ID:9ogahTI0氏:銀世界の人

 みなみは昔からみゆきによく懐いている。その尊敬の仕方は、自分の親に対するもの以上と言っても良い。
 学問、知識の広さと深さは勿論だが、みなみの得意分野である運動面も非常に優秀で、身体能力は同等といっても良い。そして何より、みゆきの人柄が好きだった。
 かなり前のことだが、一度、みゆきに叱られたことがある。
 と言っても、みゆきは声を荒げるということをせず、いつもよりほんの少しだけ強い口調で、せいぜいたしなめる程度のことを言っただけである。
 その際、みなみは大泣きしてしまった。
 みなみにとって、誰よりも尊敬するみゆきを怒らせてしまったということは、それだけ大事だったのである。
 声にならない声で何度も謝るみなみを見てみゆきは大いに狼狽したものである。
 みなみにとってみゆきは、時に色んなことを教えてくれる教師であり、時に少しだけたしなめる親であり、そして時にしばしば甘えさせてくれる最愛の姉であった。
 では、そのみゆきに、藪から棒に『幽霊がいます』と言ったら、果たしてどんな反応をするだろうか。

 その人物がこの世の者でないと確信したのはついさっきのことだが、昨日から薄々、人ではないとは思っていた。
 みなみに霊感と呼べるような特殊な勘などはない。ただ、妙に雰囲気が薄い感じの人物だとは思っていた。
 規模が大きく、人の入りも多いスキー場の脇に立っている休憩用のロッジには、食事時ではない時間帯にもたくさんの人がいる。
 その人物は壁際に沿って設置されているベンチに腰掛けているのだが、混雑にも係わらずその一角だけは人が他よりまばらになっている。
 みなみ自身もその側を何気なく通ったところ、妙に背筋に冷たいものを感じたものである。
 その冷たさは、首筋からウェアの中に潜り込んだ冬の隙間風とは違う性質のものである。
 恐らく他の人々も、その冷たさから自然とその一角を避けているのだろう。
 但し、みなみのようにその人物に目を向けている者はいない。家族連れがその人物の足の爪先を掠めてもう一丁滑ってこようと賑やかに出て行き、大学生らしきカップルが寒いねと言いながら自動販売機でコーヒーを買い、その人物の足を踏みそうなほど近くを歩いて向こうに腰掛けた。
 皆、その人物に気付いてないかのように振舞いながら、その人物から離れるようにしている。
 かと言って、彼ら全員が何かの集まりで、その人物だけを除け者にしてそういう態度を取っている雰囲気でもない。
 確信したのは、その人物がつと立って振り向き、そのまま壁の向こうに消えてしまったからである。
 誰も騒がなかった。気付いたのはみなみだけらしい。むしろ、思わず立ち上がったみなみにみゆきが驚いていた。
 当然ながら、人間は壁をすり抜けるという芸当は不可能である。
 それにしても、みなみが思っていた幽霊というものとは少しだけ印象が違っていた。
 幽霊というものは顔が白っぽく、足の辺りが半透明で、水平に移動すると思っていたが、その人物は透明ではなく、スキーウェアに身を固め、ごく自然に立ち上がって歩いていた。
 壁をすり抜けたという一点を除けば、普通のスキー客としか思われなかった。
 みゆきに、向こうのベンチに誰か座っていたのを見たか、と聞こうかとも思ったが、みなみとみゆきが座っているテーブルではみゆきがその人物に背を向ける格好だったため、見えているわけがない。
 かと言って、藪から棒に「幽霊を見ました」等と言うのも何となく躊躇われた。
 みゆきは聡明な上にみなみとの付き合いも長いから、みなみが唐突に妙な冗談を言うわけがないと知っているし、どんなことも一笑に付すということを決してしない。だからみなみがいきなり幽霊を見たと言ってもみゆきは決して馬鹿にすることなどないだろう。
 それでも、尊敬するみゆきに、突然変なことを言うものだと思われたりしたら、という気恥ずかしさから、何となく言えなかった。

 三泊四日のスキー旅行の二日目を十分に楽しみ、そろそろホテルに行こうかとみゆきと会話しながらロッジに戻った時、またその人物を見つけた。
 しかし今度ははっきりみなみの方を向いている。
 深くかぶった毛糸の帽子とゴーグル、大き目のスキーウェアのために顔はわからないが、顔だけが明らかにみなみの方に向けられていた。微動だにしていない。
「どうしたんですか?」
「えっ」
 みゆきに声を掛けられて慌てて振り向いた。
「い、いえ」
 そう言って視線を戻した時には、もうその人物はいなかった。
 寒気だけが残った。

