ID:.I6f0T60氏:蒼い月の夜

蒼い月の夜~Lady in blue~


 雲がどんよりと空を覆った、6月末の蒸し暑い夜9時半。私は部屋の窓を開けて机に向かっていた。期末試験まではまだ少し間があるけど、私は今週末中にこの『人間と社会Ⅰ』のレポートを書き上げてしまわないといけなかった。期日そのものまではもう少し期間があるのだが、スケジュールの都合上、今のうちにやってしまわないと時間が取れそうにない。かと言ってもう少し早く書けばよかったのかというとそうでもない。
 しかし、今になってみると、あと1日でも早く書いておけばこんなことにはならなかったのに、と思う。うっかりにもほどがある。レポートを書き終えて印刷したはよかったが、まさか最後にホッチキスの針がなくなっているなんて。普段そんなところチェックしてるわけないじゃない、と自分自身を擁護してみたり、まあホッチキスくらい明日でもいいんじゃないの、と言い訳をしてみたりもした。
 しかし、今を逃すと買いに行けるのは明日の夕方だ。というのも、専門学校は”空きのコマ”というものがなく、90分の授業を1日4つ、毎日コンスタントにこなしていかなくてはいけないからだ。そのうち半分以上は調理実技なこともあって、これは意外に疲れる。お姉ちゃんの大学のように空いている時間があれば、そこでしっかり休むこともできるのだが。
 それでも、お姉ちゃんは名門大学の法学部に通う大学生だから、あまり知られていない専門学校に行く私のような双子の妹がいるとは、誰にも思えないだろう。高校生の頃までは成績の差はあれど、なんとか同じ高校にとどまれていたが、こうして人がそれぞれの然るべきところへと収まると、またお姉ちゃんとの差を感じてしまう。お姉ちゃんは、私と違って、賢いから。
 このレポートを明日以降に回せば、私のことだからどうせ忘れるのだろう。そんな間抜けな自分自身をよくわかっているからこそ、思ったときにすぐ行動できるようになったとも思う。ゆきちゃんやこなちゃんが私にアドバイスしてくれたことが、未だにこうして生きている。ちょっとコンビニ行ってくる、とお母さんに告げると、私はこの春に大学に入るときに買った真っ白いノースリーブのワンピースだけで、財布と携帯電話を持って家を出た。外は真っ暗で、街灯だけが私の進む道を照らしている。


 コンビニまでは歩いて15分ほど。こんな格好だからこそ、わずかに夜風が吹いているのがわかった。でも出来れば知ってる人には会いたくないかな。コンビニに行けば中学校の時の同級生がアルバイトなんかしてるかもしれないけど。
 私はもともとコンビニの深夜営業には疑問を持っていたのだが、いざこうして自分がその必要性に迫られてみると、その便利さがわかるような気がした。高校生の頃までは夜9時に寝ていたのだから、その便利さなど実感するはずがなかったのだ。もっとも、今でも10時半に寝ているのは、まつりお姉ちゃん曰わく世間一般では「だいぶ早い方」らしい。私が何時に寝ようが起きようが、コンビニはこうして24時間営業している。深夜でもフリーターや大学生は働こうとするからこそ、そんな無茶が出来るんだ。そういえば同級生にもコンビニで働いてる人がいたような。
 ああ、あったあった。ホッチキスの針。あと、久しぶりにVAN HOUTENの冷たいココアでも買おうかな。ちょっと粉っぽいところが大好きだ。あとは、夜食でも買って帰ろうか? いやいや。365日年中無休でダイエット営業中のお姉ちゃんの前でこんな時間に夜食なんか食べるべきではない。今は我慢しておこう。
 ふと店内のバック・グラウンド・ミュージックに耳を傾ける。普段はラジオなんか流しているような気がするのだが、今流れている曲はほんわかしていて、歌っている声が可愛らしく、聴いていてとても心地が良い。“いらっしゃいませ 私のこころに探しているのはなんですか? ”
 私はただホッチキスの針を買いに来ただけなのだけれど……もっと違ったもの、ここにしかないようなものを求めて、このコンビニにやってくる人もいるのだろうか。
 ありがとうございましたー、という抑揚のない夜勤の店員の声を聞きながら、私がコンビニを出ようとしたその時、すれ違いざまに入ってきた長い髪の女性。
「あやちゃん?」
「……ひーちゃん?」
 それは、私の、そしてお姉ちゃんの長年の友人である、峰岸あやのちゃんだった。
「どうしたの? こんな時間に」
「うん、ちょっと、レポート書いてる途中に、要るものがあってね。あやちゃんは?」
「私もおんなじような感じ。履歴書と雑誌買おうと思って」
「履歴書? アルバイトするの?」
「うん、前期の間は全然働いてなかったから、正直お金なかったしね。自分のお金くらい自分で稼がなきゃ、と思って」
「へぇー、すごいなぁ」
 あやちゃんが店内に入っていこうとするので、私もそれに付き添って店内に戻る。あやちゃんはnon-noの最新号と(毎号買っているわけではないらしい)、アルバイト・パート向けの履歴書セットをすぐにレジに持って行った。私はnon-noもan anも嫌いじゃないけれど、どちらかと言えばオレンジページとか、NHKきょうの料理とか、そっちの方が読んでいて楽しいような気もする。私の本棚の比率で言えば2対8くらいかな。あやちゃんは着飾る相手がいるもんね。みさちゃんのお兄さんらしいけど。


