『飛べない』 ID:gbf7 > 9U10氏

非日常という言葉が単純に日常でないという意味なら、今この状況はどうだろうか。
私は息を荒げて、片手に汚水を滴らせる雑巾を握っている。
少なくとも雑巾は握り締めるものではなく絞るものだし、また、雑巾を握りしめるという行為は一般的ではないと思えるので、
今この状況は、非日常ということになるのかな。
今度はカレーパンが飛んできた。節操の無い、と苦笑して見せるが、顔が引きつっただけだった。
カレーパンは不味そうな油を私の制服にしみ込ませて床に落ちた。
真正面に立つ数人の女の子たちを見る。一人の女の子はメロンパンを持っていて、もう一人の女の子はピザパンを持っていた。
ピザパンを持つ女の子は覚えがある。その子は憎悪に表情を歪ませて、ピザパンを握りしめていた。
よくわかる。私も被害者だもの。だけどあんたも、加害者でしょう。
一方、私の背後で尻餅をつく姉、柊かがみは、頭を抱えて震えていた。
私はお姉ちゃんがその顔の下でベロを出していることを知っているので、別に可哀そうとも思わなかった。
ただ、醜いな、と思って、虫唾が走った。
私は湿った雑巾の気持ち悪い感触を手に感じながら、この先の理化教室で、クマンバチの飼育をしているのを思い出していた。
要するに、最初に思い出したのは、その話だ。

聞いた話だ。クマンバチは実は飛べないらしい。
正確に言うと、現在の航空力学ではクマンバチが飛行する原理がよくわからないのだ。
何故か。クマンパチはでっぷり太っている割りに、生える羽は小さい。単純に、物理的に飛べない。
じゃあ何で飛べるの?
あの話によると、クマンバチは知らないのだという。
自分が飛べないことを知らないから、飛べるってね。
ならば私も、知らないでおこう。
全部知らなかったことにしておこう。
そう思った。
次に思い出したのは、ほんの数日前のことだ。


学校中に、お姉ちゃんの悪い噂が立っていた。
実際、それは噂でも何でもなく、純然たる事実で、つまり冒頭の出来事はそれに起因する。
お姉ちゃんは誰にでも手を出す女だという。恋人がいても関係なく、寧ろ彼女がいる男を奪うことに執念を燃やしているような雰囲気すらある。
頭の良いお姉ちゃんなので、最近ではその悪い噂を利用し、男を惑わせているという。
あんな噂がたって困っているの、助けて何某君(笑)
新たな武器を与えたようなものだ。そこまで行くと、感心してしまう。賞賛に値する、なんてチープな言葉を使ってもいい。
男漁りを覚えたお姉ちゃんは私たちから離れていき、どんどん孤立していった。
お昼休みはこなちゃんとゆきちゃん、私の三人でお弁当をつつくという状況が続いている。
続いている、何て言ったが、その状況に改変を求めている訳ではない。
お姉ちゃんは、前述したとおりの技を駆使し、人気の無いところで男と二人っきり、ランチを楽しんでいる。
参った。そこまでいくと両手を挙げて白旗を振りたくなる。参った、降参です。だけど学校でセックスをするのは控えた方がいいんじゃない?


ある日昼休み、私はお姉ちゃんが半ば強引に男子の手を引き、どこかに消えていく姿を見た。
強引に手を引かれていく男子生徒は嬉しそうに目じりを下げていた。
お姉ちゃんは、全く、姉妹である私も呆れるぐらいの100パーセント人工的笑顔で、周りに花を振りまいていた。
その光景を突っ立って見ていると、お姉ちゃんと目が合った。
びくり、と体が震えた。足に根が生えたみたいに動けなくなった。
お姉ちゃんは、口元に弧を描き、笑った。
恐らくその笑顔こそが、お姉ちゃんの、本当の笑顔なのだろう。背中に汗をかきながらそう思った。
男子生徒とも目が合った。彼は私を見つけると、ぎょっとして、目を逸らせた。
ケタケタと、お姉ちゃんは笑った。私はそれを聞きながら、お姉ちゃんたちが消えるまで、ずっと突っ立っていた。
物陰に隠れていたのか、いつのまにかこなちゃんが現れて、そっと私の手を握った。
私はというと、それには何の反応も示さず、クマンバチの話を何回も頭で繰り返しいていた。


