ID:ylOeKiI0氏:明けない夜が来ることはない

ゆめ[夢]
①睡眠中に,体験しているかのように感じる現象.
|はかないこと.→~のまた~
②将来の‐理想(希望)。とりとめのない空想。
(デイリーコンサイス国語辞典より)

 私の夢って何だろう。そんな漠然とした疑問を私が持ち始めたのは、私が彼女たちの夢を初めて聞いた時からだった。


明けない夜が来ることはない


Ⅰ.

 あれは高校3年生の秋、確か木曜日だったと思う。担任の黒井先生は或るホームルームの時間に、私たち生徒に1枚の紙切れを配った。ツルツルした白いB5のコピー用紙の表題は“進路希望調査票”。その文字を目にした瞬間、私は軽い目眩を覚えた。提出期限は来週火曜日まで。行きたい大学と学部を5つまで書いて提出せよとのことだ。要するに自分の夢(さて、夢とは?)を考えてそれに合った大学を書けということである。
ホームルームを終えて、私はかがみとつかさ、みゆきさんに尋ねた。
「みんな決まってんの?」
「当たり前だ、一応法学部で進学希望よ」
「私は医学部で進学希望を出しますよ」
「私はちゃんと料理の勉強をしようかなって思ってるんだ」
「はぁ……かがみは弁護士志望かぁ……みゆきさんは医師?つかさは調理師?」

「そうね……私は弁護士かどうかは分からないけど、法曹界に入りたいのは確かよ」
法曹界か。私はダークグレーのレディースのスーツをビシッと着こなして堂々と法廷に立つキャリアウーマンのかがみを妄想して萌えた。特に意識していたわけでもなかったのに、何故か髪型はツインテールから長い1本のポニーテールに変わっていた。昔はともかく今のかがみは意外とポニーテールの方が似合うと思うのだが、ツインテールの由来を知っているが故にかがみには今まで言い出せずにいる。

「私は外科医になりたいと思っています。昔お世話になった先生がいて、ずっと憧れていましたから」
なるほど、そういうきっかけがあってみゆきさんは医師を志したわけだ。ブラックジャックみたいな名外科医になるんだろうか、ああもちろん合法の、だが。
今の世の中、ナース服コスプレなんてのは次元を問わず世間に溢れかえっていると言ってしまって差し支えないだろうが、考えてみたら白衣コスなんてあんまりお目にかかったことがないような気がする。
確か昨年のことだったが、生物の実験の時間に、制服の上に染み一つない白衣をまとったみゆきさんは、無駄に色彩の強い陵桜学園のセーラー服だけを着ている時よりも博学さに磨きがかかっているように思われた。着る人の職業を記号として表すのが制服だと現代文の授業に出てきたが、むしろみゆきさんの白衣は彼女の魅力を引き出してくれるだろう。

「私は……自分の料理で人を笑顔に出来たらいいなって。美味しそうに料理を食べてくれてる顔を見るだけで、すごく頑張れるんだよ」
確かに、ゆーちゃんがうちに来てからは一時期より頻度はやや減ったとはいえ、私も日常的に料理をする立場だからその気持ちはよくわかる。
長いトックブランシェを目深に被り、先ほどのみゆきさん同様に真っ白いエプロンをかけて同じく真っ白い調理服を着こなし厨房に立てば、つかさはもうヨーロッパのどんなコンクールに出ても金賞を取れそうである。美人シェフとしてテレビで取り上げられたら、私たち3人が友人代表として絶対出演してやるんだ。かわいらしい実力派料理人と、やり手の弁護士と、評判のいい名医と、あと、何だろう。

 私は将来、一体何になっているのだろうか。考えたこともなかった。前に見たアニメに、文化祭の前日が繰り返されるとか、夏休みの2週間を延々とループし続けるといったシナリオがあったけれど、私もまた同じように高校生活が永遠に続いていくものだと、根拠もなく思い込んでいたのである。
それではピーターパン・シンドロームそのものではないか。自分はいつまでも大人にならない少年のようにモラトリアムな時間を過ごし続けることで未来を回避したいという幼稚な考えに浸かって生きてきたのだと、みんなの夢を聞いた私は悟ったのであった。

私の夢って何だろう。そんな漠然とした疑問を私が持ち始めたのは、私が彼女たちの夢を初めて聞いた時からだった。


返す言葉も立場もなかった私がそれから彼女たちと何を話して、何を思いながら家に帰ったのか、私はもう覚えていない。

 

Ⅱ.

