六月のある日のことだった。
前日の雨が嘘のような青空の下、最後の授業である体育の時間にゆたかが倒れた。
無理をしないようにと止めるべきだったのに、大丈夫だという言葉を信じた私は傍にいなかった。
朝から少し様子がおかしいと感じていたのに。
いつも見守っていては逆に負担になるだろうかと躊躇して、それを理由に放置していた。
もしも田村さんが支えてくれなければ、ゆたかは未だに湿り気を帯びた地面に、直接倒れていただろう。
私は楽観視していた自分を責めながら、小柄な彼女を背負って保健室へと急いだ。
幸いベッドには空きがあって、ゆたかはすぐにそこへと寝かされた。
しかし、許されるのはそこまでで、役目を終えた私は授業に戻らなければいけない。
その後どうやって着替えたのかも含め、放課後までの記憶は残っていなかった。
ようやく保健室へ行くことができた私は、一緒に来た田村さんと話もせずに、ゆたかを見る。
人の気配を感じたためか、それからすぐにゆたかは目を覚ました。
「ごめんなさい」
どうして、ゆたかが謝るのだろう。
そう思っていると、彼女は再び目を閉じて、うわ言のように語り始めた。
昨日ね、帰り道で捨て猫を見つけたんだ。
ちっちゃくてね、真っ白で、とっても可愛い子猫だったんだ。
濡れているのが可哀想で、傘で雨が当たらないようにしてあげたら、寂しそうに、にゃー、にゃーって。
守ってあげたい。ううん。守らせて欲しいと思ったの。
だけど、私はその子を助けられなかった。
見捨てて逃げる間、そんなはずはないのに家に着くまでずっと、その子の鳴き声が聞こえてた。
子猫がずっと鳴いていたのと同じように、私も家に着くまで泣いていたんだと思う。
こなたお姉ちゃんに「何かあったの?」って訊かれたけれど、うまく答えられなかったよ。
きっと猫のことを話せば、お姉ちゃんは探しに行ってしまう。
いつも迷惑をかけているのに、これ以上は負担を増やせないって思ったから。
だけどね、もし私が健康だったら助けられたのかな、って考えたら悔しくて。
それとも変に気を使わなければ良かったのかな。
迷惑になるなんて考えもしないで。
そうすれば、昔の私にそっくりな、ひとりぼっちのあの子を助けられたのかな。
私がこんなに弱くなければ……。
ゆたかが同じ内容を何度も繰り返し始めたところで、私はもう一度眠るようにと彼女に言った。
窓から見える運動場には、部活に励んでいる生徒が大勢見えた。
何時に学校が閉まるのかは覚えていないが、まだまだ余裕はあるだろう。
ゆたかの寝息が聞こえはじめたのを確認すると、私は保健の先生にお礼を言って部屋を出た。
鞄はまだ教室に残っていたけれど、私が目指す場所はそこではなかった。
扉の開く音に足を止めて振り返ると、扉の前に立つ田村さんが私を見ていた。
「手伝うよ、岩崎さん」
何をするつもりなのか、隣で話を聞いていたこの友人には既にわかっているらしい。
だから私も、何をとは聞き返さずに首を振った。
「……きっと大変だから」
すでに手遅れで、ゆたかの言う子猫は見つからないかもしれない。
誰かに拾われて、あるいは既に命を落として。
そんな辛い光景を見るのはひとりでいい。
私がもう一度断りの言葉を伝えようとすると、彼女は足早に近づいて来て、私の胸の前に手を差し出した。
「迷惑だと勝手に考えて、それで遠慮されるほうが迷惑だ。……って。話を聞いていて思わなかった?」
笑顔で問いかける田村さんに対して、私は反論できなかった。
何故なら、それは私の苛立ちの理由とまったく同じだったから。
私は彼女に「思わない」と嘘をつく代わりに、その手を取ることで答えを伝えた。
ゆたかが登校時に使っている道を、私は知らない。
教えてもらおうにも泉先輩の携帯の番号は知らなくて、みゆきさんに頼ることにした。
私が代わりに連絡をして欲しいと懇願すると、彼女はその笑顔が想像できる優しい声でこう言った。
「そんなに不安そうな声をしないでください。断ったりはしませんから。少しだけ、待ってもらえますか?」
口頭での説明は難しいので本人を連れて行くから、校門の前で待っているように言われてから十数分後。
みゆきさんはどんな魔法を使ったのだろう。
一人で探すつもりだったはずが、私を含めて八人もの人間が集まっていた。
「……本当に、ありがとうございます」
「気にしなくていいってば。どうせ私らも暇だったし。なっ、柊?」
「あんた、部活が終わったのは受験のためだってわかってないだろ。あ、みなみちゃんは気にしないでね」
