「はぁ…」
さっきから同じ溜め息を何度ついただろう。
私はお茶を点てながら、窓の外へ目をやった。
様々な部活が、活発に活動をしている。
陸上部の視線を移すと、みさちゃんが入念にストレッチをしているのが見えた。
みさちゃんの顔を見ていると、また溜め息が出そうになる。
昼休みのことだった。
私は、朝のホームルームで配布された進路希望調査の紙を机に広げ、悩んでいた。
自分が何をしたいのか、どういう大人になりたいのか。
高校を卒業してからの人生など、自分自身のことを全て知っている自分ですら分からない。
私がシャープペンシルを片手に唸っていると、みさちゃんが軽い足取りで近付いてきた。
「おーい、あやのー」
私は返事をしなかった。集中していたから。
「おーい、あやのってばー、無視すんなよー」
みさちゃんが私の髪の毛をいじって遊ぶ。
私はそれでやっとみさちゃんに気付き、返事をした。
「ちょっと待っててね、今進路のことで頭いっぱいだから」
「進路? そんなの適当でいーじゃん。ところでさぁ、昨日な…」
一瞬、頭に電気が走った。「適当でいい」というみさちゃんの言葉に、無性に腹が立ったのだ。
「進路が適当でいいわけないでしょ! みさちゃん、いっつも適当なんだから!
みさちゃんのそういうところ、私、嫌い!」
言ってから後悔した。何もそこまで言うことなかったのに。
みさちゃんは私の言葉にショックを受けたのか、悲しそうに俯いて何も言わずに教室を出て行ってしまった。
呼び止めようとしたけど、そのとき丁度柊ちゃんが私を訪ねてきたので動くことができなかった。
みさちゃんがストレッチを終えたようだった。
軽いジョギングを始めている。私は自分の部活の事も忘れて、外をずっと気にしていた。
「峰岸さん、手が止まっていますよ」
天原先生の声がして、私は我に帰る。
「あ、すいません…。ちょっと考え事をしていました」
天原先生が柔らかな笑みを浮かべた。
「そうですか。悩み事があったら、いつでも相談してくださいね」
「…はい。ありがとうございます」
茶筅をゆっくりと回す。茶の匂いが、私の心を落ち着かせていく。そしてそのまま目を閉じると、不思議と和やかな気分になれた。
天原先生にこのことを相談したら、どういう答えが返ってくるんだろう。
茶筅の動きを止める。
やはりみさちゃんのことが気になって仕方がなかった。
「…あ、お茶碗が足りないわ」
天原先生が言った。顔はいかにも失敗したという顔をしていた。
「先生、私が取って来ます」
なんとなく茶道部の雰囲気が嫌になってきたので、私は少しでもこの部屋を離れたくなった。
「そうですか。お願いしますね」
天原先生はさっきと変わらない笑顔を浮かべて承諾してくれた。
私はゆっくりと立ち上がり、茶碗のある棚へと向かった。
お盆に茶碗を並べる最中、窓から外を眺めた。
みさちゃんが、短いダッシュを繰り返していた。
私の手から、茶碗が零れ落ちた。茶碗が音を立てて割れる。
「あ…」
みさちゃんのことが気になって、手元が狂ったのだろう。私は茶碗の欠片を手で集めた。
「峰岸さん、大丈夫ですか?」
「痛っ…」
天原先生が駆けつけると同時に、私は茶碗の小さな欠片で指を切ってしまった。
少し深めの傷口から、血がじわりと流れてくる。
「あらあら、これは保健室で手当てする必要がありますね」
天原先生が私の手を取って言った。私は天原先生について、保健室へと向かった。
「…よし、これで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、天原先生」
幸い、傷は大したことないようだった。
私は、絆創膏を巻かれた人差し指を見つめた。絆創膏には、赤い染みが少しついていた。
天原先生がささやいた。
「峰岸さん、何かあったんでしょう? 先生に話してくれませんか?」
天原先生の顔を見上げると、顔にはいつもの笑みはなかった。
真剣に私と向き合っている。
そのまま、沈黙が流れた。
私は、何度も言い出そうとしたがなかなか切り出せなかった。
突然、どたどたと廊下から音がした。
保健室のドアが乱暴に開く。
