ID:Q1SzUYs60氏:雨降りの午後

ほのか「夕方には雨が降りそうだからチェリーのお散歩はお昼に済ませたほうがいいわね」
みなみ「そうするよ」
短く答えた。チェリーの散歩で雨が降るのはそう珍しい事ではない。雨の日で散歩に行ってもチェリーは嫌がらないし私も苦ではない。とは言っても降らないにこしたことはない。
居間の窓越しから空を見上げた。雲はまだ薄く雨が降るのはもう少し時間がかかりそうだ。お昼を食べて少し休んでから行くことに決めた。
その間本でも読んでいよう。部屋に向かった。

 自分の部屋に戻ると何かを忘れているような気分になった。何だろう。そうだった。今日はゆたかが来る日だった。何をのん気にしていたのだろうか。急いで居間に戻った。
みなみ「今日はゆたかが家に来る約束をしていたのを忘れていた、午後のチェリーの散歩は……」
ほのか「ああ、そういえばそんな事言っていたわね、チェリーの散歩は私がするからいいわよ」
みなみ「ありがとう」
私は部屋に戻ろうとした。
ほのか「その代わりにお願いがあるの」
みなみ「なに?」
ほのか「晩御飯のお買い物に行って来て欲しいの、ゆたかちゃんも食べるでしょ」
私は時計を見た。もうお店は開いている時間だった。
みなみ「それなら今行くよ、何を買えばいい?」
お母さんはメモ紙に書きとめお金と一緒に私に渡した。
ほのか「今日は休日の割引キャンペーンの日、いつものスーパーでお願いね」
みなみ「うん、わかった」
玄関で靴を履いて外に出ようとした時だった。電話が鳴った。お母さんが受話器を取った。電話の相手が気になったのでその場に止まった。
ほのか「みなみ、泉さんから」
靴を脱いで電話に向かった。
みなみ「もしもし……」
こなた『みなみちゃん、買い物に行くところだったんだって丁度よかったよ、今日午後からゆーちゃんがそっちに遊びに行くって言ってるんだけどね、ちょっとそんな状態
    じゃないんだ、熱が出ちゃってね、それでも行くって言うから困っちゃってさ』
最近は保健室に行く事も無かったのに。
みなみ「授業で分からない所があったのでみゆきさんに教えてもらおうと」
こなた『そうなんだ、みゆきさんの講師ならゆーちゃんも行きたがるのは分かるよねー』
みなみ「ゆたかに代われますか」
こなた『今薬飲んで眠っている所、さっきまで薬を飲むのも嫌がってね、だから代わりに私が電話してるって訳』
確かにこれでは家に来られない。今日は諦めよう。
みなみ「私がみゆきさんに教えてもらって明日学校でゆたかに教えるから……そう伝えて下さい」
こなた『うん、分かった伝えておくよ、ごめんね、みなみちゃん』
みなみ「いいえ、お大事に」
こなた『ありがとう』
電話を切るとお母さんが心配そうな顔をして私を見ていた。
ほのか「来られそうにないの?」
私は頷いた。
ほのか「それじゃ買い物は行かなくていいわよ」
みなみ「いや、行ってくるよ、みゆきさんにお礼もしないといけないし」
ほのか「そうだったわね、夕食はこっちで食べてもらいましょう」
再外へ出た。

 玄関を出ると冷たい風が顔を撫ぜた。昨日までの暖かな日とは違って季節が戻ったような北風だった。体を竦めていた。この気温差でゆたかは体調を崩したに違いない。
ゆたか月に何日も休むこともあった。それなのに学校の成績は悪いほうでない。私が数日学校休んでいたら授業に追いついていけるだろうか。少なくとも今よりは悪いはず。
ゆたかのどこにそんな力があるのだろうか。知り合って一年余り、まだ友達のそんな所までは理解できていない。しようとしていないのか。