 夢とは一体何で、一体どうやって決めるのか。そんなことを明確に知っている人はいるのだろうか。今思えば黒井先生に聞けば良かったのかもしれないが、でもやっぱり「適当に決めた」だの「気がついたら教師になってた」だの、いい加減なことを言われそうな気がする。そう考えれば私の判断――お父さんに進路についての相談を持ちかけるという選択は至極真っ当で、それは他の家の常識がまず通用しない泉家においても例外ではなかったらしい。少なくとも私はそう考えたいと思う。
その日、晩ご飯を食べ終わった私は、さも何事もなく平然とした様子を装ってお父さんに話しかけた。
「お父さんってさ」
「ん?」
「進路どうやって決めたの?」
「進路なぁ……迷ってるのか?」
「うん、何やったらいいか分かんないんだよね……」
せっかくお父さんにバレないように表情も声色も入念に取り繕って話しかけたつもりだったというのに、あっさり見抜かれてしまったらしい。このお父さんには何もかもお見通しなのだろうかと思うことがたまにある。
「ん、まあそんなこったろうと思ったよ。お父さんも別に大したことなかったしさ」
「そうなの?」
「ああ、一応志望校決めたのは今のこなたよりは早かったけど……まあ、でも大した差はないかな。ちょうど高3の夏休みだったと思うけど」
「お父さんも早く決めるように発破かけられたわけ?」
「いや、明確に決めるように促されたことはないけど……ちょっと進路決めるきっかけがあったんだよ」
「へぇ……きっかけ、ねぇ」
私には未だにそのきっかけが訪れていないのだが。
「ああ、その時の担任の先生がな、平塚先生って国語の先生だったんだけど……ヨイショするつもりはないけど、素晴らしい先生だった。ただのいい加減な性格の俺に、文学の何たるかを懇々と語り聞かせてくれたよ。普通の先生なら嫌になって俺のことなんか放っておくもんなんだけどさ。
まだ大衆文学しか知らなかった俺に、本当の、本物の文学とは何なのかを教えてくれたんだ。何時間も、何日もかけてな。仕事だってあっただろうし、俺にだって本当は勉強しろって言わなきゃいけない立場だったのにさ。
だからさ、夏休みが終わった時に自然に決心したよ。俺はこの平塚先生みたいに、本当の文学の面白さや素晴らしさをより多くの人に伝えたいってな。だから、絶対に国語教師になって、生徒たちにあの頃の自分と同じ素晴らしい体験をさせてやりたいと思った」
「それで小説書き始めたわけ?」
「まさか。そんなすぐに小説が書けたら、みんな小説家になってるよ。前にも言わなかったかな……お父さん、昔教師を志してたって。高校生になっても文学なんて全然分からない自分に後悔したりもしてさ、子供たちにはもっと幼いうちから質の高い文章に触れて欲しいと思ったから、小学校の国語の先生になろうって」
「でも結局教師にはならなかったじゃん。それはなんで?」
「そりゃあ、今の仕事やってるからだけども……大学入ってから、目の色が変わったように色々読んだよ。愛とは何なのか、人間は何のために生きるのか、その答えが知りたかったから教養過程で哲学も勉強したし。スタンダールの『赤と黒』で人間の欲望について考えたり、ドストエフスキーの『罪と罰』みたいな歪んだ思想も目にすることになった。後々にうっかり大賞取ってプロになってから原稿落としそうになった頃は、サン=テグジュペリの『夜間飛行』でプロの厳しさを学んだ。日本の小説だったら……夏目漱石は入門者向けの『吾輩は猫である』は大爆笑したし『坊っちゃん』も楽しかったけど、『こころ』は高校の授業はもちろん大学生になっても何度読んだってわかったような気がしないし。『明暗』は未完だったのに、今の恋愛小説より遥かに味わい深くて素晴らしい小説だと思った。芥川龍之介には世の中の虚しさや人間の醜さを教わったし太宰治には……」
「お、お父さん?」
正直、今の作家の半分以上は全然分からない人たちだった。アニメのキャラクターの方がたくさん覚えていそうな気もするが、お父さんはそっち方面だってちゃんと覚えているから恐れ入る。
「ああ、ごめん、久々につい熱くなったなぁ……要するに、文学と言えば純文学のことだった時代があったってことを知ったんだよ。今はもっとくだらないのも素晴らしいのも、いろんな本が出てるけどさ。
でもそんな世の中だと、なかなか面白いと思う小説には出会えないから、ここらで一念発起して自分が素晴らしいと思える小説を書いてみよう!って思ったんだよな。それで、ついでに応募してみたらアッサリ大賞。もちろん運もあったんだろうけどさ。
とにかく、プロにならないかって言われて、俺もけっこう迷ったよ。でも後先考えない身の振り方はできないから、教員免許取るまで待ってもらって、それからデビュー。
だから、実はお父さんは別に昔の目標通りの人生を生きてるわけじゃないさ。そんなのは何かの拍子に変わってしまうことだってあるからな。でも何も目標がなかったら、どっちに向いて歩けばいいかも分からんだろう?そうじゃなくて、途中で方向転換するにしても、やっぱり自分が今どこを向いて歩くかくらいは決めとかなきゃいけないってこと。別にきっかけは何だっていいんだよ。
例えば、こなたはなんで今文系に進んだ?」
「うーん、かがみ達が文系行くって決めたから私も、って感じかな」
「まあ、そんなもんだよな。お父さんだって数学ⅢCと物理の授業が嫌で文系にしたんだぞ?あとかなたについて行ったっていうのもあるけど」
「ウソぉ?そんな適当に決めてたの?」
「ああ、本当だよ。文系って意外とそうやって理系から逃げてくる人は今でもいるだろ?」
それはみさきちのことを言っているのだろうか。いや一般論だよね、と私は思い直した。
「ま、お父さんだってあんまり偉そうなこと言えるクチじゃないけど、とりあえず今現在どこに向いて進みたいかってことは決めとかなきゃならんしなあ。あ、そうだ」
「ん、なに?」
お父さんは急に話を変えた。私もそれを追う。
「例えば今のアニメって、アニメの放送だけじゃなくてCDとかグッズとかフィギュアとかとんでもない数が出てるだろ?俺たちはそれに見境もなく投資してるわけだけど」
「うん、確かに色々とお金使ってはいるよね」
「そのお金、一体どこに行ってしまったか知りたいと思わないか?どうやって俺たちオタクから儲けを出してるのか、どんな商品がどれくらい売れたらどれくらいの利益が出るのか」
「おおっ!!それは投資家として是非とも知りたい!」
言われてみれば何も知らないまま大金をつぎ込むのはあまりに惜しい!これは勉強すべきかもしれない。
「だろう?じゃあ、どんな商品を出してどんな風に宣伝すればファンの心を掴めるかも勉強してみたいか?」
「どうやったら大ヒット商品が企画できるかとか?」
「そうそう、近いな。俺たちオタクがどんな手段で騙されてるか、楽しませてもらってるか、全部分かるぞ」
これは面白そうかもしれない。何も考えずに闇雲に投資するよりも遥かに。
「じゃあ経済学部か経営学部かな。そこら辺をお勧めしとくよ」
「そっか、ありがとね」
「いやいや、まあ、たまには親らしいところも見せとかなきゃな。いつまでもこなたに娘離れ出来てなーい!なんて言われちゃたまらないからさ」
ニヤッと笑いながらそう言うお父さんの顔を、私は直視することが出来なかった。少しだけ、お父さんを見直したかもしれない。