「待たせちゃってゴメンね、行こっか」
 あやちゃんがレジから戻ってきた。雑誌と履歴書のせいで、ビニール袋が若干伸びている。乗ってきたのであろう自転車の前かごにそれを放り込んで、あやちゃんは自転車を押して歩き出した。
「最近どう? メールしてても全然会わなかったけど」
「うん、楽しいよ。朝から晩まで食べ物ばっかり扱ってる。たまに一般教養の授業とかがあるけど……今一番大変なのは、フランス語かな」
 その言葉自体に偽りはなかった。友達もできたし、毎日学ぶことはたくさんある。それに自分の進学、選択には後悔もしていない。なのに、私はそんな自分自身が、ひどく……空元気を出そうとしているのではないかと思うことがたまにある。自分自身を慰めようとしているのか、正当化しようとしているのか。
 私がそれをどんな時に感じるのかといえば、大抵の場合、自分の姉(特に双子の姉・かがみお姉ちゃんだ)や、陵桜学園の同級生の話を聞いた時だ。
「そっか。ひーちゃんも楽しんでるみたいで、よかった」
「あやちゃんは楽しくないの?」
「楽しいよ。陵桜もマンモス校だったけど、大学はそれよりももっともっと人が多くって大変。学部もたくさんあるしね」
「そうなんだ……すごいんだね、大学って」
「どうしたの? ひーちゃんだって自分のやりたいこと見つけたじゃない」
「そうなんだけどね。なんか最近、みんながうらやましくなってきちゃって」
 そこまで言った頃、ちょうど私の家のすぐ近くまで来ていたので、私は境内にあやちゃんを案内した。私が小走りで石段に駆け寄って座り込むと、あやちゃんはゆっくりと自転車のスタンドを立てて、私の隣に座った。
 私たちにとって、この境内は何年も前からずっと慣れ親しんできた場所だ。どのあたりに木の根が出ていて、どのあたりに大きな石が露出しているのか。そんなことも、私たちはよく知っている。そして、お姉ちゃんもそうだ。私たち4人の姉妹だけでなく、あやちゃんたちも、この境内で一緒に育ってきたのだ。今でこそ4人はバラバラの進路になってしまったが、私たちはついこの間までの6年間、一日も欠かすことなく毎日同じ学校に通ってきたのだ。
「あやちゃんは、みさちゃんがうらやましくないの?」
「なんで?」
「うーん、わかんない。でも何となく。みさちゃんとか、お姉ちゃんとか」
「そんなものかなぁ。みさちゃんは確かに素敵だけれど、みさちゃんはみさちゃん、私は私だもん」
 私はあやちゃんから視線を外して、空を見上げてみた。まだ雲が空にかかっているけれど、その雲の裏側が青白い光を放っている。
「ねぇひーちゃん」
「なに?」
「私はね、まだまだ自分のことを月だと思ってるの」
「月?」
「うん。みさちゃんっていう太陽がいてくれたおかげで、今まで輝いてこられた月。いつも元気で私を引っ張ってくれたみさちゃんがいなきゃ、私は一人じゃ何も出来なかったと思う。私が落ち込んでる時も、みさちゃんは空気も読まずに私の肩を叩いて元気づけてくれたしね。みんなが腫れ物に触るように私を扱っている時でも、みさちゃんだけは私の心の奥深くまでやってきて、光をくれた……だから、私は何となくひーちゃんが悩んでいる理由も分かる気がする」
「そう、なんだ……」
「うん。でも、今になってやっとわかったのね。私とみさちゃんはずっと親友だけれど、目指してるものが違う。だから進学先も違うし、得意なことも勉強してることも全然違う。大学生にもなったらそれが普通だし、それが自分たちのあるべき姿だって、もう分かるけど」
「私とお姉ちゃんも、目指してるものは全然違うよ?」
「そう。だからそれぞれを測る物差しを換えなきゃいけないところまで、私たちはもう来てるのよ。もうみんなが同じように数学とか日本史とかやってるわけじゃないしね。私たちがどんなに頑張ったって、法学部の彼女に、例えば法律のことでかなうわけないわ。でもひーちゃんはお料理のことをもっとたくさん勉強してるでしょ? ならそれで充分よ。」
「そんなものかなぁ」
「少なくとも私は、そう思うよ」


