「スタートラインは雪の上」 ID:HH60DyM0氏

「ここは・・・どこですかぁ?」

その問い掛けは、誰に向けられたものなのか。
白い雪野原を、沢山の人が思い思いに滑り降りてゆく。しかし、その中に一緒に来てた母親の姿は見つからない。
みゆきの口からこぼれるため息。それは白く彩られていて、次第に空へと溶けていく。

もう一度息を吐き出した時、そのもやが溶けていく過程を一緒に見送ってくれる人がいた。
見知らぬ男性。みゆきは不思議そうな目で、ゴーグルをつけたままの彼を見上げた。

「もしかして‥‥道に迷った?」
「は、はい・・・お恥ずかしながら」

ゴーグルを外して露になったのは、優しい瞳。
彼から発せられるやわらかい空気に疚(やま)しいものは感じない。みゆきの内にある僅かな警戒心もすんなりとほどけていく。
真っ白な気持ちのままで、みゆきもゴーグルを上にあげた。彼の顔が一瞬だけぎょっ、と驚きの表情を見せるが、次の瞬間には元通り。
先ほどと変わらぬ、優しい笑顔がそこにはあった。

「そうか‥‥友達と来たとか?」
「い、いえ・・・母と、二人で。でもその母とはぐれてしまったので、一体どうすればいいかと‥‥」

スキーのスティックを持ったままの手を恥ずかしげに口の方へとやる。頬が少し染まっているのは羞恥心から来るものなのか、それともこの寒さに当てられたからなのか。
彼が再びゴーグルをつけた。スティックを軽く握って、みゆきの方に微笑みを向ける。

「分かった、じゃあとりあえず山のふもとまで案内するから。名前は何て言うの?」
「えっと、高良みゆき・・・です」
「みゆきさん、か‥‥‥わかった、それじゃあ‥‥滑れるよね?」

みゆきがしっかりと滑る体勢を整えてることを確認する。
ここは特別な許可のいる上級者向けコース。滑るのが下手くそだということはまずないだろうと判断した彼は、片手を上げて出発の合図を告げた。

「よし!じゃあ行くよっ」
「えぇっ、は・・・はいっ!」

何の迷いもなく滑り降りていく彼の背を追うようにして、みゆきもそれに続く。
流れるような景色。それは車の窓から眺めるものとはまた違った、臨場感のある特別なもの。

「やっぱり、か・・・」

少し離れた彼の口から漏れる言葉。それは小さく、決してみゆきに聞こえはしないものだった。









1月。
新たな年の到来による興奮も覚めやらぬ中で、今日‥‥始業式という日は訪れた。
年の始まりを慶びあう声と、約二週間ぶりの再会にざわめく生徒達。それに紛れて、一つのため息が聞こえた。
悩みと淀みを含んだそれを放った主の髪の色は桜色。北風の強く吹き荒れるこの季節、桜の花びらが花開くには少し早すぎる。

だが季節など関係ない。
高校生とは誰もが色んなものに花を咲かせる時期なのだから。


「どうしたの、ゆきちゃん」

頭にリボン、気さくなニックネームで呼ぶのは彼女の友達、柊つかさ。
友の優しい声に目をぱちぱちさせて、まだため息の気持ちが残ったうつろな目を向ける。

「あ‥‥はい、私がどうかしましたか?」
「どうかしたじゃないわよ。この子達の話だと、朝の起立の号令も忘れてずーっと呆けてたらしいじゃない」
「ん~‥‥何かに取り憑かれたみたいにボーっとしているみゆきさんもかなーり萌えなんだけどね。いっそみゆきさんヤンデレ計画でも立ててみようか‥‥」
「新年早々なにワケの分かんないこと口走ってるのよ。もしかしてアンタだけ年越せてないの?もういっぺん寝とく??」
「いやいやかがみんこそ日本語変だから」

後から現れた二人組は、同じく彼女の友人である泉こなたと、つかさの双子の姉である柊かがみ。
友人達の会話に気を安らげながらも、それをさも気にせんとばかりに再びあごに手をついてため息を漏らした。

「‥‥ゆきちゃんやっぱり変だよ。もしかして、何か悩みごと・・・?」
「いえ、えっと‥‥」

目の前で相変わらずのコントを繰り広げる二人と、右で心配そうにするつかさ。
つかさの表情は真剣だ。少しでも力になれたら、という思いが伝わってくるほどに。
そんな風に心配してくれているにもかかわらず、理由を説明できない自分がもどかしい。

もう一度思案してみる。それは本当に話せないことなのか?
何となく話しづらいだけであって、自分でもハッキリとしないこの気持ち。
‥‥ならば話してしまおう。相談に乗ってくれるのも、また友だ。

俯きがちな顔を少しだけ上げて、心細げな声を出す。

「‥‥私、冬休みにとある男性と出会ったんです」
「・・・は?」

それは何ともストレートな意味合いを持つ発言。
まるで予想もしなかった言葉に、揉め合っていた二人の動きも凍りついたように停止する。

「正確には‥‥母とスキーに行った時でした。初めてのスキー場で迷ってしまった私を助けて下さって、その後もしばらく一緒にいて、色々と話をしたり‥‥」

水を差すような者はいない。
かがみはどういう経緯でそうなったのかこなたのアホ毛を掴んだまま。こなたも何故そうなったのか定かではないが、かがみのポニーテールを両手で鷲掴みにした体勢のままだ。
つかさはうんうん、と一人頷く仕草を見せながら、皆がみゆきの話に没頭する。

「その方とはそれきりなのですが‥‥何故なのか、今でもたまに彼のことを思い出しては‥‥こう、ため息をついてしまうんです・・・」

先ほどと変わらぬ憂いの表情。それは時間にして分にも満たない会話だった。
だがその間に空気は一変。つかさは目をキラキラと輝かせ、こなたはおぉ~と頷くようにして首を縦に振る。かがみは空いた方の手でみゆきを指差しながら、ぷるぷるとその指を震わせて。