 

Ⅲ.

 ほんの僅かな自分の未来像が見えてきた。普通に考えればお父さんの話は説得力に欠ける話だったのに、不思議と自分の中に一筋の光が差し込んだような気がした。

「ゆーちゃーん、今ちょっといいかな?」
「ん、いいよっ」
私はもう1人の家族であるゆーちゃんに、恥を忍んで話を聞いてみることにした。自分より年下でまだ1年生のゆーちゃんが私より先に志望校を決めていたりしたらもっと落ち込むかもしれないけれど、ここはもう腹をくくることにしよう。
「ゆーちゃんはもう志望校とか決めた?」
「いやいや、実は全然考えてないんだ。まだ高校入って半年しか経ってないし、今から大学受験のことばっかり考えてるのも面白くないし……でも今のところ文学部に惹かれてるかなぁ。どうしたの?」
「いやあ、今すっごく進路に迷っててさ。自分が何やったらいいのか、まだ全然分かんないんだよね」
言った自分が思うのも何だが、えらく大層な物言いである。
「ゆーちゃん確か絵本作家になりたいんだったっけ?」
「うん、そうだよー。こないだ田村さんに初めて絵本作ってもらったのもお姉ちゃん見てくれたよね」
「うん、氷姫の本だよね。ゆーちゃんとみなみちゃんがモデルになってるやつ」
「そ、そんなんじゃないってば!」
ゆーちゃんが顔を真っ赤にして反論してきた。あんまりからかうと肝心なことが聞けなくなりそうな気がしたから、私は一言お詫びを入れてから、ゆーちゃんの夢についての話を聞くことにした。

