ID:nZgdbqYeo氏:泉の里帰り

 湯気の立つ浴室に、クスッとわたしの口から漏れた思い出し笑いが反響する。

 ―――じゃあさ、おとうさんいつもわたしにぺたぺたしてくるけど、わたしが男子でもいまと同じように接してきた?

 おねえちゃんにそう尋ねられて、おじさんが「あたりまえじゃないか」と返すまでの、いっときの間。
 「よーくわかったよ」と軽く言い放つおねえちゃんと、そのときの空気を思い返すとおかしくなって、ほおがほころぶ。

 あの父娘のつくるほがらかな雰囲気はとても心地よくて、わたしもそのなかにいさせてくれることが、とてもうれしい。
 そう思うから、ときどき、私はぼんやりと好奇心をめぐらせることがある。あの父娘ふたりに、大きく関わったはずのひとのことへと空想が飛ぶ。
 おねえちゃんにうりふたつな写真の姿。おじさんの伴侶だったひと。泉かなたさん。
 私が知っているかなたさんのことは、ふたりの談笑のなかに出てくる情報から勝手に想像したものでしかなくて。
 かといって、死んだ家族について居候に過ぎないわたしが真正面から尋ねるのははばかられるから、これ以上の確たる情報を集めることは望まない。
 そんなふうにかたちづくられた、ぼんやりとしたままのかなたさんの像を、頭のなかでながめている。おじさんが体裁を整えるために話題を変えようとした結果の一番風呂のなかで。
 そういえば、いまはお盆の時期だと思い当たる。きっと、ここも、かなたさんが存在した空間なのだろうと感傷的になるのは、それが理由なんだろうか。そう思いながら、お風呂の熱のなかで息をついた。

 ―――物思いをしながらの入浴。わたしは時間を忘れた。どれくらい経ったのだろうか、まぶたが下がってくる。目に力を入れて、こらえる。
 眠気と倦怠感。まどろむ薄目で見る視界は、とても白かった。湯気のせいであればそれはそれでいいのだけれど、のぼせてしまって目がチカチカしているせいであれば、それはわたしの身体にちょっと都合がよろしくないもので。
 ああ、まずいな。もう、お風呂あがらなきゃ。そう思ってわたしは、浴槽の縁をつかんで―――



 立ち眩み、床に倒れ込む感覚にハッとする。とっさにバランスをとろうと身体が勝手に反応する。「わっ」と声を漏らしながら、足裏が地面を踏みしめる。転ぶのをこらえて、ほっと息をついた。
 そうしてその床の感触に気づく。廊下。お風呂じゃないところに、わたしは立っている。

 廊下の床から顔を上げると、コタツや、テレビや、見覚えのある物ばかりが視界に映る。居間の入り口に、わたしは立ちつくしている。
 肩の周りにクエスチョンマークをいくつも浮かべるような思いで首をかしげた。人の姿は、見あたらない。
 自分の身体を見ながらぱたぱたたたいて調べる。どこも濡れていなくて、ふつうに服を着ているこの状況に、わたしはしばらくぼうっとする。

 だれもいないこの部屋から、出て行こうとは思わなかった。ほかの部屋を調べて、ほかのだれかの存在を調べようとは思わなかった。
 意味が、ないと感じた。おねえちゃんやおじさんの生活の気配がまったくないのがここにいてもわかるから。見慣れたものばかりの視界に、現実感はまったく伴っていない。まるで、わたしひとりが夢のなかに立っているよう。

 そう。夢に、似ているんだ。現実じゃない場処に立っている。
 そう自覚すると、こころはさらに平静になって。わたしは居間へと平然と足を踏み入れる。夢の静寂に足音をたてる感触に、妙な味わい深さを感じながら、わたしはコタツの前まで歩を進めた。
 こんなふしぎな空気のなかで、コタツに入ろうとする動作が自然に出てくるのがこれまた現実感を薄くする。そんなことを頭の片隅で考えながら、わたしはコタツにもぐって卓に伏せる。
 思考をめぐらせる。わたしがここにいる意味について。わたしをここに招いたなにかの存在について。
 得てしてこういうものは、ひとりだけでじっと考えても答えなんて出るはずもないもので。
 得てしてこういうときは、こたえを知るだれかが、種を明かしにやってきてくれるもので……。


「こんばんは」

 その声におもてを上げる。コタツの対面にひとつの影。
 こなたおねえちゃんそのままの容姿で。でもそこから受ける印象はわたしの知るおねえちゃんのものとはぜんぜんちがっていて。
 だからこのひとは、おねえちゃんとはまったくの別人なのだと理解する。
 夢のなかだからこそこのひとと会うのだと、その存在が腑に落ちる。