「みゆきっ!それ、どんな人だったの?!」

がっつくようにしてみゆきの机に手を置いて身を乗り出すかがみ。
その迫力に思わず椅子ごと仰け反ったみゆきだが、左右にいるこなたとつかさが逃さず、同じように身を乗り出して追い討ちをかける。

「ええっ、どんな人と申されましても‥‥その、私と違って紫外線を防ぐゴーグルを着用してらした・・・」
「そうじゃないよみゆきさん、どんな感じの人だったのかってゆー話。たとえば性格とか、見た目とか‥‥」
「いたいいたい!そろそろ私の髪の毛掴むのやめなさいよっ!!」
「何だとぉ?!かがみんこそ私の大事な萌え要素を掴むなぁっ!!かがみが離すまでっ!僕はっ!このツインテを掴むのを止めないっ!」
「だぁああぁっ、引っ張るなぁー!!」

精神年齢の低下が著しい二人を蚊帳の外にして、つかさはずずいと顔を前にした。
瞳から放たれる曇りの無い水晶玉のような輝きが眩しい。

「で?で?カッコよかったの?優しかった??」
「両方・・・でしょうか。私より年上で、とても思いやりのある優しい方でしたし、まるでお兄さんのようだったといいますか‥‥」
「へぇえ~っ!へぇえ~っ!!」

ぱぁっ、と童話のお姫様に憧れる少女の顔をする。ある意味、一番精神年齢が幼いのはつかさの方か。
両手を前に組んでトドメの一言を繰り出す。

「じゃあゆきちゃんはその男の人が好きなんだねっ!いぃなぁ~♪」
「へっ、え‥‥‥えぇえええぇっ!!!?」
「みゆき、声大きい。つかさも空気読めない発言は控えろって日ごろからあれほど言ってるのに」

後ろに椅子ごと倒れてしまいそうなオーバーリアクション。
しかしそれが確たる証拠となった。
感じたことの無いこのときめき。薄々ながら、みゆきもこの気持ちの正体に感づいていたのだろう。

「そ、その私はその、そそっ、そんな風に思ってるわけじゃ・・・」

耳まで染まるほど顔を真っ赤にされながら言われても、当然説得力のカケラも無い。
みゆきの弁解はなかったものとして話は進んでいく。

「とりあえず、やっと私達四人の中にもそういう色気のある話を持ち出してくれる人が現れたわけか~うんうん。
つかさはいつの間にかそのボケボケぱぅわーでフラグばっきばきにするタイプだろうし、ツンデレは隣のクラスじゃ需要ないみたいだしね」
「アンタはどうなのよ。まぁ小学生相手じゃ恋愛感情のカケラも湧かないか」
「むぅっ‥‥でもそんな小学生に突っかかってくるかがみんはそれ以下だよね。もしかして幼稚園児ですか~?おーよちよち♪」
「何だと、貴様ッ!!」

売り言葉に買い言葉。
加速度的に精神年齢を低下させていく二人のやりとりをBGM代わりにして、まだおろおろと落ち着かない様子のみゆきに一人乙女モードで質問を繰り返す。

「で、ゆきちゃん。その人のことを考えてて、何かいつもと違ったこととかある??」
「べ、別にどうというわけではないのですが‥‥その、ボーっとしてしまう時間が増えたり、気付けば乗るはずだった電車を三本ほど乗り過ごしてしまったり、夜に本を読んでも眠れなかったり‥‥ということはありました」
「つまり、ドキドキするんだね・・・?」
「は‥‥はい、正確には。で、でもお陰で暖房をつけなくても暖かいので経済的といえば経済的というか」
「みゆき、それ言い訳になってない」
「あぅ‥‥」

ここまで話せば誰もが分かること。つまりみゆきは、

「その人のこと、好きなのよね?てゆーかほぼ確定だと思うけど」
「あ、うぅ‥‥‥そう、なのかも知れません・・・」

高校三年生という成熟に近い段階で、初めて恋という甘酸っぱい味覚を味わったのだ。

「ひゃほーっ!!みゆきさんに好きな人が出来たぞぉーーーっ!!皆の衆、喜びたまへーっ!」

ざわっ。
一瞬の静寂の後、それを取り戻して補い逆に襲い掛かってこんとばかりのざわめきと鋭い視線が四人・・・正確にはみゆきに集結した。

「こ、こらっ!こな‥‥!!」
「ちょっと、泉さんっ!やめ・・・」

必死にはやるこなたを抑えようとする二人。
だがおだてられて木に登った豚が、その程度の注意で留まるわけも無く。

「こりゃ今夜は祭りですのう‥‥カラオケ行って、ゲマズ寄って、それからそれから・・・♪」
「こなた、いい加減に───‥‥!」

ゆらり。
慌てるかがみの前に立ちはだかる、一本の手。

「・・・あ」

こなたの目の前には、何やら怪しいオーラを全身から吐き出しながら立ち上がる何者かの姿。
気化したその圧力ともいえるオーラは、こなたの動きを容易く封じて絡みとる。

みゆきの表情は変わらず、ニコニコとした笑顔で。

「・・・少し、教室の暖房が利き過ぎたみたいですね。でももしかしたら発熱源は泉さんの頭の中かも知れませんし。
大丈夫ですよ、今すぐ冷却措置を施させていただきますので。そういえば中庭の方の池に氷が張っていたようですから、これで湧き上がった脳みそもすぐに冷めると思います。
───それはもう、お釣りが来るくらいに」
「ええっ………えっとぉ、頭の中が湧き上がった、ってのは比喩であって非科学的なものなんじゃないの?みゆきさん‥‥」
「あ、皆さん勘違いしないで下さいね?今日泉さんは少し熱っぽいらしいので、クラス委員長として保健室まで連れて行くだけですので。どうぞゆっくりとなさってて下さい。
───どういう経緯で保健室に行くことになるのかは省略させて頂きますが」
「ちょっ、話を聞いてよみゆきさんんんっ!!!痛っ、いたい!腕!ツメがっ!!誰か、助けっ」