「ゆたかさんの話からすると、家から電車に乗るまでの道の間ということになりますね」
「公園とか、人通りが多少はある道のほうが、捨てられていそうかな?」
「うん。そうかも。頑張ろうね」
賑やかに談笑をする三年の先輩たち六人も田村さんも、明るい表情をしていた。
大変な作業になるはずなのに、まるで苦痛だと思っていないかのように。
そんな人たちを見ていて思った。
田村さんの言うように、迷惑をかけてしまうと遠慮するのは、時には大きな間違いなのかもしれない。
駅へと移動する途中の信号待ちで隊列が崩れたとき、一人の先輩が私に近づいて言った。
「昨日、ゆーちゃんの様子がおかしかったのは、こういう事だったんだね」
「泉先輩……」
「絶対に見つけよう」
先輩の言葉に、私は真剣な顔で「はい」と答えた。
少なくとも自分だけは、見つけるまで帰るつもりはなかった。
目的の駅について電車を降り、捜索を始めてから数十分後。
脇道を分担して探そうという話し合いはなかったのだけれど、いつの間にか二人きりになっていた。
思い返すと、「こっちの道を探してくるね」というような声をかけられた記憶は確かにあった。
ゆたかが寄り道をしていなくても、猫が移動をしている可能性はゼロではない。
連れて帰ることが出来ない人でも、雨をよけられる場所に移動してくれたかもしれないからだ。
だから手分けをして探すことは効率面からも正しいと理解できたが、気まずいのは変わらなかった。
峰岸先輩とは面識がなくて、もともと口数の多くない私は尚更に話を振りづらく感じる。
しかし、協力してもらっている以上は黙っているのも失礼に思えて、私は必死に話題を探した。
「あの、聞いてもいいでしょうか。どうして手伝ってくれるんですか?」
唐突な質問は困らせてしまうかと、言ってから後悔をしたが、先輩は数秒ほど黙ったあとで答えを返した。
「うーん。私は友達のために、かな」
友達という単語を聞いて、私は僅かに首をかしげた。
ゆたかは三年生の中に知り合いが数人いると言っていたけれど、この人もそうだったのだろうか?
しかし、先輩にゆたかとの関係を尋ねると、先輩はほとんど何も知らないと答えた。
「それなら、いったいどうして……」
「友達が友達のために協力して、その人の友達もまた、っていう繰り返しじゃないかな?」
「友達のために?」
「そう。難しい理由なんていらなくて、きっと友達に喜んで欲しいだけなんだよ」
彼女の言う事が正しいのかは判断できないけれど、現にこうして人が集まっている。
私は杞憂に過ぎないことを悩んでいたのだろうか。
ゆたかが猫を助けたかったように、私も自分に似ている人を助けたいのかもしれないと思っていた。
それは好意を持ってもらうための打算的行為にも見えて、私はそんな私を心のどこかで軽蔑していた。
だけど、友達を助けるというのはもっとずっと単純なことで、理由は考えるべきではないのかもしれない。
お腹が空くから物を食べて、疲れているから眠るように。
分析をしてみれば何か理由が見つかるのだとしても、無理にネガティブな理由を探す必要はない。
「そうなのかもしれません。私もきっと……」
返事をするための言葉を探し始めたとき、私は近づいてくる足音に気がついて振り返った。
そこにいたのは、体操服から制服へと着替えた少女だった。
「どうして」
ゆたかがこの場に現れた事に驚きはしたけれど、それは私の行動を読まれていたからではなかった。
私の行動がゆたかに予想がつく事はわかっていた。
話を聞いた私は、家までのルートを探し回り、子猫を探す。
私の性格を理解しているであろう彼女なら、考えるまでもなく確信を持つだろう。
だからこの驚きは、彼女はもう動いても大丈夫なのだろうかという心配からの感情だった。
「ねえ。私にも探すのを手伝わせて。身体のほうは、もう大丈夫だから」
ゆたかは私がその心配を口に出すより先に、そう言って笑った。
「お姉ちゃん達が手伝ってるなら、私もいいよね」
「でも……」
いくら体調が回復したとはいえ、長時間歩き回ることは負担が大きいのではないかと、不安が広がる。
もし見つからなければ明日も探すから、今日は先に帰って休んで欲しい。
そう言おうとした瞬間だった。
「きっと見つかるよ」
ゆたかの言葉は理由も何もない、希望を述べただけのようなものだった。
だけど、無条件で信じたくなる笑顔が添えられていたから、私は何も言わずに頷くことにした。
きっと見つかる。
友達のために行動するのに理由が要らないように、それを信じるのに理由は要らない。
私達全員が合流を果たした後、猫を見つけた現場に、ゆたかに直接案内をしてもらった。