 境内は静かだが、時々通る東武鉄道の音がここまで聞こえてくる。ここは薄暗いけれど、東武の鷲宮駅の方向はそれなりに明るい。
 よく山奥に行ったりして、びっくりするくらい人気がなかったり、物音がなかったり、まったく人間の生活感がないという体験をすることがある。でも、そんな人里離れたところに行かなくたって、街のど真ん中から少し外れただけで、こんなに静かな場所があるのだ。私たち人間はつい目立つものや人の集まるものに気を取られてしまうことが多々あるけれど、実はそんなもののすぐ近くの、私たちが普段気にもとめないような物陰に、また違った幸せや人生の形が転がっているんじゃないか。そんなことを思った。
 有名大学の法学部というひとつの幸せがお姉ちゃんだとするならば、自分が本当にやりたいことをやるために陵桜では珍しく専門学校に進学したのが私だ。そんな私の感じる幸福は、ひょっとしたら日陰の幸せだと、周りの人たちは言うかもしれない。お姉ちゃんが持っている幸せほど、みんなが無条件で共感してくれることでもなければ、分かりやすくもないかもしれない。それでも、私は今の自分が幸せだと、自信を持って言えるような気がしてきた。


幸せの物差しは、一つじゃない。


 当たり前だと言葉では知っていたことを、やっと本当に分かったように思えた。


「つかさ、もう帰ってるの?」
 家の方からお姉ちゃんの声がした。私の帰りが遅く、境内から物音がするから出て来たんだろう。
「今帰ってきたとこだよ。心配かけたかな?」
「心配するわよ、1時間半も帰ってこなかったら。あれ、峰岸?」
「ごめん、お邪魔してるね。もう帰るよ」
「わざわざ送ってきてくれたのね、ありがとう」
「ううん、たまたまコンビニで会ったから着いてきただけ」
「そう。じゃあ、そういうことにしとくわ」
「そうしといて。じゃあ、おやすみ」


 あやちゃんは自転車に乗って、夜の鷲宮の住宅街へと消えていった。長い付き合いでも、彼女から学ぶことはまだまだたくさん残っているようだ。
 今度一緒にケーキでも焼こうかな。私ひとりじゃ出来ないようなものでも、あやちゃんとなら作れそうな気がした。


 お姉ちゃんの誕生日に、誰よりも素敵なプレゼントをあげる。それもまた、私が学んでいることを活かすひとつの形なのかもしれない。


(おしまい)


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