再び訪れる、それはそれは長い静寂。

「しまった‥‥先に空気を読むよう注意すべきは別の人間だったか・・・」

かがみの後悔の念を孕んだ独り言も虚しく、さっきまで熱いくらいに燃え上がっていた喧騒の灯火も、中々教室へと広がってこない。
波立たぬ水面のような静けさが支配を続ける。
やがて十分と経たないうちに、みゆきは戻ってきた。

「お、おかえりみゆき。結構早かったわね」
「いえいえ。病人を病室に送り届けるだけの作業でしたし」
「と‥‥ところでゆきちゃん‥‥こなちゃんは・・・」

余韻覚めやらぬまま、冷や汗を垂らしながら質問を繰り出す妹。
その少し汗ばんだ手を姉が掴んだ。

「やめときなさいつかさ。今のみゆきにその言葉は禁句。私はまだ死にたくないわよ」
「う、うーん‥‥じゃあ」

どうやら用意されていた質問事項は二つだったらしい。
スカートを握ることで手の汗を拭い取り、再び顔を上げた。

「ゆ、ゆきちゃん。あのね‥‥その人ともう一度会いたいなぁーって、思わないの・・・?」
「えっ‥‥」

映るのは、さっきと同じ慈しみを込めた瞳。
こなたのような口から出任せの発言でも、ましてやからかう気持ちなど微塵もないことがハッキリと分かる。
それは殺伐とした場の空気を一瞬にして中和させ、恥じらいゆえにバリケードを作ったみゆきの心をも正常に戻すものだった。

「・・・それは」

確かに、もう一度会いたい‥‥という気持ちはみゆきの中にはあった。
もう一度会って、他愛ないお喋りをしたい。頭を撫でて、ニコっと笑ってほしい。

でももしも、その彼に恋人がいたとしたら?
そもそも、彼といたのはほんの数時間の話。そんな短時間の間にこんな気持ちになってしまう女の子のことなど、嫌いになってしまうんじゃないかと。

相手のことを考えて、また胸が苦しくなる。
会いたい。でも何故だか会うのが怖い。会いたくない。

黙りこくってしまう彼女の姿を見て、ため息を一つ。

「・・・はぁ。とにかく、みゆきはもう一度その人と連絡だけでも取ってみるべきだと思うわ。恋なんて誰もがするものなんだし、せっかくそういう気持ちになれたんだからもったいないじゃない」
「はい‥‥でも、住所とかも全く聞いていませんし」

落ちていくみゆきの心を今度はかがみも見逃さなかった。というより、その落胆の表情はあまりにも分かりやすくて。
俯きがちな憂いの瞳。いつかつかさが言ったように、目を細めて物憂げにしている女性・・・今のみゆきの姿は、いつもとは違う何かを放っていた。
それは彼女の持つ女らしさを一層深いものにし、同性のかがみやつかさでさえも思わず胸をときめかせてしまうほど。
そう‥‥いわゆるひとつの、恋するオーラ。

「確かに・・・それは問題よね。連絡手段がないんじゃあ‥‥」
「携帯電話の番号とか、メルアドとかは聞いてないの?」
「あっ‥‥」

はた。
ずっと猫背でもじもじとしていたみゆきが急に背筋を伸ばし、目をぱっちりと開ける。
左手をスカートのポケットに忍ばせて、あるものを引き抜いた。

「それならば、こちらに」

メモ帳から引き抜いたような紙は二つ折りにされていて、そこには迷うことなき彼の携帯電話の番号、それとメールアドレスが記されていた。

「ちょ、あるんじゃない!!」
「でもゆきちゃん、なんで制服のポケットに入ってるの?これってスキーの時にもらったものなんじゃ‥‥」
「あ、いえ大した理由じゃないんです。ただ‥‥これは彼から貰った唯一のものでして、こうやってポケットに入れておくと安心するので・・・お守り代わりにこうしていつも持ち歩いてるというだけで」
「へぇえ~!!へぇえ~!!!」

つかさのテンションは最高潮。
かがみも確信を持った目でみゆきに尋問のような問いかけを続ける。

「‥‥こりゃ重症ね。しかもことごとく使い道を間違えてるあたりみゆきらしいというか‥‥やっぱりみゆきはその彼が好きなのね。間違いないわ」
「そ、そんな‥‥」

恥じらいで一度は制すものの、続く言葉が出てこない。
そんな彼女を傍目にかがみは頭に手を当てて、またため息をつく。ただし嫌悪感から発生するため息ではなく、温もりを孕んだ優しいため息だ。
ガラッと勢いよく扉の開く音。

「じゃあ決定だねみゆきさん!!名付けて『みゆきさんと運命の彼をくっつけちゃおう作戦』、開始っ!!」
「ぁ、こなた生きてたんだ。てゆーかなんで体操服のジャージ‥‥」

周囲の視線を独り占めしてグッと親指を突き出すこなた。身に纏っている学生臭さ満点のジャージがある意味で眩しい。
更に背後からは、この教室の担任・黒井先生が。

「おぅみんな席に───‥‥って、何や泉その格好は」
「先生。泉さんでしたら、先ほど誤って中庭の池に落ちてしまって制服がびしょぬれになったとか」
「うぅぅ‥‥‥」
「お前なー、新年早々なに不謹慎なことしとんのや。迷惑かけてすまんかったな、高良」
「いえいえ、これでも一応クラス委員長ですから」

清々しいまでの微笑みを放つみゆき。
見れば、先ほどのことがフラッシュバックしたのか頭を抱えてブルブルと縮こまっているこなたの姿が教室の端っこにあった。
髪の毛の色に追いつかんとばかりに顔を真っ青にして、カチカチカチカチと秒に五回の速さで歯を鳴らしている。

「‥‥わかった。敢えて訊かないでおくから。今後の脅しのネタにも使えそうだし」
「かがむぃ~~~!!アンタは鬼だ!悪魔だ!最低だぁあ!!」
「はいはい、いーからアンタはみゆきと彼をくっつけるためのメールの内容でも考えて───」

投げやりに言い放ちながら、振り向きざまに手を振って教室から出て行こうとする。
担任の指示によりほとんどが静かに席で待機している状態。無意識とはいえ、自分のクラスに帰れると安堵したことが間違いだった。