 ホテルに戻って夕食を終え、部屋で一息ついたときには流石に恐怖はなくなり、落ち着いていた。
「みゆきさんもお茶飲みますか?」
「お願いします」
 紅茶をいれ、二人の前に置く。
 姉と慕ってきたみゆきだが、ここ一年ほどで遠い存在になってきた、と思う時がある。
 大学生になったみゆきは、これまで以上に落ち着きと清楚さが増したような気がするのである。雲の上の存在になってきた気がして寂しく思うと同時に、この人にはどうしても近づけないのか、と自身を歯痒く思ったりもする。
 このスキー旅行は正月休みを利用した女二人の旅行だが、気分としては親に連れてもらっているのと同じような気分になってしまう。
 尤も、そんなみなみの心中に気付くことなく、みゆきは楽しそうに話している。
「天気も良くて、良いスキー日和でしたね。明日も晴れるようですし、幸運ですね」
 天使のような笑顔で、神仏より優しい声で言われると、思わず口元が緩む。
(敵わないけど……)
 それでも良い、とも思える。姉同様の人であり、憧れの人である。それで良い、と思えてくる。

 みゆきに促され、先にシャワーを浴び始めた。
 多少熱めの湯を浴びながら、今日のあの人物のことを思い出す。
 表情は隠れてわからないし、視線もゴーグルの奥に隠れて確認できなかったが、自分を見つめていたのは間違いない。
(でも、本当に、幽霊、なのかな……)
 今更のようにそう思い、シャワーを浴びているのに寒気がした。
 あの人物の周囲に人が集まらなかったり、それでいて誰も気付かず、挙句に壁をすり抜けたとなっては、人ではあるまい。
 みなみの斜め真後ろにから声をかけてきたみゆきにも見えなかったようだ。
(何で、私だけに……)
 見えたんだろう、と考えたところで頭を振り、立ち上がった。折角の旅行中に嫌な事が起こって不快だが、少しでも前向きに過ごして楽しもうと思ったのである。
 そのまま肩から湯を浴び始めた。
 湯気に曇った鏡に第三者の足が映っているのに気付いたのは、その時である。
 まず、風呂場にスキーウェアらしきものを着て入るなんて状況は基本的にないだろう。
 そして、映ったウェアはみゆきのものではない。
 それら二つの理由により、その足がみゆきのものではないのは間違いない。
 では誰か、となると、みゆきがわざわざ知人か誰かを部屋に招きいれて、スキーウェアのまま風呂場に放り込んで驚かせる、などとあくの強いことをするとは思えない。
 そして、部屋に忍び込んだ泥棒か強盗でもないということも確信できた。
 そう確信できた理由の一つは、知人でも他人でもない、そもそも人ではない『人物』に心当たりがあった。
 もう一つ、鏡に映ったその足が、僅かに透けているのである。
 みなみは硬直した。シャワーの湯が右肩にずっと当たって熱くなっているが、少しも動けなかった。
 湯気で半分曇った鏡には、太股辺りが映っている。
 あの人物のスキーウェアをはっきりとは覚えていない。しかし、映ったその太股は、見覚えがある気もする。
 入浴中に『かごめかごめ』を思い出してはいけない、などという話を聞いたことがある。
 あの人物を思い出したから来たのだろうか。振り向いた瞬間に視線が合うかもしれない。ゴーグルはしているのか。していたら湯気で曇るんじゃないかな。あぁ、幽霊だったら曇らないかな。などと間抜けなことを考えたのは、混乱のせいかもしれない。
 落ち着くと同時に全身に鳥肌が立ったのはそれから数秒後だった。
「……あ」
 その人物は、姿を現してからみなみが冷静になるまで微動だにしていない。ロッジでみなみを見つめていた時と同様である。となると。
(……ずっと、見られてる、の?)
 ずるり、とシャワーを取り落とした。床に落ちてゴツンと鈍い音を立て、湯がみなみの膝を暖め始めた。
 みなみのつま先に落ちたシャワーは上を向いて、後方にも湯を飛ばしているから、位置的にはその人物にもかかっているはずである。事実、湯が飛ぶ様子が鏡に映っている。
 湯は後ろの人物のスキーウェアを濡らすことなく、ウェアをすり抜けて床を濡らし続けている。
 やや透明な感じに見えるのが、後ろの人物が尋常でないことを今更のように印象付けている。
「……ひっ」
 ぎゅっと目を閉じた。目を離した瞬間にその人物が動くかもしれない。しかし怖くて見ることが出来なかった。
「あ、あ……」
 寒さでなく、純粋な恐怖で歯がカチカチなった。