次の日、お姉ちゃんが人気の無い空き教室で、数人の女子生徒に囲まれて、どつかれている(笑)のを見た。
その光景を見つけたのは偶然だった。私とこなちゃんとゆきちゃんで、教室を移動しているとき、そんな現場に出くわしたのだ。
もう授業は始まる寸前だった。よくもまあ、と私は呆れた。
彼女たちは私たちに気づいていなかった。扉の隙間からそれを息を潜めて見ていた。
お姉ちゃんが真ん中の女の子に押されて尻餅をついたとき、こなちゃんは教室の扉をがらっと開けて勢いよく突入した。
こなちゃんは優しい。実は誰よりもこなちゃんは優しい。
そんなこなちゃんだから、変わってしまったお姉ちゃんに、まだ友情を見つけられているんだ。
私は知っている。こなちゃんが片思いしていた男子を、お姉ちゃんが食べてしまったのを。
お姉ちゃんは嬉々として、その食事の様子を、よりにもよって昼休みの食事中に語った。耳を塞いでしまいたいぐらい下品な話だった。
お姉ちゃんの笑顔が魔女がかき回す鍋の底みたいに見えた。
「そうそう。彼ね、小さい女は気持ち悪い、って言ってたわよ」
こなちゃんはそれでも優しく笑っていた。箸でつつくお弁当がゴムみたいに思えた。

こなちゃんの声は緊張で上ずっていた。やめなよ、とも聞こえたし、やめろぉ、とも聞こえた。
私とゆきちゃんもこなちゃんの後ろにくっ付いて空き教室に突入した。
勢いが良かったこなちゃんに比べると私とゆきちゃんはなんともおどおどしていた。
こなちゃんの声が空き教室に響いて一拍。お姉ちゃんはまるで節足動物みたいに手足を動かして、囲まれていた陣から抜け出すと、
こなちゃんに抱きついた。
そして、おいおいと、大げさに泣き叫び始めた。
怖かった、など、痛かった、など、およそ自分が被害者になるために必要な要素の放出を全力で始めた。
私はまるで下らないヒューマンドラマでも見ているみたいな気分になった。
お姉ちゃんに抱きつかれながらこなちゃんはお姉ちゃんの頭を撫でた。一瞬、お姉ちゃんがベロをぺろりと出したのが見えた。
こなちゃんからそれは見えない。
突然の突入に呆然としていた女子生徒たちも、やっと状況を把握したのか、一斉にこなちゃんに罵倒を浴びせ始めた。
それに負けじと、こなちゃんも震えた声で言い返した。その声は、本当に怒っている声だった。
私とゆきちゃんも、何故こんなことをするのか、とかとってつけたような言葉で応戦した。
何故、って。理由は聞かなくともわかるけど。

そうしたら、意外と向こうは冷静だった。言葉が返ってきた。
「こいつが私の彼氏をとったんだよ!」と真ん中の、如何にも司令塔でありそうな女の子が、お姉ちゃんを指差した。
予想できた答えだった。というか、それしかないだろうな、と思っていた。皆口には出さなかったけど、やっぱりね、と思ったはずだ。
お姉ちゃんはというと、笑いを堪えるのに必死みたいだった。
こなちゃんの胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らすふりをして、くっくっく、と笑っていた。ぞくり、と背筋が凍った。
司令塔の女の子は、話を始めた。
素直なのか、頭が悪いのか、判然しなかったけど、病的に塗りたくった目のアイシャドウで後者の意見を採用した。
それを念頭に入れて話を聞く。
なんてことは無い。ありきたりな話だった。
付き合っていた彼氏を柊かがみに取られた。
それだけなら諦められたが、(これは嘘だと思う)柊かがみは他にも複数の男と付き合っている。
だから罰として、ここに呼び出した。

「だからって、こんなことしなくてもいいじゃん」
こなちゃんのその言葉は、痛いぐらい重かった。
「うるさいな、あんたには関係ねえよ」
そんなやりとりがしばらく繰り広げられていた。こなちゃんの声は涙で濡れていた。ゆきちゃんも私の隣で泣いていた。
何に泣いているのかわからないけど、この状況に恐怖している、というわけではないのだろう。
何でこんなことになってしまったんだろう。そんな風に考えて、悲しいのかもしれない。
話が平行線のままで、とっくに授業は始まっていた。
嘘泣きに疲れたのか、それともこの状況に飽きたのか。
ヒステリックな金切り声を、お姉ちゃんは叫んだ。
「あんただって、何人も男と付き合ってるだろ」
司令塔の女の子を指差した。女の子は顔を真っ赤にさせて、気が狂ったみたいな悲鳴を上げた。
その声を聞いたのか、先生が来た。一応、その場は収まった。
先生の前でお姉ちゃんはここぞと泣き始めた。体格の良い若い先生が、そんなお姉ちゃんの肩を抱いた。
そういえば、先生にも手を出してるって言う話を、思い出した。若い先生はお姉ちゃんを囲んでいた女子生徒たちを怒鳴った。
何でこんなことになってしまったんだろう。