 マーケットで買い物を済まし家の扉を開けたときだった。廊下にチェリーが寝そべっていた。
みなみ「ただいま」
ほのか「おかえり、外は寒いし雨が降りそうだからチェリーを入れておいた、ちょっと早いけどお昼の用意をするわね」
みなみ「ありがとう」
チェリーは寝そべったまま動かない。チェリーを飛び越えるように廊下を渡った。
私は買ってきた袋とお釣りをお母さんに渡した。お母さんは袋の中身を確認した。
みなみ「みゆきさんの家に行く準備をしてくる」
ほのか「すぐご飯だから」
みなみ「うん」

 部屋に戻り準備をして昼食をとってみゆきさんの家に向かった。向かったと言っても道路を挟んだ隣の家。玄関を出て数十秒で着いてしまう。
みゆき「いらっしゃい……小早川さんの姿が見えませんが」
しまった。欠席するのを連絡していなかった。
みなみ「今朝連絡があって、急な発熱したそうです」
みゆき「そうでしたか、どうぞ入ってください」

勉強会を始めてみゆきさんの部屋で質問をいくつかした時だった。みゆきさんの様子が違うのに気が付いた。顔色も優れない。
みなみ「どうしました、気分でも悪いのですか」
みゆき「い、いいえ」
みゆきさんは暫くボーとしてから答えた。これは間違いなく熱がある。
みなみ「やはり気分が優れないのですね、もうこの問題の要領は分かりましたので」
私はノートをしまった。
みゆき「まだ三十分も経っていません、大丈夫です」
私が立ち上がると止めようとしたのかみゆきさんも立ち上がったがふらついていた。
みなみ「帰ります、明日の大学に差し支えますよ」
みゆき「……そうですね、すみません……今朝の急に冷え込んだのが原因かもしれません」
みなみ「お大事に……」

みなみ「ただいま」
お母さんは少し驚いた顔をして私を見た。
ほのか「あら、早いわね、もう勉強会は終わったの?」
みなみ「みゆきさんも体調が良くなかったから」
ほのか「最近風邪が流行っているみたいだから気をつけないとね」
お母さんはチェリーの散歩用の綱を持っていた。散歩に行くつもりだったみたい。
みなみ「お母さん、私時間が空いたからチェリーの散歩行って来るよ」
ほのか「それじゃお願いしちゃおうかしら」
私に綱を渡すと居間の方に向かって行った。私はチェリーの居る所を向いた。さっきと同じ廊下で寝そべっている。
みなみ「チェリー、お散歩行こうか」
チェリーは耳だけを私の方向に向けた。動く気配がない。今度は散歩用の綱をチェリーに見せる。
みなみ「散歩に行く気ないの?」
今度はゆっくりと起き上がり自ら私に近づいてきた。綱をチェリーに付けると尻尾を振り出した。
ドアを開けると外はポツポツと雨が降り出していた。天気予報よりも早い雨降り。

雨降りの午後の散歩。傘を差しながらチェリーと歩く。買い物に行った時よりも幾分寒く感じる。何か今日はモヤモヤとした気分、気分が晴れない。
お天気のせいばかりではないみたい。思い通りにならない日なんて今までいくらでもあったのに、今日は特に気が重い。
いつもの散歩道を歩いているとチェリーの歩みが急に止まった。チェリーは公園の方向をじっと見たまま動こうとはしなかった。
みなみ「行こう……」
晴れの日なら子供たちが居るから遊んでもらえる。しかしこの雨では誰一人公園には居ない。綱を少し強めに引いて諦めさせようとした。チェリーは四足に力を込めて抵抗した。
こんな時のチェリーは何をしても動かない。好きにさせてあげるしかなさそう。綱を緩めてチェリーを自由にした。チェリーは公園の中に入り公園中央で歩みを止め、命令を
しているわけでもないのにお座りをした。チェリーは誰かを待っているのか。公園の周りを見回したがいくら休日とはいえ雨で公園に遊びにくる子供はいない。
お母さんの躾なのか、それならば散歩前に何か言うはず。