 みゆきが長風呂を心配して扉を開けた瞬間、みなみは腰を抜かして座り込んだ。
「ど、どうしたんですか?」
「……あ」
 振り向いた先には、あの人物はいなかった。誰よりも尊敬する人物が心配そうにみなみの顔を覗き込んでいた。

 みゆきもシャワーを浴びてきた後、みゆきが真剣な表情でみなみの前に座った。
「みなみさん。本当に大丈夫なんですか?」
「は、はい」
「昼間も少しボーっとしていたようですけど、体調は申し分ないんですね?」
「は、はい。大丈夫です」
「そう……」
 そう、とは言ったが、そのまま無言でじっとみなみを見つめてくる。
「……ぅ」
 まずい、と思った。みゆきのこの視線に耐えられたことは一度もない。
 しかもみなみは思わず視線を落としてしまった。これでは、何事かあったということを自白したも同然である。話さない限りみゆきは許してくれないだろう。
「……」
 恐る恐る目を上げると、まだじっと見つめてくる。
「みなみさん」
「うっ」
「何か、あったんですか?」
 普段と変わらないやわらかい口調だが、付き合いの長いみなみにはよくわかる。口調にはみなみにしかわからない厳格さがあり、言い逃れを決して許してくれないのである。
「……」
「みなみさん……」
「……ぅ」
 遂に観念した。
 話している間、みゆきは一度も口を挟まず、真剣な視線のままみなみを見つめていた。

「……わかりました」
 と言ったみゆきの顔は、穏やかなものに戻っていた。
「し、信じてくれるんですか?」
「ふふ。みなみさんがそんな嘘をつく訳ないじゃないですか。それに」
「それに?」
「みなみさんは妹のような人ですからね。妹の異変に気付かないようでは姉として失格ですから」
「えっ」
 一瞬絶句した後、落涙しそうになった顔を見せるのが恥ずかしくなって顔を伏せ、気付かれないために話題を戻した。
「で、でも、明日からどうしましょうか」
「そうですね。その幽霊というのは、スキー場にいたのが憑いてきたのかもしれませんね。今日は無理ですけど、明日は取り敢えずホテルを変えましょうか。今夜何かあるようだったら、明日帰りましょう」
「は、はい。でも、気のせいかも知れませんし」
「気のせいだったら、みなみさんはそんなに困った顔をしていませんよ」
「うっ」
 また涙が出そうになった。

 金縛りになることもなく、悪夢を見ることもなく、穏やかに夜は明け、またスキー場にやってきた。
「いますか?」
「い、いえ」
 勿論幽霊のことである。
 スキー場に来る前に別のホテルを調べ、既に予約を取っておいた。混雑が予想されて難しいと思われたが幸運にもすんなり見つかり、午前中のうちにスキー場にやってくることが出来た。
「いないみたいです」
「そうですか。見つけたらすぐに言って下さいね。と言っても、私は何も出来ないですけど」
 少しばかりおどけた口調で言われて、救われた気分になった。

 そろそろホテルに行こうかなどとロッジで会話していた時に、現れた。
 ロッジの隅から、また顔だけをみなみの方に向けてじっと見ている。
 みゆきの袖をくいくいと引っ張り、小声で「いました」と言い、目だけでその人物を示した。
「どこですか?」
「そこの椅子の角のとこです。見えませんか?」
「うーん……」
 じっと見据えるが、やはり見えないらしい。
「見えないですけど、早くホテルに行きましょう」
「は、はい」
 昨晩ほどの恐怖がないのは、間違いなくみゆきのおかげだった。



