ID:TaLUFlyw0氏:非常の中の日常

非常の中の日常


 成実ゆいは、警察署で当直勤務をしていた。
 何か起きない限りは、特にやることもない。
 音量を抑えたテレビを漫然と眺めていた。ときおり入る地震速報のテロップには、もうすっかり慣れてしまった。
 同じく当直の後輩は、パソコンでお役所仕事的などうでもいい書類を作成していた。


 3月11日の大地震発生から1ヶ月以上が過ぎていた。


 埼玉県内の親類の無事は、3月11日中に確認できた。
 従妹のこなたは「本とフィギュアがめちゃくちゃになったよ」と嘆いていたが、怪我がなかったのは幸いだった。両親も妹もおじさんもみんな無事が確認できた。
 問題は、東北地方に単身赴任している夫のきよたかだった。なんとか連絡がついたのは二日後。無事だと分かったときは思わず泣きそうになった。
 夫は、被災した工場設備の復旧作業のためしばらくは帰ってこれないという。夫が勤めている工場が生産しているものは現地の復興には欠かせないもので、その復旧はなんとしても優先されなければならないことだった。
 ゆいは、すべてを放り出して現地に駆けつけたい思いをぐっと押さえ込み、「体には気をつけて」と言って電話を切った。
 私情を挟まず自分の持ち場で本分を尽くすのが公僕の務めだ。それをいまさら放棄するわけにはいかない。
 それ以来、こちらから連絡することはしていない。夫が日々の激務で疲れ果てていることは分かっているから。
 夫から電話がかかってきたときは、いつもどおりの成実ゆいとして日常と変わらない会話をかわした。「がんばって」とも「無理しないで」ともあえて言わない。


 地震発生直後は、信号機・標識等の損害状況の巡回点検、地震に伴って発生した交通事故の処理などで奔走した。
 その後は、東北地方に支援物資を運ぶ民間車両への「緊急輸送車両確認証明書」の発行手続や、輪番停電で信号機が停止した主要交差点の交通整理などで忙しかった(「無計画」停電のせいで翻弄されっぱなしだったが)。
 それらの仕事も今はもう落ち着いている。
 被災地への災害派遣は機動隊が中心で、交通課の警察官にはお呼びはかかっていない。
 「余震等に伴う不測の事態に備え非番の場合も自宅待機せよ」という命令はいまだに解除されてないが、仕事はルーティーンワーク中心の通常態勢に戻りつつある。


 後輩が作成した書類を回してきた。たいして中身も読まずにハンコを押して、課長席に置いておく。
「しかし、これって本気なんですかね?」
 後輩が、ホチキス止めされた分厚い資料の束を掲げた。表紙には「部外秘」とスタンプが押されている。表題は「重大事態における県民の避難誘導について」。
 中身はパラパラと読んだが、愉快な内容ではない。
 最悪の場合には県民すべてを県外に避難させることとされており、その場合における埼玉県警の具体的な行動計画が記載されていた。その規模の避難誘導となれば、当然、交通課の警察官も総動員ということになる。
 避難の方向は西が想定されていた。となれば、「重大事態」の内容も見当がつくというものだ。埼玉県から北東方向を見れば、今回の震災ですっかり有名になってしまった原発がある。
「上の方は本気なんでしょ。じゃなきゃ、こんなもん配らないよ」
「杞憂ですんでほしいですけどね」
「誰か偉い人が言ってなかったっけ? 起きる可能性のあることはいつか必ず起きるって」
「マーフィーの法則ですね」
「そう、それ。そういうのは、交通事故だって原発事故だって変わんないよ」
 違うのは頻度だけ。
 あとは、どこまでを想定して、どこまで準備しているか。想定を超えた場合にも対応できるだけの余裕があるか。その違いでしかない。


 突如、警察無線から音声が流れてきた。
「こちら、サイケンツウカン。サイケンツウ5、応答せよ」
 ゆいは、無線を手に取って応答した。
「こちら、サイケンツウ5。サイケンツウカン、どうぞ」
「事故発生……」
 事故発生の場所・時刻、判明している状況などが告げられた。人類滅亡のその瞬間でさえ決して変わらぬであろうと思わせる淡々とした声で。
「サイケンツウ5、了解。現地向かいます」
 節電の影響かどうかは定かではないものの、交通事故件数は徐々に増え始めている。ほとんどが物損事故だが。


 ゆいは、後輩とともにすばやくパトカーに乗り込み、サイレンを鳴らしながら、夜の闇の中へと消えていった。


終わり


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