Go steady Go!

かがみは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
かがみには政治がわからぬ。かがみは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明かがみは村を出発し、野を越え山越え、
十里はなれた此の秋葉原の市にやって来た。かがみには父も、母も無い。
女房も無い。十六の、内気な妹つかさと二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人みゆきを、近々、
花嫁として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。かがみは、それゆえ、
花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、
それから都の大路をぶらぶら歩いた。かがみには竹馬の友があった。こなたである。
今は此の秋葉原の市で、ニートをしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにかがみは、
まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、
けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなかがみも、
だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、
二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、
と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺(そうじろう)に逢い、こんどはもっと、
語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。かがみは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。
老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人をネタにします。」
「なぜネタにするのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人をネタにしたのか。」
「はい、はじめはゆいさまを。それから、ゆたかとみなみを。それから、ななこさまを。
それから、みさおさまを。それから、あやのさまを。それから、賢臣のこう様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、
臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。
御命令を拒めば原稿に入れられて、同人誌のネタにされます。きょうは、六人同人にされました。」

聞いて、かがみは激怒した。
「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
かがみは、単純な男であった。
買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏のみのるに捕縛された。
調べられて、かがみの懐中からはミラーシールドが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。
かがみは、王の前に引き出された。
「このミラーシールドで何をするつもりであったか。言え!」
暴君ひよりは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。
その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」
とかがみは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
王は、憫笑した。
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」
とかがみは、いきり立って反駁した。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。
人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」
こんどはかがみが嘲笑した。
「罪の無い人を同人のネタにして、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」
王は、さっと顔を挙げて報いた。

「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。
おまえだって、いまに、百合同人になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、
ちゃんと漬けられる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、かがみは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。
たった一人の妹に、嫁を持たせてやりたいのです。三日のうちに、
私は村で結婚式を挙げさせ、必ずここへ帰って来ます。」
「ばかな。」
と暴君は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」
かがみは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。
そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にこなたというニートがいます。
私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、
ここに帰って来なかったら、あの友人を同人誌のネタにして下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。
この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目にネタにするのも気味がいい。
人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を同人刑に処してやるのだ。世の中の、
正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、
その身代りを、きっとネタにするぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
かがみは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、こなたは、深夜、王城に召された。暴君ひよりの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。
かがみは、友に一切の事情を語った。こなたは無言で首肯き、かがみをひしと抱きしめた。
友と友の間は、それでよかった。こなたは、縄打たれた。こなたは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。


かがみはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。
かがみの十六の妹も、きょうは姉の代りに羊群の番をしていた。
よろめいて歩いて来る兄姉の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく姉に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」
かがみは無理に笑おうと努めた。
「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
つかさは頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗(きれい)な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
かがみは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、
呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。かがみは起きてすぐ、みゆきの家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。
嫁のみゆきは驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、ポンジュースの季節まで待ってくれ、と答えた。
かがみは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。嫁のみゆきも頑強であった。なかなか承諾してくれない。
夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか嫁をなだめ、すかして、説き伏せた。
結婚式は、真昼に行われた。新婦新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、
ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、
むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。
かがみも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。
祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
かがみは、一生このままここにいたい、と思った。
この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。
ままならぬ事である。かがみは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。
かがみほどの女にも、やはり未練の情というものは在る。

今宵呆然、歓喜に酔っているらしいつかさに近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。
私がいなくても、もうおまえには優しい妻があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの姉の
、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。
妻との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。
おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの姉は、たぶん偉い女なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
つかさは、夢見心地で首肯いた。
かがみは、それからみゆきの肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。
全部あげよう。もう一つ、かがみの妹になったことを誇ってくれ。」
みゆきは揉み手して、てれていた。
かがみは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。
かがみは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、
これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。
そうして笑って磔の台に上ってやる。
かがみは、悠々と身仕度をはじめた。
雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
身仕度は出来た。
さて、かがみは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。
殺される為に走るのだ。
身代りの友を救う為に走るのだ。
王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。
走らなければならぬ。
そうして、私は殺される。
若い時から名誉を守れ。
さらば、ふるさと。
若いかがみは、つらかった。
幾度か、立ちどまりそうになった。
えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、
日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
かがみは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。
妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。
私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。
そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、
かがみの足は、はたと、とまった。

見よ、前方の川を。
きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、
猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。
彼女は茫然と、立ちすくんだ。
あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、
繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。
流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。
かがみは川岸にうずくまり、女泣きに泣きながら美水かがみに手を挙げて哀願した。
「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。
あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
濁流は、かがみの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。
浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
今はかがみも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 
濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
かがみは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。
満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、
めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。
押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。
ありがたい。かがみは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。

一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、
ほっとした時、突然、目の前に一隊のあきら小隊が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
あきら小隊たちは、ものも言わず一斉にクレイモアを振り挙げた。
かがみはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、そのクレイモアを奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」
と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。
一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、
かがみは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、
ついに、がくりと膝を折った。
立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、あきら小隊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たかがみよ。
真の勇者、かがみよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。
おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、
全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。

路傍の草原にごろりと寝ころがった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。
もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
私は、これほど努力したのだ。
約束を破る心は、みじんも無かった。
神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。
私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。
愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な女だ。
私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。
私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。こなたよ、ゆるしてくれ。
君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。
いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、こなた。
よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。
友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。こなた、私は走ったのだ。
君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。
濁流を突破した。あきら小隊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。
私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。
おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。
けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。
私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。
そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。
こなたよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。
いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。
村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。

人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。
私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
すぐ足もとで、水が流れているらしい。
よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。
その泉に吸い込まれるようにかがみは身をかがめた。
水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。
わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。
私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!かがみ。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。
五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。かがみ、おまえの恥ではない。
やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!
私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、美水かがみよ。
私は生れた時から正直な女であった。正直な女のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、かがみは黒き風のように走った。
野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、
小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。
一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの女も、磔にかかっているよ。」
ああ、その女、その女のために私は、いまこんなに走っているのだ。
その女を死なせてはならない。急げ、かがみ。
おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。
かがみは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。
見える。はるか向うに小さく、秋葉原の市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、かがみ様。」
うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」
かがみは走りながら尋ねた。
「パトリシアでございます。貴方のお友達こなた様の弟子でございます。」
その若いニートも、かがみの後について走りながら叫んだ。
「もう、駄目でございます。無駄無駄無駄ァ!でございます。走るのは、やめて下さい。
もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が同人刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。
ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
かがみは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。
あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。
王様が、さんざんあの方をからかっても、かがみは来ます、とだけ答え、
強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。
ついて来い!パトリシア。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。
ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、かがみは走った。かがみの頭は、からっぽだ。
何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、
かがみは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。かがみが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、
喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。

すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたこなたは、徐々に釣り上げられてゆく。
メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。かがみだ。彼女を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。
群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。こなたの縄は、ほどかれたのである。
「こなた。」
かがみは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。
君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
こなたは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くかがみの右頬を殴った。
殴ってから優しく微笑み、
「かがみ、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。
生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
かがみは腕に唸りをつけてこなたの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ひよりは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、
やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。
どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。
どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをかがみに捧げた。かがみは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「かがみ、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、
かがみの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。