『ふぅ』
溜め息を一回、もう数分を過ぎた。チェリーはまだ動く気配はない。このまま強引に連れて行くことも考えたが帰っても特に急ぎの用もあるわけではない。
公園を見回した。静か……。静かだけど音が聞こえる。
傘に雨が当たる音、地面に当たる音、水溜りに当たる音、それらが混ざって耳に入る。音がするのに静かに感じるのは何故。
昼下がりの公園、晴れていれば子供たちが遊び、大人たちは集う賑やかな場所。砂場で山を作ったり、ブランコを漕いだり、滑り台で滑ったり、ジャングルジムで……
そう、この公園で私は幼い頃遊んだ。ここに居るだけで楽しかった。おそらく数時間だっただろう。だけど凄く永い時間を遊んだような記憶。
みゆきさんも居たような……みゆきさんは覚えているだろうか。
そんな楽しかった公園だった。だけど小学校の中学年になる頃には公園で遊ばなくなった。高学年にはチェリーと散歩に行く時に寄る程度になってしまった。そして今……
もう私は高校二年生。あの頃に比べると時間の流れは目まぐるしく早い、そう感じているだけなのか。この公園はあの時と少しも変わっていない。公園で遊ぶなんて……
もうあの時には戻れない。幼い頃には戻れない。
『クゥン~』
甘えた声でチェリーが鳴いた。チェリーは綱を咥えて引っ張っている。もうここには用はないのか。違う。綱を外してと言っている。
その時気が付いた。チェリー……この公園で私と遊びたかった。昔のように。
幼い頃チェリーと一緒にここで遊んだ。一緒に走ったり、ボールを投げたり……。
でもそれはチェリーが子犬だったから出来た事、成犬となった今、この公園で綱を外す行為は許されない。
チェリーの目の前でしゃがんだ。
みなみ「ここは綱を外してはいけない所、今度外しても良い広場に行こう」
チェリーはまだ綱を引いている。他の所ではなくここで遊びたい。そんな風に言っているようだ。
私はチェリーを抱きしめた。差していた傘が落ちて私にも雨が当たった。
みなみ「ごめん、チェリー……」
チェリーの動きが止まった。そして噛んでいた綱を離し私の顔を舐めてきた。分かってくれたのだろうか。チェリーを離し落ちていた傘を拾った。
雨とチェリーの濡れた体のせいで私の服も濡れてしまった。

気付くと雨足が強くなってきた。雨の音も強くなる。こうなっては静かには感じない。地面に当たった雨が私の靴を濡らす。
みなみ「帰ろう」
私が歩き出すとチェリーも付いてくるように歩き出した。

みなみ「ただいま」
私の姿を見てお母さんは驚いた。
ほのか「びしょびしょじゃない、傘は持っていったはずよね」
みなみ「帰り転んでしまった……」
お母さんは二つのタオルを私に渡した。一つは自分の首に掛け、もう一つのタオルでチェリーの体を拭いた。
ほのか「着替えなさいね……そうそう、散歩に行っている間にお友達がきたわよ、居間に通しておいたから」
みなみ「うん……」
友達、誰だろう。今日の会う約束はゆたかとみゆきさんだけだったはず。着替えを終えると居間に向かった。
みなみ「ひより……こんにちは」
ひより「こんにちは、悪かったかな……アポ無しで来ちゃって」
片手を前に出して謝っているように見える。アポなしでも構わない、嬉しさがこみ上げてきた。
みなみ「そんな事はない、今日はどうして……」
ひより「いやぁ~ね……雨で予定が中止になっちゃって、勉強会やるって言ってたでしょ、便乗しようと思って来たんだけど……二人ともダウンなんてね」
みなみ「みゆきさんに少し教えてもらったから、それをヒントに解けそうな問題が幾つかある」
ひより「そうなの、それじゃ二人だけでやってみる?」
私は頷いた。私達は自分の部屋に移って勉強会をすることになった。

