「私」論10


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しかし、「どのように『おかれ』」、また、「どのように『呑み込んで」も、「私」は「すべて」の「前提」。「すべて」は「私」による「解」でしかないのだから、実は「どのような『小説』」も、それは「『私』小説」なのだと言える。そこに「公的」なことであれ、他の「何か」であれ、つまりは、「それ」を「私」が「纏っている」、もしくは「気がつかずに『纏わされている」に過ぎない。

「公」とは確かに「あり得べき『概念』」であるが、それは「私」を「前提」にしたものでなければ、「何だかよくわからないもの」になる。何故なら、「私」はそれとして「当たり前」に「存在する」が、「公」とは「それそのもの」として「存在しようがない」。それを「ある」ともししている人がいるならぱ、それは「私』が創り出した「架空の概念」だと言える。