「‥‥なんやてっ?!高良!お前告白でもされたんか?!」
「・・・・・ぁ゛」

ざわざわっ。

再び喧騒を取り戻した3年B組の教室。
ヒリヒリと焼けるような恐怖に全身から汗が噴き出してくる。それでも現状を把握するために、かがみは少しずつ顔をみゆきの方へと向けた。
かくかくと、年代物のロボットを想像させる機械的な動作だ。
視線の先には勿論、髪の毛をうねらせてブチギレオーラを放つ魔女の恐ろしい形相が。

「「「「「すいませんでしたっっ!!!」」」」」

言い伝えによれば、そのあまりの恐怖にその場にいた全員がひれ伏したそうな。









件名:拝啓

厳しい寒さの続く中、いかがお過ごしでしょうか。
さて、この間は右も左も分からず途方に暮れていたところを助けていただきまして、誠にありがとうございます。
気持ちばかりではございますが、この度をお礼をさせて頂きたく存じましてお手紙差し上げました。
ご都合の良い日などがございましたら、どうかご連絡の方を頂けないでしょうか。
心より、良いお返事をお待ちしております。

高良 みゆき




「‥‥如何でしょう?」
「一応訊いとくけど‥‥これ本気??」
「緊張しすぎてテンパってるみゆきさん萌え~。だけどデートのお誘いとしては完璧にアウト」
「どんだけ~」

真っ白な太陽だけが照りつける午後。
四人のメンバーは学校が終わった後で軽く昼食を取った後、教室に残り例の作戦を開始していた。
やはりメールを送ってみるのが一番だということで当の本人に試し打ちをしてもらったが、結果は上の通り。
まるでお中元でも一緒に送りつけてしまいそうな文字の羅列がそこにはあった。

「こーいうのはね、あんまり力入れすぎちゃダメなのよ。まぁそれが難しいんだろうけどさ」

かがみはみゆきのケータイを奪い取ると、まるで黒板の字でも消すかのように書かれていた渾身の一筆をクリアした。
あっ、と短い悲鳴が上がる。

「───ここまで、全て恋愛未経験者による役に立たない助言」
「‥‥アンタね。私はみゆきのことを真剣に助けてあげたいと思って‥‥!」
「まぁまぁかがみん。私が手本を見せて差し上げよう」

かがみの存在を無視するかのようにしてその手のケータイを奪い取る。
後頭部から約三センチ離れたところに固く握り締められた拳があることもしらず、指をむにょむにょーんと動かした後にケータイをがっちりと握り締めた。

「こういうのはね、相手が送られて喜ぶんじゃないかっていうツボを逃さないようにして書くといいと思うよ。取り繕わず、リラックスしてさ。
相手と自分の気持ちが通じ合わなかったらメールなんて意味ないからね」
「なるほど‥‥」
「ふっふっふ・・・私もアンタの痛覚のツボなら抑えれそうな気がするわぁ~。私の気持ちを存分に味わいなさい!」
「ひでぶっ!あべしっ!ちょ、かがみん本気で痛いから!!ぎゃああああぁっ!!!ぐりぐりはらめぇーーーっ!!!」

近頃コンビニなどでよく見かけるお菓子『チョコビ』の発祥元となる国民アニメの如く頭をぐりぐりされてひーひー言いながらも、浮かんでくる一文字一文字に力を込めた。




件名:お久しぶりです

この間は、迷ってるところを助けて下さって本当にありがとうございました。
実はあのゲレンデに来たのは初めてで、そんな中で親とはぐれてしまい本当に心細かったんです。
そう思うと、助けて下さった貴方への感謝はあの時の言葉だけじゃ伝えきれないものだと思いました。

そんなわけで、後日改めてお礼をさせて頂けないでしょうか?
ご都合の良い日がありましたらお教えください。お返事待ってます




「ふぅーっ・・・こんなもんかな」
「まぁまぁ、ってところね。でもこなたがこんな常識的な文を打てるとは・・・」
「うん、これだったら私がその彼だったとしても、つい返事書いちゃいたくなるよ~」

それぞれが納得の表情を浮かべる中で、画面を覗き込む三人に押し出されていたみゆきがようやくそのメール内容を確認する。
読み終わった瞬間、ぼん、と音が聞こえてきそうなくらいに顔を真っ赤にして。

「ででで、でもこんないきなり会おうだなんてそんな私・・・!」
「・・・あのねみゆきさん。こういうのは、普通にメール続けちゃってマンネリ化するのが一番怖いんだよ。
最初の新鮮なうちにそれなりの目標を立ててイッちゃわないと、下手に慣れちゃって『今さら‥‥』ってなるとお互い友達以上恋人未満の関係に落ち着いちゃって、そのスキに違う人に持ってかれるケースは多いんだよ?」
「こなたの意見を鵜呑みにしろとは言わないけど‥‥私も同じ意見よ、みゆき。
大丈夫、アンタみたいな可愛い女の子の誘いを無下にことわるなんてそうそうないわよ。その彼がよっぽどみゆきのことがタイプじゃなかったりしない限りね」

取り乱すみゆきの分を補うように、冷静な指摘をする二人。

特にかがみの表情はやけに強張っていて、目にも力が入っている。
しかしその正体は、後悔と、哀愁がこもった瞳だった。
かがみはみゆきを見つめ続ける。みゆきが耐えられなくなって視線をそらしても、変わることなく見つめ続ける。


かがみの初恋は、中学校の時に隣の席になって偶然仲良くなった男の子だった。
友達以上、恋人未満。友達から付き合ってると疑われるくらいに仲がよくて、彼と話すことも日常茶飯事。

しかしかがみは数日後、衝撃の事実を目の当たりにする。
女子トイレの反対側から聞こえる声。そこは男子トイレで、意識していたかがみにとって彼の声を聞き分けることなど造作もないことだった。
男子同士の会話に、偶然自分のことが話題に上がった。
高鳴る胸。彼の友達が質問した。仲良いし、もしかして柊みたいな子がタイプなわけ?

