「私」論07


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「私」というものは、「失われる」ことは「本質的」に有り得ない。もし、あるとすれば、「意思」が「物理的」に「ない」か、「外」からの「何らかの『力』」で、「意思」を「ハナから『持つようにさせられなく』なっている」というある種の「洗脳」「催眠」「被操作」状態にある時で、どちらにしてもそれらは「普通の状態ではない」。

「どのようなかたち」であれ、「私」が「ある」ことが「普通」であり、「私」が「意思」を「『存在』しない」「『存在』させられない」かたちでな「ない」ということは、到底「あるべきではない」し、それは「本来言うところででの」、「滅私」でも「無私」でもない。

「滅私」も「無私」も、「本来は」、「意志的」で「主体的」な「思想」であり、「私」である「自分」によって「なり得る」ことであり、それをキチンと踏まえなければ、「曲解」される、危うい「思想」でもある。