 ちいさいひとだな。そのひとを眼前に見て、あらためてそう思った。
 こなたおねえちゃんとほとんど変わらない、そしてもちろんわたしよりは大きな体型のはずなのだけれど、こなたおねえちゃんの母である"大人"だとして見ると、ことさらちいさな印象を受けた。

 はじめまして。とわたしは頭を下げる。
「この春から、この家にお世話になっている小早川ゆたかです」

 泉かなたさんにむかって、わたしはそう、挨拶をする。



 泉かなたです。と返して、彼女はわたしに尋ねかけた。「この家での生活は、どうですか」。
「ふたりとも、わたしに良くしてくれてます。おかげで、とても楽しい毎日を送らせてもらっていますよ」
「それなら、わたしもうれしいけれど」
 言いながら、ふたりの悪い趣味に悪影響を受けてたりしてない? と苦笑する。
「悪い趣味だなんて思わないですよ。パソコンのこととか、すごい助けてもらっていますし」
 何の話をしているのかついていけないことはたびたびありますけれど。と付け加えてわたしも苦笑する。

「かなたさんは、ふたりの趣味を気にしているんですか?」
「まあ、気にしてたらそう君と結婚はしてないわね」
 苦笑を続けながらひとつ間を空けて、彼女は続ける。
「ことさら嫌うわけではないけど、そう君ほど熱中するものではないかな。
 こなたが産まれて、どんなふうに育って欲しいか、なんて話をしたことがあるのだけれど、
 そのときだって背はわたしに似ず、性格はそう君に似ないように、なんて望んだものよ」
 「……望みは、ぜんぜん叶ってないみたいだけどね」。そう口元を緩めて、おもいでを懐かしむその表情は、とてもやさしい。

 疑問が口をついた。
「どうして、わたしに?」
 かなたさんが、わざわざこんな場を設けたのはなぜなのか。
 おねえちゃんやおじさんには、会いに行かないのか。

「ふたりのことが気になるから、あなたと話してみたいと思ったの」
 かすかに目を伏せて、そう言った。
「これから、こなたたちの側に行って、ふたりを見守ることはあるかもしれない」
 でもね? と彼女はわたしに目を合わせる。
「直接、ふたりと話したりするのは、よくないな、って思うんだ」
 わたしは尋ねる。それは、どうして?

「わたしのなかにそう君たちが生きているように、そう君たちのなかで、わたしは生きている。
 こう考えられる理由は、生者と死者の垣根がしっかりしてるからこそ、だと思うの。
 空の上から、こなたたちを見守っていたい気もち。わたしはそれを、だいじにしたい。
 もし、また、生きているときと同じように、そう君がつくるしあわせのなかに立ってしまったら。
 あなたとこなたの隣に、立つようなことがあったら……」

 そこに、立ってしまったら、とかなたさんはわたしを見つめる。

「ぜったいに、いつまでもいつまでもそこに居たがって、その垣根を台無しにしちゃう」



 余計なことは、わたしは何も言えない。かなたさんのその気もちに、わたしなんかではどんな返事も軽く映ってしまいそうで。
「でも、せっかく帰ってきたんだし、ただふたりを見物するだけ、っていうのもったいないから」
 黙りこんだわたしの胸のうちを察してくれたのか、かなたさんは茶化すように言葉を続けた。
 だからせめてあなたと話そうと思ったんだ。と笑いかける。
「あなたからみた、そう君とこなたの話を聞きたい。そう、思ったの」
 それは、要は、自分の家族が他の人からもほめられる様子を見たがっているということで。
 かなたさんもそれを自覚しているのか、恥ずかしそうに、はにかんでいる。
 こんな話の流れに、すこし、呆けて。でも、一拍ののちにそれを理解すると、わたしもクスリと笑って、それに応えたいという意志が湧く。
「気もち、わかります」
 わたしがかなたさんと同じ立場だったら、きっと、同じことを聞きたがると思う。家族を、自慢したいと思う。

 ちいさく、すっと息を吸う。

 わたしは語る。

 頼りになるお姉ちゃんのことを。

 わたしを安らがせてくれる、仲の良い父娘の和のことを。

 わたしからみた、おじさんとおねえちゃんの現在を―――



 別れぎわの対峙は、玄関にて。
「玄関をくぐれば、元に戻るよ」
 玄関をくぐれば、おわかれ。
 わたしは、伝えられただろうか。伝わっただろうか。
 いま、わたしがいちばんちかくにいるおねえちゃんとおじさんのことを。