胸の鼓動はフル稼働。
身体全体が心臓になったみたいに、どっくんどっくんと大きな音が聞こえてきた。めまいまで起こして、ふらっと端っこにあった柱にしがみつく。
だが‥‥彼の口から出た言葉は、「友達としては好きだけど恋人としては絶対に嫌」という、かがみの恋心を粉々に打ち砕く一言だった。

授業の鐘が鳴る。
それでも足はすくんで動かない。
もう誰もここに来ることはない。そう思ったら急に足の力が抜けた。
こらえていた全てを解き放つ。涙と、嗚咽。初めての失恋。
やっぱり私、彼のことが好きだったんだ・・・と。


長い時間をかけて傷も癒えた頃‥‥卒業式後のクラスの打ち上げで、ふいに彼の話が飛び出した。
曰く、「彼はかがみのことが好きだった」と。

トイレでの一件以来、彼に冷たくなってしまったかがみに「嫌われてしまった」と解釈してしまった彼。
口から出任せ。彼があの時言った言葉は、ただの照れ隠しだったのだ。
男子と女子のトイレが分かれていても入り口は一つ。一番出口に近い側の鏡を見れば、反対側のトイレが映る。

彼は友達の質問に答えようと顔を上げた瞬間に気付いてしまったのだ。
前にある鏡に映っているのは、向かい側・・・女子トイレで、柱にもたれかかりながらも耳を済ませてこちらの話を聞いている想い人の姿。

その僅かな判断の時間で告白混じりの本音をぶちまけられるほど、中学生という年齢は大人ではない。
彼の頭に想い人も傷つけず、その場も逃れられるような答えは浮かばなかった。

失恋を受け入れて何とか塞がった傷口も、真実を知った途端に広がってあの時の疼きを取り戻していく。
改めて話をしようにも、彼はクラス替えで別のクラスになってしまっていて、クラスでの打ち上げで会う訳でもなく連絡する手段も持ってはいなかった。



‥‥そんな、中学時代の自分の経験をムダにはしたくない。
せっかく芽生えた友達の恋心を、自分と同じように何もせずに悲しいまま終わらせるなんてさせたくなかった。

「でも、でも心の準備期間を少し頂けたらと・・・」
「‥‥貸しなさい」


煌き一閃。
傾き始めた日が、かざしたケータイのボディをオレンジ色に染め上げる。
親指の数ミリ下には送信ボタン。

画面が一つの文を表示した。
送信完了。

「なっ、何してるんですかぁ!!」
「みゆきっ!!!アンタの恋は絶対に叶えてあげる!だからこんなところでウジウジするのは止めなさいっ!!」

静寂。
覚醒しかけた魔女の一面を、剣幕一つで沈め去った。
それは淡い経験による後悔と、こんな思いを友達にもしてほしくないというかがみの悲壮なまでに友達を想った心。
強気な目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

「・・・おねーちゃん」
「そろそろ時間ね。帰るわよ、つかさ」
「ま、待ってよおねーちゃあん!」

ぴしゃり。
遮るような音を立てて閉まる教室のドア。
残された二人にも橙色の光がせめぎよってくる。日没ももう近い。

「・・・まぁ、かがみにも多分色々あったってことだよ。私の勘なんてアテにならないかもしんないけど、私は脈ありだと思うよ。
どうするかはみゆきさん次第。そんじゃーね」

がらがらがら、ぴしゃん。
一人立ち尽くすみゆきの右手に、微かな震えがあった。
光るケータイと、サブディスプレイに映し出される彼のメールアドレス。

もう一度しっかりと椅子に腰を据えてケータイを構えると、来たメールに対して返信を打ち込んだ。









虎穴に入らずんば、虎児を得ず。
毒を食らわば、皿まで。

そんなことわざを知ったのは、一体いつの頃だったろう。

友達に背中を押されてようやく覚悟を決めたみゆきは、メールで様々な彼の情報を知った。
3日でどんどん縮まっていく距離。彼が今、どんな仕事をしているのか。その仕事をする上での愚痴や得たもの。みゆき自身も、自分の境遇や些細な悩みなどを打ち明けた。
様々な彼を知って、どんどん彼を好きになっていく自分。少し恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて。

夜遅くになるまでの長電話をしたりもした。話してるとどこか気持ちが安らいで、たとえ眠くてもずっと喋っていたくなる。
その電話中、ふいに会話の流れで決まってしまった彼との再会。
確かに吹っかけたのは自分の方だった。最初のメールを思い出す。でも、必ずしも言葉と行動が一致しているとは限らなくて。
また会える。そう思ったみゆきの心は、例えようの無いドキドキ感でいっぱいだった。

この日のために選んだ服。
ほんのりと染めた化粧はクリスマスツリーに粉雪がつもるような相乗効果を生み出して、大人っぽく、女らしいみゆきの存在感を更に高めている。
加えて、この年頃限定の“可愛さ”と、大人への成長の証である“美しさ”の両方を併せ持った容姿は、道行く男性の視線を釘付けにして然るものだった。

ゲレンデでたった数時間を共に過ごした年上の貴方。
そんな貴方のことを、私は好きになりました。
優しい目で私を見つめながら、頭を撫でてくれた貴方。
慣れない化粧と、アクセサリーと、悩みに悩みぬいた服装。
これも全て貴方の為。貴方がいるから出来たこと。

どうか、どうか、良い結果が得られますように。



時計台の前で待ち合わせ。
先に到着したのはみゆきの方。程なくして、あの彼も姿を現した。
少し緊張気味だったみゆきも電話と同じ彼の喋り方、そしてこの間と変わらぬ彼の仕草にたちまちリラックスして話せるようになった。
二人で食事をして、二人でショッピングをして、二人でゲームセンターに行って、彼の色んな顔を見て。

気がつけば、もっともっと彼のことを好きになっている自分がいた。
ずっと暖かく見守ってくれる貴方が大好き。ボーっとしているように見えて、実はしっかり物で几帳面な貴方が大好き。
私の知らないことを楽しそうに話す、貴方のことが大好き。