ひより「さすが高良先輩、こんな解き方があるなんて」
ひと段落した。ひよりの持っているノート。勉強には使っていないものがある。そういえば居間に居るときも持っていた。ひよりはノートを鞄にしまうのを私は見ていた。
それにひよりは気が付いた。
ひより「ん、これ?」
ひよりはノートを鞄から取り出し私に見せた。私は頷いた。
みなみ「そのノートは、一回も使っていなかった」
ひより「ネタ帳、最近なにも浮かばなくってね、部活でテーマを決めたんだけど……困ったもんだ」
みなみ「テーマ?」
ひより「『お題』って言えば分かるかな、ただ漫画を描くとダラダラになるから同じテーマで描く」
みなみ「学校でよくやった作文みたいな物?」
ひより「そんな格式ばったものじゃないよ」
みなみ「そのお題って何?」
ひより「子供時代……なーんて、言われてもね、もう少しアウトロー的な……なのが良い」
みなみ「アウトロー?」
ひより「い、いや、何でもない……」
ひよりは何を慌てているのか分からなかった。
みなみ「子供時代……私達は未成年、子供みたいなもの」
ひより「中学・高校は子供でも大人でもない中途半端な年代なんだよね、もっと小さい頃イメージが欲しいんだけど、そんな頃なんてもっとネタがない」

 子供の頃のイメージ、チェリーとの散歩を思い出した。あの情景……。楽しい思い出なのに切ない感じ……
ひより「あっ、ごめんね、みなみちゃんには関係ない部活の話だったね、勉強も一段落したし、帰ろうかな」
ひよりは帰り支度を始めた。関係ない話でも良いから今日はもう少し居て欲しい。
みなみ「その子供の頃のイメージ、出来るかもしれない」
ひより「出来る……出来るって?」
私はピアノの前に座った。あの公園に居た時のイメージに合う曲を弾いた。言葉では表現できない。

子供の情景からトロイメライ……。そんなに難しい曲ではない。名前の通り夢のようなこの曲。だけど大人になるとただ夢の世界でしかなくなる、あの時に戻れない切ない曲。
公園での出来事を思い出しながらゆっくりとその曲を弾いた。

 弾き終わった。ひよりは何も言わない。ダメだったか……はずしてしまった。ピアノから目をひよりに向けられない。
所詮あの感情は私だけの特別なものだった。他人に伝えることも話すこともできない。自分のした行動が恥ずかしくなった。
ひより「う~ん、何だかね……」
やはりそうだった。
みなみ「付き合わせて悪かった、何かの役に立つと思っただけ……」
ひより「うんん、そうじゃなくて、聴いたことのある曲だけどなんて言ったっけ?」
みなみ「トロイメライ」
ひより「そんな名前だったね……」
ひよりはまた何も言わなくなってしまった。

ひより「もう一回いいかな?」
私はひよりの方を向いた。彼女はにっこりと微笑んだ。
ひより「なんとなくイメージが湧いてきた、もう一回いいかな」
みなみ「もう一回?」
ひより「うん、それに今度はちゃんと聞きたいしね、みなみちゃんの演奏」
この曲を聴いて涙する人がいると言う。幼い日の思い出がそうさせるのか。戻れない過去を憂いでいるのか。私たちがこの曲を聴いてそう思うのなら大人になったと
言う事なのだろうか。そんな自覚も感覚も無い。