お姉ちゃんに手を強引に引かれていったその男子生徒が、件の彼氏らしい。
彼は今学校に来ていない。何故かは知らないが、考えたらすぐにわかった。
お姉ちゃんは今日も別の男の手を引いていた。
アイシャドウを塗りたくった司令塔の女の子も、似たようなことをしていた。
私はいつかみたいに、こなちゃんの手をそっと握った。こなちゃんは私と違って、手を握り返してくれた。
壊れてしまいそうなほど、小さな手だった。どうか壊れないで、と願った。
私はやっぱり、クマンバチの話を、幾度も反芻していた。けど、ついにそれは終わった。
夜中、私は学校の鞄に、こっそりと潜ませた。ひっそりと、それは意味を持った。気がした。


そして、冒頭に戻る。
目の前には、アイシャドウを塗りたくった、司令塔の女の子。ピザパンを持った女の子が立っている。
彼は、この女とセックスしたのだろうか。お姉ちゃんは、彼とセックスをしたのだろうか。
ぼんやりと考えた。
性懲りもなく、私はクマンバチの話を思い出す。
その話は、彼から聞いたのだ。
恐らくこのアイシャドウの女とセックスをした彼に、
恐らくお姉ちゃんとセックスをした彼に、
空を飛べないことを知らないクマンバチの話を聞いた。
教室を移動するとき、理化教室で、彼はクマンバチの飼育ゲージを指差して、私に話しかけてきた。
聡明な彼の話は、とても面白かった。
男の子とあんなに楽しく話したのは、初めてだった。
彼と談笑しているところを、お姉ちゃんに見つかってしまったのが、そもそもの始まりだったのかな?
ぼんやりしていると、濡れたモップを、胸に突き立てられた。一瞬、息ができなくなった。
鞄から懐に移しておいたそれが、私の肌に接触し、冷やした。金属の無機質な冷たさは、私の心のようにも思えた。
私は彼が好きだった。もしかしたら、今でも好きなのかも。
でも、彼はもう学校にはいないので、私は諦めることにする。
いや、知らなかったことにしておくのだ。


自分は空を飛ばないのだと知らないクマンバチのように、私は、その恋を、知らなかったことにしておく。
そのために、この女二人は邪魔だ。
自分は飛べないと知らないクマンバチに、でっぷり太った体と、小さくな羽は、邪魔だ。
そんなものは、知っていてはいけない。
最後に、メロンパンが飛んできた。私はそれを顔面でキャッチしてから、そろりと懐に手を伸ばした。
そして、ぐさりと、アイシャドウの女にそれを突き刺す。
思ったよりも簡単だった。
顔を見ると、女は間抜けに口を開けて、私のことを見ていた。
力を込めて引き抜くと、彼女が持つピザパンに、トマトソースが滴った。
不味そうなトマトソースね、と苦笑する。今度は上手くいった。
うう、と呻いて、アイシャドウの女は蹲った。
あれ、死なないのか。まあいいや。
今度は、お姉ちゃんだ。
後ろを振り向くと、お姉ちゃんも、女と同じ顔をしていた。
ぽかんと口を上げて、信じられない、と私を見上げている。べろは出していなかった。

私はお姉ちゃんの肩を掴んで、喉につきたてた。
私って、こんなに力もちだったんだ。内心で驚愕する。
引き抜こうとしたら、肉が締まっているのか、抜けなかった。
まあいい。もう、私は、知らないでおける。
知らなかったことにできる。
ふらり、とそこから立ち去った。後から悲鳴が上がった。うるさいなあ、と思う。
私は、この先にある理化教室に向かった。
幸いにも理化教室の扉は開いていた。
私は薄暗い教室で、クマンバチの入る飼育ゲージを見つけた。
その中で、クマンパチは飛んでいなかった。
でっぷりした体は死んだように転がって、小さな羽根をしきりに羽ばたかせ、もがいていた。
何だよ、知らないんじゃ、なかったのかよ。
私はふと、人間が空を飛べないのを知らないことにして、屋上に向かった。











コンセプトは「厚い」って感じで書きました。自由なコンクールお題に頭が下がるばかり。
でも僕にとってこのSSは「熱いっ!」って感じでもあります。いや、冗談です
言っておきますがこのSSは多大な嘘が含まれています。(例;クマンバチって飼えるの? つかさの力で人をさせるの?)
そこら辺はスルーしてください。
ありがとうございました
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。