 目が覚めた時には、全身に汗をかいていた。何か悪夢を見ていた気がするが思い出せない。
 しかし悪夢を思い出す暇もなく、誰かが歩いて近づいてくるのに気付いた。
 二、三秒に一歩くらいのペースで、絨毯を踏む微かな音が近づいてくる。一気に鳥肌が立った。
 みゆきの穏やかな寝息も聞こえるから、足音の主がみゆきでないのは間違いない。オートロックの、しかもそこそこ良い所のホテルだから、物盗りに入ったとも思えない。
 そして遂に、みなみのベッドの隣で小さな足音が止まった。
 足音が聞こえ始めてから激しくなり始めた心臓の鼓動がいよいよ強くなってきているが、次の瞬間、その鼓動が一瞬で止まるかと思うほどの恐怖に襲われた。
 顔の両脇に、何かがドスンと打ち下ろされたのである。
「ひぃっ」
 掠れたような声にならない声が出、思わず目を開けてしまった。
 目前に、顔があった。

 奇妙なもので、電気はついていないのに顔は良く見えた。
 相変わらず大き目のスキーウェアだが、顔の下半分も見え、半開きの口が覗いた。
 ゴーグルはしていなかった。
 両目とも、目玉が飛び出るのではないかと思えるくらい剥いてみなみの顔を覗き込んでいる。
 半開きの口に目を剥いて、鼻の先が触れそうなほど近くにいる。顔の両脇に置かれているのは両手だった。
「……」
 呼吸も思考も停止した。

 更に次の瞬間、みなみの目の前を何かが通り過ぎ、柔らかい音を立てて壁に衝突した。ほぼ同時に、かなり強い力で腕を引っ張られてベッドから引き摺り下ろされた。
 絨毯の上に落ちたので痛くはないが、そのままぎゅっと抱き締められた。
 温かい腕の間から、さっきの人物が見えた。のっそりと突っ立って目を剥いてじっと見つめてくる。
 そのまま十数秒。
 その人物の姿がすーっと薄くなり、消えた。

「大丈夫ですか!?」
 みゆきだった。
 先ほどみなみの出した声は小さいものだったが、みゆきの耳に届いていたのである。
 はっと目を覚ますと、スキーウェアを着た何者かがみなみに覆い被さっているのが、視力の悪いみゆきの目にもはっきり見えた。
 寝起きの頭は一瞬で回転し、咄嗟に枕をぶん投げ、かつ飛び出して布団から引っ張り出した。
「……ぁ」
「大丈夫ですか!?」
「……ぅ」
 ぼろぼろと泣き出した。恐怖が蘇ると同時に、みゆきの腕の温かさに大きな安心感を覚え、堰が切れたように涙が零れた。みゆきは黙って抱き締め続けていた。

 人物が消えた午前四時頃から三時間ほどまんじりともせずに過ごした後、早々にホテルをチェックアウトし、帰宅後柊家で御祓いをしてもらった。
 正月休みということもあり、かがみもつかさも家にいたため、スムーズに話は進み、すぐに終わった。特に憑いているものはないという話ではあったが。
 十日ほどして、新聞紙の隅に小さく死亡記事が載っていた。
 みなみとみゆきが一日目、二日目に泊まったホテル近辺で若い女が死んだらしい。
 ホテルの窓から飛び降り、深く積もった雪の中に落ちて凍死したという。
 自殺の兆候もなく、しかし他殺とは到底思えない状況であり、怪死事件状態となっているらしい。
 その記事を見ながら、つい先日の恐怖体験をゆっくり思い出していた。
 壁際のベンチでじっと座っていたこと。
 じっとこちらを見つめてきていたこと。
 風呂場の鏡に映っていたこと。
 目の前にまで迫っていた顔のこと。
 そして最終日、チェックアウトしてホテルを出る直前。トイレに行って先にみなみが出て、みゆきを待っていた時の一言。
 ふっとトイレの方を向いた時、肩越しから、男か女かよくわからない声だった。

「次は、いつ来てくれる?」

 はっと振り向いた視線の先、ホテルの出入り口からゆっくりと出て行くスキーウェアの人物の後姿を、みなみはゆっくり思い出していた。
 突然のことで恐怖を感じる暇もなく、みゆきが戻ってきた時もごく自然に応対できていた。恐怖を覚えたのはホテルを出た直後だったが、前を歩くみゆきは気付かなかった。
 みゆきに対して嘘を隠し通せたのは、これが初めてのことである。
 その年は例年になく雪が多く、多くのスキー客がそのスキー場を訪れたというが、付近での変死者は一名だけだった。
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