別れの刻(とき)。待ち合わせした場所と同じ場所に、二人は戻ってきた。
時刻は夜の九時を回っている。あっという間に過ぎ去ってしまった時間は、全て貴方が奪い取っていったもの。
どうせこれからも奪い去られる時間なら、せめて貴方と共に過ごしたい。

───恋人という、間柄で。


もう止められない。
去り行く彼の手を掴んだ。

「待ってくださいっ!!」

人通りの決して少なくない時計台。それでもみゆきは強く、強く叫んだ。
腕を掴まれたままの彼は驚いた顔をして振り返る。

「・・・どうしたの?高良さん」
「はあっ、はあっ‥‥」

息を整えるためにしゃがみこんだ。
手を掴むために駆けた、たった5メートルの距離がこんなにも苦しい。
中々収まってくれない胸の苦しみと、震える手。

「───好きです!」

顔を上げて、

「私と・・・お付き合いしてくださいっっ!」

震えたままの手をぎゅっと握り締めた。



みゆきの瞳に映ったのは、彼の面食らった顔。
何ともいえない沈黙の時間が流れる。一瞬とも永遠ともとれる時間。

彼の口が少しずつ開いた。

「‥‥ごめん。君とは‥‥付き合えないんだ」

彼は、優しく、いつもと変わらぬ表情で。

「俺は・・・・君の、兄さんだから」

まるで予想外のことを口にした。









沈黙はより深く、淀みのある意味合いのものへと変わっていく。
精一杯の告白を断られたことで悲観の色を見せるはずだったみゆきの表情も、次第に困惑へと変わっていった。

「───‥‥ちょっと、待ってください。私にお兄さんなんて・・・」
「正確には親戚の兄、かな。ゆかりさんの15歳年下の兄さんだよ」

ゆかりさん。それはみゆきの母の名前だった。
今日一日ずっと一緒にいたが、一度たりとも母の名前を口にした覚えなどない。

「もしかして、最初から・・・?」

その知らないはずの名前がすらりと出てくる以上、彼の言うことは本当なのだろう。

「兄って分かっているならどうして・・・妹だって分かっているのならどうして最初から名乗り出てくれなかったんですか・・・?!
私はこんなに‥‥こんなに必死だったのに、貴方はいつも笑っているだけで、そんな笑顔が私は大好きで‥‥‥でも、でも私は真剣に・・・っ!」

そうとしか思えない。
初めて会った親戚をたぶらかして、女遊びの道具にしていたなんて。
さっきまでこんなにも安らぎをくれた彼の笑顔が、今はこんなにも憎らしい。そんな彼が好きなのに、今はとても大嫌い。

最初に会った時から何か通じ合うものを感じた。
少なくとも、このゲレンデだけで終わりになるような関係じゃない。第六感が痛いくらいに訴えかけてきていた。
そして筋書き通りというか、私は彼のことを思い出して夜も眠れないようになった。

側にあったベンチにぺたりと座り込む。
もう立っていられなかった。足はこの短時間で力を使い果たしてしまったかのようにがくがくして、二足歩行としての機能を全く果たせそうに無い。
泣きじゃくるみゆきの隣に座り込むと、彼は悔やむようにして口を開いた。
アゴに生えた無精ひげをじりじりとなぞりながら、変わらず優しい顔で話しかける。

「俺が親戚なのにもかかわらず、今まで全くみゆきの家に遊びに行ったことがないのは知ってるよね」
「‥‥っ、ハイ・・・昔一度だけ、その話題を口にしたら‥‥母はムリヤリ話をそらしてしまって、これは触れてはいけない話題なんだな‥‥と、思いまして・・・」

吐く息は白い。
暗闇と、それを照らす街頭。光と闇の空間に、もう一つの世界を生み出す真っ白な吐息。
彼の黒髪がふわりと揺れた。空虚な夜を見上げて、背中を椅子の背もたれに預ける。

「‥‥ゆかりさんは今でこそあぁだけど、昔はもっと活発な人だったんだ。毎日あくせくあっちに動いたりこっちに動いたりしてた。
思えば、離れた年の子供が可愛かったんだろうね‥‥俺が生まれた時からゆかりさんは本当によく俺の面倒を見てくれたんだ。それはもう、俺の親が舌を巻くくらいに」

はは、と自分をこき下ろすかのような嘲笑を浮かべた。
あの頃の温かい思い出も、全て闇の歴史だと言うように。
涙で濡らしたままの目を、懸命に彼の方へと向ける。澄み切った顔と、その中に伺える一抹の寂しさ。

「でも俺は、その重圧に耐えられなかったんだ。小学校六年生の時、俺は私立の中学校に合格しようと思って必死で勉強した。
理由は単純なものだった。俺はゆかりさんに頭を撫でてもらえるのが大好きで、もっと誉めて貰いたかったから。
私立の頭のいい中学校に受かって、「偉いね、よくがんばったね」って優しく頭を撫でてもらいたかっただけなんだ。
もちろん、そんな俺をゆかりさんは必死に応援してくれた。何でなのかは知らないけれど、貴方が頑張るのなら私も精一杯応援するね、って。
毎日のように家に来て、俺に勉強を教えてくれた。少し苦めのコーヒーを入れて、時には冗談で俺の眠気を覚まそうと必死に努力してくれた。お腹の中にはもう、君を身ごもっていたのにもかかわらず‥‥ね」

母が身ごもる。
つまり、みゆきが生まれる数ヶ月前の出来事だ。

「頑張って、頑張って‥‥いつの間にか、自分が何で頑張っているのか分からなくなった。あんなにやる気だったのに、急に落とし穴に落ちたみたいにどんどん訳が分かんなくなってった。
どうして俺は勉強してるんだろう。こんなに勉強して、何の得があるんだろう。何で自分は、他人のためにここまでしているんだろう。誉められたいだけで、誉められることに何の意味があるんだろう‥‥って」

しゅるしゅると、衣擦れの音がする。彼が服を捲っていく音だ。

「そう思ったら、もう勉強なんて出来なかった。教材を燃やして家を火事にしかけたこともある。最初はかんかんになって怒っていた母さんも、次第に恐怖を感じ出したのか俺を病院に連れてった」