 絵本作家っていうか、今から考えれば童話作家っていった方が正しいかな、と前置きして、ゆーちゃんはゆっくりと話し始めた。
「私たちが小さい頃にさ、石川の実家の方に『しょうぼうじどうしゃじぷた』って絵本があったの覚えてる?」
「えーと、オンボロのジープが火事の時に活躍する話だっけ?」
「そうそう。普段は小さなじぷたよりも他の最新型の消防車や救急車ばっかり注目されてるのに、山火事になったら誰も火を消せなくって。でも狭い山道を駆け上がれるじぷたは大きな山火事を消して人々を救うことが出来た、っていうお話なんだけどね」
「あったねぇ。昔ゆーちゃんあの本大好きだったの覚えてるよ」
「うん、今でも好きだよ。もっと大きくなって分かったんだけど、私、小さくて非力なじぷたと自分を重ね合わせてたみたいで。誰にだって得意なことや人より優れてるところがあって、それを磨けばみんなの役に立てるんだって、ずっと信じてた。
だからかな、じぷたのことを思い出すと、身体が弱くてみんなと同じことが出来ない自分のコンプレックスが少し和らぐような気がしたんだよね。絵本のおかげで励まされたっていうか、助けられたっていうのかな。自信がついたよ」
「そうなんだ……」
「だから私は、まあ、絵本で子供たちを救うなんて御大層なことは言わないけど、でも絵本を通じて少しでも子供たちの力になれたらいいな、って思ってる」
そう答えるゆーちゃんの大きくてくりくりとした碧[みどり]色の瞳は、大きな自信に満ち溢れていて、私はそのまぶしさに目がくらんだ。思わず部屋の奥に視線を外すと、勉強机の片隅には、普通あまり女の子が好みそうにないジープのモデルカーが置かれていた。

 私が、これといって特別なことが出来るわけでもない私が、生まれて初めて守りたいと思った存在だったゆーちゃん。いつの間にか、彼女は自分だけの夢をしっかりと見据えることが出来るようになっていたらしい。まだ将来の夢さえも満足に決められないような私よりも遥かに先を行っているじゃないか。
ゆーちゃんが大きく成長したことが私は嬉しかったけれど、ただ喜んでいるばかりではない愚かな自分に気付いて私はものすごく気分が悪くなった。こんなことを考えている場合ではないのに。

 私は、参考になったよ、とゆーちゃんにお礼を言って自室に戻った。案の定、というべきか、さっきよりも心なしか身体が重かった。

 

Ⅳ.

 自分の部屋のベッドに寝転がって、私は壁掛け時計を上下逆さまに見た。4時35分?いや、10時過ぎといったところか。木曜日の10時台なんて見る番組なかったよなあ、と私はつぶやいた。このままで居ると風呂にも入らずに寝てしまいそうだったので、私は勢い良くベッドから跳ね起きた。
スクールバックの中のクリアファイルから件[くだん]の“進路希望調査票”を取り出して勉強机の真ん中に置き、私はこないだ買ったLAMYの黄色いシャーペンを片手に(アニメのキャラクターが使っていて人気が出た奴だ)、そいつとにらめっこしてみる。
こいつはきっと、向き合う相手によって態度を豹変させるのだろう。かがみ達のような確固とした希望・願望のある人間に対してはまるでその意思表明をさせてくれるかのように振る舞うくせに、私みたいな曖昧な人間にの前は徹底して立ちはだかろうとする。
一応ある程度の社会保障があるとはいえ、世の中というのは本当によく出来ている。時代が変わって新しい職種が登場しても所詮はノーミル・ノーミール、すなわち働かざる者食うべからず、なのである。そりゃあ株やら何やらで儲けている人もいるけれど、それにしたって元金つまり資本金が何百万もいるわけだし、勉強もしなきゃいけない。しかもリスクの方が大きいうえに日常生活でも株価が気になって仕方がないというのなら、株で食べていくというのも実は精神的に大変なのかもしれないと思う。
宝くじに当たりたい、と以前みさきちは言っていたが、3億円もの大金を手に入れてしまったらみさきちでなくとも正気を保てなくなる自信はある。以前そんなドラマもあったが……とにもかくにも、不健全な方法でお金を稼ごうという心構えそのものがいけない。真剣に考えねば、と私は再びこの厄介な対戦相手に向き直った。
私のやりたいことは何なのかというよりも、私が自分自身をどうやって活かせるかを考えないといけない。自分のやりたいことが世の中に仕事として用意されていると思うな、とよく言われるように。
だからこそ私は迷っているのだ。自分の長所というものが分かっていない。そういうところは自己PRの苦手な古典的な日本人そのものだな、と思った。