 彼女は微笑んで、わたしの手をとる。
「……わたしよりちっちゃい……」
「……気にしてることを言わないでください」
「ごめんね。でも、あなたを子供あつかいしているわけじゃないのよ」
 沈んだわたしに取り繕うように、彼女は言う。
「人より小さいだけで、かわいく見えて得してるなんてことはないわよね」
「わかってくれますか」
「うん、わかるわ。あなたは子供じゃない。これからどんどん、すてきな大人になっていける。本心から、そう思う」

 ありがとう、と彼女は感謝を告げる。
 それを聞いて、わたしは思った。

 きっと、伝わった。きっと、伝えられた。ここに思い残すことは、もうない。

「じゃ、またね」

 ……思い残すことは、ひとつ、あった。

 ―――生者と死者の垣根。
 またね。きっと、ただの社交辞令。
 だけれど親しみのこもった、別れの挨拶。

 もう、逢うことはないことは、わかっているけれど。

「はい、また」

 わかっている、けれど―――



 玄関をくぐった先は、脱衣所だった。後ろを振り返ると、そこには浴室がある。
 身体を確かめると、ぽたぽた水滴が垂れ落ちるお風呂上がりのすっぱだか。

「……」

 別れの余韻も何もかもが台無しになるような状況の変化に頭が追いつかなくて、そのままの姿勢で呆然と硬直する。
 しばらくして寒気が身体に走って、大きなくしゃみ。我に返って、あわてて身体を拭いて衣服を着ける。

 先ほどまでの、かなたさんとのひとときは、何だったのだろうと思う。
 居間へと進むと、家の主たちの騒がしいやりとりが聞こえる。
 先ほどわたしが入った静寂の居間は、ほんとうに起こったできごとなのか、なかば夢心地のままそこへと向かう。
 お風呂空きましたよ~……と中を伺うと、焦った様子のおねえちゃんとおじさんがデジタルカメラの映像をわたしに向けて差し出してくる。

「ゆ、ゆーちゃん見てこれ、こ、こここれ心霊写真!」

 あ、さっきまでのひとときは現実だ、と即座に納得した。 
 わたしは部屋をぐるりとみわたす。どこかにかなたさんはいるのだろうか。
 姿は、みえないけれど。
 消去しなきゃ、お炊きあげしなきゃ、とあわてるふたりを見せるのも忍びないので、なんとか、この場を収めようと声をあげる。

「け、消したりお炊きあげしたりしたら、逆に恨まれると思うんです!」
「ん? ん、んんん?」
 おじさんがうなる。こんなまったく逆の視点から意見を挟まれると、どっちが幽霊へのいい対処法なのか判断をつけかねてしまう。
 混乱を深めるふたりに、落ち着いてと促して、わたしは続ける。

「この写真は記念に、とっておきませんか?」
「き、記念!? ゆーちゃんこういうの好きだっけ!?」
 脈絡のないわたしの言葉に、ふたりの落ち着きはあっさり砕けた。狼狽するおねえちゃん。目を見開いてわたしを見るおじさん。

 自分で記念と口に出して、それがどれだけこの映像にふさわしいか、気がついた。親娘三人の、記念写真。
 記念は、紀念。過ぎ去った日の記憶を新たにすること。 

 こんにち、八月某日。――この日はとある魂が、家に帰ってきた日。
 この日は、魂が里帰りした紀念の日。だから―――

「……と、とにかく、これは記念写真なんです!」

 ―――だから、もうなりふりかまわず、この映像データは現像するまで死守に努めようと思った。
 こんな混迷の様子を、かなたさんはどんな顔をしてみているのかは恥ずかしくて知りたくもないので、この場にいるであろう彼女のことは意識しないようにしながら……。



 そうして、どうにかなった写真は、わたしのたからもののひとつとして引き出しにしまわれた。
 写真をとりだして、日付を見るたび、わたしはかなたさんとの邂逅のおもいでをあらためて意識する。
 いつか、ふたりに話したいと思う。この紀念日に、お風呂場で起きた、ふしぎなできごとを。

 わたしが大人になるころには、その夢のような記憶は、不確かな断片となっているだろうけれど。
 それでもその断片をかき集めて、わたしは物語を作りたいと思う。
 あの日起こったふしぎな出会いのできごとを、ふたりに伝えたいと思う。

 願わくばそのときは、あなたも聞いていてくれるとうれしいです。

 遠い空の垣根の向こうがわへむかって、わたしは笑いかけた。

 END.

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  • とても良かった!かなた×ゆたか 新鮮な
    組み合わせですね。面白かったです! -- チャムチロ (2014-05-10 08:04:19)

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最終更新:2014年05月10日 08:04
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