みゆきの前に掲げられたのは、左手の手首。
やけどのようなただれた痕と、何層にも重なったミミズ腫れのような傷跡。

「───結果は、いわゆるうつ病だった。ゆかりさんは、食べ物もろくに食べられずにパイプに繋がれた俺の変わり果てた姿を見て、まるで子供みたいに泣きじゃくった。
私があんなにプレッシャーを与えてしまったから、この子はこんな風になったんだ‥‥って」

しゅるり、と袖を下ろす音が聞こえる。
こんな生々しいものをいつまでも妹に見せておきたくはなかったのだろう。

「それからゆかりさんは、他人にプレッシャーを与えることに極度の恐怖を持つようになった。
子供が生まれてもただ最低限の世話をするだけで、たとえ娘が変なことをしても、注意することなくいつもニコニコ笑っている。
こんな子になってほしい。こんな風に育って欲しい。そんな考えすらも無くなってしまったんだ」

膝の上に置いてあった彼の両手がぎゅっと握り締められる。
思い当たるのは母の言動の数々。いつも気の向くままに過ごし、特別何か習い事を強制されたり、そういったことは今まで一度も無かった。

「そんな風になってしまったあの人にまた会うことなんて出来なかった。
確かにあの頃は若かったし、『あの日の思い出』で済ませられるような出来事なのかもしれない。
でも、あんなにいつもやる気に満ち溢れていたゆかりさんを変えてしまったのは俺なんだ・・・って。そう思うと、今のゆかりさんの姿がどうしても痛々しく見えてしまって・・・」

震える拳に落ちた、一筋の涙。
彼は、ずっと後悔していた。あんなに尽くしてくれたゆかりを自分のせいであんな風にさせてしまったこと。

「───だから、あの日は驚いたよ。写真しか見たことが無かったけど、一目でゆかりさんの娘なんだと分かってね。
ゆかりさんの若い頃の面影を残しながら、それ以上に綺麗に育ってた。まるであの頃のゆかりさんを見ているようで、何もなくてただ楽しかっただけのあの頃に戻ったみたいで‥‥それが嬉しかった。
そんな時間がいつまでも長く続けばいいと思った。君に優しくして、親しくなって、いつの間にかゆかりさんへの罪を償っているような気持ちになってしまっていたんだ」

手をさし伸べたのは偶然だった。
ゴーグルを上げて微笑みかけられた時、彼は思わず自分の目を疑った。
そこにあったのは、あの日のゆかりさんそっくりの顔だったから。

でも話していくうちにどんどん惹かれていった。彼女の笑顔に、たまに見せるおっちょこちょいな一面に。
人間として。妹として。そして異性としても。

「・・・分かってた。俺の罪は、どんなに償おうと思っても償いきれない、って。変わってしまったゆかりさんを今更元に戻すことなんて出来やしない。
───でもせめて、ゆかりさんがしてくれた分以上に‥‥みゆきを、妹として大事にしたいと思ったんだ」

くしゃくしゃになった顔を伏せた。
取り繕っていた壁が崩れてく。姿を露にした彼の心は、まるで子供のように不安定なものだった。

「‥‥でもこんな暗い話をいつ言おうか、って考えてたら・・・うん‥‥ごめん。俺、やっぱりみゆきのこと騙してたのかもしれない。独りよがりばっかりで、みゆきの気持ち全然考えてなかった。あはは、中学生かっての」

乾いたような笑いが一つきこえた。遠くを見上げるように、天を仰ぐ。袖で涙を拭いて‥‥次に見た顔は、会った時と変わらぬ優しい笑顔。
でもみゆきは、その顔を直視できなかった。
表面上ではいつもと同じように笑っている。でも。

「でもさ、一つだけ・・・最後に聞きたいことがあるんだ。最後の我が侭として」
「・・・何ですか」

さっきまで、ショックから留まることなく溢れていた涙。それも今は栓をしたかのように止まっている。
俯きながら、目の端に残る涙を指で拭った。

通り過ぎてく雑踏は、まるで二人などいないかのように去っていく。
彼は小さく深呼吸をしてから、思い切って顔を上げた。
変わらぬ笑顔をその顔に浮かび上がらせて。

「僅かの間だったけどさ・・・ちゃんとみゆきの“お兄ちゃん”になれてた‥‥かな?」


・・・違う。
今の彼が見せている微笑みは、偽りのものだ。

みゆきを心配させまいと。己の罪を認め、それでもしっかり歩けているのだと。
ふらふらの手足で訴え続けているのだ。

まだ目の端に残っている涙が痛々しく光る。

「・・・確かに貴方は、過去に母を深く傷つけたのかも知れません。
でも少なくとも‥‥母だって、それでずっとへこたれてるほど弱い人間ではないと思います。
貴方の事だって、母なりに乗り越えているはずです。何故なら普段あんな母が一年に一度、必ず真剣になって何かに取り組む日があるんですから」

その頃まだ二十代だったゆかりにとって、きっとここまでの『大事な存在』を無くしてしまったのは初めてだったに違いない。
生まれた時から、幼いながらもまるで自分の子のように可愛がってきた親戚の子。会うたびに成長していくその子の姿にいちいち驚いて、見返りの無い愛情をひたすらに注ぎ続ける。まるで本当の親のように。
ゆかりは今でも、そんな『大事な存在』を自分の手で深く傷つけてしまったと思い込んでいるのだ。


そんな中で、新たに授かった娘。
二度とそんな悲しい思いをしないように、何よりも大切な我が子を傷つけないために、自ら望むことを断ち、子供を縛る鎖を捨てた。

やがて娘も立派に育ち、自分の性格と放任主義が功を奏した形で沢山の知識を知りながらも優しい子になった。
昔の自分にもっと磨きをかけたように見えるその容姿は、決して親馬鹿ゆえの思い込みではないだろう。