 私は自分の部屋にある電話の子機を手にとって、使い慣れて覚えてしまった番号にダイヤルした。まだ夜も遅くないから、怒られはしないと思うけど。
『もしもし?』
「ああ、かがみ?遅くにごめん、今大丈夫?」
『大丈夫よ。どうしたの?珍しいじゃない、こなたからかけてくるなんて』
「いや、進路希望に迷っててさぁ、何書けばいいか分かんないんだよね」
『やっぱりか……アンタのことだから、何書くんだって思ってはいたけど』
「うん……みゆきさんは聖人君子すぎて逆に何か諭されそうだし、つかさはあんなんだし」
『アンタ、せめて建て前でもマシなこと言いなさいよね。まあいいわ、どうしたのよ。洗いざらい話してみなさい』
「いや、自分のやりたいことがまだ見つからない以上、自分の何を活かして職に出来るかなぁなんて考えてたんだけどさぁ、どうも見当たらなくて」
『なんだ、もっと酷いかと思ったらもうそこまで到達してたのね』
「え?」
『もっと根本的なところから説教しなきゃなんないかと思ってたけど、そこまで来たんならもうほとんどゴールよ』
「え?なんで?」
『じゃあ聞くけど、社会経験がロクにない私達が今すぐに何かの職に就けると思う?』
「いや、思わないけど……」
『でしょ?それでいいのよ、高校生なんて所詮そんなもんなんだから。何を伸ばせばいいか分かんないっていうんならね、逆に選択肢を広げるために大学を目指すっていうのはどう?』
「選択肢を広げる?」
『そうよ。“選ばれなかったなら選びに行け”なんて本末転倒な妄想を押し付ける気はないけどね、就職試験や面接で何度も合格すれば、それだけ未来だって選べるんだし。選ばれるに相応しい大学に入って、選ばれるに相応しい人間になるために自分を磨く。それがこなたが大学でやるべきことだと思うわ』
「自分を磨く、かぁ……」
『そう。難しく考えなくてもいいのよ。私も力になるから、まずは自分が一番見聞を広げられそうで、あと就職の行き先が一番バリエーション豊富な学校と学部、考えときなさい』
「うん、分かった。こないだもらってきたパンフレットいくつか見てみるよ」
『じゃあ、また明日ね。予習もちゃんとやっときなさいよ。じゃあお休みね』
「うん、わざわざありがとね。お休み」
向こうが何も言い残していないことを確認して、私は電話を切った。そうか、選択肢か。ならば私の知っている限りでは……。

 私は進路希望調査票にシャーペンで薄く大学名と学部名を書いてみた。明確な志望校を決めかねているからこそたくさんもらってきた大学のパンフレットをもう一度読み直してみた。この学部なら私の選択肢がぐんと広がると思った学部をいくつも下書きして、私は進路希望調査票を再びクリアファイルに挟んで片付けた。

 人生の中でいつ変わるともしれない“未来”について決めるなんて、馬鹿馬鹿しいことだとは分かっている。でもこの世の道理に昏い人間は、一応にしても目の前を照らしてくれる物がないといけないのだと倫理の時間に言われた。仏教の考え方らしいが。
今の私が何になりたいか、何をしたいかが分かっていない以上、いざ行動を起こしたくなった時に学歴も知識もないのではこの社会では使い物にならない。人から選ばれ期待されないようでは夢もへったくれもないし、夢で飯なんて食えやしない。かがみが言いたかった真意は正直分からないけれど、私は勝手にそう解釈してしまうことにした。

 そうだ。人生はいくらだって変えられるし、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはあんまりない。でもあまりに回り道ばかりしているわけにもいかないのだ。やり直しの効く人生だからこそ、出来ればやり直さず後悔もせずに生きよう。そう思えば自然とラクな気持ちになってきた。少なくとも私に限って言えば、一直線に決められたレールを歩くだけが人生ではないのだ。
うん、これでいい。私は浮気症で、一つの目標を目指してまっすぐ生きることはまだできないけれど、だからこそ私は誰かに選ばれ求められたらそれにいつだって応えられるような人間にならなきゃいけない。大学とは本来自分を磨き上げて有能な人物にしてやるべく通うところで、、就職で高学歴を得るためだけに行く場所ではないのだ。
自分を磨く。スポーツ漫画やバトル漫画に出てきそうなよくあるそのフレーズと未来の私自身に、私は何故か期待感を隠せないでいた。


窓の外では、夏の終わりを告げる鈴虫が鳴いて、自分たちがその手で掴み取る未来に向けての、長い戦いの始まりを知らせている。

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