよ」
「すぐそこだよ。うーんっと、……あった!」
葵が指差した施設の看板には、
『ホテル―MOTEL―』
ホテルの名前がモーテルらしい。
「いやいやいや。モーテルの意味知ってんのかよ」
モーテルとはモーターとホテルを併せた単語で、北米などにある広く長い道路の、街と街の中継地点にあるホテルだ。
日本の感覚で例えるなら宿泊できる道の駅といったところか。
間違っても狭い雑居ビル街にそびえる宿泊施設を示す名前ではない。
「……こんなわけのわからんところに泊まるの?」
「『逃走中はモーテルに泊まるのが様式美よ!』」
「あー私が言いました。言いましたとも。スミマセンデシタ」
人里離れて情報から隔離されやすいモーテルは、〝何が起きるかわからない場所〟というイメージが付きまとい、作品上好都合な潜伏場所なのである。
特に80年代のハリウッド映画では、善玉にせよ悪玉にせよ、モーテルに宿泊は定番パターンなのだ。
「まさか名古屋にモーテルの看板が掲げられてるとは思わなかったわ」
やや呆れながら自動ドアをくぐる。
甘ったるいアロマの香りがふわりと漂ってきた。
フロントにカウンターはなく、代わりにずらりと並んだパネルと赤いボタン。
オルゴールを基調にした優雅なBGMに、アナウンスが上乗せされる。
『いらっしゃいませ、ご希望のお部屋のボタンを押してください』
大樹は葵の胴を抱きあげ、
「しかもラブホじゃねぇかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
と見事なジャーマンスープレックスホールドを叩き込んだ。
アスファルトに脳天を叩きつけられ、「あぶしっ」と葵は泡を吹く。
「ホテルがモーテルでラブホってなにがどーなってんのよ!!」
「うぅ……。いつか死んじゃうよ……」
案外に丈夫な葵は再起し、
「ここ、ラブホテルだったんだ。知らなかったよ」
と、とぼけた声をあげた。
「ったく……よく考えたらここ錦三なのよね」
〝そういうところ〟には〝そういうホテル〟の需要がある。
所在地で気づくべきだった。
「あんたも下見したんでしょうが。フロントまで見なさよ」
そう言ってこつくと、葵は頬をぷくっと膨らました。
「ちゃんと見たよッ!」
「じゃあなんで……」
「だって私、ラブホテルってほとんど名前しかしらないもん」
「え」
「むしろ大樹ちゃんがラブホテルってわかったことにびっくりだよ」
「え」
「大樹ちゃん……」
珍しく優位に立ち、葵はにやーっと微笑む。
「映画だけじゃなくて、ちゃんと〝お勉強〟してるんだねぇー」
「ぐぬぅ────ッ!!」
大樹は耳まで真っ赤になってしまった。
白状せずに図星ですと言っているようなもので。
「それ、いつか活かせるといいねー」
「に、ニヤニヤすんなぁ!
違うからな! お前の想像、全っ然違うからな!!」
「うんうん、ちょっと安心した。まったく興味ないのかと思ってた」
「うぁぁぁ、むかつく! その笑顔むかつく!
却下よ却下ッ!! 女二人でラブホに泊まれるかッ!!」
「あ、まって大樹ちゃん!」
憤ってその場を去ろうとする大樹のポニテを、葵がぎゅっと引き戻す。
「いって! 前々から言おうと思ってたけど、髪をリードに使うんじゃない!