「すいません、天原先生! 怪我人です!」
入ってきたのは、隣のクラスの陸上部の子だった。
背中に、誰かを背負っている。
「…みさちゃん!」
紛れもない、みさちゃん本人だった。膝からは大量の血が流れている。
「血が酷いですねぇ。でも、これぐらいならガーゼを貼っておけば大丈夫ですよ」
膝の具合を見ながら、天原先生は言った。
私はそんな風には思えなくて、おろおろしていた。
「みさお、大丈夫?」
「うぅ~、痛ぇよぉ~」
みさちゃんが本当に痛そうにしていた。
私はみさちゃんの方に行ってあげたかったけど、昼のことが気になって行動に移せなかった。
「日下部さんは私が看ますから、大丈夫ですよ。部活に戻ってください」
「そうですか? …じゃあ、お願いします。みさお、無理して出てくるなよ~」
「おーう、サンキュ。ありがとな」
陸上部の子が保健室から出て行く。
「あ、ガーゼがないわ」
天原先生が棚を漁りながら言った。
「日下部さん、今ガーゼを取ってきますからちょっと待っていてくださいね」
「あ、はい」
天原先生も保健室から出て行った。
保健室には、私とみさちゃんの二人きりになった。
気まずい雰囲気が漂う。
「あのさ」
「あのね」
二人同時に声を発した。気まずさが更に増す。
「あやのから言ってよ」
「…うん」
私は一呼吸置いた後で言った。
「その…今日はごめんね。私、あんなに強く言うつもりはなかったの。
すごく真剣に悩んでたから、神経質になっちゃって…」
そこから先が続かない。もっと謝らなければいけないことはある筈なのに。
私が口ごもっていると、今度はみさちゃんが口を開いた。
「私が悪かったよ。あやの真剣に悩んでるのに、私、適当なこと言っちゃって…。
私も進路のことは考えてるんだけどさ、どうしても、なんつーか…。痛っ!」
みさちゃんが膝を抱える。私は慌ててみさちゃんに自分のハンカチを差し出す。
「これで膝押さえて。強く押してれば血は止まるから」
「おう、悪ぃ、サンキュー」
みさちゃんは私のハンカチで膝を押さえた。ハンカチが朱に染まっていくのが見える。
「酷い怪我ねぇ。どうしたの?」
「いやぁさ、今日あんなことがあったろ。結構気になっちゃってさぁ。あやの怒らせんの、久しぶりだったし」
みさちゃんが照れたように笑う。それにつられて、私も笑った。
「そういえばさっき、何言おうとしてたの?」
「あー、それね。えーと、私さ、陸上でオリンピックとか出たいなぁ、とか思ってさ」
「みさちゃんが?」
「うん。結構言うのも恥ずかしいんだけどさ」
「…みさちゃんなら大丈夫。私、応援するよ」
「ありがとな、あやの」
あぁ、よかった。いつもの2人に戻れた。こうやって、いつも2人で仲良く話して。
こうやって時間が過ぎていくのが、とっても心地がよかった。
保健室を少し見回すと、ガーゼの入っている棚が目に付いた。
そこを開けてみると、ガーゼはしっかりと入っていた。
その時、私は悟った。
「天原先生ったら、気を遣ってくれたのね…」
少し照れくさくなって、みさちゃんのほうを見た。
みさちゃんは何かよく分からないという顔をしていたが、すぐ笑顔に変わった。
それから天原先生が戻ってきて、みさちゃんの手当てをしてくれた。
みさちゃんがグラウンドに戻るのに付き添って歩いた。
「なぁ、あやの」
「なぁに?」
みさちゃんが少し顔を赤くした。
「その…。いつもありがとな」
頬を指で掻きながら、みさちゃんが言った。
私はその言葉を聞いて、ふぅ、と溜め息をついてみた。
「な、なんだよぉ」
みさちゃんが戸惑っている。
私は、みさちゃんの顔をまっすぐに見て言った。
「当たり前でしょ? 小さい頃からずっと仲良くしてるんだから。それで…」
丁度その時、学校のチャイムが鳴った。
私の声は、それにかき消された。
「『それで』、なんだよ?」
「え、いや、何でもないの」
「何だよー、気になるなぁ。教えろよぉ」
「ダメー。秘密よ」
今思うと、言うのがすごく恥ずかしいことだった。
「これからも、大学へ行っても大人になっても、ずっとずっと仲良くしようね。みさちゃん」
Fin