そんな中でも、ゆかりは一年に一度、昔傷つけてしまった彼のことを思い出してはそっと想いを込める。

「毎年・・・バレンタインデーのチョコレートを作る時の母は、いつも別人になってしまったかのようです。いつの間にか、一緒になって私も貴方に送るようになって‥‥。
今でも悪く思っている相手に対して、あの正直な母がそんなことをするでしょうか・・・?」

今の母の現状を説明しながら、昔‥‥頭の中で解けないまま放置していた糸が、しゅるりとほどけていくのを感じる。

あぁ、分かってきた。
いつも不思議に思いつつ、尋ねた時に見せる母の剣幕に圧されて謎のままであったことが。
幼い頃、無気力な母に対して幾度と無く逆上したことがあった。それでも母は、いつもと変わらぬ笑顔で何の嫌味らしさもなくにこりと笑う。
やがてはこちらの怒気も失せてうやむやになり、次の日にはいつも通りに戻るのだ。
昨日の殺伐とした空気を、お互いもみ消しあうかのようにして。

「無理を‥‥なさらないでください。私も、毎年チョコレートを送りながら『きっと優しいお兄さんなんだろうな』っていつも夢見てました。
お母さんだって、毎年チョコレートを包装する時は私が見たことも無いような優しい顔でそのチョコを包んで・・・」

みゆきの頬から新たな涙が溢れ出す。
でもこの涙は先ほどの失恋からくるものではない。自分でも、原因が何なのかさっぱり特定できない涙。
同情。哀れみ。雰囲気に呑まれて出た涙。それもあるかもしれない。

しかしそれ以上に、今のみゆきの胸を圧縮せんとばかりに襲うのは、どうにも表現しようの無い寂しさと切なさ。
悲しい。悲しい。悲しい。母は私の前では何の悩みも無いような顔をしながら、ずっとこんなにも辛い思いを抱えて、彼もずっと辛い思いを抱えたままで、そのまま十何年も過ごしてきたのだ。

「貴方が私とこうしているのは‥‥確かに、罪滅ぼしの気持ちもあったのかもしれない。でも、本当にそれだけだったのですか?
私といて楽しかったから・・・・そんな気持ちは、これっぽっちもなかったのですかっ?」

十何年も前の罪滅ぼしのために私と会って、私を楽しませるためだけに会っていたのだとしたら‥‥そんなに悲しいことはない。
全身全霊を込めた言葉がみゆきの口から飛び出していく。

「そんなわけない。確かに俺も、最初は罪滅ぼしにしか思ってなかったけど・・・話していて楽しくて、いっぱい笑って、みゆきのいろんな顔を見れて‥‥。
そしたら何でかは知らないけど、もうどうでもよくなってた。純粋に、みゆきと一緒にいる時間が欲しいと思ってた」
「なら‥‥」

涙の伝う彼の頬を、優しくてやわらかい手が包んだ。
まばらな街灯が、厳かに彼らのシルエットを浮かび上がらせる。

お互いに涙を伝わせた顔を寄せると、どちらからともなくそっと、唇を重ね合わせた。

「‥‥っ」

ぷはっと吐き出した息が白く空に吸い込まれてく。
初めて彼と出会った、あの頃のように。

唇を離して十数秒が経過する。みゆきの心にはもう、いつもの落ち着きが戻っていた。

「私は、貴方のことが好きです。そして貴方も、私のことが好きです。妹として‥‥ですけど。だから・・・」

今度はこちらが極上の笑みを送る番だと。
みゆきは優しく、その中に力強さも秘めた笑顔を返した。決心して他のことに目もくれず、迷わずに進むような目で。
真っ直ぐな目は、彼の心を掴んで離さない。

「・・・私も、これからは“兄”として‥‥貴方のことが好きです」

散々振り回されたんですから、これくらいの我が侭はよかったですよね。

時計台から丁度の時刻を知らせる賑やかな音が鳴り響き、周りをネオンで染めていく。
みゆきは涙を拭いきらぬまま、薄く塗られた口紅に笑顔で人差し指を寄せる仕草を見せた。
その美しさといったら、彼がたとえ親戚といえど告白を断ってしまったことに少しの後悔を感じてしまうほどだった。









「‥‥そうかぁ。結局みゆきの恋は叶わなかったのか‥‥はぁ~あ・・・」
「おねぇちゃん、大丈夫‥‥?」
「おや、自分のことでもないのにそこまでショックを受けるとは‥‥」
「当たり前でしょ。私も直感的にだけど、何となくいけるんじゃないかーとは思ってたし、何より・・・・応援してたしね」

翌日の月曜日。
学校に到着したみゆきはあのメールの続きのお話として、昨日までのことを包み隠さず三人に話した。
自分の背中を押してくれたのはこの三人で、同時にこんな話をベラベラと他の人に話すことはないと確信してのことだった。

「そうだよね・・・お姉ちゃん、一緒に帰ってる時もずーっとゆきちゃんと彼をうまく結びつける方法を考えてたもんね」
「ちょ、つかさ!それは言うなって・・・!」
「おぅおぅ、影で友達を心配しつつ、それを表に出したがらないかがみん萌え~」

それでも日常は変わらず続いていく。
あと三ヶ月もすれば終わってしまうこの日々に比べたら、そんなみゆきの出来事など些細なことだった。
特別なことでも何でもない、日常の中の一ページ。

「あ、みゆき。ケータイ鳴ってるわよ」
「あぁ‥‥すいません。えっと───…
‥‥もしもし、どうしたんですかお兄ちゃん?大丈夫ですよ、ちゃんと起きれましたから。お兄ちゃんこそ会社の方を遅刻したりしてませんか?あははははっ」

ぴしり。
側にいた三人の動きが硬直した。

「みゆき、なんか微妙にキャラおかしくなってない?」
「むうぅ・・・いつだったかみゆきさんに妹属性がついたら‥‥って話をしてたけど、これはなかなか・・・」
「でもよかったね、ゆきちゃん嬉しそうだし」

みゆきにお兄ちゃんが出来た。
そんな出来事さえも日常にしまいこんで、四人はほんの僅かに残された高校生活をゆるやかに過ごしていく。
時間が四人を分かつ、その時まで。





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