なによ、そんなにラブホに泊まりたいわけ!?」
「ううん。大樹ちゃんじゃあるまいし」
「キ──────────────ッ!」
大樹の金切り声を無視して、葵は続ける。
「大樹ちゃん、私たち警察からも逃げてきたんだよ?」
「そうよ、それがどうしたの?」
「ねぇ、ちょっと冷静になって。
そういうときのために、人に会わないで泊まれるホテルを探してきたの」
「む」
たしかに、ラブホテルは性質上、極力人に対面しないように配慮されている。
モーテルほどとは言わないが、一晩隠れるには都合がいいだろう。
面倒な手続きの要るビジネスホテルのような施設よりはずっと安心できる。
「……意外と考えてるのね」
「えっへん。大樹ちゃんを護るエージェントだもん!」
「あーそんな設定だったな。すっかり忘れてたわ」
「お願いフィクションみたいに言わないで……」
そういうわけで、大樹はしぶしぶ納得することと相成った。
*
ワンルームマンションより、やや広い程度の間取りに、キングサイズのベットがどんっと置かれている。
壁には大型テレビ。全体的にピンクを基調にした可愛らしい部屋だ。
まあ男女二人が愛を営むには十分な設備といえるが……、
「思ったより、フツーのお部屋だね」
「おかしいなぁ。
ベットが回転したり全面鏡張りだったりするはずなんだけどなぁ」
「ねー。ベットが回転したり鏡張りだと、なにかいいことあるの?」
「それは……よくわかんない……」
所詮聞きかじった知識なんてその程度というお話でした。
ちゃんちゃん。
「なんでもいいや。わーい」
葵はベットにざぶんと飛び込んだ。
そのままバタバタとクロールの真似事をする。
「えっへっへー。
大樹ちゃんとお泊りなんて初めてだから、うっれしいなぁー」
「おいおいエージェントさんよ。なんでパジャマパーティー状態なんだよ」
「だって、大樹ちゃんのお家が厳しくて、一緒にお泊りしたことないんだもん」
大樹の家は厳しく、外泊など言語道断という雰囲気だったため、お友達同士で一緒に寝ましょう、なんてイベントなど企画も参加もできなかった。
そりゃあ大樹だって多少憧れた頃もあるが……。
「いまの状況わかってんのかよ」
「わかってるよー。みてみて、これ低反発マクラだよ。
私はじめてだよ! ぐにぐにしてるよ!
あ。どうしようー。
私、着替え持ってなかったよ」
「わかってないだろ絶対。私も着替えないよ」
「え? だって、そのスポーツバック……」
大樹はスポーツバックの口を開け、ベットに中身をひっくり返した。
バラバラと落下するういろう、ういろう、ういろう、ういろー。
あっという間にういろうの山が完成し、大樹はうっとりとした。
「……ステキ……」
「ちょ、ちょっと、ちょっとまって!
下着は!? 歯ブラシは!?
えーっと、なんか新生活に必要そうなものは!?」
「馬鹿ね。今時そんなもんは先に送っちゃうの」
「じゃあこの中、ういろうだけ!?」
「そう。ういろうだけ」
ういろうだけ、ああなんて甘美な響きなのだろう。
つやのある、甘く愛しいプにプにしたういろうだけ。
また大樹の顔がきらきら輝く。
よだれをたらしながら、ういろうだけぇー、と夢見心地で呟いた。
葵はがっくしと項垂れた。
「私、ういろうを命懸けで取り戻したんだね……」
「ありがとう、とっても感謝してる」
「やけに素直にお礼を言うと思ったら、そういうことだったんだ……」
「そうだ、いいこと思いついた!」
ポンッと拍手を叩いて、大樹はいそいそとういろうの封を切り始めた。
「何するの? 一気に食べるの?」
「ううん、もっと素敵なこと」
大樹は完全に夢見る少女の笑顔で言った。
「ういろう風呂! 前からやってみたかったの!!」
「──……」
*
ザブーン……バシャバシャ……。
『うふふ、うふふっ。ねえ見てあおいぃー。
すごいの、とってもすごいの!!
ああっ! ういろうが、こんなに、こんなにたっぷりとして!
私の肌に吸いついてるのぉ……っ』
浴室から今にも昇天しそうな声が聞こえる。
強烈な、カラメルソースのような甘い香りがベットルームまで漂っていた。
「う、うん……。よかったね、大樹ちゃん」
葵は親友の奇行に素でドン引きしていた。
一体、ういろうの何が彼女をそうさせるのだろうか……。
『いいの! これ、すごくいいのっ!! しあわせぇぇ……。
葵もおいでよぉー、すごくすごく幸せになれるよっ』
「ううん、邪魔しちゃ悪いから遠慮するね。
それよりあとでちゃんと真水のお風呂に入ってよ?」
葵はおひとつ頂いて、口に放り込む。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
「──おいしいけど、あれは絶対違うと思うなぁ……」
最終更新:2012年05月28日 18:31