しかし、そこには何かが置かれていた痕跡すら残っておらず、小さな落胆が皆に広がる。
もしかすると、もう保健所に連れて行かれてしまったのだろうか。
誰も口に出すことはなかったが、長い沈黙はその想像を肯定しているようで、胸が苦しくなる。
大通りほどではないが、この場所も車がよく通る道のようだった。
人通りも少ないわけでなく、拾われた可能性と一緒に、通報されて捕獲済みという可能性が高まる。
「猫は逃げて、箱だけ捨てられたかもしれない!」
それでも私は子猫の無事を信じたかった。
大きな声は自分に言い聞かせるためでもあった。
本当ならゆたかを慰めながら、捜索を続けようと言うべきなのに、動けない。
誰かが頷いてくれるまで、動きたくなかった。
ゆたか以外の誰もが俯きがちになり、否定的な意見を口に出来る雰囲気ではなくなっていく。
そんな嫌な空気を破ったのは、後ろからやって来た車が鳴らしたクラクションだった。
音に反応して皆が顔を上げると、車は通り過ぎずに私達の横で停まる。
「お前ら、鞄を学校に置いたままこんな所におるって、どういうことや」
「あ、黒井先生」
運転をしていたのは私達の学校の教師らしく、先輩たちとは顔見知りのようだった。
どんな経緯で事情を知ったのか、先生は私達が学校に置いてきた鞄を残らず車に積んでいた。
「黒井先生って、この辺りに住んでるんですか?」
峰岸先輩は暗い空気を払拭しようとしてか、明るい声で何気ない質問をした。
「そやでー。実家は違う県なんやけど、高校に行くまでの時間を考えてな」
「あはは……先生のおかげで助かりました。まだ、探し物が見つからなくて、戻るに戻れなかったんで」
「なんや、泉の用事って探し物やったんか。……猫でも探しとるんか?」
「えっ」
先生の言葉に驚きの声をあげたのは、泉先輩たちではなく、遠巻きにして見ていた私だった。
私は駆け寄ると、開かれた窓から首を車内に入れ、驚く先生に尋ねる。
「白い子猫なんです。何か知っているんですか?」
「お、おう。昨日の帰りに偶然ダンボール箱を見かけてな。ちょっと見たら、放っておけんようになって」
どおりで見つからないわけだ。
私は黒井先生が助けてくれたことに感謝をして、お礼を言いながら、新しい疑問を見つけた。
「あの……先生の住んでいる所は、動物を飼えるんですか?」
ほとんどの借家では、ペット禁制が普通だろう。
「あっはっはっ。そんなんバレんようにするだけや。いざとなったら、大家に土下座やな」
「そんな、ご迷惑じゃ……」
ゆたかは私を下がらせ、空いたスペースから車の中を覗き込むようにして先生にそう言った。
「気にせんでええって。元々、自分で拾ったんや。それにな、こういう時くらいは大人を頼っとき?」
そう言って笑う先生に、今度はお礼の言葉も出せなかった。
翌日の朝にはまた大きな黒い雲があって、昼休みになる直前まで、ずっと雨が降っていた。
今日も捨てられた動物が苦しんでいるのかもしれなかったが、ゆたかは辛そうにしていなかった。
それはきっと、強さを手に入れたからだと思う。
手が届く範囲で見かけたときには決して逃げないという、自分の気持ちに嘘をつかない強さを。
私達は大人になることで、「不可能」という現実を知る。
既に子供ではない私達は、すべての捨て猫を救うことは出来ないのだと知っているのだ。
けれど、大人ではない私達でも、目の前の小さな存在を抱え込むことくらいは出来る。
飼うことが許されず、再び捨てに行くことになったとしても、試さずに諦めるべきではない。
これは猫だけの話ではなくて、人との関係についても同じなのだろう。
行動の正しさについて悩むのは、手を差し伸べることと思考を両立できる人がやればいい。
そんな事を思いながら、小さなお弁当箱の包みを開くゆたかを見ていると、不意に彼女と目が合った。
ゆたかは一瞬不思議そうな顔をしたあと微笑んだので、気恥ずかしくなった私は目を逸らした。
顔がにやけるのを必死に堪えている田村さんのほうではなく、誰もいない窓のほうへ。
そうして視線を動かしたおかげで、私はそれを見つけた。
「窓の外」
「え? わあっ」
「おお、すごいね」
「うん……綺麗だ」
雨のあとには虹が出る。
それを見て心に余裕が生まれたら、すこしだけ寄り道をしよう。
捨て猫という不幸を探すためではなく、何も見つからないという、小さな幸福のために。
あるいは、そうした生き物に出会うという、小さな奇跡を拾うために。
終
最終更新:2007年12月20日 02:27