 夕方近くになったのでひよりは帰ると言い出した。夕食をと誘ったが家族で食べる約束があるとの事だったので無理は言えなかった。そこで私は駅まで送ることにした。
外に出ると小雨になっていた。傘を差すほどではない。
ひより「ごめんね、せっかくのお誘い断っちゃって」
みなみ「いや、約束があるのなら仕方が無い」
ひより「それに何度も演奏させだし」
みなみ「それも問題ない……」
私はひよりを見た。いったいあの演奏で何をイメージしたのだろうか。少し興味が湧いた。
ひより「ん、何?」
私の目線に気が付いた。
みなみ「い、いや、演奏でなにがイメージ出来たのか聞きたかった」
ひよりは空を見ながら言った。
ひより「ごめん、言葉に出来ないんだよね、なんて言ったらいいのか……やっぱり私腐ってるからも……」
そう、私も言葉にできなかったから音楽にした。それなら私の体験を話した方がいいのかもしれない。
みなみ「ひよりが来る前、私はチェリーと一緒に……」
私はトロイメライを弾くに至った体験を話そうとした。
ひより「ストップ!! それより先は言わないで」
ひよりは突然手を私の前に出して話すのを止めさせた。
みなみ「なぜ」
ひより「言葉にできないから良い場合もあるし、みなみちゃんが演奏した曲のイメージを大事にしたい」
以前泉先輩の家でひよりの描いた漫画を読んだことがある。その中には私とゆたかがモデルと思われるエピソードが幾つかあった。ひよりは実際に起きた事も題材にしている。
それなのにさっきひよりは私の話を聞こうとはしなかった。
みなみ「ひよりは見聞きしたものでも漫画にするのでは?」
ひより「見聞きと言うよりは実体験をネタによくするね、でもそれはあくまで自分の体験がネタなんだ、人の体験はあまり使いたくないんだよね…
…だから、つかさ先輩のネタノートはあまり見たくない……」
そんなこだわりがあったとは知らなかった。
そういえばひよりはいつから友達になったのだろうか。一年生のごく早い時期だったような、気が付いたらひよりが居た。自然に私とゆたかの会話に入ってきた記憶がある。
今思えばそれは私とゆたかを漫画の題材にしたかったのかもしれない。

みなみ「ひより……もう駅を過ぎている」
ひより「え?」
ひよりと私は駅の改札口から十メートル程はなれていた。ひよりはそのまま通過してしまった。私が言わなかったらどこまで行くつもりだったのだろうか。
ひより「ははは、私ったら、今日はどうかしてるね……」
苦笑いしながら慌てて改札口に戻り切符を購入した。切符を購入すると私近づいてきた。
ひより「それじゃ、また明日学校で」
振り返って駅に入ろうとした。
みなみ「待って……」
ひより「なに?」
みなみ「……完成したら、見てみたい、ひよりの漫画……」
ひより「最初からそのつもり、ゆーちゃんにも見せたいしね」
みなみ「それじゃ、明日……」
ひよりは駅の奥へと進んで行った。

 ひより、私と何故友達になった。
別れ際そう聞きたかった。だけど実際は全く違った事を言っていた。帰り際のひよりの笑顔。その質問をしたら同じ質問を返されそうだ。質問されても私は答えられない。
理由なんか無いのかもしれない。成っていた事実があるだけ。だけど、それが心地いい。きっと公園居た時の感情を理解してもらえたから。ひよりに聞いた訳ではないに、
そんな気になっているだけかも。なんだろうこの複雑な気持ちは……
気付くと雨はもう止んでいた。道行く人たちは皆傘を畳んでいる。私も傘を畳んだ。雲の切れ目から夕日が顔をのぞく。帰るか……

帰るとお母さんは夕食の準備をしていたが一段落したのか手を休めて私の居る居間に来た。
ほのか「田村さんと部屋に居る時、ピアノを弾いていたわね、何度も何度も……同じ曲」
みなみ「うん」
ほのか「みなみの小さい頃を思い出すわ」
微笑み優しい目で私を見ている。私が小さかった頃の様に。
みなみ「お母さんが小さかった頃はどんな子だった?」
お母さんは更に目を細め私の目線より高い方を向いた。遠い目と言うものなのか。
ほのか「小さい頃ね……私はみなみほどピアノは上手くなかった、だけど……楽しかった」
お母さ……、夢でも見ているかのような顔。母は座ると子供の頃の話をし始めた。同じだった。私と……
きっとどんなに歳をとっても変わらないものなのかもしれない。

みなみ「おはよう」
ゆたかは本を読んでいた。私の声に気付かない。私が席に着いた頃にようやく気付いた。
ゆたか「あ、みなみちゃんおはよう」
ゆたかの持っている本を見た。表紙は真っ白だった。私がゆたかの持っている本を見ているのに気が付いた。
ゆたか「あ、これ、これは田村さんが描いた漫画」
あれから一週間経つ。もう完成したのか
ゆたか「まだ下描きだって言ってたけど、ちょっと漫画の世界に浸っちゃってみなみちゃんの来たのが分からなかった」
教室を見回したがひよりの姿がない。
みなみ「ひよりは……」
ゆたか「私がこの漫画見るのが恥ずかしいって言って部室へ行っちゃった」
確かに人に見られるのは小恥ずかしいのは理解できる。
ゆたか「みなみちゃんも見てみる、タイトルは『雨降りの午後』だって、田村さんのいままでの漫画とちょっと感じが違うんだよ」
このタイトルを聞いて何か体に電気が走るような感覚が過ぎった。
みなみ「少女は雨の中、犬の散歩をしていた、そして……誰もいない公園を通りかかる」
ゆたか「え、どうして……分かるの?」
もう見なくても内容は分かった。ひよりのイメージは私の見た出来事そのまま。なにか嬉しい。私の感じたものは特別なものではなかった。
みなみ「なんとなく……」
ゆたかは私に漫画を差し出した。
みなみ「完成したら見る」
そう約束したから。
ゆたか「見た感想が欲しいって、なんて言えばいいかな、言葉に出来ないよ」
みなみ「言葉に出来ないでいいと思う」
ゆたかは納得できないような顔をしながら漫画をひよりの席にしまった。
ゆたか「ん?」
ひよりの机の中から別の本が落ちた。ゆたかは拾いその本を開いた。
ひより「わー!!!」
突然後ろからひよりがその本を覆い隠すように奪い取った。ゆたかは硬直していた。
ひより「はぁ、はぁ、これは見てはならない物だから……」
息が荒い、走ってきたみたいだ。
ゆたか「見ては……ならない……もの」
ゆたかの顔がみるみる赤くなっていく。
ひより「みちゃった……かな……」
ゆたかは小さく頷いた。
みなみ「いったい何の本?」
ひよりも少し顔を赤らめた。
ひより「い、いやね、未完成だし、見たって面白くないよ」
みなみ「面白いかどうかは見なければ分からない、私も見てみたい」
ゆたかの表情とひよりの慌てぶりでどんな本なのかは想像つく。この前言っていたアウトローとはこの事なのか。それでも一度見てみたい。ひよりの作ったものなら。
ひより「えっと、さっき言わなかったかな……見てはならないものって……」
みなみ「見てはならない物なら何故そんな見つかり易い所に、それに私達に見てはならない本は年齢的にない」
ゆたか「……私も続き……見てみたい」
ゆたかも見方になった。ひよりは暫く黙ってしまった。
ひより「……分かった……完成したら……でいい?」
みなみ・ゆたか「うん」
始業のチャイムが鳴った。黒井先生が来る。周りの生徒は一斉に自分の席に戻った。

また今日も普段通りの生活。あと何回あの曲、トロイメライを弾きたくなるだろうか。これから先、幼い頃の思い出なんか必要無くなるのか。
それとも思い出している時間もないほと忙しくなるのか。どちらもも悲しい。あの時のチェリーとの散歩での体験、お母さんの表情。『雨降りの午後』を見たゆたかの反応。
どれも悪い感じはしなかった。
またあの曲を弾きたくなった。放課後、音楽室のピアノを借りて弾こう。何人が立ち止まって聞いてくれるか。それは気にしない。忘れない様に、遠い将来の為に。




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